坪内逍遥『小説神髄』の文学論を解説―写実主義・日本文学とは何か―

作家
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はじめに「日本文学のパイオニア」
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日本文学の代表作家は?

こんな質問に対して、誰の名前をあげるだろう。

夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫・・・・・・

多くの人が、これら文豪の名をあげるのではないだろうか。

では、

日本文学のパイオニアは?

この質問に対して、誰の名前をあげるだろう。

おそらく、よほど「日本文学」に興味関心がある人でない限り、この質問に答えることはできないと思う。

答えは、坪内逍遥、だ。

彼によって日本の「文学」は始まったワケだが、それは明治時代初頭のことだった。

いまでこそ「文学」は人々の趣味や娯楽になり、生活の一部としてとけこんでいる。

だけど、その歴史というのは、実は驚くほどに浅いのだ。

この記事では、

「日本文学」はいかにして日本で生まれたのか

これについて解説をしたい。

その中で、

  • そもそも「文学」とは何か
  • 「日本文学」はどのように生まれたか
  • 坪内逍遥の「写実主義」とは
  • 森鷗外との「没理想論争」とは

これらについても説明をしていく。

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そもそも「文学」って何?

さて、ここまで読んでくれたあなたは、こんな疑問を持ったかも知れない。

――いやいや、平安時代に『源氏物語』っていう立派な物語があったじゃん

こう思ったあなたは鋭い。

たしかに「物語」と呼ばれるものは古くから存在した。

現存する、日本で一番古い物語は『竹取物語』であり、奈良時代にはすでに書かれていたとも言われている。

じゃあ、『竹取物語』や『源氏物語』は「文学」じゃないの?

その質問に答えれば、

厳密に言えば「文学」ではない

ということになる。

なぜなら、「文学」とは、英語の「Literature」を翻訳した概念だからだ。

つまり「文学」というのはそもそも西欧から輸入したものであり、奈良時代から江戸時代には全くなかった概念なのだ。

だから「日本文学史」的にいえば、『竹取物語』や『源氏物語』なんかはあくまでも「物語」であり、江戸時代に活躍した滝沢馬琴とか井原西鶴に書かれたものなんかも「戯作小説」であり、それらはあくまで「文学以前」の書き物ということになる。

「文学」というのは、狭義には「近代文学」を指しているのだ。

( ということで、以下、記事に登場する「文学」=「近代文学」と思って欲しい )

では日本の「文学」とは、一体いつからいつまでに書かれた作品を言うのか。

これには諸説があって一概に言えないのだが、

「明治時代から戦後まもなく」

こう認識して差し支えない。

明治時代に西洋から「文学」が輸入されて以来、多くの作家たちが「文学とはなにか」を模索し続け、多くの作家がさまざまな議論を展開してきた。

そのムーヴメントは 明治 ~ 昭和 にかけて広がっていったワケだが、それが「戦後」になると次第に勢いを失っていく。

なぜなら、この頃になると「文学」が人々にとって自明のものとして定着し、「文学とはなにか?」を改めて問う必要がなくなったからだ。

ここまでをまとめるとこうなる。

文学とは
=西洋の「Literature」を翻訳した概念。
=主に「明治から戦後まで」に書かれた小説の類。
※江戸時代以前に書かれたものは、狭義の「文学」ではない。

 

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「日本近代文学」の夜明け前

日本で「文学」が生まれたのは明治18年といわれている。

これは坪内逍遙が『小説神髄』という文学論を発表した年にあたるのだが、これについては後述する。

ここでは その直前、つまり「文学以前」の明治おいて どんな文章が書かれていたかを紹介しよう。

結論を言えば、次の4パターンだ。

  • 戯作小説
  • 啓蒙的評論
  • 政治小説
  • 翻訳小説

戯作小説

「戯作小説」とは、江戸時代からの流れを大きく汲むもので、特に「滝沢馬琴」や「井原西鶴」などの作品にインスパイアされた小説を指す。

有名どころだと「仮名垣魯文」という作家がいるが、現代における認知度は低い。

それもそのはず。

残念ながら彼の作品は完成度が低く、現代においても「文学的な価値」は認められていない。

代表作品には『安愚楽鍋』があるのだが、その内容は、

文明開化や新しい風俗を、ダジャレを交えながら延々と茶化す

というものだ。

登場人物たちは「牛鍋」(すきやきの類い)をつつきながら、「あぐら」をかいて、西欧から流れ込んできた「文明」について談笑をする。

そこには「切実さ」というものがなく、あるのは「おふざけ」だけ。

この「おふざけ」を「戯作調」といい、そういう調子の小説を「戯作小説」と呼ぶ。

もちろん、当時の文化や人々の価値観なんかを知る上でとても興味深いし、史料としてはとても価値ある作品だのだが、残念ながら、後述する「文学性」というものに関しては皆無だと言っていい。

「文学」とは「笑い」だけではダメで、「人間」や「社会」に対する真面目な姿勢がなければならないのだ。

啓蒙的評論

明治時代には「啓蒙的評論」が生まれた。

その代表的作家が、ご存知、福沢諭吉である。

『学問ノススメ』をはじめとして、彼の作品には「自由や平等」が説かれている。

天は人の上に人を造らず

これはあまりにも有名な言葉だが、ここには「これからの日本は自由で平等を重んじなければならない」という彼の理念が表れている。

それは裏を返せば「今までの日本は不自由で不平等だった」ということになる。

江戸時代の日本では、

「武士の子どもは武士!」

「農民の子どもは農民!」

といった具合に、人間の一生というのは、その生まれによって決定づけられていた。

福沢諭吉は、そんな封建社会からの脱却をめざし、

「たとえどんな家に生まれたとしても、学問に励めばあなたは何者にでもなれるんだよ」

と、明治の日本人に「自由と平等」について熱く説いた。

それはまるで、

「日本人よ、目を覚ませ!」

と訴えかけているようだった。

「啓蒙」とは、まさにこの「目を覚ませ!」という意味を持つ言葉だ。

「啓」=「開く」

「蒙」=「暗い」

「啓蒙」=「自由や平等に暗い封建的な人たちの目を開かせる」

というワケだ。

そして、この「自由・平等」とはまさに西欧諸国で最も大切にされていた価値観だった。

だから『学問ノススメ』をはじめとした啓蒙的評論には、

古い日本の価値観を捨てて、すみやかに西欧化しようね

というメッセージがあるのだ。

このような啓蒙的評論活動を行ったのは、福沢諭吉だけではない。

他にも哲学者の西周や、思想家の中村正直、キリスト者の内村鑑三といった連中がいる。

彼らもまた日本人に「自由・平等・博愛」といった西欧の価値観、すなわち「個人主義」を強く説いた。

とはいえ、彼らの書いた物はあくまで「思想書」とか、今でいう「啓発書」といった類いのもので、「文学」と呼べるものではなかった。

 

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政治小説

「啓蒙的評論」から分かるように、明治の知識人たちは自分の意見を「文章」によって人々に伝えた。

いうまでもなく、明治時代にはラジオもなければテレビもない。

そんな中で人々の意識を変えるためには、新聞などの「文字」を媒体にするのが最も効果的だった。

ただ、新聞と言ったって、明治にはまだ今みたいに大きな新聞社はない。

だから、こんな風に考える者があらわれる。

「だったら、小説の中で自分の考えを書けばいいんじゃない?」

それが矢野龍渓という男だった。

彼は『経国美談』という小説を書き、その中に彼の理想をふんだんに盛り込んだ。

「経国」とは「国家の経営」のこと。

「美談」とは「理想論」のこと。

つまりこの作品は

「僕は こんな国家が理想的だと思います」

という彼の政治的思想を物語にしたもので、あわよくば、自分の理想的国家を実現したいと彼は考えていた。

その思惑の通り、矢野龍渓は国会議員に当選、政治家としての道を歩むことになる。

明治時代には、こうした「政治小説」を書く人々が現れたのだが、ただ彼らにとって「小説」とは、あくまで「政治的手段」だったわけだ。

ということで、彼らの作品もまだまだ「文学」と呼ぶことはできない。

翻訳小説

明治時代は「日本の近代化」の時代と言われている。

「近代化」とは、有り体にいえば「西欧化」、ということで、明治時代には沢山の「西欧文化」が流入してきた。

そこには先にみた「自由・平等・博愛」といった「個人主義」だけでなく、「キリスト教」やそれにまつわる「倫理観」や「道徳観」なんかもあった。

そしてついに『Literature』(文学)が日本に入ってくることになる。

ただ、明治の日本には「Literature」という概念などない

あったのは、江戸時代の「戯作」とか「俳句」とか、平安時代の「和歌」とか「物語」とか。

だから、明治の日本人は「Literature」を自分たちの文化に受け入れるため、「文学」という訳語を与えた。

が、その「文学」を観賞できるのは外国語に長けた知識人たちだけ。

そこで「世間の人たちにも“文学”を届けよう」と考えた連中が「翻訳小説」を書き始める。

デフォーの『ロビンソー漂流記』や、ヴェルヌの『八十日間世界一周』など、彼らはイギリスやフランスの「文学」を主に翻訳した。

その西欧の「文学」には、次のような特徴があった。

  • 「人間心理」に対する複雑な解釈
  • 「社会」に対する鋭い分析
  • 「現実」に対する細かい観察

それらは、従来の日本の小説には見られないものだった。

戯作小説や、啓蒙的評論文や、政治小説などには見られなかったもの・・・・・・

それがいわゆる「文学性」だった。

翻訳小説の登場により、明治の日本人は西洋の「文学」に触れ、その「文学性」をどんどん摂取していった。

さて、こうして「文学」の読み手はどんどん増えていったわけで、そうなると、あとは書き手の登場を待つばかり。

そして明治18年(1885年)、その書き手第一号が登場することになる。

それが坪内逍遙だった。

 

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「坪内逍遥」の人生

略年表

まずは簡単に坪内逍遙の人生を年表で示したい。

1859年(0歳)
…現・岐阜県に生まれる

1876年(17歳)
…東京開成学校(東大の前身)に入学

1877年(18歳)
…東京開成学校は東京大学に改編される

1883年(24歳)
…東京大学文学部政治科を卒業
・・・東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。

1885年(26歳)
…文学論『小説神髄』小説『当世書生気質』

1886年(27歳)
…加藤センと結婚
二葉亭四迷と出会う

1891年(32歳)
…森鷗外と「没理想論争」を展開

1894年(35歳)
…戯曲『桐一葉』

1896年(37歳)
…戯曲『牧の方』

1906年(47歳)
…島村抱月と『文芸協会』を設立

1928年(69歳)
…『シェイクスピア全集』を完訳

1935年(76歳)
…気管支カタルにより死去

逍遥と「文学」との出会い

美濃(現・岐阜県)に生まれた坪内逍遙。

父は侍、母は商家の娘。

ということで、彼は裕福な家庭で育った。

父からは、侍特有の「儒学」的な教養を学んだ。

また、母は大の芝居好きで、逍遙は母にくっついて芝居や歌舞伎を見に行ったという。

江戸時代の戯作や草双紙の類いに親しんだのも母からの影響で、幼少期に読んだ本は千冊以上に及ぶという。

江戸時代に書かれた作品のことごとくを読み尽くしたという逍遙、そんな彼が心から尊敬したのが「滝沢馬琴」だった。

逍遙は17歳の年に奨学金を受け、東京開成学校(東京大学の前身)に入学することになる。

このとき彼は、馬琴のいる東京へ行くことにとても興奮し、馬琴に会う夢を何度も何度も見たと言われている。

ところが、東京に来た逍遙の関心は馬琴などの「戯作小説」ではなく、「西欧文学」へと次第に移っていく

その大きなきっかけとなったのは、大学在学中の試験だった。

「ハムレットの登場人物の心理を分析せよ」

この問いに答えるため、逍遙は連日のように図書館へ通い詰め、西洋の文学論を読みあさり、次第に西欧文学の奥深さに魅せられていった。

こうしてシェイクスピアをきっかけに、西欧文学にのめり込んでいった逍遙は、やがて日本に本格的な「文学」を紹介しようという気持ちを強めていく。

そして明治18年(1885年)に『小説神髄』という文学論を発表。

そこには、

  • 「文学とは何か」
  • 「文学とはどうあるべきか」
  • 「どうすれば西欧文学を越えられるか」

などが書かれている。

逍遙はこの『小説神髄』を、これからの作家に対する指標にしようと考えていたらしい。

では、逍遙の「文学論」とは、具体的にどのようなものだったのか。

逍遙にとって「文学」とは、どうあるべきだったのか。

その答えは「写実主義」という彼の文学的立場を知ることで見えてくる。

 

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「写実主義」とは

『小説神髄』(文学論)

明治18年に発表された『小説神髄』という文学論。

これが「日本文学」の出発点とされている。

ここには「文学とはかくあるべき」といったことが書かれているのだが、その最も有名な一節がこの一文だ。

小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ

ここで彼は

「小説にはまず人情(人間の感情)を書こう、次に世間や風俗(社会の実態)を書こう」

といっているわけだ。

いや、それ、当たり前!」

と、ツッコミたくなるだろうが、ちょっと待って欲しい。

実は、江戸時代の文学というのは良くも悪くも薄っぺらく、人間の「ありのままの心情」とか社会の「ありのままの姿」とかを描いたものはなかった。

たとえば、逍遙が心酔した滝沢馬琴の代表作『南総里見八犬伝』の主題は「主君の敵討ち」である。

江戸時代の封建的な道徳観では、この「主君の敵討ち」は「善い」行いだった。

ここには儒教の「忠」(主君に忠実であれ)とか「孝」(目上の人を敬え)とかの影響があるわけだが、こんな風に江戸時代の「善悪観」というのは良くも悪くもはっきりしていた。

すると、小説もとてもシンプルではっきりしたものばかりが書かれるようになる。

その特徴を一言でいえば「勧善懲悪」ということになる。

悪いやつが懲らしめられてめでたしめでたし、といった「時代劇」によくあるアレだ。

きっとあなたも時代劇を見て、

「いや、そんなにうまくいかないだろ」

「人間なんて、そんなシンプルじゃないでしょ」

とか、

とか思ったことがあると思う。

坪内逍遙の批判も、まさにそれだった。

「これまでの小説は出来すぎで、だれも感情移入できっこない!」

「もっと人間のリアルを、ありのままの姿を書かなきゃだめだ!」

彼はその「ありのまま」を書いた小説を「模写小説」(リアリスティック・ノベル)と呼び、馬琴のような「勧懲小説」と区別した。

つまり、彼はかつて心服した滝沢馬琴の「勧善懲悪」を批判的に乗り越えようとしたわけだ。

ここでひるがえって、僕たちに馴染みのある「現代文学」を眺めてみる。

すると、作品の多くが、この「人間のリアル」を徹底して追求しているように思われる。

芥川賞受賞作品なんかを読むと、「人間の心理」を鋭く描いたものが多いのだが、それは とりもなおさず、現代作家が文学を通じて「人間のリアル」に迫ろうとしているからに他ならない。

その起源は、まさに坪内逍遙までさかのぼることができるというわけだ。

なるほど、「小説の理念」については分かった。

では、逍遙の提唱する「小説の方法論」とはどういったものだったのか。

それは、

「とにかく、主観を捨てろ」

というものだった。

「人間ってこうだったらいいな」

「社会ってこうだったらいいな」

そういう「理想」とか「きれい事」は一切捨てて、「ありのまま」のリアルを徹底して模写する。

以上のような彼の立場は「写実主義」と呼ばれている。

『当世書気質』(小説)

主観を捨てよう

と、明治の作家たちに「写実主義」をとなえた坪内逍遙。

ただそう言われた作家たちとしては、

いや、写実写実って、具体的にどうすんの?

って話だろう。

あたりまえだけど、その当時は「写実主義」を実践した先行作品など存在していない。

これが「写実主義」のお手本だよ という作品がないワケだ。

だからこそ、逍遙はそのお手本を自らの手で書いたのだった。

それが『当世書生気質』である。

これは題名の通り、当時の学生のリアルな姿を描こうとしたものだ。

学生と芸妓との恋愛を中心に、吉原の遊郭、牛鍋屋、温泉など東京の風景が書き込まれている。

まさにそれらは、彼が重んじた「人情」と「風俗」であり、この作品は「写実主義」の提唱者による具体的な実践だった。

ちなみに、この記事でもすでに仮名垣魯文の戯作小説『安愚楽鍋』を紹介したが、『安愚楽鍋』はダジャレを交えて日本人の「人情」と「風俗」を描いたものだった。

『当世書生気質』はそこから一切の「笑い」を排除したような作品だと思えってもらえればいい。

学生たちの生活が忠実に描写されていて、「写実主義」を意識した箇所も散見される。

が、残念ながら「写実主義」の作品化は不十分だったといわれている。

学生と芸妓との恋愛になんやかんやの困難はあったものの、現実的にありえない偶然が連続して、最後は「めでたしめでたし」のハッピーエンドで幕。

結局のところ『当世書生気質』は「ご都合主義」的な作品だった。

――え、さんざん「きれいごと」を否定しておいて、どういうこと?

と、思うかもしれない。

だけど、新しい道を開拓するというのはそれだけ難しいということなのだろう。

結局、逍遙が「写実主義」を完成させることはできなかった。

とはいえ、彼による「理論」の提唱とその実践は、以後の作家達に大きな影響を与えていく。

そしてついに「写実主義」を完成させる男が現れる。

それが逍遙の弟子、二葉亭四迷だった。

(詳しくはこちら二葉亭四迷・言文一致運動をわかりやすく解説―写実主義を完成させた男―

 

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「没理想論争」とは

さて、坪内逍遙が「写実主義」の理論と実践を示したことで、文学の主流は徐々に「写実主義」となりつつあった。

だがそこに「ちょっと待った!」をかけた男がいた。

それがあの『舞姫』などで有名な、森鷗外だった。

この頃の鷗外は、文学史的に「ロマン主義」の作家と位置づけられている。

ロマン主義とは簡単にいえば、

「文学で人間や社会の理想を実現しよう」

というものだ。

(森鷗外やロマン主義については、こちらの記事を参照【 天才「森鷗外」のまとめ―人物と人生の解説・代表作の紹介― 】

思い返してみれば、「写実主義」は江戸時代の「勧善懲悪」を否定するところから出発した立場だった。

だから「理想」なんて二の次、三の次。

大事なのはあくまで人情や風俗の「ありのまま」だった。

そんな「写実主義」に対して鷗外はこう言ったのだ。

「『ありのまま』だなんて、そんなもん文学じゃねえ」

作者の理想がない作品なんてありえない、と言わんばかりに、鷗外は逍遙の主張に対して、

「イデー(理想)がない。イデー(理想)がない」

と、批判を繰り返した。

これが逍遙と鷗外の有名な「没理想論争」(おまえの作品にイデーはない論争)である。

二人の立場を整理するとこうなる。

逍遙…「作者の理想を排してありのままを描くべき」
鷗外…「作者の理想こそ きちんと描くべき」

こんな感じで、明らかに両者は真っ向から対立しているのだが、この論争、実は決着がついていない。

というのも、しつこい鷗外に対して、逍遙が反論をやめてしまったからだ。

まぁ実際のところは、逍遙の根負けといってもいい。

ただ、この論争で明るみになったものがあるとすれば、それは、

「写実主義」の欠点

だったといえるかもしれない。

要するに「写実主義」とは「ありのまま」に執着するあまり、「理想」とか「情熱」といったものを軽視するわけだ。

それはある意味で無味乾燥とした「つまらない」作品ということにもなりかねないし、そういう作品が人々の胸を打つことも決してない。

だから、この後「写実主義」を乗り越えようとする文学的立場が登場してくる。

それが

  • 「擬古典主義」(かつての理想を取り戻せ主義)
  • 『ロマン主義』(個人の理想を追い求めろ主義)

といったものだ。

こうして明治の文学シーンに、次々と新しい文学が登場していくことになる。

おわりに「日本最古の”文学”」

以上、坪内逍遙の掲げた「写実主義」を取り上げつつ、「そもそも文学とは何か」について解説をした。

狭義の意味での「文学」とは、西欧の「Literature」の訳語であり、それは江戸時代以前の日本には存在しない概念だった。

だから厳密に言って、「文学」というものが日本で誕生したのは明治時代ということになる。

さて、ここからは余談になる。

実は、すでに平安時代から「これってもはや『文学』だよね」といえる作品が存在した

それが、日本が世界に誇る超大作『源氏物語』である。

あの作品は、まさに坪内逍遙が重んじた「人間心理」とか「(貴族)社会の風俗」とかが緻密に描かれているし、ストーリーやプロットをとってみても西欧のどんな文学にも引けを取らない。

とくに、源氏の子孫達の姿を描いた第三部「宇治十帖」は圧巻で、多くの評論家から

「これはもはや近代文学だ」

と評されているほど。

それくらいに『源氏物語』は本格的な「文学」といえるのだ。

この物語には、運命と愛執に捕らわれ苦悩する生身の「人間」が確かな輪郭とリアリティをもって描かれていて、それでいて読むものの心を強く打つ熱量がある。

「文学」の歴史は確かに明治時代からなのだが、平安時代の頃すでに『源氏物語』という本格的な「近代小説」的な作品が書かれていたわけだ。

『源氏物語』が西欧諸国で評価されるのも「さもありなん」なのだ。

以上、坪内逍遥に関する記事は終わりです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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