はじめに
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尾崎紅葉といえば『金色夜叉』の作者として有名だ。
ただ、彼の残した業績はそれだけではない。
ざっと並べてみても、
- 「擬古典主義」という文学潮流を生んだ
- 日本初の文壇のはしり「硯友社」を結成した
- 近代文学を代表する作家たちを育て上げた
- 「言文一致体」による傑作を生み出した
- 「エンタメ小説」の傑作を生み出した
と、これだけのことが挙げられる。
この記事では、そんな日本文学に大きな影響を与えた文豪「尾崎紅葉」の人生と人物像の解説をしていく。
その中で主に、
- 彼の文学的立場である「擬古典主義」とは何か、
- 彼が結成した「硯友社」とはどんな集団だったか、
- 『金色夜叉』をはじめ、彼の代表作の魅力は何か、
これらにスポットを当てて徹底解説をしていく。
この記事を読み、少しでも「尾崎紅葉」や「日本文学」に興味を持っていただけたら嬉しい。
では最期までお付き合いください。
紅葉の一生
略年表
1868年(0歳) …江戸芝に生まれる 1872年(4歳) …母・庸と死別 1883年(15歳) …東京大学予備門に入学 1885年(17歳) …硯友社設立『我楽多文庫』発刊 1889年(21歳) …『二人比丘尼色懺悔』 …読売新聞社入社 1890年(22歳) …東京大学文科中退 1891年(23歳) …樺島喜久と結婚 1896年(28歳) …『多情多恨』連載 1897年(29歳) …『金色夜叉』連載 1902年(34歳) …読売新聞退社 1903年(35歳) …胃がんにより死去
人物像と逸話
東京生まれ、本名は尾崎「徳太郎」
幼いころに母と死別し、その後は母方の祖父母に育てられる。
明晰な頭脳をもつ紅葉は、10代の頃にはすでに英語や漢学に長け、江戸時代の戯作や海外の最新「文学」にも通じたオールラウンダーだった。
府立中学校(現 日比谷高校)に第一期生として入学。
その同級に幸田露伴がいた。
彼とは、後に「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を築くことになる。
15歳のころに東京大学予備門に入学。
が、この頃すでに紅葉の関心は学問にではなく文学に向けられていた。
そして17歳のころ、すでに親交が厚かった「山田美妙」とともに、日本初の文学結社となる「硯友社」を設立。
同人雑誌『我楽多文庫』を発刊し、文学活動がいよいよ本格化していく。
硯友社において紅葉はリーダー的存在であり、そこで多くの弟子を育てていった。
20代の頃にはすでに多くの弟子がいて、徳田秋声、泉鏡花、田山花袋といった日本の近代文学史における「ビッグネーム」も数多く排出している。
そんな紅葉の文学的理念は「擬古典主義」と呼ばれている。
後述するが、これは「江戸の精神を重んじよう」といった立場であり、その根底には江戸時代の戯作者「井原西鶴」へのリスペクトがあった。
明治初頭というのは、坪内逍遙が「写実主義」をとなえ「西欧の精神」を重んじた「文学」を模索していた頃だ。
そんな中、紅葉はあえて「江戸時代の精神」を重んじたのだった。
その一方で、紅葉は新たな「文体」の模索もしていた。
これも当時、二葉亭四迷が「写実主義」の立場から、「言文一致」を試みていた頃だ。
「擬古典主義」に立つ紅葉は、江戸の戯作によく見られる「雅文体」を理想としていた。
だが、紅葉は徐々に言文一致の可能性と必要性を感じはじめる。
そして試行錯誤の果てに完成させたのが『多情多恨』という作品だった。
ここでは「である調」の言文一致体を採用し、みごとに明治の風俗や人々の内面の描写に成功したと言われている。
こうして紅葉の名は一躍世間に知れ渡っていく。
が、彼の名をもっとも有名にしたのは、その後に書かれた『金色夜叉』だろう。
紅葉29歳のころに読売新聞社で連載がはじまり、35歳まで連載が続いたこの作品。
残念ながら彼の死によって未完となってしまう。
とはいえ『金色夜叉』連載中の新聞は飛ぶように売れ、新聞の売り上げは倍増。
読売の紅葉か、紅葉の読売か
そう言われるほどに紅葉の名は世間にとどろき、空前の社会現象を巻き起こした。
35歳という若さでこの世を去った紅葉。
その死因は「胃がん」だった。
食道楽だった彼は、とにかく「甘いもの」に目がなかったという。
家内なるものの快楽が十とすれば、寡なくともその四は膳の上になければならない。
『多情多恨』より
こう作品で述べる紅葉は、人生の4割は「食」に捧げていたのだろう。
その暴食っぷりが胃を損なったのだろうか。
彼の死後、弟子の徳田秋声が
「師匠はおかしの食べ過ぎで死んじまったんだ」
とこぼしたとき、同じく弟子の泉鏡花は、泣きながら徳田秋声に殴りかかったという逸話がある。
鏡花は敬愛する師匠の死を受け入れることが出来なかったのだ。
だが、紅葉を敬愛していた弟子は泉鏡花だけではない。
紅葉はその生涯をかけて、弟子の面倒をよく見ていたからだ。
紅葉の死に際、枕元には多くの弟子が集まったと言われている。
涙で顔をぐしゃぐしゃにする弟子たちを見て、紅葉は一言、
「どいつもこいつも、まずいツラだ」
そういって息を引き取ったという。
これが、明治の文学を牽引した「レジェンド」の最期である。
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「擬古典主義」とは
「写実主義」への反発
そもそも文学史における「〇〇主義」って何? という話なのだが、これは、
「文学って〇〇が大事ですよ」
と、その作家が「文学の理念」についてどう考えているかを示したものだ。
明治18年に坪内逍遙が『小説神髄』という文学論を出し、日本の近代文学は始まったとされている。
( 詳しくはこちら )
このとき逍遙は「写実主義」というものを掲げ、
「文学ってありのままを模写(写実)することが大切ですよ」
と説いた。
その方法論として「主観を捨てて書く」というものを提唱したわけだが、彼の「写実主義」のルーツはおおむね「西欧文学」にあった。
要するに、
新しい「西欧」の風を取り込み、日本にも「近代文学」を根付かせよう、ってわけだ。
ここで逍遙が真っ先に否定したのが、江戸時代の戯作によく見られた「勧善懲悪」的な展開。
要するに
「正義は必ず勝つ」的な予定調和な小説ではなくて、「人間のありのまま」を書きましょうね、ってわけだ。
こんな感じで、逍遙は「写実!」「西欧!」「脱江戸!」といった三拍子を掲げて、日本の文学の振興に励んでいた。
これはある意味「文明開化」とか「欧化政策」とかいった時代の要請に合致するものだったのだが、そこに「ちょっと待った!」をかけた連中が現れる。
「江戸の精神」を尊重
「脱江戸」を掲げる「写実主義」に“待った”をかけた連中・・・・・・
それが「硯友社」という文学集団だった。
彼らはみな「江戸時代への愛着」というものを持っていた。
もっといえば、江戸の戯作者「井原西鶴」へのリスペクトと言ってもいい。
だからいたずらな「脱江戸!」に、彼らは違和感や抵抗感を抱いていた。
「いまこそ江戸の精神を重んじよう」
そういう姿勢で文学をした彼らの立場、それが「擬古典主義」である。
ということで、逍遙と紅葉が登場した当時の文学潮流は、
写実主義 ↔ 擬古典主義
と考えてもらえればOKだ。
とはいえ、これも後述するが、もちろん彼らは何から何まで「江戸に帰ろう」と考えたわけではない。
「文学ってなに?」を模索していたのは彼らもまた同じだったし、逍遙の「人間のありのまま」を描くという理念について否定していたわけでもない。
「日本の文学は、あくまで江戸の伝統から出発するべきだ」
これが「擬古典主義」の立場だった。
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「功利主義」への反発
「写実主義」や「擬古典主義」が登場する以前の話、小説の主流には「政治小説」や「啓蒙小説」というものがあった。
明治の日本にテレビやラジオなどない。
そんな中で 政治家や知識人が、自分の意見を世に発信する手段として目をつけたのが「小説」だった。
小説に自らの理想を書き込んで、世の中に広めようというわけだ。
- 世の中をよくする
- 人々を幸せにする
- 生活を豊かにする
こうしたことを至上のものとする立場を、思想史的に「功利主義」と呼んでいる。
「政治小説」も「啓蒙小説」も、この「功利主義」的な発想に基づいている。
その「功利主義」に反発したのが、坪内逍遙だったわけだ。
小説を政治の手段にするな!
彼のこの主張には「擬古典主義」の連中も強く賛同した。
ただし、「写実主義」と「擬古典主義」両者の立場は少し異なる。
写実主義 =「人間のありのまま」を書くことを最大の目的にしている。 擬古典主義 =「人々を楽しませる娯楽」を書くことを最大の目的にしている。( ※ただし「写実」も大事 )
つまり、乱暴な要約をあえてするならば、
写実主義 = 純文学的 擬古典主義 = 大衆文学的
ということができる。
もちろん「擬古典主義」の中にも、写実主義的な作品や純文学的な作品は多いので、あくまでこれはざっくりとした要約であることを強調しておきたい。
ただ、尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』は、そのエンタメ性が爆発的に受けてベストセラーになったわけなので、この分類は決して的外れなものではないはずだ。
さて「擬古典主義」についての解説は以上となる。
ここまでをまとめると、
【 擬古典主義 】 ・江戸の精神 (井原西鶴をリスペクト) + ・写実の要素 (ありのままに迫りつつも) + ・娯楽性の追求 (文学は娯楽であるべき)
ということになる。
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「硯友社」について
「おふざけ集団」から「文壇」へ
「硯友社」の発足は明治17年のこと。
これは実に、坪内逍遙の『小説神髄』が発表される1年前にあたる。
が、このとき「文学とは何か」を真剣に考えていたのは、逍遙のほうだった。
というのも、硯友社にはもともと文学に関する「野望」とか「理想」とか存在しなかったからだ。
ちなみに、明治の日本にあって「文学」は世間から軽んじられていた。
「文学は男子一生の事業と為すに足らず」
こういったのは二葉亭四迷だが、彼は若かりし頃「文学をやる」と宣言したせいで父から「馬鹿野郎、くたばってしまえ」と怒鳴り散らされた作家である。
こういう若者は珍しくなかった。
硯友社というのは、そういう世間からつまはじきにされた若者たちが集まり傷をなめ合う、なんというか「吐きだめ」みたいなところだったのだ。
ただ、彼らには「文学」に関する情熱や問題意識はなかった。
「小説なんて、楽しければそれでいいじゃん」ぐらいに思っていた彼ら。
そんな感じなので、硯友社の発足当時はみなが思い思いに「戯作的」(おふざけ系)な作品ばかり投稿していた。
作品を持ち寄っては、わいわいガヤガヤ楽しんでいたわけだ。
そんな彼らの同人誌の名前は『我楽多文庫』
まさしく、取るに足らない「おふざけ小説」の寄せ集めといった意味を持つ名前は、硯友社の文学へのスタンスをよく表している。
が、硯友社にあつまる若者たちは、おどろくべきポテンシャルの持ち主ばかりだった。
だから、「俺たちも真剣に文学をやろうぜ」という態度が芽生えるや、またたく間に時代を牽引する一大勢力へと成長していく。
そのリーダーというのが尾崎紅葉と山田美妙の2人だった。
紅葉と弟子との関係
はじめは「おふざけ集団」だった硯友社だが、彼らは次第に「文学とは何か」を問い始め、やがて「文学」を牽引する一大勢力になっていく。
これが「文壇」の起源である。
「文壇」というのは、そもそもこういう「文学とは何か」を問いつつ集団で創作に励んだ連中のことなのだ。
さて、その「文壇」のリーダーとして、多くの弟子たちを育てていった紅葉。
江戸っ子気質の彼は面倒見がよく、20代の頃にはすでに多くの弟子をもっていたという。
その中には、徳田秋声、泉鏡花、田山花袋といった「ビッグネーム」もいた。
特に紅葉を慕ったのが、『高野聖』など幻想的な作風で有名な泉鏡花だった。
そもそも「鏡花」というペンネームも紅葉がつけたもの。
彼の紅葉への敬愛っぷりは、もはや宗教のそれであり、紅葉を神のようにあがめていたと言われている。
硯友社同人の徳田秋声が、
「師匠はおかしの食べ過ぎて死んだんだ」
といったとき、泉鏡花は目の前の火鉢を飛び越えて、泣きながら殴りかかったいう逸話もある。
ちなみに、泉鏡花の『取舵』という作品は「尾崎紅葉」の著者名で出版された。
紅葉はこんな風に、弟子の作品を「自分名義」でたびたび出版してやった。( 弟子のためなのか、自分のためなのか微妙なところだけど )
こんな風に、硯友社において紅葉は弟子達の精神的な支柱であり続けた。
それを証明するように、紅葉が死んでしまうと 硯友社はあれよあれよと分裂・解体してしまう。
考えてみれば、徳田秋声は「自然主義」の作家だし、泉鏡花は「ロマン主義」の作家だし、硯友社の中に「共通の理念」というのが確固としてあったわけではないのだ。
ただ、みなが紅葉の「カリスマ性」に魅せられていたわけで、彼の死が そのまま硯友社の解体につながるのも、もっともなことなのだ。
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紅葉と「言文一致体」
「言文一致」って何?
そもそも「言文一致」とは何か、という話から始めよう。
「言文一致」をシンプルにいえば、
「話し言葉」で小説を書くこと
ということになる。
- 「言」= 話し言葉
- 「文」= 書き言葉
なので、「言」「文」一致とは、
「話し言葉」と「書き言葉」を統一させる
ということであり、「言文一致体」とは、言文一致による「文体」ということになる。
「言文一致」に関する詳しい解説は以下に譲るとして、
ここではQ&A形式で簡単に要点を押さえたい。
Q、そもそも昔は「話し言葉」と「書き言葉」は一致していなかったの?
A、はい、一致していませんでした。主に鎌倉時代以降から、「話し言葉」と「書き言葉」は区別されていました。
Qどうして「話し言葉」と「書き言葉」を一致させようと思ったの?
A、人間の「ありのまま」を描写するには「話し言葉」で書くのが効果的だったからです。
Q、日本で「言文一致体」を試みた「はしり」って誰なの?
A、二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉が有名です。
Q、「言文一致体」に種類があるって本当なの?
A、はい。二葉亭四迷は「~だ調」、山田美妙は「~です・ます調」、尾崎紅葉は「~である調」と言われています。
Q「言文一致体」の創始者って誰なの?
A「二葉亭四迷」というのが一般的な説ですが、「山田美妙」説というのもあり、「創始者」については長年議論されています。
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・
「雅文体」で書かれた作品
初期の紅葉は「雅文体」を採用した。
「雅文体」とは、いわゆる「擬古文体」のことである。
「擬古文体」とは、かつての文語をベースにした文体である。
紅葉が「雅文体」を採用した理由は大きく3つあげられる。
・井原西鶴へのリスペクトがあったから ・言文一致体が美しいと思えなかったから ・山田美妙への反発心があったから
まず1つ目の「井原西鶴へのリスペクト」について。
「江戸の精神を重んじよう」という尾崎紅葉は、そもそも「言文一致」に対して批判的だった。
しかも紅葉がリスペクトするのは、江戸時代の戯作者「井原西鶴」である。
西鶴は 装飾や修辞法の多い「ハデな文章」を操る作家だ。
ということで、初期の紅葉の文章というのも、そんな西鶴の文章にならった「雅文体」だったワケだ。
次に2つ目「言文一致体が美しいと思えない」について。
これは現代人にとってもはや失われた感覚だといえるが、そもそも明治の日本において「言文一致体」は、まだまだ馴染みのない文体であり、人々の涙腺を刺激する文体は依然として「雅文体」だったのだ。
しかも「言文一致体」というのは「ありのままを描くため」に二葉亭四迷らに開発された文体なので、そもそも「美しく書く」ことを目的としていない。
だから、文章の装飾とか修辞法は意識的に排除されることになる。
ちなみに「言文一致体」について、紅葉はこんな言葉を残している。
「実に後世 美文を亡ぼすものは此の言文一致である」
そもそも彼は「言文一致体」に嫌悪感を持っていたわけだ。
最後に3つ目「山田美妙への反発心」について……と、こう書くと、
――あれ? 山田美妙って、紅葉の同志じゃなかったっけ?
と思うかもしれない。
それはその通りで、彼らはもともと同人であり良きライバルでもあった。
だが、そんな2人の関係に亀裂がうまれていく。
美妙には厄介な一面があったからだ。
まぁ、文豪で「厄介な一面」と聞いて うすうす察しは付くと思うが、彼は女癖がすこぶる悪かったのである。
どれだけ悪かったかというと、何人もの芸者と付き合い、そのうち何人かと子をつくり、しかもそのどれも認知しなければ正妻にしようともしない。
しかもそれらをネタに小説を書き散らす始末。
これもまあ後の文豪たち(主に自然主義の連中)の「お家芸」になるわけだが、紅葉をはじめ硯友社の同人たちは美妙の素行を嫌悪していた。
ただ、美妙は当時の超人気作家である。
世間からの評判も高く、硯友社の稼ぎ頭的存在だった。
そこに紅葉たちの葛藤があった。
で、そんな美妙が採用していた文体が「言文一致体」だったわけだ。
代表作『夏木立』は、四迷の『浮雲』越えとも言われ、文学史的に価値も高い。
もちろん当時の世間からも好評を獲得していた。
紅葉はそんな美妙に対する屈折した反発心から、素直に「言文一致体」を評価できなかったといわれている。
ちなみに、山田美妙の醜態は、ある日スキャンダル新聞にすっぱ抜かれることになる。
今で言うところの「○春砲」を食らったわけだ。
やらかした人間というのは社会的に抹殺されるのが世の常であり、それは今も昔も変わらない。
ということで、これをきっかけに「人気作家」山田美妙は硯友社から追放されることになる。
ということで紅葉が「雅文体」を採用した理由は、
- 西鶴へのリスペクト
- 言文一致体への嫌悪
- 山田美妙への反発
の3つが挙げられる。
ちなみに、雅文体で書かれた紅葉初期の作品には『二人比丘尼色懺悔』というものがあるが、これについては後で詳しく紹介する。
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「言文一致体」で書かれた作品
ということで主に3つの理由から「雅文体」を採用した紅葉だったが、次第にスランプに落ち込んでいく。
『心の闇』という(なんとも暗示的な)作品を最後に、紅葉の執筆活動は停滞。
このスランプ期に「言文一致体」に対する自らのスタンスを改め、彼は「言文一致体」での執筆を試し始めた。
その時の心境を彼はこう述べている。
(言文一致体の試みが)三度四度と度重なるにつけて、この長所も分かってくれば、その難しさもさとられて、(中略)容易に侮るべからざるものであるわいと感じ入った。
こうして紅葉は一抹の不安を感じつつ、これまでの「雅文体」を捨て「言文一致体」を採用する。
そして「話し言葉」で書かれた自身初の作品『紫』を発表する(が、これはイマイチ)
その後もいくつかの作品で試行錯誤していき、ついに「言文一致体」を完璧に使いこなした作品を書き上げる。
それが『多情多恨』である。(内容については後述する)
これは『金色夜叉』につぐ、尾崎紅葉の大傑作との呼び声高い作品だ。
四迷の「~だ調」、美妙の「~です・ます調」に続く、「~である調」で書かれている。
これは二葉亭四迷の『浮雲』を越えたとさえ言われた、とても完成度の高い作品だった。
が、「言文一致体」そのものは、紅葉の主流にはならなかった。
「雅・俗折衷体」で書かれた作品
『多情多恨』で「言文一致体」を我が物にした紅葉だったが、『多情多恨』にはある批判が集まった。
それは「社会性がない」とか「思想性がない」というものだった。
そもそも『多情多恨』は読売新聞に連載されたものだったので、世間からの「ウケ」というものが求められていた。
「社会性」や「思想性」がなければ世間の「ウケ」を取ることはできない。
そこで紅葉は、作品の性格やスケールを一新。
こうして生み出されたのが、尾崎紅葉の代名詞ともいえる『金色夜叉』である。
『多情多恨』から一年後、紅葉29歳から35歳まで(およそ6年間)掲載された未完の大作。
そこで採用された文体は、いわゆる「雅・俗折衷体」と呼ばれるものだった。
これは文字通り「雅文」と「俗文(口語)」を織り交ぜた文体のこと。
地の文章(ナレーション部分)は西鶴的な「雅文体」を使い、会話の文章はそのまま「口語体」を採用している。
これが『金色夜叉』の「メロドラチック」な世界観に絶妙にマッチした。
きらびやかな「雅文体」は当時の読み手の心に染みたし、「口語体」による会話文は登場人物達の心情をリアルに表現していた。
やはり紅葉にとって、文学は「娯楽」でなければならなかったし、文章は「美しい」ものでなければならなかったのだ。
紆余曲折はあったものの、彼の文体の到達点は(早世で「結果的に」かもしれないが)「雅俗折衷体」であった。
なお、『金色夜叉』の文体は、その後半に進むにつれ乱れていく。
それは紅葉の胃がんの進行に比例していて、体力が衰えていく中、紅葉が必死に執筆を続けた1つの証だと言われている。
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・
代表作
さて、最後に紅葉の代表作を3つ紹介しよう。
どれもこの記事で紹介したもので、紅葉の傑作との呼び声が高いものだ。
興味を持った方は、ぜひ手に取ってみてほしい。
『二人比丘尼色懺悔』
作品の序文にこうある。
この小説は涙を主眼とす
この一文に、紅葉の作品への思い入れが表れている。
すなわち、
- 小説は政治の手段じゃない
- 小説は啓蒙の手段じゃない
- 小説は人々に感動を与えるものだ
という「擬古典主義」的な文学観である。
作品の内容を一言で言えば、
2人の尼が,過去の「懺悔」として語る悲しい話
ということになる。
が、この話を要約して伝えることはとても難しいので、実際に読んでみることをオススメする。
とにかくストーリーとしても面白いし、なによりも紅葉の「美文」が光っている。
本書を読めば、紅葉の文章に対する「美学」を体感することができるだろう。
ちなみに、本書は出版されるやたちまち評判となり、紅葉の名は一躍有名となった。
紅葉の出生作ということで、納得の1冊だ。
『多情多恨』
「言文一致体」を成功させた、紅葉の大傑作と言われている。
たとえば田山花袋は、
「紅葉の作品の中で最も優れている」
と絶賛しているし、正宗白鳥も
「紅葉最大の傑作」
と絶賛している。
明治の「自然主義」を代表する作家達が ここまでの賛辞を送っているのも、紅葉が「言文一致体」によって人間の心情のリアルを完璧に描いたからに他ならない。
いま読んでも全く色あせない小説で、文体はもちろん登場人物の描写も優れ、物語には強い説得力がある。
次の『金色夜叉』のインパクトが強烈なので、多くの人は『多情多恨』の存在を知らないけれど、まちがいなく紅葉の代表作と言って良い。
ちなみに、四迷の『浮雲』を凌駕したとまで言われていて、文学史的にも優れた価値が認められている。
『金色夜叉』は未完だが、こちらは完結しているので安心して読むことができる。
『金色夜叉』
言わずと知れた、日本近代文学史における傑作。
とにかく面白い。
ストーリーテラーとして、当時の文学で紅葉の右に出る作家はいないだろう。
この作品の魅力は人物造形とか、文体の美しさとか、テンポの良さとか、いろいろとあるのだが、最大の魅力は「昼ドラチック」な展開と演出だといっていい。
一言でいって、ドロドロなお話なのだ。
金、名誉、見栄、愛欲、憎悪、怨恨……
そういった刺激的なアレコレをめぐる人間ドラマは、明治の人々を魅了し空前のベストセラーとなった。
たとえば、こんな逸話がある。
- 病床に伏していたとある令嬢がいた。
- 自分の命は、もう長くはない。
- だけど、どうしても『金色夜叉』の続きを読みたくて仕方がない。
- そこで彼女は家族にこう訴えたという。
- 「わたしが死んでも花とか線香は入らない。その代わりに『金色夜叉』の載った新聞を墓前に供えてほしい」
『金色夜叉』の人気っぷりを物語るエピソードだ。
ちなみに、この『金色夜叉』の登場人物「間貫一」には、実はモデルがいた。
それは紅葉の同人であり友人の「巌谷小波」である。
彼は、主人公「貫一」のように、恋仲にあった女に裏切られてしまう。
それを聞いた紅葉は義憤にかられて激怒。
その女のもとを訪れ、彼女をおもいっきり蹴飛ばしたという。
これが、あの熱海での名シーン、
「来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月を曇らせてみせる」
の元となった出来事だと言われている。
日本文学を学びたい人へ
この記事にたどり着いた方の多くは、おそらく「日本文学」に興味がある方だと思う。
日本文学の歴史というのは結構複雑で、「〇〇主義」とか「〇〇派」とか、それらの関係をきちんと整理することが難しい。
そこでオススメしたいのが、日本文学者「ドナルド・キーン」の代表作『日本文学の歴史』シリーズだ。
日本文学史の流れはもちろん、各作家の生涯や文学観、代表作などを丁寧に解説してくれる。
解説の端々にドナルド・キーンの日本文学への深い愛情と鋭い洞察が光っていて、「日本文学とは何か」を深く理解することができる。
古代・中世編(全6巻)は奈良時代から安土桃山時代の文学を解説したもので、近世編(全2巻)は江戸時代の文学を解説したもので、近現代編(全9巻)は明治時代から戦後までの文学を解説したものだ。
本書を読めば、間違いなくその辺の文学部の学生よりも日本文学を語ることができるようになるし、文学を学びたい人であれば、ぜひ全巻手元に置いておきたい。
ちなみに、文学部出身の僕も「日本文学をもっと学びたい」と思い、このシリーズを大人買いしたクチだ。
この記事の多くも本書を参考にしていて、今でもドナルド・キーンの書籍からは多くのことを学ばせてもらっている。
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