はじめに「つながりの喪失」
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ぼくの祖母は95歳で、現在、特別養護老人ホームに入所している。
先日、施設の方から連絡が入り
「今日、明日がヤマです。ご家族は、すぐにいらっしゃってください」
と伝えられた。
「検温、マスク着用、手指消毒の徹底の上、施設に行けるのは限られた数名だけ」という条件付のもと、ぼくは家族と施設へと向かった。
目の前で横たわる祖母は、深く深く眠っていた。
それでも、彼女の呼吸はやはり苦しそうで、職員の「今日、明日がヤマ」という言葉の意味が、ぼくには実感を伴って理解できた。
それなのに、ぼくは、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
祖母と ぼくたち家族との間には、大きな大きなアクリル板が立ちはだかっていたからだ。
今日、明日に、祖母は死んでしまうかも知れないのに、ぼくは彼女に声を掛けることも、触れることもできなかった。
幸い、祖母は一命をとりとめた。
だが、彼女に触れられる日は、まだまだやってきそうもない。
新型ウイルスが「人と人とのつながりを断絶する」という事実を、改めて見せつけられた瞬間だった。
こうしたコロナ禍の中、注目を集めた思想家がいる。
イタリア出身のジョルジュ・アガンベンだ。
彼は、「コロナウイルス」と「人とのつながり」についてこう言っている。
この(コロナに対する)措置のうちに暗に含まれている自由の制限よりも悲しいのは、この措置によって人間関係の零落が生み出されうるということである。それが誰であろうと、大切な人であろうとも、その人には近づいても触ってもならず、その人と私たちのあいだには距離を置かなければならない。
その彼の言葉に、ぼくは深く頷く思いだった。
いま、人々は、親しい人とのつながりさえ失おうとしている。
作品について
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さて、今回取り上げたいのはこちら。
『死者と霊性』―近代を問い直す
実は、上記のアガンベンの言葉は、この本に記されていたものだ。
有識者5人による対談と、彼らの論考が収められた本書。
有識者のラインナップはそうそうたるもので、
- 末木文美士
- 中島隆博
- 若松英輔
- 安藤礼二
- 中島岳志
といった、今をときめく宗教家、批評家、思想家たちだ。
彼らの共通点を1つあげるとすれば、
「言葉で語りえぬもの」について語り続けてきたこと である。
では、「言葉で語りえぬもの」とは、具体的になんなのか。
それがまさに、本書のタイトルにもなっている、「死者」と「霊性」ということになる。
そして、この本で議論されるのは、大きく次の2点だ。
- 近代において「死者」や「霊性」はどのように扱われてきたか。
- 現代において「死者」や「霊性」はどのように扱われていくべきか。
この記事では、本書における議論をたよりに、ぼくなりに思うことを書いてみたい。
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「近代」という時代
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本書に収録されている座談会で強調されるのは、
実は、「死者」や「霊性」は、近代においても語られていた
ということである。
それらは、ヨーロッパだけでなく、日本においても多くの思想家によって語られていたという。
にもかかわらず、「死者」や「霊性」は近代の価値観によって無視され、「ないもの」とされてきた。
それは現代においても同様だ。
依然として、人々は「死者」と「霊性」を遠ざけようとし続けている。
それでは、そうした近代・現代の価値観とは何だろう。
ざっと羅列すれば、以下の通りだ。
人間主義 人間が認識できるもの以外は認めない
人間中心主義 人間だけがこの世界をより良いものにできる。
合理主義 「科学」をはじめ、人間の理性に基づく営みで世界を改変すべき。
進歩主義 人為によって、世界はより良いものになっていく。
物質主義 観測できるもののみが「実在」する。
論理実証主義 言葉で語り尽くせないものは切り捨てる。
こうして書くと、近代以降、いかに人間の「理性」とか「認識」を絶対視していたかが分かる。
こういった時代において、「死者」とか「霊性」とかいったものは、いったいどんな風に捉えられるのだろう。
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「近代」が無視してきたもの
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改めていうまでもなく、近代科学はとても優秀だ。
科学によって「死」はかなりの部分まで分解されてきたからだ。
科学は、人間が死ぬメカニズムについて明らかにし、その死を避けるために、これまで多くの策を講じてきた。
実際 人類は多くの病気を克服し、人々の寿命というのも数十年前に比べて格段に伸びた。
物質的にも恵まれ、基本的に不自由ない生活を送れるのは、科学の負うところがとても大きい。
とはいえ、どんなに「科学的方法」を講じたしても、ぼくたちが「死」から逃れることは、今のところできない(そして、おそらくこれから先もできない)。
科学は「死」という物理現象について、そこに一定の説明を与えてくれるが、「死」についての「意味」を与えてくれることはない。
ぼくたちにとって、一番の大きな課題は「死」であるはずだ。
死は4つのタイプに分けられるという。
- わたしの死(一人称の死)
- 近しい者の死(二人称の死)
- それ以外の者の死(三人称の死)
- 既に亡くなっている者の死(四人称の死)
ここに優劣をつけることの賛否は、ここでは置いておくが、たとえば2人称の死というのはぼくたちの存在を大きく揺らがす大事件となる。
大切な人を失ったとき、誰もがきっとその大きな悲しみに打ちひしがれる。
彼(彼女)が死んでいったこと、自分が生き残ったこと、それでもなお世界が続いていくこと、それらの意味を問わずにはいられないだろう。
ところが、「近代科学」は、その意味を教えてくれることはない。
というよりも、「死」の意味について、科学は語ることができないのだ。
哲学者のウィトゲンシュタインはこういった。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
彼の一声で、論理実証主義は産声を上げたと言っても良いだろう。
近代以降における大きなパラダイムシフトに「言語論的転回」というものがある。
「世界の基礎付けは言語によってのみ可能」とみなされ、言語の分析だけに重きが置かれるようになったのだ。
この「言語論的転回」以降、人間の言葉で「語れるもの」と「語れないもの」との線引きが明確になされ、後者は徹底して人間から遠ざけられていった。
すると、「死」や「死者」や「神」や「無」といったものは、所詮は科学で「語り得ぬ無意味なもの」とみなされ、関心の外に追いやられてしまった。
こうして、人々は「死者」や「霊性」を追放し、「生者」を中心にした世界感を作り上げてきた。
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「死者」と「霊性」を取り戻す
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だけど、ぼくたちは、大切な存在に死なれてしまう。
なにより、ぼくは、あなたは、いつか死んでいかなければならない。
そんなぼくたちにとって「死」の問題は「生」の問題と同等の重みがある。
いや、あるいはそれ以上に大きくて切実な問題だといえる。
なぜなら、そもそも「死」の問題を抜きにして、「生」の問題など問うことはできないからだ。
ぼくたちが「よりよく生きよう」と思う その根っこには、「いつかは死んでしまう」という切実な感情がある。
「生きる意味」を問う、その根っこにもまた「いつかは死んでしまう」という切実な感情がある。
つまり、「生の意味」を問うことは、そもそも「死の意味」を問うことによって可能となるのである。
だけど、科学においては「死んでいく意味」など、関心の埒外にある。
「死ぬ」ことを考えるのではなく、「生きる」ことばかりを考えるのだ。
もちろん、「生きる」ことは、ぼくたちにとって大きな大きな意味を持っているだろう。
だけど、世界中を見渡してみれば、いままさに人々は夥しい「死」と直面しているのだ。
ウイルスの感染者と それによる死者の数は、日に日に増えていっている。
死者の数は、人間の悲しみの数と同義である。
本来ぼくたちは、その死と悲しみと、時間をかけて対峙しなければならない。
「死の意味」を問うことが、ぼくたちが生きていくために必要なことだからだ。
だが、ウイルスは、それを許さない。
たとえ肉親が死にいこうとしていても、ぼくたちは彼らに触れることは許されない。
たとえ肉親が死んでしまったとしても、ぼくたちは彼らに触れることは許されない。
気がついたときには手元に「骨壺」だけが残っていて、途方にくれるしかないのだ。
今や人々は、死と悲しみと向き合うことも許されない。
「人間」や「生者」を重んじてきた近代の果てに こんな今があるとするならば、やはりぼくたちは改めて「近代」と、そして「現代」を再考しなければならないのだろう。
近代において失われた「死者」と「霊性」とを、きちんと取り戻す必要があるのだろう。
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「霊性」にまつわる思想
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「死者」も「霊性」も近代の価値観で測ることはできない。
それらはどれも「目に見えない」し「耳で聞こえない」し「言葉で語れない」ものだからだ。
だけど、「認識できないもの」や、「語り得ないもの」を取り戻そうとしてきた人は、古来から古今東西に存在している。
彼らの営みの呼び名は様々だった。
- 哲学
- 宗教
- 文学
- 芸術
だけど、それらの本質は、すべて同じ。
「語りえぬものを語ろうとする」ことである。
たとえば、本書においては「神智学」というものが紹介されている。
これは、ロシアで生まれた ブラヴァツキーという女性によって打ち立てられた学問なのだが、まさに哲学・文学・宗教・芸術を「霊性」の名の下に統合しようという営みである。
おそらく、その起源はプロティノスに代表される新プラトン主義にある。
新プラトン主義とは、世界は超越的な「一者」の流出であるとする思想だ。
それによれば、人間も、動物も、植物も、水も、空も、土も、火も、あらゆる存在者は、その「一者」を根源としているという。
そして、あらゆる存在者には「一者」の芽のようなものが宿っているという。
「霊性」とはその芽のことだ。
こうした考え方に近いものとして、汎神論と呼ばれるものがある。
この汎神論では「世界は神の姿である」と語られている。
つまり、その文脈に沿って言い換えれば、
- 一者 = 神
- 存在者 = 自然
とことになる。。
こんな風に、新プラトニズムの文脈で「一者」という名で呼ばれていたものは、汎神論の文脈で「神」という名で呼ばれる。
実は、日本においてもそれは同様だ。
たとえば、天台仏教には「本覚思想」や「如来蔵思想」というものがある。
これは、
「全ての衆生(存在者)は、仏(一者)の一部であり、それぞれには仏性(霊性)が宿っている」
という思想だ。
また、真言密教の根幹に「大日信仰」がある。
これは、
「森羅万象(存在者)はすべて『大日如来』の流出であり、それぞれには仏性(霊性)が宿っている」
という信仰だ。
それ以外にも、浄土仏教では「阿弥陀如来(一者)への信仰」があり、禅仏教では「無(一者)への志向」があり、それらも全て「霊性」についての「語り」だといえるだろう。
また、日本の近代仏教においては、鈴木大拙が「日本的霊性」という言葉で「霊性」について語ろうとしているし、日本の近代哲学においては、西田幾多郎が「純粋経験」とか「絶対矛盾的自己同一」という言葉で「霊性」について語ろうとしている。
こんなふうに、古今東西を問わず、「霊性」を取り戻そうとする思想は実際のところ多いのだ。
だが、残念ながら、近代以降、これらの営みに光が当たることは少なかった。
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まとめ「人文学に光を」
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こんなふうに「霊性」について眺めてみると、「霊性」は古今東西、あらゆる文脈において、その姿や名前を変えることが分かる。
これは、人間の言葉で「なんとか語ろうとした」ことの表れであるし、人間の言葉では「語り尽くせなかった」ことの表れでもあるのだろう。
そして、一度「霊性」に対して「言葉」を与えてしまうと、その瞬間「霊性」はその超越性を失ってしまうという、ある種のジレンマがある。
西田幾多郎はこう言っている。
言語に表し得べきものは凡て浅薄である。
つまり、言葉で捉えたものは、そのものの「表層」にすぎず、そのもの「実相」ではない、ということだ。
西田幾多郎は日本を代表する哲学者である。
哲学とは、本来、存在世界の公理を、「言葉」によって語り、「言葉」によって明らかにしようとする営みだ。
そんな哲学者の彼が、「言葉」による限界について語っているのだ。
言葉では、ものごとの「実相」を捉えることができない。
それは「霊性」についてこそ言える。
人間の言葉によって、「霊性」を掴み取ることは、原理的に不可能なことなのだ。
だからこそ、ぼくたちは、なんとか言葉を越えなくてはいけない。
近代が信じて疑わなかった、「理性」とか「論理」とか「言語」といったものの鎖を断ち切り、「霊性」を「霊性」のまま取り戻さなければならないのだ。
その1つの糸口となるのが、ぼくは「死者」の存在なのだと思っている。
彼らはきっと、生者であるぼくたちに、「霊性」について語りかけている。
それは「耳で聞くこと」も「理性でとらえること」も「論理で理解すること」もできない。
いうなれば、人間には分からない「不可視で不可知な領域」なのである。
ただ、見えないから、理解できないから、「存在しない」といいきることはできない。
繰り返すが、見えない、理解できない、そういう理由で「死者」も「霊性」も、遠ざけてきたのが「近代」という時代だ。
いまこそ、人々は「近代」を問い直さなければならない。
近代が目を背けてきた「死者」を「霊性」を取り戻さなければならない。
そのために、改めて、哲学、宗教を、文学、芸術という営みに、もう一度光を当てる必要があるだろう。
それらの営みをまとめて、日本語で「人文学」と呼ぶ。
人文学を蔑ろにする昨今の風潮は、まさに無反省のまま「近代」を推し進めることに他ならない。
だから、「近代」を問い直すことは、学問における「偏向」を問い直すことでもあると、ぼくは思う。
人間にとって、実学が全てではないのだ。
実学だけで救われないのが、ぼくたち人間だからだ。
人文学とは「人間」を知る営みであるとすれば、決してそれを蔑ろにしてはいけない。
おすすめの本
『霊性の哲学』(若松英輔 著)
本書にも登場した若松英輔による「霊性論」
日本を代表する哲学者「井筒俊彦」をはじめ、「霊性」を語ろうとした日本人を紹介している。
宗教、哲学、文学、芸術、それらを横断的に語りながら「霊性」の名のもとに統合しようという論考は、現代日本における「神智学」的な趣である。
人間の認識では到達できない、「実在」の世界について提示してくれる本書。
はじめて読んだ時の感動を、ぼくは今でも忘れられない。
『死者との対話』(若松英輔 著)
同じく、若松英輔による「死者論」
若松は言う。
「死者は、これまでとは違った形で、実在しているのだ」
「『見えないこと』『聞こえないこと』は『実在しないこと』と同義ではない」
「死者は、その深い悲しみの中にこそ存在している」
大切な存在は、死しても決して消えることはない。
悲しみを悲しみ抜くことで、人は死者とつながることができることを、本書は教えてくれている。
『貝に続く場所にて』(石沢麻依 著)
2021年芥川賞受賞作。
東日本大震災から9年。
新型コロナウイルスが蔓延する世界。
小説世界に響くのは「死者」たちの声。
ここで問われているのは「死者の声を聴くとは、いかなることか」ということだろう。
「死者と霊性」という主題をみごとに落とし込んでいる
「死者」への静謐な祈りを描いたような作品だ。
こちらの記事で「死者」と「祈り」をテーマに考察しているので、ぜひ参考にしてみてほしい。
【 参考 考察・感想『貝に続く場所にて』(石沢麻依) ―死者の声を聴くこと― 】
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