解説【第一次戦後派文学 と 第二次戦後派文学】―両者の違いと特徴を分かりやすく―

作家
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はじめに「新たな文学の登場」

戦後、多くの日本人が虚脱と無力感を抱いていた。

そんな中、現れたのが「無頼派」と呼ばれる新進作家たちだった。

太宰治、坂口安吾、織田作之助……

彼らによって、これまでにない全く新しい文学が登場し、日本の文壇に新しい風が拭きさした。【 参考記事 解説「無頼派とは何か・新戯作派との違い」を分かりやすく

だけど、戦後の文学は、彼らだけでは語りつくせるものではない。

無頼派の登場とほぼ同時に現れた、巨大な一群があったのである。

それが「戦後派」と呼ばれる一群である。

この記事では、そんな戦後派について徹底的に解説をしたい。

内容は大きく3つ。

  • 戦後派の定義とは何か
  • 第一次と第二次の違いは何か
  • 代表作家と作品は何か

である。

日本文学が好きな人も、日本文学を学びたい人も、きっと満足できる内容となっているので、

ぜひ参考にしていただきたい。

また、記事の最後に、日本文学を学ぶためのオススメ本や、便利なサービスも紹介しているので、こちらも参考にしていただきたい。

それでは、お時間のある方は、最後までお付き合いください。

 

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「戦後派」とは何か

「戦後派」を分かりやすく定義

まずは単刀直入に「戦後派」の定義について示したい。

【 戦後派とは 】

・太平洋戦争後に現れた作家たちのうち、独自の発想や方法によって「既成の文学」を乗り越えようとした一群

・“政治的手段”としての文学を否定し、文学の「自律性」や「主体性」を目指す

・多くの作家は、自身の過酷な戦争体験を語りつつ、「人間とは何か」といった根源的・哲学的な問いを深めていく。

・主な作家に 野間宏、武田泰淳、埴谷雄高、梅崎春生、椎名麟三、花田清輝、加藤周一、中村真一郎、福永武彦、大岡昇平、島尾敏雄、三島由紀夫、安部公房 などがいる。

以上が「戦後派」のシンプルな定義なのだが、こうしてみても、戦後派としてくくられる作家たちが非常に多いことが分かる。

だから、これらの作家たちを大きく2つに分ける見方が生まれた。

それが「第一次戦後派」「第二次戦後派」といった分け方である。

第一次戦後派と第二次戦後派の違い

では、この両者の違いは一体何なのだろう。

両者の特徴は次のようにまとめることができる。

【 第一次戦後派とは 】

・戦後派のうち、1946年~1947年に登場した作家たちを指す。

・主な作家に 野間宏、武田泰淳、埴谷雄高、梅崎春生、椎名麟三、花田清輝、加藤周一、中村真一郎、福永武彦 などがいる。

【 第二次戦後派とは 】

・戦後派のうち、1948年~1949年に登場した作家たちを指す。

・主な作家に、大岡昇平、島尾敏雄、三島由紀夫、安部公房 などがいる。

第一次戦後派と第二次戦後派のもっとも明確な違いは「登場した時期」ということができる。

とはいえ、その作風だったり、理念・思想だったりにもそれなりの違いはある。

そうしたことを含めて、以下では「戦後派」(第一次戦後派、第二次戦後派)についてもっと詳しく説明をしていきたい。

 

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「戦後派」をもっと詳しく

『近代文学』の創刊

そもそも「戦後派」は、ある一冊の文芸雑誌から始まった。

それが『近代文学』である。

『近代文学』が創刊されたのは1946年のこと。

創刊当初の同人は 埴谷雄高、荒正人、平野謙、本多秋五、山室静、佐々木基一、小田切秀雄の合計7人。

彼らはみな30代という年齢で共通していたが、それは同人の条件に“30代であること”という項目があったからだ。

この頃の30代というのは、ちょうど太平洋戦争を経験し、人間的・思想的な挫折を経験してきた世代である。

そうした挫折を乗り越えるために『近代文学』は創刊されたのだった。

『近代文学』の理念として、主に次のようなものが掲げられた。

【 雑誌『近代文学』の理念 】

・芸術至上主義

・人間尊重主義

・政治的党派からの自由

・文学亭真実の追求

・功利主義の排斥

要するに『近代文学』が求めたのは、「金儲けや政治に利用されない、自律的な文学の追求」であり、そうした文学を通じて「人間の主体性の回復」を希求していたのだと言える。

そのために『近代文学』の同人たちが真っ先に取り組んだこと、それが「評論活動」だった。

以外に思うかもしれないが、戦後派のスタートは「評論」だったのである。

実際に、先に挙げた7人のうち、小説家は埴谷雄高ただ一人。

その他の6人はみな文芸評論家で、皆がそれぞれ「自立で主体的な文学」について論じている。

もっとも有名なのは荒正人で、彼は左翼文学者「中野重治」と「政治と文学論争」を巻き起こしている。

「文学は政治的手段だ!」

と主張する中野重治に対して、

「文学は手段じゃねえ、芸術であり目的だ!」

と荒正人は反論したのである。

こんな風に、『近代文学』の同人たちは、まずは「文学とは何か」といったことを評論を通して問い直し、自らの理念や思想的な基盤を固めていったのだった。

こんな風に、彼ら評論家こそ「戦後派」の生みの親であり、れっきとした「戦後派」なのだが、いかんせん彼らは小説を書いてはいない。

ということで、一般的に「戦後派」というとき、彼らが提唱した理念や思想を作品に落とし込んだ作家たちを指すのであり、『近代文学』の評論家を指すことはあまりない。

(……が、文芸評論だって立派な文学なのであり、彼ら評論家も正真正銘の戦後派である。)

 

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「同人拡大」の動き

『近代文学』が創刊して1年がたった1947年ころ、同人拡大の動きが顕著になる。

たとえば、福永武彦・加藤周一・中村真一郎といった「マチネ・ポエティック」の中心的3人が加えられた。(なお、マチネ・ポエティックとは「西洋的手法”で詩を書こう」という戦時中に起こった運動のことである)

彼ら3人もまた『1946 文学的考察』といった共著の中で「文学の理念」や「主体的な文学」について論じている。

それ以外にも 久保田正文、花田清輝、平田次三郎、大西巨人、野間宏といった同人を獲得していき、『近代文学』は最盛を迎えることとなる。

第一次戦後派の特徴

そして、いよいよ『近代文学』の理念を文学に落とし込んだ作家たちが登場する。

1946年~1947年に現れた作家を、一般的に「第一次戦後派」と呼ぶが、その代表作家は以下の通り。

【 第一次戦後派の作家たち 】

・野間宏(代表作『真空地帯』)

・武田泰淳(代表作『ひかりごけ』)

・埴谷雄高(代表作『死霊』)

・梅崎春生(代表作『桜島』)

・椎名麟三(代表作『深夜の酒宴』)

彼らに共通しているのは、自らの過酷な戦争体験を積極的に作品化していることだ。

…と、こう聞くと、

「じゃあ、結局、私小説ってこと? これまでの日本文学と全然変わらないじゃん」

と思う人もいるかもしれない。

たしかに、彼らの作品は、自らの戦争体験をモチーフにしている点で「私小説的」であるといえる。

ただ、第一次戦後派の作品群は、これまでの伝統的な私小説とは明らかに一線を画している

というのも、彼らが小説で書いたのは、自らの体験を通して浮かび上がってきた「人間の真実の姿」だからである。

いうまでもなく、戦争というのは「人間の本当の姿」をあぶりだすような“極限状況”を生み出すものである。

人間の弱さ、人間の汚さ、人間の醜さ、人間の不可解さ、人間の美しさ、人間のはかなさ……

そういった人間のさまざまな側面を暴いて見せるのが、戦争だといっていい。

第一次戦後派の作家たちは、自分たちの戦争体験を描きつつ、そうした「人間への問い」に立ち向かおうとした作家たちであり、彼らの根っこには「人間とは何か」といった哲学的・根源的問いがあるといっていい。

それは、自分たちの(ある種、平和な)日常をもとに書いた“身辺雑記”のような呑気な私小説とは、その切実さと普遍性において、まったく異なるといっていい。

戦後派の作家たちには、「戦争を書かざるを得ない」という内的な衝動と実存的な必然性とがある。

そして、そんな彼らによって書かれた作品には、僕たちの日常からは決して感知できない「人間の不可解さ」や「不気味さ」が潜んでいる。

まさに「戦後派文学」の最大の魅力はそこにある。

 

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第二次戦後派の特徴

1948年~1949年に現れた作家を、一般的に「第二次戦後派」と呼ぶが、その代表作家は以下の通り。

【 第二次戦後派の作家たち 】

・大岡昇平(代表作『俘虜記』)

・三島由紀夫(代表作『仮面の告白』)

・阿部公房(代表作『壁』)

・島尾敏雄(代表作『出発は遂に訪れず』)

・堀田善衛(代表作『ゴヤ』)

・井上光晴(代表作『ガダルカナル戦詩集』)

彼らに共通しているのは、「登場が第一次戦後派よりも遅めだったこと」である。

世代を見ると、第一次戦後派の面々が「30代」だったのに対して、第二次戦後派の多くは「20代」と、若い作家たちばかりである。(とはいえ大岡昇平は30代後半だけど…)

つまり、第二次戦後派の多くは、第一次戦後派の連中に「発掘」された若者たちだったのだ。

たとえば、三島由紀夫や阿部公房といった、いまや“超”が付くほどの世界的文豪は、『近代文学』の埴谷雄高らに発掘された作家である。

しかも、彼らは、第一次戦後派の連中とは違って、過酷な戦争体験をほとんどしてはいない。

したがって、第一次戦後派のように、自らの体験を語ることもほとんどない。

実際に、三島由紀夫は頭の中で作り上げたような観念的な作風が特徴的だし、阿部公房にいたっては「シュールレアリスム」と言われる、現実世界からぶっ飛んだような作風が特徴だ。

このあたりも、第二次戦後派の特徴だといえるだろう。

ただ、その一方で、大岡昇平は『俘虜記』で「捕虜になった体験」をガッツリ書いているし、島尾敏雄は『出発は遂に訪れず』で「特攻隊になった体験」をガッツリ書いている。

そう考えると、必ずしも「戦争を書かないこと」が第二次戦後派の特徴だとはいえず、第一次と第二次の線引きを「戦争の有無」でもってすることもできない。

ということで、結局は「文壇に登場した時期」を両者の線引きとするのが適当なのだと思う。

 

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「戦後派」という名の由来

「戦後派」の名前の由来となったのは、マチネ・ポエティックの中核であり第一次戦後派の1人、中村真一郎が使った「アプレゲール」にあると言われている。

アプレゲールとは、「戦後派」を意味するフランス語であるが、古い道徳や習慣といった「既存の枠組み」にとらわれない新しい芸術・文学を志向した若者たちという意味合いを含んでいる。

『近代文学』の評論家や作家たちは、まさにこの「アプレゲール」と同根の存在だった。

実際に、中村が「アプレゲール」という言葉を使ったのは、第一次戦後派の1人 野間宏に対してである。

こうして「戦後派」という言葉は文壇に定着し、「戦後派でなければ、文学ではない」と言われるほどの強い影響力をもった一大ムーブメントになっていった。

が、残念ながら、戦争の気配は時代とともにナリを潜めていき、「第三の新人」や「内向の世代」などの登場もあって、しだいに戦後派は勢いを失っていく。

そして、1964年に『近代文学』は、約20年に渡る歴史に幕を閉じた

 

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第一次戦後派の作品

ここからは、第一次戦後派のオススメ作品について紹介したい。

すでに解説をした通り、第一次戦後派の多くの作品が、自らの過酷な戦争体験を語ったものであり、そこには「人間とは何か」といった哲学的な問いが底流している。

ここで紹介する作品も「戦後派文学とは何か」を知るうえで重要なだけでなく、文学としての魅力も十分備えている作品ばかりなので、ぜひ、参考にしていただきたい。

野間宏『真空地帯』

戦後派作家の代表格「野間宏」は人間のエゴイズムや性欲を直視した作家だった。

そんな野間宏の代表作にして傑作で、出版当時「最高の現代小説」と高い評価を得た。

本作は、野間自身の体験をもとにしたもので、軍隊の「非人間性」や「エゴイズム」が重厚で緊張感のある文体で描かれており、スリリングな作品となっている。

とりあえず、戦後派文学を読んでみたい。

そう思う読者にオススメの1冊

梅崎春夫『桜島』

戦後派作品の中でも、個人的にお気に入りの一冊。

戦場という極限状況の中で、人間はいかにして「死」を受け入れられるのか

自らの戦争体験を土台に、諦念、動揺、頽廃、自棄などの人間の精神状態を美しい景色とともに描く。

梅崎の場合は写実性にこだわらず、あえて多くの虚構を加えている。

そのため、物語は劇的で戦争の滑稽さや悲惨さが強調されている。

非常に読みやすく大衆受けする作品だと思う。

武田泰淳『ひかりごけ』

武田泰淳も過酷な戦争体験をした作家の一人。

彼は、中国へ出兵した際、殺されていく中国人を目の当たりにし、深い罪意識を蓄えていった。

そうした罪意識は、自らの「エゴイズム」への自覚へとつながっていく。

本作『ひかりごけ』は、いわゆるカニバリズム(人食)をテーマにした問題作だ。

舞台こそ「戦争」ではないものの、ここで描かれているのは、間違いなく彼の戦争体験が色濃く投影されているといっていい。

戦後派作家の作品の中では、ずば抜けてセンセーショナルな作品なので、刺激が欲しい人にはオススメの1冊。

椎名鱗三『深夜の酒宴』

戦後派の中では、やや異質。

キリスト教や実存主義哲学をバックボーンに持つのが、この椎名鱗三だ。

生と死、神と哲学、そうしたモチーフを扱う彼の作品は、「戦後のドストエフスキー」という異名を彼に与えた。

代表作『深夜の酒宴』も、彼の実存的、哲学的洞察が光る。

  • 瀕死の喘息患者
  • 栄養失調の少年
  • 売春婦

そうした日陰者の救いのない生態を虚無的な乾いた文体で描いている。

「人間の悲しみ」とは何か「人間の救い」とは何か。

こうした切実なテーマを持つ椎名文学は、誰の心にも刺さる普遍性を持っている。

個人的に、戦後派作家の中で最も推せる作家。

埴谷雄高『死霊』

戦後派文学を紹介するうえで、やはり無視できないのが、この『死霊』だ。

「戦後派」の母体となった雑誌『近代文学』を創刊したのが埴谷雄高だったが、そんな彼の『死霊』は(超が100回くらいつくほどの)難解で観念的な小説である。

『近代文学』の創刊号に発表されてから、およそ50年の長きにわた埴谷のライフワークとなったものの、彼の死によって未完。

とてつもなく長く、とてつもなく難解で、それなのに 未完 なのである。

どれだけの文学フリークであっても、この『死霊』には、なかなか手を出すことはできないのではないだろうか。

戦後派文学の中で最もぶっ飛んだ作品であり、記念碑的な作品。

「文章と格闘したい」

「難解な思想に触れたい」

「埴谷の頭の中を覗きたい」

そういう人であれば、手に取ってみてもいいと思う。

 

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第二次戦後派の作品

ここからは、第二次戦後派の代表作品について紹介をしたい。

ただし、三島由紀夫や阿部公房は、ノーベル文学賞レベルの“別格”なのだが、いかんせん「戦争」をほとんど語っていない。

そこで、ここでは第二次戦後派の中でも、ガッツリ「戦争」を語っている2人の作家について紹介をしよう。

大岡昇平『俘虜記』

「雰囲気的には第一次に含めてもいいんじゃねえの?」と、文学ファンなら思うだろうが、大岡昇平は第二次戦後派に含まれる。

大岡は第二次の中でも年長で、太平洋戦争をガッツリ経験した世代で、レイテ島で捕虜になっている。

代表作『俘虜記』は、まさにその時の体験をモチーフにしたものだ。

圧巻は、偶然出くわしたアメリカ兵を「なぜ撃たなかったのか」の精緻な分析である。

ここで大岡は、「自分がアメリカ兵を殺さなかった理由」を論理的に言語化している。

「人間愛」

「動物的反応」

「親類に近い感情」

「宗教的要請」

あらゆる言葉を与えていき、彼が最後の最後にたどり着いたのが、

「我が心の良くて殺さぬにあらず」
(訳 別に俺の心が善良だったから殺さなかった訳じゃない)

という親鸞の『歎異抄』の一節だった。

おそらく大岡はあの時、思慮では到達できない、言葉では意識化できない、言わば「命の凄まじさ」に直面したのだと、僕は解釈している。

『俘虜記』は頭脳明晰な大岡ならではの作品だ。

こちらも、戦後派文学の代表作品なので、自信をもってオススメしたい。

島尾敏雄『出発は遂に訪れず』

タイトルからも薄々勘づくと思うが、これは「特攻隊」をモチーフにした作品だ。

ただ、一般的な「特攻隊モノ」(表現が無礼ではあるが)と違うのは、

「主人公は結局、出撃しなかった」

という点だろう。

そして、これは正真正銘、島尾敏雄自身が体験したことなのである。

終戦2日前。

「私」は魚雷特攻の即時待機を命じられ、生と死の狭間に投げ出される。

出撃の命令が出れば死は確実とされる。

そんな中、世界はどのような表情を見せるのか。

そして、人間の精神はいかなる動きを見せるのか。

極限の状況下での人間の姿を描くのが戦争文学だとすれば、島尾敏雄の作品はその最たるものだろう。

島尾敏雄といえば、妻の狂気を描いた『死の棘』が有名だが、『出発は遂に訪れず』もそれに負けていない。

 

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この記事のまとめ

以上、戦後派とは何か、第一次戦後派、第二次戦後派の違いや特徴について解説をしてきた。

最後に、記事のまとめをして締めくくりたい。

【 戦後派とは 】

・太平洋戦争後に現れた作家たちのうち、独自の発想や方法によって「既成の文学」を乗り越えようとした一群

・“政治的手段”としての文学を否定し、文学の「自律性」や「主体性」を目指す

・多くの作家は、自身の過酷な戦争体験を語りつつ、「人間とは何か」といった根源的・哲学的な問いを深めていく。

・主な作家に 野間宏、武田泰淳、埴谷雄高、梅崎春生、椎名麟三、花田清輝、加藤周一、中村真一郎、福永武彦、大岡昇平、島尾敏雄、三島由紀夫、安部公房 などがいる。

【 第一次戦後派とは 】

・戦後派のうち、1946年~1947年に登場した作家たちを指す。

・主な作家に 野間宏、武田泰淳、埴谷雄高、梅崎春生、椎名麟三、花田清輝、加藤周一、中村真一郎、福永武彦 などがいる。

【 第二次戦後派とは 】

・戦後派のうち、1948年~1949年に登場した作家たちを指す。

・主な作家に、大岡昇平、島尾敏雄、三島由紀夫、安部公房 などがいる。

また、記事で紹介した「オススメ作品」についても、興味のある方はぜひ参考にどうぞ。

それでは、「戦後派」の解説記事を終わります。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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