解説「夏目漱石」人生と人物像のまとめ、作品の考察ー天才的文豪の生涯に迫るー

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はじめに
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唐突だが、今 あなたが読んでいる本は「100年後」も生き残っているだろうか

たとえば、現在出版されている書籍のうち、若者を中心に大人気の文芸ジャンルがある。

「キラキラしたアニメキャラ」が装丁で、主人公が「転生」したり、主人公が「脱出」したりする作品が その代表なのだけど、その大半は 向こう50年のうちに絶版になるとぼくは確信している。(好きな方には大変申し訳ない)

一方で、すでに100年という時代の流れにしぶとく耐え、いまも多くの人々に読み継がれている作品というものがある。

その代表として「文豪」と呼ばれる作家たちの作品があるわけだが、そんな「文豪」の中でも、まさに異次元レベルの才能と実力とを持ち、人々の胸に突き刺さる作品を残した作家がいる。

それが「夏目漱石」だ。

まちがいなく彼の作品は50年後、いや100年後、200年後と、これから先ずっと残り続けていくだろう。

ぼくがそう思うのは、「人間の複雑な心理」が圧倒的ボキャブラリーと卓越した文体で描かれた漱石の作品に、時代と空間を超えたある種の「普遍性」を見るからだ。

そんな作品を残した「夏目漱石」とは、一体どんな人物だったのだろう

そして、どんな生涯を送ったのだろう

また、その生涯は、彼の作品にどんな影響を与えたのだろう

この記事では 作家「夏目漱石」の一生についてまとめ、彼の代表作の概要や魅力について紹介していきたい。

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夏目漱石の年表

1867年(0歳)
…東京都に誕生

1868年(1歳)
塩原家の養子になる

1897年(12歳)
…東洋府立第一中学校に入学

1881年(14歳)
…二松学舎に入学、漢文を学ぶ

1884年(17歳)
…大学予備門予科に入学

1888年(21歳)
…夏目家に復籍

1889年(22歳)
正岡子規と出会う

1890年(23歳)
…東京帝国大学英文科に入学

1895年(28歳)
…愛媛県尋常中学に赴任

1896年(29歳)
…熊本の第五高等学校に赴任
中根鏡子と結婚

1900年(33歳)
イギリス留学

1901年(34歳)
…留学中に神経衰弱に陥る

1902年(35歳)
…正岡子規が死去

1903年(36歳)
帰国し、第一高等学校・東京帝国大学で教鞭をとる

1905年(38歳)
『吾輩は猫である』

1906年(39歳)
…「木曜会」が始まる
『坊っちゃん』『草枕』

1907年(40歳)
朝日新聞社に入社
『虞美人草』

1908年(41歳)
『夢十夜』『三四郎』

1909年(42歳)
『それから』

1910年(43歳)
『門』
…胃潰瘍のため入院
修善寺で大喀血

1911年(44歳)
…文学博士号を辞退

1912年(45歳)
『彼岸過迄』『行人』

1913年(46歳)
…神経衰弱・胃潰瘍の悪化

1914年(47歳)
『こころ』

1915年(48歳)
『硝子戸の中』『道草』

1916年(49歳)
『明暗』執筆中に胃潰瘍で死去

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複雑な生い立ち(0歳~21歳)

生後間もなく里子へ

5歳ころの漱石

夏目漱石、本名「夏目金之助」は、江戸時代最後の年、1867年1月5日、江戸は牛込馬場下横町で生まれた。

「金之助」という名前を付けられたのは、生まれた日の縁起が悪かったからだった。

こんな日に生まれた子は、将来大泥棒になるかもしれない

そう心配した家族が、彼の名前に「金」の字をつけたのだった。

この「金」という字

本来は「この子が幸せになれますように」という願いの込められた字だったわけだが、皮肉なことに、「金」という字は まるで漱石の生涯を暗示しているかのようだった

まさしく、漱石が生涯でもっとも苦しめられたのが、まさにこの「金(マネー)」だったからだ。

漱石にまつわる金の問題は、彼が幼少の頃から すでにその芽があった

漱石の父は50歳、母は42歳。

「人生50年」と呼ばれた時代では、両親はすでに「おじいちゃん、おばあちゃん」みたいなもんだ。

かつて、こういう子どもは「恥かきっ子」と呼ばれ、世間から嘲笑される対象だった。

「あら、あら、いつまでもおアツいのね、ぷぷぷ…」

というワケである。

だから、漱石は生後まもなく里子に出される

里親は、古道具屋を営む貧しい夫婦の家だったのだが、そこで漱石は悲惨なほどに雑な扱いを受けてしまう。

わたしは其道具屋のガラクタと一緒に、小さいザルの中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店にさらされていたのである(『硝子戸の中』より)

晩年、漱石は彼の随筆『硝子戸の中』で、出生の秘密についてこう明かしている。

たまたま店の前を通った姉が、ガラクタの中でほったらかされている漱石を見つけ、可愛そうに思い自宅へ連れ戻したというのだ。

ところが、幼い漱石が一晩中泣きわめくので、父は姉をたいへん叱りつけたらしい。

漱石は生まれたときから、両親から必要とされてはいなかったわけだ。

養家「塩原家」での生活

10歳ころの漱石

一度は夏目家に引き取られたが、結局「恥かきっ子」であることには変わらない。

1歳の頃、漱石は「塩原昌之助」という名主のもとに養子に出されることになる。

あまりに幼いころの出来事なので、漱石は「自分が養子である」ということに気がつかなかったし、実の両親のことは「祖父母」だと本気で思っていたという。

さらに漱石は幼いながらに「養父母」の愛情の中にある「歪んだ感情」に気が付いていた。

彼らはしきりに

「本当のお父さんとお母さんはだれ?」

と、幼い漱石を問い詰めていたからだ。

こんなふうに恩着せがましい「塩原」養父母。

彼らはのちに、漱石が有名になるや、何度も何度も金をたかりにやってくることになるのだが、それについては後述する。

漱石が8歳のころ、養父母が離婚。

漱石は ふたたび夏目家へ出戻りとなる。。

ただややこしいことに、夏目家で生活しながらも「塩原姓」はずっと変わらなかった。

ここから、夏目家と塩原家のもめごとが続くことになるのだが、それは主に養育費など「金」の問題だった。

そんなゴタゴタの中で、漱石が15歳のころに実母が死去

後に漱石は、母についてこう語っている。

母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、決して外の女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない

漱石にとって実母が特別な存在になったのは、早すぎる別れが大きいのだろう。

いずれにしても、漱石が「幸せな家族」とか「親の愛」というものを充分に経験することはなかった。

「夏目家」への復籍

17歳ころの漱石

21歳の時に、夏目家と塩原家の争いに決着がつき、漱石は「夏目家」に復籍する。

塩原家は、漱石を夏目家へ返す代わりに「金240円」を夏目家側から受け取った。

当時の貨幣価値はざっくり「1円=1万円」と考えてくれればいい。

だから、漱石はまるで物みたいに「240万」で取引されたのだった

その両家の契約書には、「金之助」を主語として こんなことが書かれていた。

「わたくし金之助は、このたび夏目へ復籍いたします。それに際して、養育費240万を夏目家から塩原家にお渡しします。どうか今後とも変わらぬお付き合いをお願いします」

しかも、自分が「商品」として売り渡されるこの契約書に、21歳の漱石は自らの署名をしなければならなかった。

こうして大人たちの身勝手な都合により、漱石は0歳から21歳までの間、

夏目家 → 古道具屋 → 夏目家 → 塩原家 → 夏目家(塩原姓) → 復籍(夏目姓)

という風に、文字通りたらい回しにされて育ってきた。

この幼少歴は、彼の人間観や文学観に大きな影響を与えている。

 

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学生時代(12歳~24歳)

主な学歴

東京帝大時代の漱石

現代の学校制度と大きく異なるが、まとめると以下の通り。

12歳・・・東京府立第一中学校(現日比谷高校)入学

14歳・・・二松学舎(現二松学舎大学)で漢文を学ぶ

16歳・・・成立学舎で英語を学ぶ

17歳・・・東京大学予備門予科に入学

21歳・・・第一高等学校(現東京大学)へ編入

23歳・・・帝国大学(現東京大学)英文学科に入学

ちなみに漱石が帝国大学へ進学した年、進学者の数は全学部合計して、わずか341名。

一口に「東大」といっても、いまの「東大」とは比べものにならないくらいに難関だったわけで、こうした学歴を見渡すと、彼の超絶エリートぶりがはっきりと分かると思う。

ちなみに、その天才すぎる脳みそは、いまも東大の医学部で ホルマリン漬けで保存されていて、なにかイベントがあると、ひょっこり持ち出されることがある。(実際、過去には音楽フェスに登場したことがある)

親友「正岡子規」との出会い

正岡子規

一高での「正岡子規」との出会いは、「作家」夏目漱石の誕生には欠かせないものだった

漱石と子規は交流を深め、互いに詩作にふけったり、文学についてあれこれと論争を交わしたりするようになる。

もともと漢詩や漢文学に興味関心が強かった漱石だったが、子規との交流を通して「文学」への関心をいっそう強めていった

漱石の生涯にわたる創作は多岐にわたっていて、「小説」はご存知の通りだが、「俳句」や「漢詩」に始まり、「文学論」や「文章論」などに至るのも、この頃の子規との交流が大きく影響をしている。

ちなみに、彼のペンネームである「漱石」は、実はこの頃に生まれた

子規の詩集に対して、漱石が漢文で批評を送ったのだが、その時に用いた号が「漱石」だった。

「漱石」という言葉の由来は、漢文の「漱石枕流」という故事だ。

「川で口をすすいで、石を枕にする」と言いたいところを、間違って「石でくちをすすいで、川を枕にする」言ってしまった男が、あれやこれや屁理屈をつけて強引に通そうとしたという話。

つまり、

「漱石」=「頑固者」

という意味である。

兄嫁「登世」の死

東京帝大時代の漱石

24歳の漱石には、思いを寄せる女性がいた。

それが兄の妻である「登世」だ。

彼女は漱石と同い年で、とても美しい女性だった。

1つ屋根の下で生活をする彼女は、まるで実の母のように漱石の世話をしてくれた。

大学へ行く漱石に、登世は毎朝 心をこめて弁当作っていたとも言われている。

そんな彼女に、漱石は次第に恋心を抱いていった

が、それは、当然許されない恋。

漱石はそんな秘められた恋心に苦しむ

後の漱石の作品には、男女の「三角関係」や、「許されない恋」が描かれるのだが、この登世への恋が原体験になっていると言われている。

そんな登世が、25歳の若さでこの世を去ってしまう

漱石はそのときに多くの句を残しているのだけれど、特に美しいのはこちら。

朝貌や咲(さい)た許(ばか)りの命哉(かな)

登世を「朝顔」に見立てた句だ。

おそらく、幼い頃から満たされない「母への思い」を、漱石は兄嫁の登世に投影していたのだろう

登世を失った漱石は、まるで肉親を失ったかのように悲嘆にくれたと言われている。

こうして厭世感を強めた漱石は、この頃から次第に神経衰弱で苦しむようになっていく

ちなみに、漱石と登世にまつわる論考というのは、じつは結構存在していて、有名どころだと戦後の文芸評論家「江藤淳」の論考があげられる。

漱石と登世との間には「男女の関係が成立していたとする説」である。

まぁ、言ってしまえば「姦通」ということになるのだけれど、とてもロマチックで美しい論考なので、ぜひこちらの本を手に取って読んで見てほしい。

 

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教師時代(26歳~37歳)

主な勤務校

松山時代の漱石

大学を卒業後、漱石は多くの学校で教鞭をふるう。

勤務校と給料をまとめると、以下の通り。※給料1円=1万円程度

26歳・・・高等師範学校(現 筑波大学) ※年俸450円

28歳・・・愛媛尋常中学校(現 松山東高等学校) ※月給80円

29歳・・・熊本第五高等学校(現 熊本大学) ※月給100円

( 33歳・・・イギリス留学 ※学資1800円 + 休職月給25円 )

36歳・・・第一高等学校 ※月給700円東京帝国大学 ※月給800円

こう羅列してみても、そうそうたる学校ばかりだ。

なぜ、いちいち細かく「給料」について記しているかというと、この頃の漱石は「金」にまつわるトラブルで腐心しているからだ。

1円=1万円と考えておおむねOKなのだけど、実際はもっともらっていたとも考えられている。

そうなってくると、

え? こんだけもらっているのに、そんなに生活が苦しかったの?

と、疑問に思うかもしれない。

ただ、当時の物価は今とは違うし、弟子たちがどんどん金をむしり取っていったというのもあるし、何よりも養父の「塩原昌之助」が度々金の無心にきたというのもある。

給料のわりに、生活に苦しんだというのは、それだけ漱石に群がる連中が多かったということなのだ

教師時代のエピソードについて軽く触れておくと、第一高等学校時代の教え子には「藤村操」がいる。

彼は明治時代を象徴する「煩悶青年」として有名なのだが、彼は日光の「華厳の滝」から飛び降り自殺をしている。

その前日に、漱石先生は彼をひどく叱責したこともあって、

「ひょっとして、オレが原因か?」

と、漱石は責任を感じたと言われている。

『吾輩は猫である』にも、「藤村操」についての記述がある。

また、有名どころだと「I love you」を「月がキレイですね」と訳したというエピソードがあげられる。

が、実はこのエピソードの真偽はよくわかっていない。

そんな記述は、漱石の著作には全くないし、出どころがはっきりしていないのだ。

ただ、これが仮に都市伝説だとしても、それが実しやかに語られるくらいに、漱石の言語感覚が柔軟で独特だったということはできるだろう。

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「中根鏡子」との結婚

お見合い時の鏡子と漱石

漱石が結婚をしたのは、29歳のころの熊本時代。

相手は、「貴族院書記官長」の娘、中根鏡子だった。

いかにも「良いとこ出の才女」感たっぷりなのだが、実際に鏡子はだいぶ甘やかされて育ったようで、結婚してから存分に発揮される「悪妻」っぷりは、その養育歴が大きいと言われている。

ただ、気取るところがまったくなかったのは、漱石のとても気に入るところとなった。

見合いの席で、「口も覆わず、歯並びの悪さを隠さずに笑う」鏡子を見て、漱石は好感を持ったというし、鏡子は鏡子で漱石の見た目にすぐに惹かれという。

そして、熊本に住む漱石を鏡子が追いかける形で、2人はめでたく結婚した。

なお、その後、鏡子は2度の流産を経験し 精神的に錯乱、入水自殺未遂を起こしてしまう

こういった一連の事件もあり、夫婦生活とは漱石は悩ますものとなった

漱石31歳、待望の第1子、長女の筆子が誕生する

紆余曲折あって授かった子だったけれど、生まれてみればあっさり。

漱石はその時の心境を、こう俳句にしたためている。

安々と海鼠(なまこ)の如(ごと)き子を生めり

漱石の安堵や喜びが、そこはかとなく漂う、温かい句だと思う。

ロンドンへの留学

ロンドン留学前の記念写真※先頭右が漱石

33歳のころ、文部省の給費留学生に選ばれ イギリスに出発する。

ただし、漱石は実はちっとも嬉しくなくて、

「ぼくなんかより、もっといい人いるんじゃないすか?」

と、何度も断っている。

というのも、漱石は 国家のような権威的なもの対しては距離をとる人間だからだ

後年、国から「文学博士」の称号が一方的に授けられた時も、

「いらないです」

「やるよ」

「いや、いらないです」

「遠慮すんなって」

「いや、ほんといらないですから」

「やるっつってんだろ!」

「いらねーっつってんだろ!」

というやり取りを約2か月続けて、とうとう断りきったというエピソードもある。

さて、こうして渋々いったロンドン留学は、漱石にとって、とてつもなく辛く苦しい3年間となってしまった。

結果的には、神経衰弱を悪化させることになる

皮肉なことに この神経衰弱があったからこそ、後に漱石は「小説」を書くことになるワケなのだが、それについては後述する。

では、留学生活の何がそんなに苦しかったのかというと、大きく4つにまとめることができるだろう。

  1. 英文学を学ぶことへの疑問が生まれたこと
  2. 日本人として差別を受けたこと
  3. お金がなくて貧困生活を余儀なくされたこと
  4. 親友の「正岡子規」が死んだこと

以下、簡単に解説をしたい。

1つ目「英文学を学ぶことへの疑問」は、もっとも大きな原因だった。

なぜなら、漱石の専攻は「英文学」であり、今の食い扶持だって「英語教師」

ここにきて、

「あれ、自分がこれまでやって来たことって何だったんだろう……」

と、自分の半生を否定しなければならなくなったのだ。

なぜ、こうなったのかといえば、当時の先進国「イギリス」の現実に絶望したというのが大きかった。

当時のイギリスは帝国主義を掲げ、アジアやアフリカといった後進国へドンドン進出をしていた。

そんな、人種差別や植民地政策など人を人とも思わない暴挙と、何よりも「おれたち西欧人が一番偉いんだ」という自文化中心主義とは、漱石の目に深刻に映ったのだった。

これが、日本の目指すべき姿なのだろうか

「文明開化」

「脱亜入欧」

そんなスローガンを掲げ、西欧を無批判に追いかける日本の現状を、漱石は憂えていく。

いたずらな近代化で、日本は滅びるんじゃないだろうか

この頃から漱石は、「無批判な日本の近代化」について警鐘を鳴らすようになっていく

くわえて、根本的なところなのだけれど、

「あれ? おれ、英文学あんまり好きじゃないかも」

と気づいてしまったというのも大きかった。

「西欧文学」を研究すればするほど、どうも好きになれない自分と、「やっぱりおれは漢文学が好きだ」という自分とに 気が付いてしまったワケだ。

こうして、イギリスに来てはみたものの、結局 漱石は英語を学ぶ意義を見失ってしまったのだった。

2つ目「差別を受けたこと」も、今ほどの説明に通じる。

当時のイギリスには「西欧第一主義」が根強くはびこっていた。

そんな中で、東洋からやってきた日本人の漱石は、分かりやすく差別を受けてしまう。

しかも、漱石の身長は、当時の平均とはいえ159㎝と小さい。

190㎝ある西欧人に埋もれながら街を歩くことに 恐怖さえ抱いたらしい。

3つ目「貧乏生活」は、イギリスの物価が高かったこともある。

書籍は高いもので1冊30円~40円。※1円=1万円

「書籍を買う金もない!」ということで、漱石はろくな食事もとらず、ビスケットをかじりながら勉強をしていたといわれている。

4つ目「正岡子規の死」は、漱石に大きな悲しみを与えた。

漱石がロンドン留学中、日本の正岡子規は35歳で「肺結核」のため死去してしまう。

このとき、漱石の心に ある大きな後悔が生まれた。

実は、漱石はロンドンから子規に近況を伝える手紙を出したことがあった。

すると、子規からこんな返事が来た

「『西欧に行きたい』っていうおれの言葉を覚えててくれたんだな。お前の手紙を読んで、まるでイギリスに旅行した気分になれたよ。そこで、どうか一生のお願いだ。おれが元気なうちに、もう一度ロンドンのことを手紙に書いて送ってくれないか」

ところが、漱石は、

「ごめん。忙しいからゆるしてくれ」

と、断ってしまう。

漱石としては、「時間ができたら 手紙を書けばいい」と思っていたようなのだが、結果的には親友の願いを退けたまま、彼は死んでしまった。

漱石は「どうしてあの時……」と、強い悔恨と罪悪感にさいなまれることになる。

「子規を殺したのは、おれだ」

とまで思うにいたり、自分自身責め続ける日々が続いた

さて、以上の4つの理由から、漱石の神経衰弱は悪化してしまった。

そんな漱石の噂は、日本でも話題となる。

そしてついに、

「漱石発狂!」

といった電報が、文部省に届けられる。

「急いで連れ戻せ!」

こうして漱石は強制送還。

約3年に及ぶ留学生活はこうして幕を閉じる。

 

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作家「夏目漱石」の誕生(38歳~39歳)

作家デビューころの漱石

作品『吾輩は猫である』

さて、ここからは漱石の代表作について触れていこうと思う。

が、まずは「小説」を執筆するようになったきっかけについて触れておこう。

帰国後、第一高等学校と帝国大学の教員として、学生らに「英文学」を教え始める。

が、その内容があまりに難解だったため、学生らにはさっぱり理解されなかったという。

加えて、養父「塩原昌之助」からのたび重なる無心。

結局、漱石は帰国してもなお 神経衰弱をこじらせてしまう

そんな状況を見るに見かねた、友人「高浜虚子」は、

「気晴らしになるから、ためしに小説書いてみたら?」

と、すすめてみた。

「じゃあ、とりあえず書いてみるか」

と、こうして生まれたのが 代表作、

『吾輩は猫である』

猫の目をかりて「人間」や「文明」をユーモラスに描いているが、その鋭い批判精神が光っている。

ここで、有名な冒頭を引いてみたい。

吾輩は猫である。名前はまだない。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している

さて、この記事を読んでくれている読者であれば、何か「既視感」のようなものを抱かないだろうか。

そう、このシーンは、まさに漱石の出生後まもなくの姿とバッチリ重なっている

薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていた」吾輩の姿は、「恥かきっ子」として古道具屋に捨てられ、ガラクタにまみれて泣き続けていた漱石の姿だと言っていい。

さらに興味深いのは「吾輩」の設定のうち、「一旦は拾われ」その後に「改めて捨てられた」という部分だ。

「塩原家」に拾われて、その後また捨てられるように「夏目家」に復籍した漱石

ここにも「吾輩」と「漱石」の共通点を読むことができる。

『吾輩は猫である』は、一般的に「深刻な小説」と捉えられることはない。

むしろ、ユーモラスで明るい小説と捉えられている。

ところが、「吾輩は猫である」を「吾輩は金之助である」と変換してみると、これは「私小説」と読むことができるとする見方もあるのだ。

そんな『吾輩は猫である』は、連載 第1回から大ヒット。

爆発的なベストセラーとなり、ここに作家「夏目漱石」が誕生する。

なお、「吾輩」のモデルは、漱石の家に転がり込んできた「黒猫」で、名前もなかった

漱石の作家の道が開けたのは、何を隠そう「名無し君」の功績が大きいわけで、漱石は彼が死んだ際には墓をつくって丁寧に葬ってやっている

そして、敬意と哀悼の意を表し、こんな句を詠んでいる。

この下に稲妻起こる宵あらん

「ゴロゴロと鳴く黒猫」を「稲妻起こる宵」と表現した漱石の表現力に、鳥肌が立ってしまうような、めちゃくちゃカッコイイ一句だと思う。

作品『坊ちゃん』

松山の中学校で英語教師をしていた経験をもとに描いた中編小説。

単純で正義感の強い江戸っ子の主人公「坊っちゃん」が、ずるがしこい生徒や教師たちと戦い、最後は痛快なパンチを食らわすという、とっても爽快な作品

言うまでもなく「坊っちゃん」のモデルは漱石なのだけれど、晩年の作品みたいな「ジメジメ」感がなく、漱石の作品の中でも性別や年代を問わずに長く親しまれている作品だ。

とはいえ、最後にはしみじみとした「哀愁」もただよう。

自らの正義を貫いた「坊っちゃん」だったが、最後は辞表を出して、東京へ帰っていくことになるからだ。

自分の信念を貫くことには代償を伴う。

そんなリアリスティックな漱石の価値観が、ここに表れているのだろう。

作品『草枕』

熊本の第五高等学校にいたころの経験を元に描かれた中編小説。

漱石はこの作品についてこう言っている。

美しい感じが読者の頭の中に残りさえすれば良い

  (中略)

さればこそ、プロットもなければ、事件の発展もない

ということで、作者本人も言う通り、決して「おもしろい」作品ではない。

だけど、漱石の芸術館や人間観がつよく表れていて、何よりも「言葉」のみで表現された美しい世界を味わうことができる。

この作品を、漱石による「文体」の実験とする見方もある。

その文体には「俳句」の手法が使われていて、正岡子規の影響も大きいと思われる。

山路を登りながら、こう考えた。

知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

この序文はあまりに有名である。

寡黙で、淡々としているけれど、世間の生きにくさを的確に無駄なく述べた名文だと思う。

1つの「風景画」を鑑賞するように、漱石による「言葉の美」が堪能できる作品だ。

 

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朝日新聞に入社(40歳~43歳)

細かすぎる契約内容

朝日新聞社入社ころの漱石

着々と作家としての地位を確立していった漱石は、ついに「朝日新聞社」と専属契約を結ぶに至る。

そこで交わされた契約書を見ると、漱石が「給料」にこだわっていたことが良く分かる。

「月収は200円にすること」

「必ず2度のボーナスを出すこと」

『ボーナス』は4ヶ月分とすること」

こんなふうに、当時としてはかなり具体的で細かい。

そこには、「金」の問題で苦しみ、なんとか生活を安定させたいという漱石の切実さが現れていると言えるだろう。

それから、当時としてはめずらしく「著作権」にもこだわっている

「作品を他のメディアに流してはいけない」

「例外的に他のメディアに流す場合は必ず許可を取る」

「論文などについては、わたしに掲載の自由がある」

この辺りも、漱石の神経質な性格がうかがえるエピソードである。

作品『虞美人草』

朝日新聞に入社後 1発目の作品は中編小説だった。

その発表前、世間は漱石の作品に期待を膨らませていて、三越なんかは「虞美人草浴衣地」なるものを発売するなど、とにかくみんなが大騒ぎ。

ハードルだけがぐんぐんとあがっていった。

が、残念ながら、この作品は「空振り」とか「力みすぎ」とか評価されることが多い。

実際に読んでみると、漱石の熱量や意気込みというものがビシビシ伝わってくるのだけれど、それゆえに文体も凝りすぎていて、読み進めるのが結構キツイ。

興味深い点としては「藤尾」という魅惑的な女性だ。

彼女は、作品の終盤で不可解な死をとげる。

この女性の死から、漱石の「女性観」を読み解くことができると一部の「評論家」らの注目を集めているようだ。

ただし繰り返すが、一般読者にとっては正直 気合いが必要な作品だと思う。

とはいえ、漱石にとっては「朝日新聞」1発目の記念すべき作品なので、漱石ファンであれば一度は読んでみてもいいだろう

作品『夢十夜』

「こんな夢を見た」

という語りから幕をあける10編の夢物語集。

漱石が実際に見た「夢」がモチーフになっているようで、

「漱石の無意識を探れる」

と、評論家たちの注目を集める定番の作品だ。

特に注目されやすいのは、「第3夜」「第6夜」「第10夜」あたり。

漱石の「出生の秘密」とか「文明への憂慮」なんかが表れていて、漱石文学上でとても意義深い作品とされている。

が、なんといっても読むべきなのは、誰がなんと言おうと「第1夜」である。

  • みずみずしく、それでいて格調を失わない文章
  • 儚く 幻想的で 美しい世界観
  • 短いながら 計算され尽くされた構成
  • 強烈な余韻を残す終わり方

どれをとっても欠点のない、漱石の作品の中でも「傑作」と呼べる作品だ。

ちなみに、作品に登場する「女性」は、兄嫁の「登世」だとも言われている。

これも「江藤淳」のこちらの作品に詳しい。

ぼくはこの「江藤」の説をつよく指示している。

登世への思慕は忘れがたく漱石の無意識に残っていたと思うし、それが「漱石」の夢で象徴的に表れたとしてもなんら不思議ではないからだ。

何より 漱石の「忘れられない恋心」がこんな美しい作品として結実したのだと思うと、読後の感動というのも何倍にも膨れ上がるからだ。

ぼくはこの作品を読んで、改めて「漱石」という人間と、「文学」という世界に魅了された。

前期三部作『三四郎』

ここからの3作は、漱石文学で「前期三部作」と呼ばれている。

まずは『三四郎』

主人公の「三四郎」は熊本生まれの青年で、東京帝大進学のために上京をする。

作品は「三四郎」の東京への憧れや、淡くほろ苦い恋愛を描いた青春小説で、『坊っちゃん』とならび 広い世代から親しまれている。

とはいえ、この作品には 単純な「青春小説」とか「恋愛小説」と片付けられない「深み」がある

というのも、「三四郎」の「美禰子」への感情は 単純に「恋愛」と言い切れない複雑なものであるし、美禰子の三四郎への感情もまた 捉えどころのないものだからだ。

作中で重要なキーワードとなっている「迷える子羊(ストレイ・シープ)」とは、一体何を表しているのか、この点においも 議論が絶えないとところ。

読んでも楽しい、考えても興味深い、そんな作品。

なお、この頃の漱石は いよいよ「胃潰瘍」にも悩まされるようになる。

ということで、『三四郎』以降の作品は、どんどんと暗く、深刻になっていく。

前期三部作『それから』

タイトルに実は深い意味はなく、『三四郎』の「それから」ということらしい。

だけど、このタイトルはとても暗示的で、この作品を書いた「それから」の漱石作品は、「人間の暗部」に焦点を絞ったものが圧倒的に増えていく。

この頃の主題の1つに「三角関係の恋愛」というものがあるのだが、『それから』の中心テーマがまさにそう。

主人公「代助」と、友人「平岡」と、その妻「三千代」との三角関係を軸に、理想と現実の葛藤が描かれている。

友人や家族を捨ててまで、三千代と一緒になろうとする代助の生き方に、背中を押される読者もきっと多いと思う。

なんといっても、代助が三千代に思いを告げるクライマックスは鳥肌もの。

代助が、自らの心臓に手を当てて微笑を漏らす場面が超絶かっこいい。

「僕の存在にあなたが必要だ。どうしても必要だ」

この代助の悲痛なまでの訴えも、人間が抱える「孤独」や「苦悩」を突きつけてくるようなパワーがある。

自己本位の生き方を選び、全ての責任を背負いながら生きようとする代助の姿に、ぼくはある種の救いを見ている。

ラストシーン、「真っ赤に燃える世界」をどう解釈するか、それは人それぞれ。

漱石作品の中でも、つよくオススメできる作品。

前期三部作『門』

『それから』の続編。

友人を裏切ってまで、自分たちの思いを貫き通した夫婦の姿が描かれているが、これはもちろん『それから』の「代助」と「三千代」の後日譚である。

果たして2人は、その後 幸せになれたのだろうか。

『それから』を読んだ読者達は、まちがいなくそう思って本書『門』を手に取ると思う。

が、ここで描かれているのは、晴れて夫婦になったけれど、それぞれが「一人ぼっち」のままの男女の姿である。

「幸せ」を求めた2人だったのに、彼らは「不幸」な2人として描かれている。

夫婦を隔てているものは一体何なのか。

それは「罪の意識」であり、互いの「エゴイズム」である。

生活をともにしているのに、苦しみを分かち合うことができない。

互いが1番の理解者であって欲しいのに、理解し合うことができない。

物理的な距離がはないはずなのに、精神的な距離は果てしなく大きい。

「孤独というものは、1人の時よりも 誰かと一緒の時にこそ強く感じられる」

これは、漱石の基本的な人間理解であり、続く「後期三部作」において、もっともっと切実に描かれてことになる。

 

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修善寺の大患(43歳~47歳)

『こころ』執筆のころの漱石

30分の死

漱石にとって「死」は ずっと身近にあった。

兄たちの死、母の死、兄嫁の死、子規の死・・・・・・

そして、自らの「死」がもっとも接近するのが、43歳のこと。

「修善寺の大患」と呼ばれる、大量喀血事件である。

漱石の「神経衰弱」と「胃潰瘍」はいよいよ深刻で、転地療養のため静岡県伊豆の修善寺温泉を訪れていた。

しかし、症状はいっこうに良くならない。

そんな8月のある日 漱石は800㎖に及ぶ大量喀血をし、30分の間 臨死状態になる。

そして、3週間にわたって生死の境をさまよう。

結果的に、なんとか回復した漱石が東京に帰れたのは10月のことだった。

追い打ちをかけるように、5女の「ひな子」が、原因不明で亡くなってしまう

これらの事件は、漱石に大きな影響を与えた。

だから、これ以降に執筆される作品には例外なく、「死」の影がただよっている

とくに、晩年の随筆『硝子戸の中』には、「死」を静かに見つめる漱石の姿が描かれている。

「どうすれば死を恐れずに受け入れることができるのだろう」

そんな思いは徐々に漱石の内で強まっていっただろう。

そういった思いは、晩年の境地といわれる「則天去私」につながっていくことになるのだが、それも後述する。

とにかく、この頃の漱石は心身ともにズタボロ状態。

当然、以下で紹介する「後期三部作」には「黒く濃い影」が落ちている。

後期三部作『彼岸過迄』

「修善寺の大患」以降、初の長編小説。

6つの短編を重ねて長編小説にした、漱石にとって実験的な作品だ。

それが成功しているのかはさておき、とにかくプロットを追うことに苦労する作品ではある。

注目すべき点としては、後半の「人物の内面描写」だろう。

須永という男と、千代子という幼なじみ2人の関係や、須永の出生の秘密や、彼の深い苦悩が「告白文体」によって綴られていく。

続く「行人」や「こころ」でも、この告白文体というものが採用されていくことになる。

『彼岸過迄』という作品自体は あまり知られていないし、漱石作品の中では間違いなく手強い作品だとは思うけれど、後の『行人』や『こころ』に通じていく点において とても意義ある作品だと思う。

後期三部作『行人』

「短編をつなげて長編に」という試みは、前作同様。

この作品は、漱石の作品の中でもっとも「哲学的」な作品だといえる。

主人公は大学教授の「一郎」

彼は妻である「直」の心がつかめないことに苦悩していた。

そこで、自らの弟「二郎」を利用して、直の貞操を試そうとする。

具体的には、直と二郎とを同じ宿に泊めて、一晩中2人きりにするというものだ。

「妻と繋がれない」という、夫の孤独と苦悩は『門』においても描かれていたが、ここでの「一郎」はより病的で狂気的ですらある

一郎の精神はどんどん錯乱していき、彼の奇行も止まらない。

見かねた二郎と両親は、一郎の友人「H」さんに頼んで彼を旅に連れ出してもらう。

そして旅先からHさんの手紙が送られてくる。

その内容がすさまじいのだ。

同時に『行人』の魅力はここにある。

手紙には、一郎の病的なまでの「自意識」と、それによる「孤独」「苦悩」が鮮明に、具体的に描かれている。

彼の苦悩は、もはや社会的な要因というよりも、哲学的な要因に根差していると言っていい。

特に、印象的なシーンがある。

ぼんやりと風景を眺めていた一郎が、

「あの百合は僕の所有だ」

とつぶやくのだが、

「あの山も谷も僕の所有だ」

「あれらもことごとく僕の所有だ」

と、立て続けに繰り返す。

一見すると全く不可解な一郎の言葉なのだが、これは突き詰めて考えると人間の根本的な苦しみが見えてくる。

実存主義哲学者のサルトルも、同じ主題で『嘔吐』という名著を描いているのだけれど、流砂に共通しているのは、主人公らが「存在論的苦悩」に脅かされていると言う点だ。

ちなみに、評論家の「柄谷行人」も、漱石の作品を「存在論」的に読解した論考を数多く発表しているので、上級者にはこちらを読むこともオススメしたい。

いずれにしても、一朗の深刻な精神状況は、読んでいてこちらも不安になってくるレベルなのだ。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

これは、一郎の言葉だ。

「自殺か、狂気か、宗教か」

この世界に絶望した人間の前途には、この3つの選択しか残されていない。

漱石の言葉は、苦悩する人間の「真理」をついている。

後期三部作『こころ』

【 参考記事 解説・考察『こころ』ーKと先生の自殺の理由、主題、物語のその後を解明!ー

人間の「エゴイズム」を鋭くえぐり出した、漱石の代表作であり 文学史上最高の傑作

あらすじの紹介は、ここでは一切不要だろう。

「こころが人を孤独にしている」

そのことを ここまで鋭く描いている作品を、ぼくは他に知らない。

読む度に新しい疑問を持ち、新しい解釈が生まれ、新しい発見ができるというのも、長年読み続けられている大きな要因だと思う。

そう、この作品には多くの謎があるのだ。

  • なぜKは自殺をしたのか
  • なぜ先生は自殺をしたのか
  • なぜ先生は「私」に秘密を告げたのか。
  • 「私」と「静」とはどんな関係なのか。

などなど、言い出せばきりがない。

なぜ、こんな謎が多い作品なのかといえば、それは作品の発表にまつわる様々な経緯に関係していると思われる。

何度も何度も読みかえし、『こころ』を論じた評論に触れ、自分の中で想像を巡らしてみる。

そんな風にして、この『こころ』という作品は、読者に見せる表情を次々と変えていく

「自己の心を捕らえんと欲する人々に、人間の心を捕らえ得たるこの作物を薦む」

これは漱石自身が 本書の広告で述べた言葉だが、まさに簡にして要を得ている。

読めば不可解な「自分のこころ」と向き合えるだろう。

 

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晩年(48歳・49歳)

最晩年の漱石

私小説『道草』

漱石は『こころ』において、人間の「エゴイズム」を描いた。

改めて自らの「心のありよう」を目の当たりにした彼は、自分自身の実生活と、醜い我執をありのままさらけ出し始める。

『道草』は、漱石にとって初めての本格的な「私小説」だ。

描かれるのは、主人公「健三(漱石)」がイギリス留学から帰ってきてから『吾輩は猫である』を発表したころまでの出来事。

養父「島田(塩原)」による度重なる無心、夏目家からの金の催促、妻「お住(鏡子)」とのいさかいなどが描かれている。

家族たちの身勝手なふるまいによって、健三の心はジワジワと消耗していってしまう。

ここでも家族1人1人の「エゴイズム」が入念に描かれていて、物語は終始 息苦しくて重い。

家族に捨てられ、家族に裏切られ、それでも家族にこだわった

漱石はそういう人間だった。

『道草』は、生涯をかけて「家族とは何か」を問い続けてきた漱石だからこそ描くことのできた、近代文学を代表する「家族小説」ということもできる。

描かれる明治時代の家族の姿だが、「家族の問題」というのは 現代の日本でも十分通用するテーマだ。

絶筆『明暗』

晩年の漱石のほとんどの作品に「人間のエゴイズム」が色濃く描かれている。

「人間はだれもが身勝手な生き物だ」

それは、夏目金之助という一人の人間が、世間や家族とのかかわりの中で感得した、生々しい実感だった。

世間で生きていくためには、何事にも動じることのない「心の平安」が必要だ

晩年の漱石も、そう考えたようで、これが有名な「則天去私」という境地だ。

49歳の漱石は『明暗』という作品の中で、この「則天去私」の境地を描こうとしたと言われている。

漱石は、これまでにないほどに『明暗』という作品に心魂を注いでいたようで、いつも『明暗』のことばかりを口にしていたという。

  • 登場人物の多さ
  • 主体性のある「女性」たち
  • 人物1人1人の「エゴイズム」
  • 精密な心理描写
  • スリリングなストーリー
  • 社会へのまなざし

明らかにこれまでの漱石作品 とは違う作風で、漱石は『明暗』を描くことで これまでの文学観や人間観を乗り越えようとしていたと思われる。

ところが、作品の連載中に漱石の胃潰瘍が悪化。

『明暗』は188回目で中絶し、漱石はこの世を去った。

約600ページ書いても まだまだ多くの謎を残していることから、構想としては1000ページを優に越えるものだったと思われる。

しかも、作品が加速しだして「いよいよ、クライマックス突入か?」と思われる絶妙なところで終わってしまっている。

『明暗』の続きに関しては、多くの評論家たちが様々な説を展開している。

『続明暗』という挑戦的なタイトルで、作品の続きを描いた作家さえいるくらいだ。

(ちなみに、この『続・明暗』は、漱石が貼った伏線を絶妙に回収している完成度の高い作品で、「ひょっとして、漱石はこんな展開を考えていたんじゃないか?」と思わせる良作だ。)

こんな風に、漱石の死とともに未完で終わった『明暗』には、「未完」だったからこそ備わった魅力というか、「文学性」というものが、間違いなくある

ぼくは、ここに、なにか目に見えない「運命」というか「宿命」のようなものを感じる。

終わりに 「則天去私」と「死」

漱石のデスマスク

今ほど『明暗』でも触れた「則天去私」

これを書き下すと、天に則って、私を去る」ということになる。

「私」というのは、漱石が描き続けてきた人間の「エゴ」である。

「我執」と言い換えてもいい。

「天」というのは、あらゆる存在を包み込んでいる 大きな「原理」のことだ。

それは「神」とか「仏」とか「超越」とか「実在」とか、いろんな名前を与えることができそうな、この世界の「根本原理」のことである。

つまり、漱石は、「自らへの執着を絶ち、自らを包み込む大いなる『原理』に身を委ねることができれば、人間の苦しみを乗り越えることができる

と、考えていたらしい。

これは、まさしく、漱石が最終的にたどり着いた「宗教的な境地」だと言ってもいいだろう。

漱石は『門』において、「宗教を信じられない、近代人の苦しみ」を描いた。

『行人』において、「苦悩する人間の前途にあるのは、自殺か、狂気か、宗教だ」と断言した。

そんな漱石が理想としたのが、この「則天去私」という境地だった。

が、実は、漱石のどんな作品にも「則天去私」という言葉はみつからない

ぼくたちは、この「則天去私」という言葉については、漱石の弟子たちの証言をたよりにするほかない。

たとえば、「木曜会」に出席していた「松岡譲」という作家は、

「則天去私ってなんですか?」

と、漱石に直接尋ねたという。

そこで、漱石は彼に丁寧に答えたと言われている。。

以下、「則天去私」について知れる数少ない貴重な資料なので、少々長いが引いてみる。

ようやく自分もこの頃一つのそういった境地に出た。「則天去私」と自分ではよんで居るのだが、他の人がもっと他の言葉で言い表しているだらう。つまり普通 俺が自分がといういわゆる小我の私を去って、もっと大きな謂わば普遍的な大我の命ずるままに自分をまかせるといったやうな事なんだが、そう言葉で言ってしまったんでは尽くせない気がする。

   (中略)

今度の『明暗』なんぞはそういふ態度で書いているのだが自分は近いうちにかういふ態度でもって、新しい本当の文学論を大学あたりで講じてみたい。

これ以外にも、小宮豊隆の証言があったりするのだが、要するに「則天去私」の出どころというのは弟子の証言であって、漱石自身の言葉ではない。

本当のところは誰にも分からない。

とはいえ、「修善寺の大患」で死を経験して以来、「いかに死と向き合うか」は、漱石の人生の課題でもあったはずだ。

そんな漱石が「則天去私」という境地を理想としたという説には、一定の説得力があるとぼくは思うし、水村美苗『続明暗』を読んでみると、「則天去私」の境地が、なんら不自然なところなく溶け込んでいて、やはり漱石は「則天去私」の境地を描こうとしていたんじゃないかと、ぼくは思っている。

では、漱石の死に際の様子はどんなものだったのだろう。

そのときのエピソードはこうだ。

「熱い! 熱い! 胸に水をかけてくれ! 死ぬと困るから!」

と、取り乱して逝った。

だけど、実はもう1つのエピソードがある。

漱石の死を悟ったのか、四女の愛子が泣き出してしまう。

妻である鏡子は、とっさにそれを注意した。

普段から厳しくて、理不尽で、些細なことで癇癪をおこす漱石のことだ。

こんな場面で泣いているわが子を見れば、きっと厳しく叱責するとでも思ったのだろう。

ところが、漱石は普段とは違う穏やかな調子で、愛子にこう言った

「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」

ぼくは、これが本当だと思っている。

親の身勝手さ、人間のエゴ、世間の悪意、そういうものに傷ついた作家が、その最後の最後に心の平安と優しさの中で死んでいった

そんな救いある最期が、漱石の死であってほしいと思うからだ。

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コメント

  1. 山田 より:

    KENさん、こんにちは
    しばらく前に『アルジャーノンに花束を』の書評ページでコメントやり取りさせていただきました、山田です。
    ご無沙汰しております。

    だいぶ経ちましたが、KENさんおすすめの夏目漱石『それから』を読了しました!

    上の書評でも書かれている通り、終盤の代助の決意と行動に心を打たれましたが、それ以上に結末が……私は何となく悪いほうを想像しまして、かなり胸に刺さっております…

    私自身、社会に出て以降は世間体や家族を意識する余り、半ば自分を騙しながら会社勤めをしている状況なのですが、
    境遇は違えど代助の意思の変遷や苦しみが、我が事のように感じられて心に入り込んできました。

    この本を読んだことで、自分の中でずっとモヤモヤしていた悩みのようなものが、少しずつ言語化されてきている感覚があります。読んで良かったなと思いました。

    今回もKENさんのご紹介で素敵な本に出会うことができました。ありがとうございました。
    三部作の続きの『門』も、これから読んでみます。

    コメント長くなってしまい、失礼いたしました。
    今後ともよろしくお願いいたします。

    • Ken より:

      山田さん、お久しぶりです。

      『それから』を読んだということで、しかも、読んで良かったということで、とても嬉しいです。

      作品のラストシーンは、とても印象的ですよね。
      主人公の代助の目の前が真っ赤に染まる、それを、読み手がどう捉えるか。僕も初めて『それから』を読み終えたとき、山田さんと同様に(?)代助の前途は苦しいものになるだろうと感じました。

      すべてを犠牲にしてでも、自分は自分であろうとする。そのことの責任というか、代償というかは、とてつもなく大きい。きっと、それを「真っ赤な景色」が暗示しているのだと思います。

      それでも、そうした責任を負ってでも、自分らしく生きる代助の姿を僕は美しいと思いました。これは個人的なことですが、僕自身、幼い頃から両親に家業を継ぐよう言われて育ち、ずっと家族との関係で悩んできました。自分の理想を取るか、両親の願いをとるか、そうした葛藤で悩み生きてきた僕にとって、代助の決断に胸が熱くなったのです。

      山田さんも辛いですね。
      だけど、『それから』という作品が、山田さんの苦悩に何か意味を与えてくれたとしたら、それはとても尊いことです。そして、そうした縁を僕のブログがもたらしたのだとすれば、大袈裟ではなく、僕の苦悩にも意味はあったのかな、と思えます。

      ぜひ、続編の『門』も読んで見てください。これもなかなか、胸に刺さりますよ。僕は『門』を読み終えたとき、しばらく他の本が読めなくなりました(笑)

      では、またブログに遊びに来てください。そして、気軽にコメントをしてくれると嬉しいです。

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