天才「森鷗外」のまとめ―人物と人生の解説・代表作の考察―

作家
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はじめに
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日本の「文豪」は? と聞かれて、多くの人はそう答えるに違いない。

1発目で、

森鷗外!

そう答える人は、おそらくあまりいない。

ただ、日本の文学史的にみれば、森鷗外は「夏目漱石」に並ぶ大文豪であって、2人は「余裕派」とか「高踏派」とか呼ばれるくらいの別格ぶりなのだ。

そして、漱石と鷗外は比較して論じられることも多く、両者はだいたい対照的に語られる。

たぶん、イメージとしてはこんな感じだろう

  • 漱石・・・神経質・暗い・反権威的
  • 鷗外・・・硬派・堅実・権威的

実際、漱石は人間のエゴを目の当たりにし、時代に対して悲観し、神経衰弱と胃潰瘍をこじらせ苦しんだ。

一方の鷗外といえば、若くしてドイツへ留学し、ずんずんと出世して、地位も名誉も手に入れた。

たとえば、漱石が「ジメジメ」しているとすれば、鷗外は「キビキビ」「サバサバ」「ズバズバ」といった感じがする。

だけど、鷗外は そんなにシンプルな人間ではない。

彼には、彼なりの「生きづらさ」があったのだ。

そして、それらは、彼の作品によく表れている。

そこで、この記事では、「森鷗外とはどんな人物だったのか」をメインテーマとして、彼の人生と代表作についてまとめていこうと思う。

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森鷗外の年表

まずは、彼の生涯を年表にまとめる

1862年(0歳)
…島根県に誕生

1872年(10歳)
…一家で上京

1874年(12歳)
…東京医学校予科に入学

1881年(19歳)
東京大学医学部卒業
陸軍軍医になる

1884年(22歳)
ドイツに留学

1888年(26歳)
…ドイツから帰国

1889年(27歳)
…赤松登志子と結婚

1890年(28歳)
『舞姫』
…登志子と離婚

1891年(29歳)
坪内逍遙と「没理想論争」

1892年(30歳)
『即興詩人』

1899年(37歳)
小倉に左遷
文学活動をやめる

1902年(39歳)
…荒木志げと再婚
…東京に帰郷

1907年(45歳)
…陸軍軍医総監に就任
文学活動を再開

1909年(47歳)
『ヰタ・セクスアリス』


1911年(49歳)
『妄想』『雁』

1912年(50歳)
『興津弥五右衛門の遺書』

1915年(53歳)
『山椒大夫』

1916年(54歳)
『高瀬舟』

1919年(57歳)
…帝国美術院 初代院長に就任

1921年(60歳)
肺結核により死去

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幼少~大学卒業(0歳~19歳)

大きな期待と厳しい教育

1862年、石見国(現島根県)に生まれる。

本名は、森林太郎。

父は医師だったが、最下級の武士。

森家の家柄は、決して良いとはいえなかった。

長男の林太郎が生まれたとき、父はこう悔やんだという。。

となりの長州藩(山口県)に生まれていれば、きっとコイツだって出世したのに……

父は、自らの出自にコンプレックスを持っていたのだろう、長男の林太郎に並々ならない期待をかけ、厳しい教育を受けさせた。

挙げ句の果てに、鷗外が10歳になると、一家は故郷を捨てて上京する。

森家の明暗は、幼い「林太郎」に委ねられたワケだ。

後の「エリート」鷗外の誕生には、こうした背景がある。

「家のため」に血の滲む努力をした鷗外。

彼は大人になると、今度は「国家のため」に血の滲む努力をすることとなる。

年齢をサバ読んで東大へ

幼い鷗外は大人たちの期待に応えるように熱心に勉強をし、12歳のころに東京医学校予科(現在の東大医学部)に入学する。

ちなみに、当時の東京医学校への入学資格は「14歳」から。

つまり、彼は2歳も年齢をサバ読んで入学をしてしまったわけだ

同級生たちにくらべれば体が小さいので「ちび」とあだ名されたり、寄宿舎の先輩からは「男色」の対象とされてしまったり……

どれも「神童」ゆえのエピソードである。

そんな鷗外の頭は人一倍 デカかったといわれている。

どれだけデカかったかというと、「帽子屋さん」が彼の頭を見て笑い出してしまうほど。

きっと、その頭の中には、ずっしりと脳みそがつまっていたのだろう。

その頭脳を存分に発揮して、鷗外は東大史上で最年少となる19歳で医学部を卒業した

しかし、彼には、ある不満が残ってしまった。

それは「東大を首席で卒業できなかった」ことだ。

当時、東大を首席で卒業した学生は、無条件で国費留学をすることができた。

若き鷗外はヨーロッパの世界をしりたくて仕方がなかったのだ。

特にドイツは「医学」の最先端である。

エリート意識の強い彼は、なんとかドイツへの留学を果たしたかったのだろう。

「軍部に入れば留学ができる」という条件を聞きつた鷗外。

こうして彼は、陸軍軍医になるのだった。

 

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ドイツ留学時代(22歳~26歳)

細菌学の権威「コッホ」に師事

念願叶って、鷗外がドイツへ留学したのは大学卒業から3年後、22歳のことだった。

当時、西欧で盛んだったのは「細菌学」や「衛生学」だった。

実際、鷗外が研究をしたのも「細菌学」で、彼が師事したのは医学界の巨人「コッホ」

コッホは「結核菌」や「コレラ」を発見したレジェンド級の研究医だった。

ちなみに、鷗外は細菌について熱心に研究するあまり、極度の「潔癖症」になったと言われている

まず、生の食べ物は決して食べない。

口にするのは、加熱処理したものばかり。

1番好きな食べ物は、安全安心の「焼きいも」

しかも、鷗外の潔癖症は、その「風呂嫌い」に通じてもいる。

彼は、自室にたらいを持ち込んで体を洗うのが習慣だった。

しかも、水一滴たりとも床に落とさないほどの神経質っぷり。

ああ、いるいる。 「水アカ」がムリな人……

「水垢に親でも殺されたの?」ってくらい、徹底的に湿気を嫌う人というのは、ぼくの周りにも割といるのだけど、たぶん、鷗外もそういうタイプの人間だったのだ。

「風呂」が嫌いというよりも、カビとアカの温床「浴槽」に我慢できなかったのだと思う。

西欧的な名前へのこだわり

ドイツで鷗外が学んだのは医学だけではなかった。

文学はもちろん、哲学・思想・芸術に親しんだ。

ゲーテやシラーといったドイツの詩人はもとより、カント、ショーペンハウアー、ハルトマンといったドイツの哲学者からの影響も大きく受けた。

現地の知識人らと交流を重ねた鷗外は、新聞紙面上で論争までしている。

鷗外の「論争好き」は、すでにこの頃から顕在だったいうことだろう。

ちなみに、鷗外の本名「林太郎」は、ドイツ語では発音が難しく、なかなか名前を呼んでもらえなかったらしい

それがコンプレックスとなり、彼は子どもたちに「ヨーロッパ風」の名前をつけた

それはこんな感じ。

  • 長男・・・於菟(おと)
  • 長女・・・茉莉(まり)
  • 次女・・・杏奴(あんぬ)
  • 次男・・・不律(ふりつ)
  • 三男・・・類(るい)

どうだろう。

これは当時としてもカナリ奇抜な名前で「元祖キラキラ」なんて言われたりする。

これなら西欧に行っても、きちんと呼んでもらえるぞ

って鷗外は思ったワケで、その辺を解説するとこうなる。

  • 於菟・・・オットー(ドイツ名)
  • 茉莉・・・マリー(ドイツ名)
  • 杏奴・・・アンネ(ドイツ名)
  • 不律・・・フリッツ(ドイツ名)
  • 類・・・ルイ(フランス名)

なお、不律だけが夭折してしまっているが、その他の子ども達の活躍はめざましい。

  • 於菟・・・医学者
  • 茉莉・・・小説家
  • 杏奴・・・随筆家
  • 類・・・小説家

「医学者・文学者」鷗外のDNAは、その子どもたちに確実に受け継がれている。

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「厭世哲学」に共鳴

先ほど紹介したショーペンハウアーハルトマンの哲学は「厭世哲学」と呼ばれている。

分かりやすくいえば、

「こんな世界、無い方がいいよね」

「人間なんて、死んだほうがいいよね」

といった思想が根っこにある哲学だ。

ちなみに、鷗外はのちに『妄想』という作品のなかで、ショーペンハウアーとハルトマンの哲学について共感的に語っている。

彼はドイツ留学中に「厭世哲学」に出会い、そこでシンパシーを感じたワケだ。

さて、ここで多くの人は、すこし違和感を抱くかも知れない。

え? あの堅実な「鷗外」が「厭世哲学」に共感?

確かに、「鷗外」と「死んだ方が良いよね」哲学は、明らかにチグハグだ。

これは一体どういうことだろう。

実は、鷗外の本質は、「硬派」や「堅実」なんかではないのだ

たしかに、傍から見た鷗外は「硬派」で「堅実」だったかもしれない。

ただ、鷗外の内面には間違いなく厭世的な「暗部」があって、彼は努めてそれらを周囲に見せないように生きてきたのだ

幼い頃から家の期待を一身に背負い、それに応えようと熱心に勉強をし、東大の医学部を最年少で卒業し、ドイツ留学までした鷗外。

だけど、その実、彼の胸には「厭世哲学」に共鳴する「苦しみ」や「悲しみ」があった

傍からは、順風満帆なエリートに見えてしまったのは、それだけ彼が「自分の本心」を押し殺して生きてきたからなのだ。

「理想」と「現実」の衝突。

鷗外の人生で初めてそれが表面化したとすれば、ある「ドイツ人女性」との恋愛だった。

ドイツ人女性との恋愛

代表作『舞姫』には、ドイツ留学時代に出会った女性「エリス」との顛末が描かれている。

そして、「エリス」とのあれこれは、鷗外の体験をもとに描かれたものなのだ。

その辺りを改めて説明してみよう。

鷗外はドイツ留学時代に、1人のドイツ人女性と恋をした

しかし、「家」や「国家」の面子を重んじた鷗外は、彼女と別れ 日本に帰ってきたのだった。

『舞姫』はその辺りのことをもとに描いた作品なのだが、その他の作品にも「エリス」の姿が描かれている。

たとえば、『釦鈕(ボタン)』という、日露戦争時に書かれた詩だ。

南山の たたかひの日に

袖口の こがねのぼたん

ひとつおとしつ

その釦鈕惜し

べるりんの 都大路の

ぱつさあじゅ 電燈あをき

店にて買ひぬ

主人公はある部隊の隊長。

彼は「ベルリンで買ったあるボタン」を落としてしまったのだという

そのボタンは「こがね髪 ゆらぎし少女」と買ったものと説明されている。

この「こがね髪がゆらぐ少女」こそ、「エリス」のモデルとなった女性だ。

ちなみに、「ボタン」以外にも、鷗外は「エリス」からもらった「イニシャル入りのハンカチ」を終生大切にしまっていたというエピソードなんかもある。

なんなら、もっと強烈なエピソードもある。

鷗外は最初の妻「登志子」と結婚した直後に、彼女の前で『舞姫』を朗読しているのだ

妻になったばかりの女性に対して、まるであてつけのように元カノとの恋愛談を語る。

しかも それは、あの濃密な「雅文体」によって描かれたロマン的な世界観。

「石炭をば はや積み果てつ……」

なんて読みあげている鷗外を想像すると、軽く笑えるし、そもそもあの文章を妻が「朗読」だけで理解できたのかもナゾだ。

とはいえ、コレはさすがにやり過ぎ。

まあ、好意的に考えれば、鷗外にとって「エリス」はそこまで大切な存在だったということなのだろう。

実際、鷗外の長男である「於菟」氏は後にこう言っている。

「エリスは父にとっては永遠の恋人ではなかったか」

さて、その「エリス」なのだが、実は鷗外の帰国後、彼を追うように日本にやってきている

『普請中』という作品にその時のことが書かれているのだが、来日した「エリス」は森家の人間に説得されるまま、ほとんど強制的に帰国をさせられている。

ろくに日本語も話せない20歳そこそこの女性が、単身で来日して親族に門前払いをくらったのだと思うと、なんとも切ない話である。

そして、一方の鷗外は、27歳の時に赤松男爵の娘の「登志子」と見合い結婚をさせられている。

鷗外の恋は「家」や「国家」のために断念せざるをえなかったわけだ。

そりゃ、妻に『舞姫』を朗読したくもなるわ

と、共感する人もいるだろうか。

そう、誰にも言えなかった鷗外の本音は、まさしく『舞姫』の中に描かれているのだ。

彼の秘められた本心は「文学」でしか吐露できなかったということなのだろう。

 

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文学活動の開始(27歳~36歳)

1度目の結婚と離婚

鷗外は26歳でドイツから帰国する。

そして、すでに何度も述べた通り、27歳で赤松登志子と見合い結婚する。

しかし、結婚はうまく行かない。

『舞姫』を、あてつけのように妻に読む位なのだから、それも納得がいく。

結婚生活は約1年でおしまい、28歳でスピード離婚となった。

ちなみに、鷗外の「面食い」は有名な話で、登志子はそもそも鷗外の好みではなかったとも言われている。

鷗外は40歳の時に、「荒木志げ」という女性と再婚をするのだが、そのときは彼女の美貌にえらく惹かれ「美術品」と称するほどに惚れ込み、生涯をともにすることとなった。

小説:代表作『舞姫』

ドイツから帰国後、陸軍医として勤務する傍ら、文学活動をスタート。

初期の文学活動は、大きく3つにグループ化できる。

  • 小説
  • 翻訳
  • 評論

である。

まずはその中から小説について取り上げたい。

初期の小説は、主にドイツ留学時代を扱ったものだった。

いわゆる「ドイツ土産三部作」である。

  • 『舞姫』
  • 『うたかたの記』
  • 『文づかひ』

そのうち、ここで取り上げたいのは、なんと言っても森鴎外の代名詞『舞姫』である。

まずは簡単にあらすじを。

主人公は将来有望なエリート「太田豊太郎」

彼は、官費留学先のドイツで踊り子の「エリス」と出会い、そして恋に落ちる

しかし、いま自分がすべきことは、国家のために尽くすこと。

だけど、捨てががたきは「エリス」への恋。

「国家」をとるか「恋」をとるか……

彼は、その二つの狭間で苦しむことになる。

やがて、エリスは妊娠。

いよいよ、豊太郎の苦悩は深くなっていく。

事件は、そんな中で起きた。

なんと友人「相沢」が、豊太郎とエリスの恋愛にカタをつけてしまったのだ

そして、エリスの精神は、治療の見込みがない程に壊れ果ててしまう。

豊太郎は「エリス」と生まれてくる赤子の生活費だけを置いてドイツを去るのだった。

さて、すこし難しい話をするが、『舞姫』は「近代的自我」という概念を、初めて小説に盛り込んだ記念碑的な作品と言われている。

「近代的自我」というのは、簡単に「個人の思い」とか「個人の理想」なんかと言い換えてもいい。

とかく、「個人の思い」とか「個人の理想」というものは、「世間」とか「社会」とか「国家」に反するものである。

「個人の思い」をとるか「国家の繁栄」をとるか

『舞姫』に描かれているのは、その葛藤である。

豊太郎は、両者のうち、どちらをとるべきなのだろう……

実は、鴎外は、そこに答えを出してはいない

なぜなら、豊太郎は、大事な場面で倒れ意識不明となってしまうからだ。

彼が倒れている内に、友人の「相沢」が勝手にカタをつけてしまった。

つまり、「エリス」を捨てる決断を下したのは、豊太郎自身ではない。

豊太郎は、「エリス」と「国家」の狭間で苦しみつつ、その決断を下すことができなかった。

国家の思惑とか、友人の即断とか、とにかくその時の「なりゆき」と言おうか、「運命」と言おうか、そういう「自分の意志」と無関係なものに、ただ流されるだけだったのだ。

豊太郎は「エリス」を「守る」ことも「捨てる」こともできなかった。

ここに『舞姫』の評価としてよく語れる、

「近代的自我の『目覚め』と『挫折』」

があるといえる。

ちなみに、鴎外自身は「意識不明」になってもいないし、相手の女性も「発狂」していない。

では、鷗外はなぜ、豊太郎を「意識不明」にさせ、エリスを「発狂」させたのだろう。

そこには、鷗外のある思いが表れていると思われる。

鷗外の思い、それは、

「運命に対する諦め」恋人に対する贖罪」だろう。

「国家」や「家」のために生きていくしかないという諦観

そのために裏切ってしまった女性に対する罪悪感

鴎外の胸中には、そんな思いがあったはず。

『舞姫』には、ドイツから帰国した際の、鷗外の本心が描かれているのだろう。

【参考記事 解説・考察『舞姫』―森鴎外が伝えたかったこと、“近代的自我”の挫折とは―

翻訳:代表作『即興詩人』

初期作品ジャンル、2つ目が翻訳だ。

唐突だが、読者にはここで「鷗外の本業は何か」を改めて思い出して欲しい。

彼の本業はそもそも軍医であり、小説家ではない。

ドイツ三部作を完成させた鷗外を見かねた軍部は、

「いいかげん自粛しなさい」

と、創作をストップさせる。

この頃、小説は彼の「理想」を表現する場になりつつあったのに、彼はここにおいて再び「国家」の介入によって理想の挫折を経験する。

そこで、彼が代用として取りかかったのが翻訳業だった

彼は数々の海外文学を翻訳して日本に紹介するのだが、特に有名なのが『即興詩人』だろう。

これはアンデルセンの作品の翻訳なのだが、その素晴らしい出来映えに、

「原作よりも全然こっちの方がいい」

と、文学青年の多くが魅了された。

それもそのはずで、鷗外はこの作品の翻訳に10年の歳月をかけたという。

内容はロマチックな青春物語で、鷗外の美しい雅文体が光っている。

知る人ぞ知る名作である。

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評論:「没理想論争」

初期の作品ジャンルのラスト、3つ目は評論だ。

鷗外は「しがらみ草子」という雑誌を創刊し、そこで翻訳活動や評論活動を行っていた。

石橋忍月と『舞姫』について論争をしたのも、この「しがらみ草子」において。

そんな鷗外の論争のうち、最も有名なのが、

「没理想論争」

と呼ばれる、坪内逍遙との論争である。

坪内逍遙は、日本文学史を語る上で、絶対に外せないキーパーソンだ。

なぜなら、西欧から日本に「近代文学」を持ち込んだのは、他ならぬ逍遙だからだ。

明治18年(鷗外23歳の年)、逍遙は『小説神髄』という評論文の中で、「西欧文学」を紹介しつつ、日本の近代文学の「あるべき姿」について訴えている。

小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ

これは彼の有名な言葉なのだが、つまり彼は、

「小説にはまず人情(人間の感情)を書こう、次に世間や風俗を書こう」

ということを訴えているのだ。

いや、それ、当たり前!

と、ツッコミたくなるだろうが、ちょっと待って欲しい。

実は、江戸時代の文学というのは、良くも悪くも薄っぺらかった。

人間の「心理」に関しては、ほとんど関心は無く、ストーリー展開もかなりシンプル。

悪い奴が現れて、正義の味方がソイツをたたきのめし、めでたしめでたしで幕……

つまり、「勧善懲悪」の物語ばかりだったのだ。

もちろん、江戸文学には江戸文学の妙味はあるわけなのだが、逍遙はそれに対してこう思った。

「もっと、人間のリアルを、ありのままの姿を書かなきゃだめだ!」

ここでひるがえって現代の文学を眺めてみる。

すると、作品の多くが、この「人間のリアル」を徹底して追及しているように思われる。

芥川賞受賞作品なんかを読むと、「人間の心理」を鋭く描いたものが多いのだが、それは とりもなおさず、現代作家が文学を通じて「人間のリアル」に迫ろうとしているからに他ならない。

その起源は、まさに坪内逍遙まで遡ることができるというわけだ。

なるほど、「小説の理念」については分かった。

では、逍遙の提唱する「小説の方法論」とはどういったものだったのか。

それは、

「とにかく、主観を捨てろ」

というものだった。

こういう彼の立場を「写実主義」と呼んでいる。

この「写実」の方法論、つまり「主観を捨てて、ありのままのリアルを書くこと」は、逍遙が西欧から輸入してきたものだった。

逍遙は自ら提唱する「写実主義」を実践しようと、『当世書生気質』という作品を書く。

が、残念ながら、見事に大失敗。

ちなみに、この「写実主義」を完成させるのは、彼の弟子「二葉亭四迷」だった。

彼は代表作『浮雲』において、師匠の無念を晴らすのだが、それはまた別の話。

さて、こんな感じで、とにかく、鷗外が文学活動を始めた明治初期~中期というのは、この「写実主義」が文学の主流となりつつあった。

だが、鷗外は、そんな逍遙の「写実主義」に反論をしかける。

鷗外曰く、

「『ありのまま』だなんて、そんなもん文学じゃねえ」

である。

「作者の理想がない作品なんて、ありえない」

と言わんばかりに、鷗外は逍遙の主張に対して、

「イデー(理想)がない。イデー(理想)がない」

と、繰り返している。

これが鷗外の有名な「没理想論争」(おまえの作品にイデーはない論争)である。

  • 逍遙…「作者の理想を排してありのままを描くべき」
  • 鷗外…「作者の理想こそ きちんと描くべき」

と、明らかに、両者は真っ向から対立しているのだが、この論争、実は決着がついていない。

というのも、しつこい鷗外に対して、逍遙が反論を辞めてしまったからだ。

だから実際のところ、逍遙の根負けといってもいい。

そんな鷗外だったが、彼の私生活を見れば、それは「理想」とは大きくかけ離れたものだった。

現実では実現できなかった理想……

それを実現する場を、彼は文学に求めたということなのだろう。

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小倉への左遷(37歳~40歳)

人生のどん底

これまで見てきた、鷗外の初期の文学活動は「戦闘的啓蒙活動」と、なんとなくサイヤ人っぽい名で呼ばれている。

その攻撃的、戦闘的な舌鋒が周囲に与えたインパクトは大きく、いよいよ鷗外は世間に注目されるようになっていく。

さて、ここで読者に「鷗外の本業は何か」を改めて思い出してほしい。(2回目)

彼の本業はそもそも軍医であり、評論家ではない。

鷗外の「戦闘的啓蒙活動」を見るに見かねた軍部は、

「自粛しろっていっただろ! いい加減にしろ!」

と、鷗外を九州の小倉へ左遷する。

こうして、鷗外の人生におけるどん底時代、3年間の「小倉左遷時代」が到来。

「左遷される」ということは、「エリートコースから逸れる」ということを意味する。

つまり、「小倉左遷」というのは「エリート鷗外」に対する死刑宣告に等しい。

これまで、鷗外の能力や将来に目をつけて近づいてきた(ある種の)俗物たちは、手のひらを返したように彼から遠のいていった。

それどころか、仲の良かった仲間まで、自らの保身を優先してか、鷗外との関わりを絶つようになっていった。

失意と絶望のどん底に落ちた鷗外。

一時は「陸軍を辞めようか」と悩んだこともあったという。

そして「小倉」への旅立ちの日。

もちろん、かつての友人も同僚も、見送りになんか来ない。

ただ、そんな中でたった1人、ひっそりと見送りにきた男がいた。

それがあの「乃木希典」だった。

鷗外はこのときの乃木にいたく感謝し、その恩を生涯忘れることはなかったという。

人間・小説家としての成熟

小倉での生活は3年に及んだ。

「3年しか」と捉えるか、「3年も」と捉えるか、それは人それぞれだろう。

ただ、鷗外にとって、この小倉での3年は、彼の人間観や人生観を変える大きなきっかけとなった。

小倉での鷗外は、創作から身を引いた

その代わりに、多くの書物に触れ、多くの経験を蓄えていった。

また、この自粛期間で鷗外の戦闘的・論争的な性格も穏やかになっていった。

第2の妻「荒木志げ」と結婚したのも、この頃のことだ。

「美術品」みたいに美しい彼女だったが、鷗外は姑との関係で苦しむことになる。

小倉での生活は、鷗外の人生において間違いなく「どん底」だった。

だけど、「どん底」を味わったからこそ、鷗外は間違いなく人間として、そして小説家として成熟したといっていい

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文学活動の再開(45歳~49歳)

中央での「返り咲き」

小倉で辛酸をなめた鷗外だったが、彼に転機が訪れる。

それは、対立していた上官が失脚したことだった。

すると、鷗外は「陸軍医総監」という最高の位につく

見事 東京での「返り咲き」を果たしたワケだ。

そして、再びペンを握る鷗外……

こうして、小倉で溜め込んだあらゆるものを吐き出すように文学活動を再開

これまでの作風と異なる現代小説を、1年に20も30も発表していった。

ここでは、その中から2作品を紹介したい。

代表作『ヰタ・セクスアリス』

そして、1発目の代表作が『ヰタ・セクスアリス』

この、そこはかとない卑猥な響き……

もう十分察しはついたことだろう。

この作品、「性欲」モノである。

というか、タイトルがそもそも「性欲的生活」というラテン語である。

復活後、1発目がコレとは。

えっと、小倉でため込んだって そういうことなんですか?

と、疑問ともツッコミともつかない苦々しい感情を抱く人も多いと思う。

ちなみに内容はといえば、

  • エロ本を繰り返し読んだ
  • エロ本を読んでドキドキした
  • ついに童貞を捨てた

という正真正銘の「性欲」モノである。

まぁ、この紹介はあまりに無粋で身も蓋もないので、気になる方はぜひ読んで見てほしい。

とにかく、ここで触れたいのは、こういったエロティックな内容は、当時としてカナリ過激だったということ。

周囲に与えたインパクトもまた大きかった。

ここで読者には「鷗外の本業は何か」を改めて思い出してほしい。(3回目)

彼の本業は軍医であり……( 以下省略 )

ということで、軍医総監の鷗外とはいえ、やはり軍部としての面子を問われ、作品はあえなく発禁処分になる。

そして、まことしやかに、こんな噂が文壇に浸透していく。

天才エリート「森鷗外」は、その精力もまた絶倫である。

うん。文学って、結構、こういうところがある……

つまり、「作品 = 作者」 と見られがちってところ。

まぁ、鷗外が絶倫なのか、絶倫じゃないのか、それはこの際ナゾのままにしておく。

ただ、「性」は誰がなんと言おうと、正真正銘、立派な文学のテーマである。

だから、悪いのは鷗外ではない。

時代が悪かったのだ。

代表作『雁』

まず、簡単にあらすじを紹介しよう。

東大生の「岡田」がよく散歩する道には、一件の家があった。

そこには「お玉」という女性が住んでいて、2人は窓越しで挨拶をかわすようになる。

そして2人は互いを想うようになっていく

その想いが、先にあふれてしまったのは「お玉」の方だった。

彼女はとうとう「自分の思い」を岡田に告げようと決心する。

奇しくもその日は、岡田がドイツへ留学する前日のことだった。

一方の岡田もお玉に好意を抱いているものの、「結局、オレはドイツに留学するし……」ということで、お玉との恋はハナから諦めている。

もちろんお玉は、そんなことなど全く知らない。

とにかく、今日、岡田が家の前を通り、お玉が彼に想いを告げれば、2人の恋は成就するのだ。

しかし、運命は残酷だった。

なんと、その日に限って、岡田は散歩のルートを変えてしまったのだ。

理由は「下宿の晩ご飯が嫌いなサバだから、よそで食っていこう」というものだ。

こうして お玉の恋は「岡田の晩ご飯」ごときに儚く散るのだった。

さて、ここには『舞姫』と共通のテーマがある。

それは、

「運命によって潰えてしまう理想」

というものだ。

タイトルの「雁」は、作中においてとても象徴的に描かれている。

岡田が友人と、不忍池に石を投げるシーンがある。

そこでこんなやり取りがある。

「おい、雁がいるから、投げるのはよせ、かわいそうだろ」

「じゃあ、当たらないように投げて、雁を逃がしてやろうぜ」

ぽい。

そういって投げた石は、しかし見事、雁にあたってしまう。

そして、その雁は死んでしまう。

この「意図せずに死んでしまった雁」というのは、まさしく「運命」を象徴的に描いたものだろう。

鷗外は、自分にはどうすることもできない「運命」というものを強く感じていた。

そして、その「運命」の前で、自分の「自由意志」など意味はない、人間なんて、所詮は無力なのだ、と。

ドイツで「厭世哲学」に共鳴した鷗外のことだ。

彼の「人間観」や「人生観」には、実はそういったニヒリズムが根っこにあるのだ。

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歴史小説と史伝(50歳~54歳)

随筆『歴史其儘と歴史離れ』

鷗外のエッセイに「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」というものがある。

鷗外はそこで、こんなふうに述べている。

現在がありのままを書いて良いなら、過去も書いていいはずだ。

そして、その「過去」を書く姿勢として、

  • 「歴史其儘」
  • 「歴史離れ」

この2つをあげている。

では、この2つの姿勢とは、いったいどんなものか。

これに関しては諸説あるのだが、次の解釈が一般的だ。

  • 「歴史其儘」= 創作を加えずに、史実に忠実に書く
  • 「歴史離れ」= 史実をもとに、創作を加えて書く

とはいえ、一方で、

「そもそも、両者は区別できないんじゃない?」

という立場もあるわけで、一口に「歴史其儘」も「歴史離れ」といっても、両者は定義するのが難しい概念である。

歴史小説の代表作

晩年の鷗外は現代小説を書くことをやめ、歴史小説ばかりを書くようになっていった。

そのきっかけになったのが、明治45年の事件。

鷗外が50歳のときのこと、それは、

明治天皇の崩御と、それに続く陸軍大将「乃木希典」の殉死だ。

このとき、鷗外の脳裏によぎったのは、間違いなく「小倉左遷」の見送りに来てくれた、かつての乃木の姿だっただろう。

鷗外は そんな乃木を思い、彼の告別式の当日、「主君への殉死」を描いた ある作品を出版社に届けた。

それが、『興津弥五右衛門の遺書』だ。

この作品は、鷗外の「歴史其儘」の第一作と言われている。

「歴史小説」についていえば、他に『山椒大夫』がある。

これは、母と離ればなれになった姉弟「安寿と厨子王」を描いた感動的な作品なのだが、これは江戸時代の説教節「さんせう太夫」を元に、鷗外が創作した「歴史離れ」の代表作である。

また、『高瀬舟』も有名だ。

これは、「罪人の喜助」の弟殺しのプロセスを語った作品で、現代の「安楽死」にも通じるテーマを持つ問題作だ。

この「安楽死の是非」という問題は、医学者である鷗外ならではのテーマだといえるが、それ以外にも「知足」というテーマでもって、「人間の幸福を決めるのは何か」という問題も取り上げられている。

これは江戸時代の随筆をもとに創作された作品で、『山椒大夫』同様に「歴史離れ」の作品とされている。

史伝の代表作

「歴史其儘」を究極まで突き詰めたのが、史伝である。

鷗外の史伝で最も有名なのが、『渋江抽斎』だろう。

渋江抽斎(しぶえちゅうさい)は、江戸時代の医師で儒学者なのだが、たぶん、というか、間違いなく多くの日本人は、その名前を知らない。

なぜ、あえてそんなマニアックな人物を取り上げたのか定かではないが、鷗外は渋江抽斎に「自分自身」を見たことは間違いない。

渋江抽斎の文献にあたることはもちろん、戸籍を調べたり、家族に会ったりと、鷗外はとにかく渋江抽斎について徹底的に調査をした。

そして、渋江抽斎という男の生涯について、あらゆる主観を排除して「ありのまま」に描ききった

徹底した考証はもちろん、その格調高い文体も秀でていて、鷗外の「最高傑作」との呼び声も高い。

が、ここまで主観を排して、1人の人物を描いた作品……

それって、はたして「文学」なの?

もはや「考証学」なのではないの?

そんなふうに感じる人も多いはず。

実際に、ここは議論が分かれるところなのだ。

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死と遺言(60歳)

「森林太郎」として死にたい

「小倉左遷」というどん底時代はあったが、鷗外の人生はやはり「エリート」のそれであった。

ここで改めて、その輝かしい功績を並べてみよう。

  • 神童さながらの幼少期
  • 東大医学部を最年少で卒業
  • 若くしてドイツへ留学
  • 陸軍の最高位につく
  • 文学者として上り詰める
  • 帝国美術院初代院長に就任(NEW)

間違いなく、明治 ~ 大正を生きた人間で「森鷗外」の名を知らぬものはなかっただろう。

そんな森鷗外が逝ったのは、大正2年、彼が60歳のことだった。

死因は、肺結核

鷗外は死の三日前に、家族に遺書を残している。

その遺書には、こう記されていた。

余は石見人 森林太郎として死せんと欲す

わたしは、石見( 彼の故郷 )の人間、森林太郎として死にたいと想う。

彼はこう書いた後、さらにこう続けた。

墓は森林太郎 墓の外 一字もほるべからず

自分は、もはや「森鷗外」としての「地位」も「名声」も必要ない

あくまで市井の人間「森林太郎」として死にたいというわけだ。

「諦観」(レジグナチオン)

ここまで記事を読んでくれた方であれば、森鷗外のそんな胸中をよく理解できると思う。

死ぬときくらい、自分でいさせてくれ。

鷗外はそう思ったのだろう。

彼は、自らの人生を「家」のため、あるいは「国家」のために捧げてきたのだ。

幼いころから、自分の本心を表に出すこともなく、ただただ「世間」に自らを合わせるしかなかった。

家族の期待

世間の評判

人間の思惑

時代の趨勢

それらは、自分の意志でどうにかできるものではない。

それらに分かりやすい言葉を与えるとすれば「運命」ということになるだろうか。

晩年の鷗外は、歴史の「ありのまま」にこだわったことは既にのべた。

鷗外はこう言っている。

わたくしは史料を調べて見て、其中にあらはれる「自然」を尊重する念をおこした

ここにある「自然を尊重する」を、分かりやすく言い換えれば、

「運命」に身を委ねる

ということになるだろう。

それは、夏目漱石の「則天去私」に通じるものなのだと、ぼくは思っている。

「天に自らをゆだねて、自分自身をすてる」

晩年の漱石は弟子達に、「自己の理想的なありかた」として、そう語ったと言われている。

そして、鷗外もまた、「自然」と「自己」の関係について考えた。

「自然」と「自己」

その矛盾に遭遇したとき、自分はどうすれば良いか。

鷗外の答えもまたこうだった。

「運命」を静かに引き受けるしかない。

鷗外の思想的到達点を、「諦観」(レジグナチオン)という。

これは、自らの意志ではどうにもならないものを冷静に引き受ける態度だとされている。

「諦め」といっても、それはヤケクソになったり、自棄を起こしたりする、ネガティブな「あきらめ」とは全く違う。

「諦め」といった時の鷗外の思いは、きっとこんな感じだったのだ。

運命を受け入れるしかない。

確かに、それは「妥協」に見えるかもしれない。

だけど、自分の理想を捨てたわけではない。

理想は心の底でで大切に守り続けている。

自分の尊厳を守れるのは、外でもなく自分だけなのだ。

鷗外の「諦念」とは、そんな「自己」の揺るぎない精神的立脚地を確立することだった。

振り返ってみれば、鷗外の人生は、「運命」と「自己」の葛藤の連続だった。

だけど、彼は、その胆力と精神力で、自らを守り続けたのだ。

森鷗外を「硬派で堅実なエリート」という簡単な紹介で片付けることはできない。

彼は「悲しみ」も「苦しみ」も、すべて「運命」として引き受けつつ、それでも自分は「自分」であろうとした人間だったからだ。

つまり彼は、「弱さ」と「強さ」を持って「運命」と戦い抜いた、いわば、精神的サバイバーだったのだ。

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