解説「川端康成ってどんな人?」―ノーベル賞作家の人生をわかりやすくまとめる―

作家
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はじめに「文豪 川端康成」

 

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川端康成と聞けば、たぶん文学好きな人なら、

「日本で初めてノーベル文学賞を受賞した文豪」

くらいの認識は持っているだろう。

とはいえ、同じく文豪の夏目漱石や芥川龍之介、太宰治などに比べると、意外にもその知名度は低く、「川端康成の生涯」とか「川端文学の特徴」とかについては、ほとんど知られていないような気がする。

そこで、この記事では「川端康成とはどんな人物なのか」について徹底的に解説をしようと思う。

  • 川端の生涯
  • 川端が文学に求めたもの
  • 川端の文学観の変遷
  • ノーベル文学賞受賞の理由
  • 自殺の理由
  • おもしろエピソード

そうした、あらゆるトピックについて、詳しく丁寧に解説をしていく。

お時間のあるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。

オススメ作品を徹底解説!!

 

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年表・川端康成の生涯

1899年(0歳)…大阪府に誕生。

1901年(2歳)…父が死去。

1902年(3歳)…母が死去。祖父母に引き取られる。

1906年(7歳)…祖母が死去。

1909年(10歳)…姉が死去。

1914年(15歳)…祖父が死去。天涯孤独になる

1917年(18歳)…第一高等学校入学。

1918年(19歳)…伊豆に一人旅し、旅芸人一行と交流する。

1920年(21歳)…東京帝国大学英文科入学。

1921年(22歳)…菊池寛を通じて、横光利一と出会う

1924年(25歳)…大学卒業。横光利一らと『文芸時代』を創刊。新感覚派の旗手とみなされる。

1926年(27歳)…『伊豆の踊子』発表。後の妻・秀子と同居する。

1929年(30歳)…『浅草紅団』発表。

1931年(32歳)…『水晶幻想』発表。秀子と正式に入籍。

1933年(34歳)…『禽獣』発表。

1935年(36歳)…第1回「芥川賞」の選考委員になる。

1937年(38歳)…『雪国』発表

1938年(39歳)…日本文学振興会の理事となる。

1943年(44歳)…『故園』、『夕日』発表。

1945年(46歳)…久米正雄らと貸本屋「鎌倉文庫」を開く。

1948年(49歳)…川端康成全集刊行。

1949年(50歳)…『千羽鶴』、『山の音』発表。

1960年(61歳)…『眠れる美女』発表。

1961年(62歳)…『古都』発表。

1968年(69歳)…ノーベル文学賞受賞。

1971年(72歳)…ガス自殺。

 

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10代で天涯孤独に

川端康成は30代の頃の作品『父母への手紙』で、次のように記している。

私のような孤児を またこの世へ送り出すに忍びない。

「孤独に苦しむのは自分一人で十分だ、だから、自分は子供を作りたくないのだ」

そう川端は告白をしている。

実際、川端はその生涯で、二人の養子をとりはしたものの、自らの子どもをもうけることはなかった。

こうした川端の背景には、幼少期における計り知れない悲しみと孤独がある。

明治32年に、大阪市で医師の長男として生まれた川端だったが、2歳の時に父親が死亡する。

その後、3歳の頃に母が死亡し、祖父母のもとに引き取られたものの、7歳の頃にその祖母が死亡し、10歳の頃には姉が死亡する。

そして、たった一人となった肉親である祖父が死んだのは、川端が15歳の頃のことだった。

つまり、川端はたった15歳にして、文字通り天涯孤独となったのである。

その後は、中学校の寄宿舎に入り、中学卒業後は母方のいとこをたよって上京。

18歳で第一高等学校に入学し、21歳で東京帝国大学文学部英文科に入学した。

こうした幼少期の悲しみと孤独が川端文学に与えた影響ははかりしれず、また、自殺という人生の最期とも決して無縁とは言えないだろう。(自殺の理由については後述する)

モダニズム文学期

東京帝国大学に入学した川端は、22歳のころに菊池寛と出会う。

後に「文藝春秋」を創刊し、芥川賞を創設することになる作家との出会いは、川端の文壇デビューの大きなきっかけとなる。

そして、菊池寛の紹介で、生涯の友となる横光利一との運命の出会いを果たす。

川端は横光らと『文芸時代』という雑誌を創刊し、そこで精力的に作品を発表するようになった。

川端と横光は、これまでの日本文学の常識を覆すような作品を発表し続け、いつしか「新感覚派の旗手」とみなされるようになっていく。

なお、「新感覚派」というのは、いわゆる「モダニズム文学」の一派である。

それぞれについて簡単にまとめると次の通り。

【 モダニズム文学 】

・近代西欧文学の手法や理念を意識的に取り入れた、これまでにない新しい日本文学。

【 参考記事 解説【モダニズム文学とは】—新感覚派、振興芸術派、新心理主義の違いを分かりやすく—

【 新感覚派 】

・モダニズム文学の一派で、感覚的で新しい文体を模索した。

【 参考記事 解説【横光利一と新感覚派】を分かりやすく—『蠅』『機械』など代表作も紹介—

たとえば、川端文学の中でも、『狂った一頁』(1926年)などの初期の作品は、新感覚的とみなされている。

ちなみに、初期の代表作『伊豆の踊子』も、一般的に「新感覚派期」の作品と言われているものの、その文体は極めてリアリズム的であり、「ほんとうに新感覚的か?」というと結構疑問である。

とはいえ、「川端の初期の作品=新感覚派」というのが定説となっており、そこに横光利一からの影響を見て取ることができる。

さて、初期の川端には「既存の文学を乗り越えてやる」という野心が強く表れていて、実験的な小説をいくつも書いている。

たとえば、『水晶幻想』(1931年)は、フロイトの影響をガッツリ受けていて、いわゆる「意識の流れ」や「内的独白」といった、新心理主義の技法を採用した代表的な作品である。(ここから、川端を「新心理主義」の作家とみる向きもある。)

それ以外にも、「シュールレアリズム」的な作品なども手がける川端は、間違いなく「モダニズム文学」の代表的作家であるといって良いだろう。

川端作品の多くに筋らしい筋がないのも、読者の解釈を拒んでいるのも、不可解な点が多いのも、こうした「モダニズム気質」が、川端の文学の根っこにあるからである。

とはいえ、後述するが、戦後の川端は明らかに「日本的なもの」へと意識的に接近をしていくのであり、結果的にそのことでノーベル文学賞を受賞することになる。

川端の作家人生を俯瞰すれば、

「西欧から日本へ、日本から西欧へ、そして再び西欧から日本へ」

といった具合に、川端文学は「東西」を往復し続けていたといって良いだろう。

ちなみに、川端の作品には未完の作品が多く、彼自身も、

「自分が一つの作品を完成させることはマレである」

と語っている。

構想だけで終わった作品や、プロットの途中で切り上げた作品など、そうした未完の作品は数え切れないほど存在している。

 

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掌編小説を広く発表

「川端は、掌編小説こそが芸術の真骨頂と考えたときがあった」

と、日本文学者のドナルド・キーンは言う。

川端が掌編小説(原稿用紙10枚程度の小説)を書いたのは、主に20代から40代にかけてのことであるが、老年になってもなお、彼は掌編小説を細々と書き続けていた。

川端が掌編小説を書いた時期は、大きく3つの時期に分かれている。

【 掌編小説を書いた時期 】

第一期(1923年~1930年)・・・約80編発表

第二期(1944年~1950年)・・数編発表

第三期(1962年~1964年)・・・数編発表

川端が残した掌編小説は、発表された作品だけでも100以上にのぼるが、そのほとんどが「第一期(20代の頃)」に書かれたものである。

内容は私的断片的なもの、寓話的なもの、新感覚派的なもの、シュールレアリズム的なものなど、バラエティに富んでいて、中には長編小説のプロトタイプとなった作品もある。

そもそも、川端にはある種の「ミニチュア志向」があり、彼の作品のほとんどが「寡黙」であり、それゆえの曖昧さや不可解さというものが残る。(執筆では“会話文の9割”を意識的に削っていたという)

そういう意味でも、川端の掌編小説には「川端文学のエッセンス」が色濃く表れている

ちなみに、代表作品集『掌の小説』には122編の掌編小説が収められているので、「川端文学とは何か」について考えたい方にはオススメだ。

1作品10ページそこそこという分量なので、文学初心者にとってもハードルは低いと思う。

通俗小説に接近

先述した通り、川端文学というのは基本的に「寡黙」な作品が多く、“曖昧さ”や“不可解さ”を持つのが川端文学の特徴の一つだといっていいだろう。

なので、「川端が通俗小説 (エンタメ小説) に接近した時期がある」ということは案外知られていない事実である。

川端が通俗小説に接近したのは、1935年頃(36歳)のこと。

そこには、友人の横光利一の影響が大きいと言われている。

横光が「純粋小説」と呼ばれる、「純文学と通俗小説を融合したスタイル」を提唱し始めたのは1935年のことだが、ちょうどこの時期、川端も「俗化」の方向に舵を切り出していた。

もちろん、通俗小説は川端の主流にはならなかったものの、川端は晩年にいたるまで、ときどき通俗的な小説を書いていた。

その代表的なものが『東京の人』である。

この作品は、川端が55歳のころに新聞連載された大長編小説で、505回の連載のすえに全4巻で出版されている。

本作は川端文学に珍しく、きちんとした筋があり、それなりに事件や発展もあるので、純文学が苦手という読者からも支持され、1956年には映画化された。

こう聞くと、

「ザ・純文学作家の川端がエンタメ小説を?」

と、疑問に感じる人も多いだろう。

だけど実は、この頃の川端には、

「日本で純文学を極めるのは難しい!」

という思いがあったのだ。

西欧の文学を読みまくり「モダニズム文学」を突き詰めようと腐心した川端だからこそ、

「日本語では、西欧的な文学をすることは不可能だ」

という限界を感じていたのである。

そんな思いは、

「自分の敵は岩波の赤帯(海外の翻訳)だ」

という川端の言葉にも表れている。

どんなに頑張っても、「モダニズム文学」はオリジナルには勝てっこない

そんな思いから発せられた言葉だろう。

芥川賞選考委員に就任

ちなみに、川端が俗化に向かった1935年、彼は第1回「芥川賞」の選考委員を、友人横光利一とともに務めている。(その後、川端は第64回まで務めた)

当時、芥川賞は「新人の発掘」と「文学の大衆への普及」をうたっており、その商業的正確を前面に押し出していた文学賞だった。

よって「芥川賞選考委員就任」もまた、川端の俗化の一つの現れと見ることができる。

川端と芥川賞をめぐって、なんといっても有名なのは「太宰治」との一悶着だろう。

第1回芥川賞で、太宰の『逆行』『道化の華』がノミネートされる。

太宰はまさに、天にも昇る思いだった。

というのも、この頃の太宰は、パビナール欲しさに借金をしまくっていたので金がなかったのである。

ノドから手が出るほどに、賞金の500円が欲しい。

心から受賞を願う太宰。

が、そんな思いむなしく、結果は落選。

失意の中で読んだ川端康成の「選評」に、太宰は激しい怒りを覚えた。

川端曰く

私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みもあった。

要するに、

「太宰君ねぇ。いいっちゃいいんだけど、彼の生活って荒れに荒れまくってるじゃない? だから、作品のほうも、なんだかなあ、微妙だったんだよねぇ」

というワケである。

いや、作品は作品! 作者は作者だろ!

と太宰は怒りにまかせて、次のように反論した。

私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そう思った。大悪党だと思った。

川端の趣味は「小鳥」と「舞踏」だったので、こんな風に反論したのだった。

「裕福な生活と文学は関係ねえだろ!」

「っつーか、裕福なやつに文学なんて分かんねえよ!」

こういう思いが、太宰治にはあったのだ。

ちなみに、第2回芥川賞にもノミネートした太宰は、選考委員の佐藤春夫に受賞を懇願する手紙を送りつけている。

その手紙の長さは、実に4メートルと、尋常ではない。

が、残念ながら今回も落選。

第3回芥川賞では、あれほど罵倒した川端に、

「何卒、私に与えてください」

との手紙を送っているが、とうとう受賞はかなわなかった。

川端とは、そういうブレない男なのである。

 

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日本的美を追究

川端が文壇デビューしたとき、「新感覚派の旗手」として注目されたことはすでに述べた通りだ。

実際に、川端の初期の作品には、モダニズム文学の手法を採用した作品が多く、彼が「西欧文学」を志向していたことは、日本文学史において定説となっている。

とはいえ、ノーベル文学賞作家「川端康成」といえば、

「日本的な美を世界に発信した作家」

と、多くの人々から認識されているのも事実である。

では川端の文学的態度が「西欧→日本」へと転換したのは、いつごろのことなのだろう。

それは一般的に「終戦前後」のことと考えられている。

終戦前後とは日本の敗戦が濃厚になった時期であり、折あしく、川端の友人である片岡鉄平や武田林太郎、そして横光利一が死んだのも、ちょうどこの頃のことだった。

そんな川端の精神を癒やしてくれたもの、それが古典文学、とりわけ『源氏物語』だった。

とくに川端は「仮名文字」に精神を癒やされていったといわれている。

そして、戦後、川端は東京新聞で、次のように語っている。

私の生命は自分一人のものではない日本の美の伝統のために生きようと考へた。」(東京新聞)

このように述べる川端は、物故した友人らをはじめとした「死者との繋がり」を回復しようとしているように思われる。

また、川端は友人たちの死に際し、次のように語っている。

「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない。」(1945年島木健作への追悼文)

「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」(1947年横光利一への弔辞)

こうして見てみると、川端に「日本的な美」の追究を促したものは、友人たちの「死」だったのだと言えるだろう。

それはまるで「生き残ったもの」として、そして、「作家」としての自分の使命を、川端自身が自覚したようだ。

こうして、戦後になると、川端の「日本的な美」の追究が進んでいく。

そして「日本の作家であるという自覚」「日本の美の伝統を継ごうという願望」が、川端の内でいっそう強くなっていく。

ノーベル文学賞受賞

言うまでもなく、川端康成は、日本で初めて「ノーベル文学賞」を受賞した作家だ。

では、川端がノーベル文学賞を受賞した理由とは何なのだろう。

選考委員である「スウェーデン・アカデミー」は、その受賞理由について、

「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさがあった」

としている。

そう考えれば、戦後、川端が「日本的な美」を追究し出したことは、受賞には必要不可欠だったといって良いだろう。

ちなみに、受賞理由になった三作の一つ『古都』は、京都を舞台にした作品である。

そこで川端は「伝統が滅び行くのを惜しむ心」や「京都の伝統と美」というのを、簡素かつ乾いた文体で淡々と描いている。

また、川端の受賞を考える上で、川端文学を世界に発信した翻訳者「サイデンステッカー」の存在も無視できない

それは川端自身も自覚をしていて、川端はノーベル文学賞受賞後、

「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」

と賞金を半分も渡しているくらいなのだ。

また、ドナルド・キーンなど、日本文学の魅力を世界に紹介した文学者たちの存在も無視できない。

当時のノーベル文学賞は、受賞者のほとんどが欧米人だった。

それは、「文学=欧米文学」という常識が西欧社会にあったことを物語ってもいる。

そんな中で、

「日本文学が世界文学に比肩しうること」

「文学は欧米だけの専売特許ではないこと」

そうしたことを世界に発信した文学者たちがいたからこそ、日本人初の受賞が実現したのだといっていいだろう。

実際に川端康成は、自らの受賞について、

「各国の翻訳者のおかげ」

「日本の伝統のおかげ」

と答えている。

この2つを総合すれば、

「日本の伝統が世界に正しく紹介されたからこそ、自分が受賞できたのだ」

そんな風に、川端が考えていたことが見えてくる。

そして、川端は、そんな日本の伝統を、受賞記念講演『美し日本の私』で改めて世界に発信したのだった。

ちなみに、川端は自信の受賞の理由として、

「各国の翻訳者のおかげ」

「日本の伝統のおかげ」

の他にもう一つ挙げている。

それが、

「三島くんのおかげ」

である。(これについては次章で触れる)

 

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自殺とその理由

川端康成が死んだのは、ノーベル文学賞受賞から4年後の72歳のこと。

逗子にある仕事部屋でガス管をくわえた状態で発見された。

ガス自殺である。

遺書がなかったことから、衝動的な行動だったという見方もあるが、その理由については様々な憶測を呼んでいる。

そもそも、川端の自殺には、その兆候があった。

川端は60代の頃には、すでに睡眠剤が手放せなくなっており、その量も次第に増えていったと言われている。

1963年(64歳)に書き始めた『片腕』という小説は、川端が睡眠剤の後遺症と闘いながら書いた中編小説である。

その作風は、シュールレアリズム的で不可解な点が多いのだが、これは川端が意図したことではなく、むしろ睡眠剤からくる幻想の中で書いた可能性が指摘されている。

なぜ、川端は睡眠剤を手放すことができなかったのか。

その具体的な理由は、もはや川端本人にしかわからない(いや、川端本人にもわからなかったかもしれない)。

ただ、一ついえることは、幼少期の「喪失体験」や「孤独体験」が 彼を生涯にわたって苦しめたに違いないということだ。

また、川端の自殺について、親交が深かった文学者ドナルド・キーンは、「三島由紀夫がノーベル文学賞を逃したこと」について示唆している。

先述した通り、川端は自信のノーベル文学賞受賞について、

「三島君のおかげ」

といったこと述べている。

川端康成は、いちはやく三島由紀夫の才能を認めた人物であり、2人の間には師弟関係のような信頼があった。

実は、三島由紀夫もまたノーベル文学賞の候補として名があがっていて、川端自身は、

「自分よりも、三島君のほうが、むしろノーベル文学賞にふさわしい」

と思っていたようだ。

ところが、受賞したのは、三島ではなく年長者の自分。

「自分がノーベル文学書を受賞したのは、三島君のおかげ」

この発言の真意は、

三島君が若すぎたから、年長者の自分がノーベル賞を受賞できたのだ」

というものだったのだといえるだろう。

そして、川端がノーベル文学賞を受賞してから一年後のこと。

三島は、市ヶ谷駐屯所にて、聴衆の面前で割腹自殺を遂げる。

もちろん、三島の自殺の理由が「ノーベル文学賞を逃したから」だと断言することはできない。

ただ、やはり、ノーベル文学賞と三島由紀夫の死は、100%切り離すこともまたできないことであり、実際、ドナルド・キーンは「三島の自殺とノーベル文学賞の関連」について語っているし、大岡昇平は「ノーベル文学賞が三島と川端を殺した」と語っている。

やはり川端は三島の死に責任を感じていたのだろう。

三島の葬儀で川端が葬儀委員長を務めたのも、そうした責任からかもしれない。

川端が死んだのは、三島の死から、ちょうど2年後のことだった。

死の6日前には

「病とも申せぬ心の弱りを非常に意識しています」

という手紙を書いており、不眠に悩み、やはり睡眠薬を大量に飲んでいたことがうかがえる。

川端の自殺の理由は誰にもわからない。

ただ、あえてその自殺の理由を考察するならば、幼少期の体験からくる「実存的孤独」「三島の自殺」が、大きく関係していると見ることができるだろう。

 

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おもしろエピソード

最後に、川端康成の人柄が垣間見える、興味深いエピソードについて紹介したい。

目力で泥棒を撃退

写真を見ればわかるように、川端の目力はすさまじい。

その目力にまつわるエピソードは非常に多く、もっとも有名なのは「泥棒撃退事件」だろう。

1928年(29歳)のこと。

川端が熱海の別荘に滞在していたとき、寝室に泥棒が入り込んだ。

川端の枕元に近づいた泥棒は、そこで川端と目が合ってしまう

すると、泥棒は川端の目力によって、まるで石化したように動けなくなってしまった。

そしてたった一言、

「だめですか?」

そう言い残して、一目散に逃げ去ったという。

妻の秀子が、

「川端の性格を最も表しているのは、彼のあの鋭い眼です」

と語るように、川端の目力にやられてしまった人というのは数えきれない。

家賃の催促にきた大家さんを見つめて退散させたり、女性編集者を見つめて号泣させたり。

川端の応接室では彼の目に射すくめられた訪問客との間に沈黙が流れるのはいつものことだったという。

病的なまでの骨董収集

川端が骨董品の収集をしていたことも有名だ。

ロダンなど西洋美術はもちろんだが、やはり多かったのは、茶器、陶器、仏像、日本画などの日本の芸術品だったといわれている。

というのも、川端が骨董品を多く収集しだしたのは戦後のことで、これは、ちょうど彼が「日本的な美」に接近しだした時期とほぼ一致している。

骨董品収集は、彼の「日本」への愛好の現れだったとみることができる。

とはいえ、その度合いはマニアというか、もはや病的といっても良いレベルで、自分が気に入ったものには、金に糸目をつけずに買い付け、ノーベル文学賞の賞金も、もらう前にそれをあてにして骨董品を買いまくったともいわれている。

その購入金額は、一億円を超える

しかも、自殺後に見つかった収集品の中には、ツケや未払いのものが大量にあったという。

ここまでくると、収集癖も“病的”といわざるをえない。

“葬式の名人”の異名

できれば、こんな異名は持ちたくないものだが、川端は少年のうちからすでに「葬式の名人」と呼ばれた。

というのも、記事でも紹介したとおり、川端は15歳になるまでに、父、母、姉、祖母、祖父を立て続けになくしているからだ。

その後も、川端は多くの縁者の死に立ち会うことになる。

ここで注目すべきは葬儀における川端の弔辞で、島木健作、武田麟太郎、横光利一、菊池寛、などの葬儀では、川端らしい格調高い、それでいて聴くものを感動させる弔辞を述べている。

また、林芙美子や三島由紀夫の葬儀では、自ら葬儀委員長を務めており、葬儀に対する川端の姿勢は威厳に満ちていたと言われている。

こうした経緯から「川端康成=葬式の名人」と認識されているワケだ。

幼少から肉親の死を経験し、作家になっても親しい仲間たちの死を経験し続けた川端。

彼の孤独や悲しみ、欠落感は間違いなく川端文学の根幹にあり、彼の自死にも少なからず影響を与えている。

日本文学を学びたい人へ

この記事にたどり着いた方の多くは、おそらく「日本文学」に興味がある方だと思う。

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解説の端々にドナルド・キーンの日本文学への深い愛情と鋭い洞察が光っていて、「日本文学とは何か」を深く理解することができる。

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