天才「太宰治」のまとめと解説―人生、人物、代表作について―

作家
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はじめに
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「恥の多い生涯を送ってきました」

これは、太宰治の代表作『人間失格』の冒頭である。

この言葉が象徴するように、「太宰治」と聞けば、多くの人たちが、その破天荒な生涯を想像するに違いない。

5度に渡る自殺行為

女性との奔放な恋愛

酒と薬にまみれた退廃的な暮らし・・・・・・

誤解を恐れずにいえば、太宰治の大きな魅力は、「人間的魅力」だといっても良い。

もし仮に太宰治が「元気・活力・自信・自己肯定感・充実感」そういったものに満ち満ちたポジティブでバイタリティある生活を送り、誰に対しても公明正大で、なんらの罪悪感も後ろめたさも感じないような人間関係を営んでいたとしたら、『人間失格』も『斜陽』も生まれなかったはずだ。

自意識をもてあまし、自己愛におぼれ、自分を羞恥し、人間を恐れ、酒と薬に逃げ、そして、4度の自殺未遂の果てに、最後は愛人と入水自殺を遂げた。

そういった彼の「恥の多い生涯」が作品の背後にあるからこそ、彼の作品はぼくたちの胸に刺さってくるのだと、ぼくは思っている。

太宰治の文体は「潜在的二人称」と言われている。

まるで、自分の秘密を読者である「あなた」だけに、そっと打ち明けてくる、そんな文体だというのだ。

だからこそ、太宰の言葉というのは、人間の誰しもが抱える「弱さ」とか「醜さ」とかと共鳴する。

太宰文学は青春のはしかである」とはよくいったもので、太宰の言葉が 思春期の少年少女たちに染みるは、彼らもまた「自意識」を持て余し、矛盾する自分自身に悩んでいるからなのだろう。

そういった意味で、太宰文学は悩み多き全ての人に寄り添ってくれる文学だといえる。

では、そんな彼の作品はどんな風にして生まれたのだろうか。

作家「太宰治」はどんな風に生きだのだろうか。

太宰治が作家として活躍した期間は、じつはたったの15年。

その期間を、「前期・中期・後期」の3つに分けるのが一般的で、それぞれの作風の特徴なんかも指摘されている。

ざっくりいえば、

  • 前期・・・・・・暗い作風
  • 中期・・・・・・明るい作風
  • 後期・・・・・・超暗い作風

といった感じだ。

ここでも、その分類を採用したい。

以下、記事では、彼の「生涯」についてまとめつつ、その代表作について解説をしていこうと思う。

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太宰治の年表

1909年(0歳)
…青森県に誕生
1916年(7歳)
…金木第一尋常小学校入学、卒業まで首席
1913年(14歳)
…青森中学校に入学
1927年(18歳)
…弘前高等学校に入学
1929年(20歳)
カルモチンによる自殺未遂(1回目)
1930年(21歳)
…東京帝国大学仏文学科に入学・
…井伏鱒二に師事
…津島家から除籍
田辺あつみとの心中事件(2回目)
1931年(22歳)
…小山初代と同棲
1933年(24歳)
…太宰治の筆名で『列車』を発表
1935年(26歳)
自殺未遂(3回目)
…大学除籍
…芥川賞に落選
1936年(27歳)
…パビナール中毒で入院
…妻初代の姦通事件
『晩年』
1937年(28歳)
妻初代と薬物心中未遂(4回目)
…初代と離婚
1938年(29歳)
『姨捨』
1939年(30歳)
…石原美知子と結婚
『富嶽百計』『女性徒』
1940年(31歳
『駆け込み訴へ』『走れメロス』
1941年(32歳)
…母危篤に際して津軽へ帰郷
1944年(35歳)
『津軽』
1945年(36歳)
…甲府・青森に疎開
『パンドラの匣』
1946年(37歳)
太田静子が仕事部屋を訪れる
…太田静子に日記を見せてもらう
山崎富栄と出会う
1947年(38歳)
『ヴィヨンの妻』『斜陽』
1948年(39歳)
『人間失格』
山崎富栄と玉川上水で入水自殺
…絶筆『グッド・バイ』

 

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高校卒業まで(0歳~20歳)

左から2番目が太宰

大地主の子として育つ

まず、太宰の人生を語るうえで、次の2点は欠かせない。

  1. 大地主の子である点
  2. 叔母と子守に育てられた点

まずは「大地主の子」について。

太宰治、本名 津島修治は、青森県津軽群金木村に生まれた。

父は「金木の殿様」と呼ばれ、莫大な金と、強力な権力の持ち主だった。

お金についていえば、「青森県の長者番付」で堂々の4位。

権力についていえば、貴族院議員にもなった人物で、彼の意向で自宅周りに役場とか郵便局とか、果ては警察署まで配置してしまったなんてエピソードがあるくらい。

その自宅も「超」が10個ぐらいつくような豪邸。

「村の中心部」は津島家の敷地で占められ、使用人も含め常時30名が暮らす大家族だったという。

そんな「おぼっちゃん」太宰は、家だけでなく学校なんかでもチヤホヤされて育った。

「大地主の子」という出自は、後の太宰に「歪んだプライドと自己愛」を育てるきっかけになったといわれている。

叔母と子守に育てられる

中央が太宰・左が実母・右が叔母

次に、「叔母と子守による養育」について。

実母は病弱で、しかも、多忙な夫の仕事の影響で家を空けることも多く、幼い太宰は叔母に預けられた

ここで、上記の写真を見て欲しい。

中央が幼い太宰なのだが、彼が寄り添っているのは母ではなく、叔母の「きゑ」である

母は太宰の左に座っている女性だ。

この写真を見れば、太宰が伯母を実母のように慕っていたことが良く分かると思う。

それから、太宰の養育を語る上で、女中の「たけ」の影響も大きい。

「たけ」は専任女中として、叔母の家に雇われ、もっぱら太宰の養育を任されていた。

太宰は、この「たけ」を叔母以上に慕っていたと言われている。

中期の作品『津軽』には、太宰が「たけ」と再会する場面が描かれているのだけれど、太宰文学の中でも一二を争うほどの感動的な場面である。(こちらについては後述する)

道化を演じる優等生

小中学校時代の太宰は、学業においては、ズバ抜けて優秀

「こんな田舎に、こんな天才が?」

と、教師達も驚くほどだったという。

ただ、一方で「おどけ」や「イタズラ」で同級生や教師らを驚かせてもいた。

この「道化」に関しては、代表作『人間失格』でも描かれている。

作品で、

「道化は、人間に対する最後の求愛だった」

と、告白されている。

太宰は、この頃からすでに、人間に対する強い「不信感」と「恐怖感」を持っていた。

そこには、あの芥川龍之介もそうだったように、「立派でいなければ、周囲から棄てられてしまう」という、そんな悲しい心理があるのかもしれない。

「大地主の子」

「実母の愛を知らない」

こういう点は、太宰のその後の人格形成に大きく影響を与えているとみていいだろう。

文学と芥川龍之介

そんな太宰は、中学3年のころには、「自分は作家として生きる」という決心を固めていたようだ。

そこには、いまほど名前が挙がった「芥川龍之介」の影響が大きかった。

きっと、「芥川の苦悩」に、自分自身を重ね合わせていたのかも知れない。

ちなみに、彼は芥川を敬愛するあまり「芥川のまね」をして写真を撮ることもあった。

右が芥川・左が太宰

18歳、太宰は官立弘前高校へ進学。

彼はそこで、衝撃の出会いを果たす。

なんと、大好きな芥川が講演のためにやってきたのだ。

自らの文学の心の師である芥川が目の前にいるのだから、太宰はいたく興奮、そして感動。

彼にとってはまるで夢のような時間だった。

どころが、その2ヶ月後に、太宰の目にとんでもない文字が飛びこんできた。

「現文壇の巨匠 芥川龍之介 自殺」

2ヶ月前の興奮冷めやらぬ文学青年の心に、この芥川の自殺は深い爪痕を残した。

太宰の生活はここから一転する。

彼はまず学業を棄て、そして読書にのめりこみ、さらに左翼運動に傾き、果ては芸者遊びに走っていく。

 

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1度目の自殺未遂

20歳ころの初代

芸者遊びに走る中で、後の妻となる「小山初代」(15歳)と出会い、交際がスタート

学業はいっそう遠のき、もちろん成績は急降下。

ついに太宰は、最初の自殺未遂事件を起こす。

原因については色々と言われている。

  • 裕福な出自へのコンプレックス
  • 初台との関係への憂い

この頃の太宰は「左翼運動」にのめり込んでいたわけだが、そんな自分の出自はといえば正真正銘の「大富豪」。

つまり、「貧民」から奪う側の人間と言うことになる。

この矛盾から、自分の出自にコンプレックスを抱くようになっていたという。

それから、交際相手の「初代」は芸者であり、一方の自分は大富豪の息子。

このギャップから、2人の将来に対して悲観していたとも言われている。

だけど、自殺を図った理由は、案外そんなことではないのかもしれない。

太宰が自殺を図ったのは、「期末考査」の前日のことだった。

このころ、学業不振だった彼は ひどい成績をとってしまうことを極端に恐れていたのだと思われる。

いや、そんな理由で自殺未遂って!

と思うかも知れないけれど、彼がいかに「優等生」にしがみついていたかは、これまで述べていたことでもある程度想像はできるだろう。

  • 自尊心と自己愛の強さ
  • 極度の人間不信と恐怖

その2つを合わせてみても十分な理由になると思う。

後年、太宰は「自分の悪口」を聞いただけで号泣を繰り返している。

もともと、そんな脆くて繊細な心を持っている人間なのだ。

彼にとって「期末考査」は、とてつもなく大きなものだったのだろう。

期末考査の前夜に大量のカルモチンを飲んだ太宰治。

1回目の自殺行為は20歳のことだった。

 

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創作開始まで(21歳~26歳)

2度目の自殺未遂は「心中」

田辺あつみ (かわいい……)

21歳のころ、東京帝国大学フランス文科に入学、上京する。

で、早速なのだが、太宰は2度目の自殺未遂を起こす。

この事件は太宰に大きな影響を与え、後に多くの作品で取り上げられている。

  • 『狂言の神』
  • 『道化の華』
  • 『東京八景』

この辺の作品に色濃い。

さて、事件の経緯はこうだ。

まず、例の彼女の「初世」と太宰は結婚を考えていた

その承諾を得ようと長兄に事情を伝えたところ、反応は思わしくない。

長兄は 津島家の体面を守ろうとして、太宰にこんなことを言った。

「そんな芸者と結婚するんなら、お前の籍を津島家から抜く!」

ということで、「分家除籍」を条件に、太宰の結婚は認められた。

「ああ、どうしよう、兄貴に義絶されちまった」

そう思い詰めた太宰は、通っていた銀座のバー「ホリウッド」の女給「田辺あつみ」に泣きついた。

そして、彼女と2人鎌倉へ赴き、海岸でカルモチンを大量に飲んで 心中を図る。

結果、あつみは絶命

太宰だけが生き残ってしまう。

そして、自殺幇助罪で警察の取り調べを受けてしまう。

が、太宰には権力者「津島家」がバックについている。

実家の奔走と金に力よって、太宰は起訴猶予となる。

とりあえず、まぁ、一安心の段。

とはいえ、あつみとの一件により、やはり太宰の心を「死」という観念が大きく占めることとなった。。

これ以降、彼は「遺書の代わり」として小説を書いていく。

それら作品は、数年後『晩年』として出版されるわけだが、まだ若いというのに『晩年』というタイトルにしたのは、太宰が自死を意識していたからだ。

ペンネーム「太宰治」について

「太宰治」といペンネームが使用されだしたのもこの頃、太宰が23歳ころのこと。

少年時代から創作を熱心に行ってきた彼だが、その頃のペンネームは、

「辻島衆二」「辻魔首氏」といった、本名をもじったものや、

「小沼銀吉」「大藤熊太」といった、いかにも労働者階級を意識したものなど、様々だった。

それが急に「太宰治」である。

このペンネームの由来については諸説ある。

  • 堕罪(実家への罪悪感から)
  • 太宰府(流罪された菅原道真を連想)
  • ダダイズム(当時はやった前衛芸術)
  • ダーザイン(ドイツ語で「不条理な世界に投げ出されたもの」の意)

だけど、実は太宰自身がペンネームについて語った、晩年のインタビューがある。

特別に由来だなんて、ないんですよ。

小説を書くと、家の者に𠮟られるので、雑誌に発表する時 本名の津島修治では、いけないんで、

   (中略)

太宰権帥大伴の何とかって云ふ人が、酒の歌を歌ってゐたので、酒好きだから、これがいいっていふわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、2つはいらないといふので太宰治としたんです。

という感じだけど、なんかこのインタビュー、ちょっと気取っていやしないだろうか。

実はこのインタビュアーっていうのが「太宰のファンという女優」だったこともあって、太宰先生、ちょっと格好つけちゃったようなのだ。

だから、太宰治の由来については、このインタビューを鵜呑みにすることはできない。

なお、「太宰治」として初めての小説は『列車』という。

「太宰治、作家として出発しまーす!」

という見方もできなくも、ない。

 

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3度目の自殺未遂

東京帝大時代の太宰

初代との結婚生活をスタートさせたのは、太宰22歳のこと。

彼はまだ学生である。

え、生活費は? だれが稼いでんの?

と疑問に思うところだが、バックには「大富豪津島家」がある。

太宰は、初代との結婚の条件に「分家除籍」されたのはすでに見たとおりだが、実は、実家からずっと「仕送り」をしてもらっていた。

だけど、それには条件があって、それが、

「大学を卒業するまで」

というものであった。

しかし、勉学に見向きもしない太宰は、いつになっても卒業する気配がない。

そして、時は流れ、太宰治26歳。

ついに「大学中退」が確定してしまう。

やばい! このままでは、仕送りがなくなってしまうし、実家への面目がたたない!

太宰は慌てて ある新聞社の入社試験を受ける。

が、当然のように不合格。

そして、追い込まれてしまう太宰。

もろもろが実家に露見してしまう前に死んでしまおう

と言わんばかりに、彼は再び鎌倉へ赴き、山中で首をくくった。

ところが、この通算3度目の自殺も、やはり未遂に終わるのだった。

どうだろう、この自殺未遂。

「期末考査」の前日に追い込まれた1回目の自殺と、とてもよく似ていないだろうか。

結局、太宰にとって、もっとも怖いことというのは、

「人から軽蔑されること」

これなのだと思う。

それは、友人であれ、教師であれ、家族であれ、変わらない。

代表作『人間失格』の中で、こんな箇所がある。

(それは世間が、ゆるさない。)

(世間ぢやない。あなたが、ゆるさないのでせう。)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢ふぞ)

(世間ぢやない。あなたでせう?)

(いまに世間から葬られる。)

(世間ぢやない。葬るのは、あなたでせう?)

とにかく太宰は「人間の目」というものが怖ろしかった。

それは不特定多数の「目」であって、太宰自身を非難してくる冷徹な「目」である。

だからこそ、彼はここで「世間」というを目に見えない対象を、「個人」という目に見える対象に変えようと、必死にもがいているわけだ。

1度目の自殺と、3度目の自殺からわかる太宰治の内面。

それは、「極度に人間を恐怖する心」だということができるだろう。

芥川賞事件

佐藤春夫に送った手紙の一部

弱り目に祟り目

泣きっ面に蜂

心中未遂事件の直後、太宰は急性盲腸炎で入院をする。

そして、ここで彼にとって宿命とも言える「パビナール」の使用が始まる。

パビナールとは麻薬性の鎮痛剤であり、強い中毒性を持っている。

彼のパビナール中毒は、この入院がきっかけだったのだ。

そんな中で、彼にある朗報が舞い込んでくる。

第1回芥川賞に『逆行』と『道化の華』がノミネート!

天にも昇る思いの太宰。

というのも、この頃の太宰は、パビナール欲しさに借金をしまくっていたので金がない。

ノドから手が出るほどに、賞金の500円が欲しい。

心から受賞を願う太宰。

が、そんな思いむなしく、結果は落選

失意の中で読んだ川端康成の「選評」に、彼は激しい怒りを覚えた。

川端曰く

私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みもあった。

ようするに、

太宰君さあ、いいっちゃいいんだけど、彼の生活って荒れに荒れまくってるじゃない? だから、作品のほうも、なんだかなあ、微妙だったんだよねぇ。

というワケである。

いや、作品は作品! 作者は作者だろ!

と太宰は怒りにまかせて、次のように反論した。

私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そう思った。大悪党だと思った。

川端の趣味は「小鳥」と「舞踏」だったので、こんな風に反論したのだ。

「裕福な生活と文学は関係ねえだろ!」

「っつーか、裕福なやつに文学なんて分かんねえよ!」

こういう思いは、晩年の『如是我聞』で「志賀直哉」にくってかかったときにも見られる論理だ。

ちなみに、第2回芥川賞にもノミネートした太宰は、選考委員の佐藤春夫に受賞を懇願する手紙を送りつけている。

その手紙の長さは、実に4メートルと、尋常ではない。

が、残念ながら今回も落選。

第3回芥川賞では、あれほど罵倒した川端康成に、

「何卒、私に与えてください」

との手紙を送っているが、とうとう受賞はかなわなかった。

とにかく、芥川賞がほしかった太宰。

のちに、彼がやたらと権威にかみついたのは、権威や名声に執着していたことの裏返しなのかもしれない。

 

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作家時代 前期(27歳~29歳)

『晩年』の口絵写真

4度目の自殺未遂も「心中」

アルコール中毒と、パビナール中毒はいよいよ厳しくなっていき、再び入院。

その間に、事件がおきる。

妻の初代が、太宰の知人と姦通事件を起こしてしまう。

太宰の苦悩はいっそう深くなる。

その苦しみから逃げるように、酒と薬に逃げる日々。

そんな中、とうとう通算4度目の自殺未遂を起こすのだが、それは妻との心中だった。

が、結局は、こちらも失敗。

初代との約7年間に及ぶ夫婦生活は、ここにピリオドがうたれる。

さて、身も心もズタボロの廃人同然の太宰は、このころ28歳。

『人間失格』の大場葉蔵は27歳。

ということで、「人間失格」の烙印は、ちょうどこの頃の太宰に押されたものだった。

作品『晩年』

前期の作品群をまとめたのが『晩年』だ。

  • 15歳の少女の自死を描く「魚服期」
  • 幼少期を自伝的に書いた「思ひ出」
  • 鎌倉心中事件を書いた芥川賞候補「道化の華」

などなど、太宰自身がセレクトした珠玉の15編を収めている。

もう、これが、唯一の遺書になるだろうと思ひましたから、題も、「晩年」として置いたのです。

すでに確認した通り、ここに収録された作ては「遺書」だった。

「死ぬつもりの自分にとって。今はもう晩年だ」

ってわけだ。

『逆行』の最初に収められているのは、『葉』という作品。

その冒頭が、あまりに美しいので、ぜひここで紹介したい。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

ぼくは、この『葉』が大好きすぎて、読む度にため息が出てしまうほどなのだけれど、まぁそんなことは置いておいて、次に『晩年』をしめくくる作品『めくら草子』の冒頭も紹介してみたい。

なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ、生きて在れ!

「死のうと思っていた」という冒頭と、

「ただ、生きて在れ!」という末尾。

この照応はとても興味深い。

一般的に、前期の作品群は「暗い」と言われていて、もちろん「遺書のつもりで書いた」という太宰に嘘もないと思う。

だけど、『晩年』のしめくくりが、

「ただ、生きて在れ!」

だったことを考えれば、彼は一方で「なんとか生き延びよう」と創作をしていたのかもしれない

そんな思いで読むと、これらの作品は、今までとは違った表情をぼくたちに見せてくれる。

作家時代 中期(30歳~35歳)

石原美知子との結婚

太宰と美知子の結婚記念写真

初代と別れた太宰は、心身を癒すために山梨県へいく。

ここには、師とあおぐ「井伏鱒二」がいた。

太宰は彼を頼っていくのだが、ここで甲府在住の女性「石原美知子」と見合いをする。

そして、結婚。

お互いに、ビビッときた!

お互いに、強烈に惹かれた!

とかいう訳ではなかったらしいのだけれど、だからこそ、この見合い結婚には太宰の心境がよく表れていると思う。

つまり、彼は手堅い結婚によって「生活の安定」をもとめ、起死回生をはかったのだと思われる。

この時の太宰が、井伏に書いた誓約書というものが残っている。

私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生といふものを知りました。結婚といふものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思ひます。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持ちは、ございません。

おー、だざいー、大人んなったなぁ

と、まるでダメ息子の成長に立ち会ったような気持ちになる、そんな文章ではないだろうか。

実際に、太宰の生活は、この結婚をきっかけに安定していく。

そして、とてつもないスピードで次々と作品を完成させていく。

その作風も、とても明るい。

というのも、太宰自身が「明るい題材のみを選ぶつもり」と言っているとおり、彼はこれまでの作風を一変しようと意識をしているのだ。

だから、太宰文学の「中期」というのは明るい時期と考えられている。

東京三鷹へ移住

太宰夫婦・三鷹の自宅にて

太宰といえば、東京三鷹。

三鷹は、最後の死に場所となった「玉川上水」や、太宰の墓がある「禅林寺」など、太宰ゆかりの場所が多く、いまも「文学散歩」をする人なんかが多い。

太宰は30歳になる年に、三鷹へやってきた。

『走れメロス』を初めとする、中期の傑作作品の多くは ここ三鷹で誕生した

しかも、作品には「口述筆記」というのも少なくない。

妻の美知子によれば、

「炬燵にあたって、杯をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように後述し、淀みもなく、言い直しもなかった」

というのだから、その言語能力にうならされる。

また、作家としての評価がたかまり、多くの文学青年が太宰を訪れた。

太宰の死後、墓の前で後追い自殺をした熱狂的なファンである「田中英光」なんかも、この頃に太宰を訪れた文学青年の1人だった。

そして、なんといっても「太田静子」と出会ったのも、この頃だった

彼女もまた太宰のファンであり、文学を志す女性で、太宰はそんな彼女を気に入り 密通を重ねていくのだが、それについては後述する。

 

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敷居の高い「実家」への帰省

再会時の「たけ」

地元「津軽」を訪れたのは、太宰にとって10年ぶり、32歳のことだった。

実母の様態が悪化したことをうけてのことで、その後の実母の葬儀時を含めれば、何回か帰郷をしている。

が、初代との結婚以来、太宰の自意識は、

「おれ、実家から義絶されてるからなー」

というもの。

実際のところ、太宰の兄はそこまで怒っているわけではなかったようで、ここにも太宰の強い被害妄想が発揮されている。

いずれにしても、津軽には行くは行くのだが、結局のところ太宰は実家へは帰らず、親戚の家に泊まるのだった。

また、このとき、幼い太宰が母のように慕った子守の「たけ」と再会している。

そして『津軽』の中ではこのときの再会の場面が、感動的に描かれている。

戦争と疎開

昭和16年 太平洋戦争が勃発したのは、太宰治32歳のこと。

次第に強まっていく戦時色。

この頃の作家たちは、戦争に加担する「国策文学」を書くものも少なくなかった。

ただ、将来臆病者の太宰は、人間同士が殺し合う戦争を嫌悪し、決して「国策文学」を書くことはなかった。

とはいえ、時代柄、作品にたいする検閲も厳しくなっていく。

そういった背景もあり、この頃の太宰は「パロディ」や「翻案もの」を描いていく

『新釈諸国噺』や『お伽草子』なんかは、この頃の作品だ。

東京の空を戦闘機がとび、日に日に空襲を激しくなっいくと、太宰一家は妻の出身である甲府へと疎開する。

が、その妻の石原家も、空襲により全焼してしまう。

やむにやまれず、太宰は意を決して、敷居の高い津軽へと疎開した。

こうして敗戦までの間、彼は津軽で過ごすこととなった。

作品『黄金風景』他

さて、ここからは、中期の作品をいくつか紹介していきたい。

まずは、『黄金風景』

いわゆる「故郷もの」と言われる作品群のはじまりとも言える作品。

過去に自分が虐待した「のろくさい女中」との再会を描いた、完成度の高い掌編。

主人公の罪の意識が浄化されていくような美しいラストが印象的。

この辺りから太宰は、「故郷」や「家族」について作品化していくことになる。

太宰も中年に達し、自らのルーツについて、作品に書こうと思ったのだろう

それは、自分自身が家族を持ったことも大きく影響しているに違いない。

『姨捨』

初代との心中事件を描いた掌編。

なんだ、あたりまへのことぢやないか。世間の人は、みんなさうして生きてゐる。あたりまへに生きるのだ

という主人公の言葉は、この頃の太宰の思いをストレートに表現したものだろう。

「姨捨」というタイトルも暗示的だ。

この作品で太宰が捨てようと、いな、決別しようとしたもの。

それは元妻の初代であり、これまでの生活と、弱い自分自身だっただろう。

短いながら、とてもよくまとまった佳作として評価も高い。

『黄金風景』『黄金風景』はこちらに収録↑

作品『走れメロス』他 

『走れメロス』

信実の友情を描いた、太宰治の中期の傑作

「友人を人質にする」という物語は、実はドイツの詩人『シラー』の原作より取っている。

しかし、あれほど「人間」を恐怖した太宰が、どうして、こうも「人間賛歌」のような作品を書いたのだろう。

一度はそんな疑問をもったという読者も、きっと多いことだろう。

しかし、よくよく読んで見ると、この作品は単純な「人間賛歌」などではなく、太宰の痛烈な皮肉がそこかしこに表れているのだ。

たとえば、ラストでメロスは真っ裸になるのだが、原作にそんなシーンはない。

なぜ、太宰はメロスを真っ裸にしたのか。

ここは考察の余地がある、とても興味深い部分だ。

もう一度じっくり読んでみると、きっと見えてくるものがあると思う。

【 参考 考察・解説『走れメロス』―太宰に騙されるな!本当に伝えたいことと真の主題―

『富嶽百景』

「富士には、月見草がよく似合う」

このフレーズが有名な『富嶽百景』は、甲府での生活がモチーフになっている。

「私」の富士山に対する批評が次々と変わっていくところに、太宰の「人生観」や「人間観」が表れているのだろう。

ぼくが大好きなところは、「私」が「苦悩とプライド」について語るところだ。

私には、誇るべき何ものもない。学問もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまってそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。藁一すじの自負である

これまでの太宰の人生を知れば、よりいっそう胸に突き刺さってくる言葉だと思う。

『女生徒』

「女の独白体」を書かせたら、太宰の右に出るものはいない。

それくらい『女生徒』の文章は、滑らかで、リズミカルで、そして美しい。

実は、読者から送られてきた日記をもとに書かれた作品なのだが、この手の創作は晩年の『斜陽』に引き継がれていく。

「意識の流れ」をほどよく表現できている、と、あの川端康成もようやく評価してくれた。

「朝は、灰色」とか

「眼鏡は、お化け」とか

「きゅうりの青さから、夏が来る」とか。

なんとも言えない、かわいらしい表現がいい。

『駆け込み訴え』

ぼくはこの作品が大好きだ。

キリストを裏切ったユダの、愛憎半ばするアンビバレンスな心理が描かれる。

鬼に金棒よろしく、「太宰にユダ」ってな具合で、その相性は抜群。

ユダがどこへ「駆け込み」誰に「訴え」ているのかについても、読者の想像をくすぐる。

申し上げます。申し上げます。旦那様。あの人は、酷い。酷い。はい。嫌なやつです。

はい。はい。申しおくれました。私の名は、ユダ。商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

という、この滑らかで軽快な語りは、なんと妻美知子による口述筆記

よどみなく、一切の言い直しもなく、酔っ払ったまま語ったというのだからスゴすぎる。

『走れメロス』『富岳百景』『女生徒』『駆け込み訴え』はこちらに収録↑

作品『津軽』

小山初代との結婚の条件に「分家除籍」になった太宰。

その後も、心中事件や自殺未遂を繰り返し、実家への足は遠のいていった。

そんな彼が故郷の地を踏んだのは、まさに10年ぶり

『津軽』は、その頃の体験を作品にしたものだ。

特に、子守役の「たけ」との再会は30年ぶりで、その場面がなんとも感動的。

平和とは、こんな気持ちの事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したといってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高く穏やかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかった。

太宰にとって生みの母ではなく、育ての母が「実母」であり、彼が「たけ」を心から慕っていたのがよく分かる文章だ。

生涯で放蕩を繰り返した太宰。

彼が本当に求めていたものは、母に抱かれたような「心の平和」だったのだろう。

作品『お伽草子』

こぶとり爺さん、浦島太郎、カチカチ山、舌切り雀

だれもがよく知っている昔話を、太宰が軽妙かつ滑稽にアレンジ。

とはいえ、ところどころに見られる、太宰の「人間観」がよく表れていて、彼の鋭い洞察力が光っている。

オススメは、カチカチ山

  • 「兎」= 残忍で美しい少女
  • 「狸」= 兎に恋をする醜男

この設定がおかしいのだけれど、狸の「人間的な魅力」がスゴい。

「優れた書き手は、優れた読み手でもある」

そんなことを考えさせられるくらい、太宰の文学解釈は、広くて深い。

 

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作家時代 後期(36歳~39歳)

リベルタン(無頼派)宣言

日本の敗戦後、これまで戦争を支持した者たちは、まるで手のひらを返したように戦争批判を始めた。

これまで「正義」とされてきたものは、たった一晩のうちに「不正」とみなされる。

戦争に加担した文化人たちは、戦前・戦中の自分たちを棚上げして、今では一端の「民主主義者」面をしている。

人間とは、なんと愚かな生き物か。

人の世の価値観とは、なんと頼りないものか。

そんな思いを強めた太宰は、『パンドラの匣』の主人公に、

「私はリベルタンです。無頼派です」

と宣言させている。

無頼派とは

「自分は、いかなる権威的な価値観から距離を取るのだ」

という思想的な立場を指す。

そうした立場をとる作家として、

坂口安吾、織田作之助、檀一雄、石川淳、伊藤整、田中秀光

こういった面々が挙げられるのだが、勘違いしちゃいけないのは、「無頼派」とはあくまでも個々の「思想」であって、「文学集団」ではないということ。

だから、彼らが

「おれたち無頼派で、雑誌でも出そうぜ」

みたいな、創作活動を行っていたわけではない。

とはいえ、「類は友を呼ぶ」よろしく、彼らは互いに接近し始める。

銀座のバーで、これは今も営業している「ルパン」という店なのだが、太宰達はよく酒を飲んでは文学を語っていた。

下の、この有名な写真。

太宰・バールパンにて

これは、

「おい、オダサク(織田作之助)ばっかとってないで、おれのことも撮ってくれよ」

と、無理やり撮影させたもの。

バールパンで撮られた写真は、坂口安吾、織田作之助、田中秀光などのものが残っている。

ただ、それらの写真が撮られた3か月後に、まず織田作之助が死に、その数年後には太宰が入水し、そんな太宰を追って田中秀光も太宰の墓の前で自殺した

残された坂口安吾は、エッセイ『不良少年とキリスト』で、太宰の自殺を痛烈に批判している。

それが、歯に衣着せぬものすごいいいようで、それでいて滅茶苦茶にアツい。

「おめえら、なに先に死んでんだよ、ふざけんじゃねえ」

安吾のそんな怒りと悲しみが、あの文章に滲んでいるように感じてならない。

太田静子と『斜陽』

太田静子

さて、太田静子については軽く触れたのだが、ここできちんと説明をしておく。

彼女と出会ったのは、太宰が三鷹へ引っ越してきたころ。

ちょうど、太宰の作家としての評価も高まり、多くのファンが太宰に接触してきたころだった。

太田静子もまた、太宰の読者であり、文学を志す女性だった。

だんな静子と、太宰は密会を重ねるようになる。

そして、静子の「日記」を手にするわけだが、これがのベストセラー小説『斜陽』のもとになった日記だった。

『斜陽』の執筆はこうして始まった。

が、次第に静子の太宰に対する恋愛感情はエスカレートしていく。

美知子という妻の存在をしりながら、太宰にこういう。

「行くところまで行きたい……赤ちゃんが欲しい」

こうなってくると、太宰にとって静子は重荷でしかない。

だけど、『斜陽』を完成させるためには、彼女との関係を断つわけにいかない。

こうしたジレンマの中で、太宰は静子との密会を続ける。

そんな太宰の不倫に勘づく、妻の美知子。

ギクシャクする夫婦。

そして、ついに太宰の子を妊娠する静子

それを知らされる太宰。

時をほぼ同じくして、次女の里子も生まれる(のちの作家 津島佑子)

もう、完璧これは太宰のキャパオーバー。

彼は 弟子の田中秀光には、

「死にたいくらいつらい」

と、手紙で苦しみを訴えるほどだった・

もはや、創作どころではない太宰は、つねに自殺のことばかり考えるようになっていった。

そして、運命の「あの女性」と出会ったのは、そんな折だった。

山崎富栄との出会い

山崎富栄

太宰が彼女と出会ったのは、死の一年前、太宰は38歳になろうとしていた。

三鷹駅の行きつけの屋台で、山崎富栄と名乗る美容師の女性と出会う。

「太宰と死んだ女性」

ということで、割と彼女のことを「芸者」や「バーの女給」あたりと勘違いしている人は多い。

だから、意外に思う人も多いとおもうが、実は富栄は由緒正しき家に生まれ、才色にも恵まれた女性だった。

文学的な素養がある彼女は、太宰の前で聖書を諳んじて、彼を驚かせた。

太宰はすぐに彼女に惹かれてしまう。

それは富栄もまた同じで、太宰の本質を「やさしさ」と見抜き、彼に対する信仰に近い愛情を育てていった。

「ぼくと死ぬ気で恋愛してみないか?」

と太宰に言われた彼女は、日記に、

「戦闘開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する」

としたためている。

そして富栄は、身も心もズタズタになった太宰を命がけで支える

当時の太宰は、結核に罹患していたといわれている。

ひどいときには喀血もしたが、富栄は、つまった血痰を口で吸い取ってやっていたという。

自分にも結核がうつるかもしれない。

その危険を冒しての行為は、生半可な愛ではできっこない。

その機転の利く性格と、てきぱきした行動力に、太宰の周囲では、

「スタコラさっちゃん」というあだ名で呼ばれていた。(『ヴィヨンの妻』の妻も「さっちゃん」と呼ばれているのは偶然ではない)

さて、富栄の支えもあって、太宰は『斜陽』をついに完成させる。

そうなると、

静子から逃げろ!

と言わんばかりに、いよいよ静子から離れ、富栄との逢瀬を重ねていく。

そして、2人は破滅へと一歩、また一歩と近づいていくのである。

作品『ヴィヨンの妻』

さて、以下で後期の作品について触れたいと思う。

まずは『ヴィヨンの妻』

これも「女性独白体」の代表作。

妻である「私」の口から、夫で詩人の「大谷」の愚行が語られていく。

大谷のモデルは、もちろん太宰。

彼は放蕩の限りをつくし、家族に貧乏生活を強いている。

しかも、挙げ句の果てに、行きつけの小料理屋の金を盗み出し、それもばれてしまう。

彼の尻拭いをしてくれるのが、妻である「私」だ。

その「私」のモデルは、妻の美知子だと言われている。

が、「私」の名前は「さっちゃん」

『ヴィヨンの妻』書かれたこのころ、ズタボロの太宰を献身的に支えた女性は山崎富栄、通称「スタコラさっちゃん」だった。

としてみれば、間違いなく 富栄の姿も、「私」に投影されているといえよう。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

「私」が「大谷」に行った最後の言葉は、やはり富栄の姿を連想させるものだ。

作品『斜陽』

太田静子の日記をもとに書かれた、ベストセラー小説

個人的に、ぼくは太宰文学の中で一番の傑作だと思っている。

人間が弱く、悲しいということを、ここまで美しく描いてしまった作品を、ぼくは他に知らない。

登場人物それぞれに、太宰の様々な側面が投影されていると思われる。

  • 和子には、世間の道徳を打ち破ろうとする太宰
  • 直治には、人間失格の烙印を押された太宰
  • 上原には、芸術の勝利を追い求める太宰

さて、母は?  太宰のどんな側面が投影されているのか。

  • 貴族としての出自に、矜持と後ろめたさを抱える太宰?
  • 貴族として生ききれず、没落せざるを得なかった太宰? 

いずれにしても、この記事でも確認してきた 太宰の姿が投影された四者は、それぞれの破滅の道をたどる。

そしてその姿が、悲しくて、美しい。

太宰文学と聞けば、多くの人が『人間失格』をあげるけれど、ぼくはそれよりもまず『斜陽』を読んでほしいと、常々おもっている。

作品『人間失格』

「恥の多い生涯を送ってきました」

27歳の大場葉臓の手記は、このフレーズから始まる。

この記事でも確認をしたが「27歳」というのは、太宰にとっても苦しい時期だった。

  • アルコール中毒
  • パビナール中毒
  • 入院
  • 妻の不倫
  • 心中未遂

そういった現実の事件が、作品のモチーフとしてふんだんに描かれている。

のみならず、幼少期、少年期、学生時代なども描かれていて、自伝的性格が強い

まさに太宰が、自分自身の「恥の多い生涯」を、たった1人の「あなた」に、こっそりと告白をしてくるような、そんな密やかでセンセーショナルな作品だ。

この『人間失格』を完成させ、その翌月に太宰は入水した。

「遺書」と言われる大きな所以だ。

【 参考記事 解説・考察『人間失格』の全てを徹底解明ー道化を生きた男の“最期の告白”ー

作品『グッドバイ』

太宰の死により、絶筆。

『人間失格』を書いた太宰は、すぐにこの作品を書き始めた。

しかも、新聞小説、つまり「連載もの」だ。

「遺書」を書いた人間が、連載ものの新作にとりかかるものか?

ぼくは、まず、この点について疑問を抱く。

太宰は、まだまだ死ぬつもりなんてなかったのではないか。

ぼくはそう思っている。

さて、作風はというと、とっても明るくて、随所にユーモアが光っている。

主人公は、闇商売でもうける「田島周二」

妻子をもちながら、10人の絶世の美女を愛人に遊び歩く。

「これじゃだめだ! 女房と、子どもと、真っ当に生きよう!」

と、心を入れ替えた田島は、まず手始めに 10人の愛人たちに「グッドバイ」しにいくという内容

最後には、逆に自分が女房から「グッドバイ」されるという筋書きを太宰は考えていた。

が、13回分を書き上げたところで、太宰は死に、完成には至らなかった。

タイトルの『グッドバイ』が、遺書的オーラを強烈に放っているけれど、じっさいに読んで見ると、まるで自殺を考えている人の文章とは思われない。

むしろ、なんとか生活を立て直そうとする、健気な意志のようなものさえ感じてしまう。

人生に対する「グッドバイ」ではなくて、荒れ果てた生活に対する「グッドバイ」だったのか。

未完であることが、とても惜しい。

 

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入水自殺(39歳)

太宰・玉川上水にて

太宰は自殺? それとも他殺?

さて、太宰の自殺には諸説がある。

その大きいところが、「富栄による他殺説」だろう。

その要因となった点を以下にあげてみる。

  • 太宰がほとんど水を飲んでいなかったこと
  • 近くに青酸カリが入ってたとおぼしきビンがあったこと
  • 現場には 入水を拒んだような痕跡がくっきりと残っていたこと

これらのことから、

「太宰は入水前に死んでいたんじゃないか?」

「太宰はムリヤリ引きずりこまれたんじゃないか?」

といった「他殺説」が浮上することになった。

が、ぼくは、「他殺」の線は薄いと考えている。

きっと、心中は、ちゃんと心中だったのだ( へんな言い回しだけど )。

いつものように酒か薬かで泥酔した太宰は、勢いで入水してしまったのだと思う。

彼の自殺には、強い意志も決意も、きっとない。

だって、『グッドバイ』も『如是我聞』も、どれもまだまだ連載中だったし、『井伏鱒二選集』の後記も引き受けていたし、なにより初の『太宰治全集』も刊行中だったのだ。

彼には、まだまだ「書くぞ!」という気があったわけで、それはまだまだ「生きるぞ!」という思いがあったということなのだ。

だから、あの日に衝動的な行動に出なければ。

ひょっとして、太宰は死ななくても良かった、かも知れない、分からない。

だけど、太宰の死には、思想的なものも、深刻なものも、意志的なものも、きっとなかったと、ぼくは思っている。

だから、太宰の友人、安吾の言葉は、きっと正しい。

文学者の死、そんなもんじゃない。四十になっても、不良少年だった妙テコリンの出来損いが、千々に乱れて、とうとう、やりやがったのである。

『不良少年とキリスト』より

そうなのだ。

千々に乱れて「死のう、死のう」と口癖みたいに繰り返していた中年男が、その日は酒か薬に酔っ払って、「死」の重大さも実感もクソもなくなってしまって、惚れた女の涙をみちゃって、感傷的になっちゃって、悪ノリしちゃって、それでとうとうやりやがったのだろう。

安吾は、とっても怒っている。

自殺とかくだらねえ

死んだら負けなんだ

生きることが全部だ

下らんことをするな

戦い抜けよ、バカたれ

そう言って怒っている。

きっと、現代でも、同じように起こっている太宰ファンは きっといる。

ぼくだって、『グッドバイ』の続き、読んでみたかったし。

決行の日・発見の日

昭和23年、6月13日の深夜、外には雨が降りしきっていた。

その日も太宰は富栄の部屋ですごしていた。

遺書をしたためた太宰と富栄。

太宰は、書きかけの原稿と一緒に、残される子ども達のためにカニのおもちゃも準備していた。

最後に、太宰、富栄、2人の写真を部屋にかざると、そのまま玉川上水へ向かった。

玉川上水は、かつて「人食い川」と言われるほどの流れをもった川だ。

眼下に流れるそれは、雨のせいで、いつもの流れよりも速かったかもしれない。

互いの体を紐でしばる2人。

その一歩を踏み出したのは、どちらが先だったのだろう。

もつれあった2人の身体は、草むらにくっきりと痕跡を残しながら、川に向かって転げ落ちていった。

遺体は約1週間後に見つかった。

その日も、雨が降りしきり、集まった人々は傘をさしている。

そこに、引きずりあげられた男女の遺体。

富栄の顔は 苦悶に歪み、一方の太宰の顔は 静かで穏やかだったと言われている。

2人は、それぞれの死をどんなふうに迎えたのだろう。

それは、もはや誰にもわからない。

遺体が発見されたのは、6月19日。

奇しくもこの日は、太宰39歳の誕生日だった。

「自分が死んだら、森鴎外の墓の近くに葬ってくれ」

生前の太宰の願い通り、彼は鴎外の墓がある三鷹禅林寺に葬られた。

いまもなお、6月19日の「桜桃忌」になると、全国各地から太宰の読者が訪れる。

「森林太郎」と本名が彫られた鴎外の墓、そのはす向かいに建つの少し小ぶりな彼の墓。

そこには、ペンネームで「太宰治」と彫られている。

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