はじめに
作者の川上未映子は、大阪府出身の小説家であり、詩人であり、しかも元歌手。
2007年に、『わたくし率 イン歯-、または世界』で作家デビューし、続く『乳と卵』で2008年 第138回芥川賞を受賞している。
その他の受賞歴も華々しくて、小説家としては、紫式部文学賞、谷崎潤一郎賞、毎日出版文化賞をはじめとした数々の文学賞を受賞しているし、詩人としての活躍もめざましく、中原中也賞も受賞している。
で、今回紹介するのがこれ、
『乳と卵』
2008年 第138回芥川賞受賞作である。
それでは以下で、『乳と卵』の紹介と考察をしていこうと思う。
作品の紹介
作者 | 川上未映子 |
発行年 | 2008年 |
発行元 | 文藝春秋 |
ジャンル | 純文学・中編小説 |
テーマ | 存在と不条理 |
作品の特徴はなんといっても、「大阪弁の饒舌体」だ。
たぶん、はじめのうちは多くの人が抵抗感を抱くかもしれないけれど、読んでいるうちに その独特のリズムと詩的な趣で 次第にくせになると思う。
ちなみに、こういう文体で有名なのは、2000年に『きれぎれ』で芥川賞を受賞した町田康だ。
彼もまた、「大阪弁の饒舌体」が特徴な作家なのだが、川上未映子の文体に諧謔と狂気を足したような、つまり、だいぶブッ飛んだ言葉をあやつるので、実は、こっちもこっちでオススメしたい作家さんだ。
町田、川上、両者の共通点として「詩人としての活躍」があるのは興味深い。
単にだらだら書いていたのでは当然失敗に終わってしまう「饒舌体」が、2人の作家において評価されているのは、両者に巧まれた言葉選びがあり、それによる詩的な趣が加わっているからなのだろう。
特に『乳と卵』は「小説」でありながらも、どことなく「散文詩」のような、「音楽」のような雰囲気さえある。
さて、そんな『乳と卵』の大きなテーマに、
「なぜ、世界は存在しているのだろう」
というものがある。
この問いは、間違いなく「哲学的」で、多くの人にとっては、
「別に、そんなん、気にしなくたっていいじゃん」
という類の問いだと思われる。
とはいえ、他の人たちがどうであれ、そう問わずには居られない当の本人にとって、とても切実な問いなのだ。
そういう人の「切実さ」は、簡単で単純な言葉では とうてい言い表すことなどできない。
「なんで、ぼくは生きているんだろうか、ってか、そもそも生きているってなんなんだ? 景色が見えたり、音が聞こえたり、食べ物の味がしたり、たたくと痛かったりって、そういうことなのだろうか、そもそも、そんなふうに、ぼくが経験している「世界」ってなんなんだろう、他の人にはどんなふうに見えたり、聞こえたりしてるんだろう、ぼくと同じようにこの世界を経験しているのかな、いや、してないかもしれない、ぼくとは全く違うように、他の人たちは世界を感じているのかも、だとすればこの世界の本当の姿ってどうなってるんだろう、ってそもそも、本当にこの世界ってあるのか? 本当は今ぼくは夢のなかにいて……」
と、書き出せば、まだまだ書き足りなくて、ずっとずっと続いていきそうな感じだ。(ちなみに、上記は、とある夜中のぼくの思考である)
つまり、こういう「わたし」とか「存在」とか「世界」とか、そういう根源的なものへの「問い」というのは、堂々巡りしたり、長々とエスカレートしたりしがちで、そういう「問い」にとらわれてしまった人たちの「自意識」を効果的に表現するためには、まちがいなく「饒舌体」というのが有効な文体なのである。
この『乳と卵』は、その主題と文体とが完璧かつ絶妙にマッチしている。
それは、ぼくがここで言葉を尽くしても、あなたに伝えきることはできないので、そこはぜひ実際に読んでみて、「文学」と「哲学」の奇跡的な融合を体感してほしい。
さて、以下ではそんな『乳と卵』について、「登場人物とあらすじ」についてまとめ、作品のテーマについて考察をしていこうと思う。
考察するテーマは以下の3つ。
- 考察①「わたし」は身体? それとも心?
- 考察②「わたし」が存在するという不条理
- 考察③ 巻子の「豊胸」が意味すること
ちなみに、どれも 哲学的な問いを秘めたものばかりだ。
登場人物とあらすじ
登場人物
「私」(夏子) ・・・主人公。巻子の妹。東京のアパートで一人暮らしをしている。巻子と緑子を数日間家に泊めるが、2人の関係に心配をしている。
巻子
・・・夏子の39歳の姉。夫とは離婚している。大阪のホステスとして働き、女手一つで娘を育てている。豊胸手術のために大阪から妹 夏子のアパートにやって来た。
緑子
・・・巻子の娘。半年前から言葉を話さなくなり、ノートでの「筆談」によってコミュニケーションを取っている。思春期をむかえ、徐々に変化していく自分の身体に戸惑いを感じている。
あらすじ
巻子は娘の緑子を連れて、妹である「私」の住む東京へやってきた。 目的は、加齢と子育てによって萎えてしまった胸の「豊胸手術」をすること。 緑子は、そんな巻子を嫌悪している。 半年前から緑子は声を出さなくなり、親子のコミュニケーションは専ら「筆談」。 「私」は そんな2人の関わりを見て心配をする。 ある日、巻子は豊胸手術のカウンセリングを受けに行き、泥酔状態で帰宅する。 それがもとで、緑子の感情が爆発し、巻子との口論に発展する。 口論はエスカレートし、巻子と緑子は、卵を互いの頭にぶつけあう。 ここで親子は心を通わせることになる。 緑子も言葉をとりもどし、2人は大阪へ帰っていった。
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考察 「わたし」は身体? それとも心?
緑子は自分自身に対して、強烈な違和感を持っている。
きっかけは、思春期を迎えた身体の変化だった。
とかく、初潮は「めでたいもの」と世間でとらえられがちだが、緑子はまずそこに違和感を持つ。
そんな彼女の切実な思いは、緑子の「ノート」に書かれている。
もしあたしにも生理がきたらそれから毎月、それがなくなるまで何十年も股から血が出ることになって、おそろしいような、気分になる、それは自分では止められへん。
(中略)
みんな生理を喜んで、お母さんに相談して、これで一人前の女、とか、おめでとうとか、実際に友達でも、手当っていうか赤飯とかそういうのしてもらってるねんけどそれはすごすぎる。(単行本P31より)
同級生たちは、「初潮を迎えた」とめでたがるわけだが、緑子は心の中で「迎えるって勝手にきただけやろ」と反論する。
緑子にとって「初潮」というのは、自分の意志とは裏腹に勝手にやってきたものであって、それは「押し付けられたもの」でしかない。
ノートには、さらにこう続けられている。
あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理なったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められているって感じる。
さて、こう書いてみると、どうやら緑子は「心」とは無関係に変化していく「身体」に抵抗感を持っているようだ。
ここで、そんな彼女の意識を整理してみると、
- 「わたし(緑子)」≠ 身体
- 「わたし(緑子)」= 心
ということになるのだろう。
「身体」というのはあくまでも「わたし」の入れ物であって、「わたし」というのは身体のなかに宿っている「心」である、というわけだ。
これって、おそらく、多くの人が「わたし」について抱いている認識なのではないだろうか。
つまり、
「わたし」というのは、「身体」ではなく「心」だ。
と、多くの人が思っているのではないだろうか。
たとえば、「身体」をバカにされて怒る人は少ないのに、「心」をバカにされて怒る人は多い。
「おまえ、ほんと運動神経ないなあ」
と、彼氏に言われた彼女は「もう、そんなこと言わないでよ! いじわる!」とほっぺを膨らまし、仲睦まじくイチャつく、なんて光景はアニメやドラマや、まぁ現実においてもよく見る。
だけど、一方で、
「おまえ、ほんと頭悪いなあ」
「おまえ、ほんと性格悪いなあ」
と、彼氏に「心」をバカにされた場合、彼女だって黙っちゃいられない。
「はあ? そういうあんたのほうが性格悪いし!」
となって、おそらく仲睦まじくイチャつくなんてことには、ならないだろう。
これは、彼女が「『わたし』とは身体ではなく心だ」と感じているからにほかならない。
そもそも、医療の分野でも「脳死」なんて発想があるわけだ。
これは、「身体は機能していても、脳が機能しなければ、その人の『死』を認定しますよ」という制度なわけだけれど、ここにこそ、
- 「人間」≠ 身体
- 「人間」= 心
という考えが如実に表れているではないか。
さて、ここで哲学の話を少しだけ。
哲学における伝統的な「意識モデル」に「ホムンクルス(小人)・モデル」というものがある。
「身体」の一部である「脳」にホムンクルス(小人)が宿っていて、それが身体をコントロールしているというのだ。
ここでいう「ホムンクルス」とは「心」とか「精神」とかだと思ってくれればいい。
さらに、わかりやすくガンダムにたとえれば、
- 身体 = ガンダム
- 心 = パイロット
ということになる。
おそらく、緑子の抵抗感というのは、この「ホムンクルスモデル」に根差しているいえるだろう。
- 身体 = ガンダムという乗り物
- 心 = パイロットである緑子
「乗り物」が、「緑子」の制御を無視して暴走を始めている! というわけだ。
多くの人がそうであるように、緑子もまた、
「わたし」=心
と考えているようだ。
だけど、冷静に考えて「わたし」って、そんなにシンプルなのだろうか。
「心」こそ「わたし」で、「身体」はその入れ物だなんて、ほんとうにそうなのだろうか。
たとえば、「歩行」ひとつとってみても、「心」はどれだけ「歩行」について命令しているだろうか。
「おれの右足、左手、動け! 次に左足、右手、動け! つづけて右足、左手! 左足、右手! 右足、左手!」
ってな感じで、コックピットのパイロットよろしく、いちいち身体を操縦して歩行しているなんて人が いるだろうか。
そんなことを意識しなくても、ぼくたちの身体というのは勝手に、上手に、歩行しているように思われる( むしろ意識しすぎると、卒業式の『例のあの歩き方』になっちゃう! )。
自転車に乗れるようになるのだって、そうだ。
ころんで、おきてを繰り返し、少しずつ身体が その操縦方法を覚えていく。
これも、「心」よりも先に「身体」が理解しているからこそ、いちいち意識しなくっても、上手にバランスをとって自転車に乗れるわけだ。
スポーツや音楽をやったことがある人なら、より理解しやすいと思う。
上手なフリースローだって、滑らかなショパンの演奏だって、あくなき反復練習で「身体」に叩き込むからこそ可能になるのではないか。
では、このときの身体って「わたし」にとって一体何なのだろう。
考えてみれば、これはとても不思議なことだ。
緑子もまた、この不思議にとらわれている。
あたしの手は動く、足も動く、動かしかたなんてわかっていないのに、色々なところが動かせることは不思議。あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどん変わっていく。
緑子はこんなふうに「ホムンクルスモデル」を採用しているのだけれど、上述したとおり「ホムンクルスモデル」だけでは、どうにもうまく「わたし」を説明しきれていないような気がしてくる。
「わたし」とは「身体」なのか、それとも「心」なのか。
そうでなければ、「身体」と「心」とは、いったいどんな関係にあるのか。
じつはこれらの問いは、哲学において古くから扱われてきたものであり、今もなお多くの哲学者や科学者によって議論されているものだ。
にもかかわらず、依然としてまったく解決されていないし、その兆しも見えてはいない。
「意識のハードプロブレム」と呼ばれている、哲学上の超難問である。
緑子の感じている違和感とは、この超難問に根差している。
「わたし」と、「身体」と、「心」と、いったいどんな関係なのか。
この問いは、主に「心の哲学」という領域で扱われ「心身問題」と呼ばれている。
【 参考記事 考察・解説『ロボットの心』―【心の哲学】を分かりやすく説明ー 】
思春期を迎えた緑子は、自分自身の体の変化をきっかけにして、この「わたし」についての超難問に直面しているのである。
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考察 「わたし」が存在するという不条理
さて、「わたし」について、すこし違ったアプローチから考察してみたい。
緑子は巻子にこう言ってしまったことを後悔している。
お金のことでお母さんと言い合いになって、なんであたしを生んだん、ってこと前にすごいケンカしたときにはずみでゆうてもうたことがあって、あたしはそれをよく思い出す。
緑子がこういってしまったのは、「お金」のために言い合いをしたからであって、その根っこには「貧しい生活」がある。
緑子は巻子に対して、「こんなに苦しい生活になったのも、そもそもはお母さんの自己責任だ」くらいに思っているのだけど、その後に緑子は次のことに気が付く。
でもそのあと、あたしは気が付いたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってこと……(単行本P66より)
さて、「緑子がこの世に生まれた責任」を、とりあえず「母の巻子」にあるとしてみよう。
と、すると「巻子がこの世に生まれた責任」は「その母」にある。
同様に「巻子の母がこの世に生まれた責任」は、さらに「その母」にあって、「その母の生まれた責任」は(以下略)。
こんな感じでさかのぼっていったとき、緑子が存在することの責任の大本「X」とは、果たして誰なのだろうか。
それはまったく、分からない。
かりに誰かが、
君が存在するのは、宇宙が誕生したからだよ
なんて したり顔でいったとして、果たして緑子は納得するのだろうか。
この時、緑子は「わたし」が存在するという不条理に気づき始めている。
なぜか「わたし」はこの世界に存在している。
しかも、選んだわけでもないこの身体で、選んだわけでもないこの心を持ち、選んだわけでもないこの時代に、選んだわけでもないこの場所で、「わたし」は生きている。
そんな風に考えていくと、「わたし」が存在する不条理は、こう言い換えられないだろうか。
「なぜ、わたしは、この『わたし』なのか」
では、もう少し、この問いについて説明してみたい。
例えば、ぼくは、いまパソコンの画面に向かって、この文章を書いている。
今日は少し肌寒くて、窓から入ってくる風が冷たく感じるくらいだ。
となりの部屋にはテレビが付けっぱなしになっていて、ワイドショーの音がここまで届いてくる。
お昼のラーメンが、結構しょっぱいラーメンだったせいか、ノドが渇いている。
お腹もいっぱいで苦しいし、少しずつ眠気もやってきている。
そうだ、記事を書き上げたら、ちょっと昼寝をしようかな。
これは、今のぼく自身について説明した文書だ。
当たり前だが、上記の内容は、いまこの記事を読んでいるあなたのものではない。
「パソコンの画面」も「少しつめたい風」も「ワイドショーの音」も「ノドの渇き」も「満腹感」も「眠気」も「昼寝しようという思考」も、すべてぼくの「ここ」で起きている出来事だ。
そしてそれらは、どうやら、ぼくのこの脳が生み出しているらしいことを、科学は明らかにしている
だけど、これって不思議じゃないだろうか。
この世界には、今まさに、約70億の人々が生きている。
言い換えれば、70億の脳が同時に存在しているということだ。
そして、その70億の脳が、それぞれの「わたし」を生み出している(らしい)。
その内の1つの脳によって、ぼくの「こころ」は存在している(らしい)。
ただ、そう考えていくと、不思議に思わないだろうか。
どうして、ぼくを生み出しているのは「あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも……(×約70億)……あの脳でもなく」、この脳だったのだろう。
これが「なぜ、わたしは、この『わたし』なのか」という、哲学の伝統的な問いである。
そして、この問いは、今が苦しくて仕方がないときに芽生える問いだといえる。
緑子は、変化していく自分の身体や、貧しい生活に対する苦しみを抱えている。
だからこそ、巻子に対して、
「どうして生んだん?」
と、感情的な言葉をぶつけてしまったわけなのだが、その根っこには「存在することへの苦しみ」があるといえる。
だからこそ、緑子は「存在すること」のルーツを問い、「受精」という起源にたどり着く。
「受精」の前提には、「卵子」があって、「卵子」が機能する前提に、「初潮」がある。
緑子が、身体の変化に対して抵抗感を持つのは、この「受精」に対する抵抗感であり、それは行きつくところ、「新たな命を生むこと」への抵抗感だとえいる。
「新たな命を生むこと」は、緑子にとって「新たな不条理を生むこと」にほかならない。
そして、女性である「緑子」の身体には、この「新たな不条理を生むこと」が、生得的に宿っている。
膨らむ胸も、初潮も、つまり「乳と卵」はこの「存在する不条理」を再生産するための変化である。
心は「乳と卵」を拒絶しているのに、身体は着々と変化していってしまう。
ここに、緑子の戸惑いと、不安と、抵抗がある。
さて、緑子の母である巻子は、人工的に「乳」を膨らまそうとしているが、緑子はそれを嫌悪している。
では、緑子は、なぜ巻子の豊胸を嫌悪するか。
最後に、それについて考察していきたい。
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考察 巻子の「豊胸」が意味すること
ここまで、緑子にとって「女性の身体になること」は、「不条理を再生産するための変化」であり、それは彼女に「抵抗感」や「嫌悪感」を促すものであることを確認してきた。
だから、巻子の「豊胸」というのもまた、「女性の身体」を連想させるものであり、緑子に抵抗感と嫌悪感を促すものだといえるだろう。
ただし、緑子が実の母の「豊胸」を嫌悪するのは、こんな言葉あそびみたいな話ではない。
もっともっと切実な理由がある。
結論を言おう。
緑子が巻子の「豊胸を嫌悪する理由、それは、
巻子の「豊胸」 = 緑子の存在を否定すること
だからである。
それがよく分かる箇所を次に引く。
お母さんはふくらましたいって電話で豊胸手術の話をしてる、病院の人と話してる、ぜんぶききたくてこっそりちかよってきく、子ども産んでからってゆういつものに、母乳やったので、とか。毎日毎日毎日電話して毎日あほや、あたしにのませてなくなった母乳んとこに、ちゃうもん切って入れてもっかいそれをふくらますんか、産む前にもどすってことなんか、ほんだら生まなんだらよかったやん、お母さんの人生は、あたしを生まなんだらよかったやんか (単行本P83より)
こんな風に、巻子の乳房が小さくなったのは「緑子を産み育てたから」であるとすれば、それを大きくしようというのは「緑子が生まれる以前」を志向することであり、それは緑子にとって「自分自身の存在が否定される」ことなのだ。
「存在することの苦しみ」に1人さらされている緑子を救うとすれば、「あなたの存在には意味がある」という他者からの絶対的な肯定と受容だろう。
そして、それらを与えられるもっとも近い存在は、緑子にとっては母の巻子であるはずだ。
それなのに、巻子はまるで緑子の存在を否定し、緑子が生まれる以前に戻ることをを願うように、「豊胸」しようとしている。
それは、緑子に「存在する不条理」を連想させると同時に、緑子の「存在」を引き裂いていく行為でもあるのだ。
だからこそ、緑子の母親への反発は、悲しみと怒りを伴って「なんであたしを生んだん」という叫びとしてあらわれるわけだ。
そして、2人が互いに卵をぶつけ合うクライマックスで、緑子は涙でグシャグシャになりながら声を絞り出す。
む、胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんな思いして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの、といって、それは、あたしを生んで胸がなくなってもうたなら、しゃあないでしょう、それをなんで、お母さんは痛いおもいしてまでそれを……(単行本P103より)
そして、卵を叩きつけながら、「存在する苦しみ」を巻子に訴え続ける。
くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちゃうんか、みんな生まれてこやんかったら、何もないねんから、何もないねんから (単行本P104より)
『乳と卵』でもっとも悲痛で切ないシーンは、まちがいなくここだと思う。
ここで緑子は、自分を生んだ巻子を責めることができればいいのだけれど、ことはそうシンプルじゃないことは、緑子はよくわかっている。
なぜなら、「お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってこと」を、緑子は知っているからだ。
「なぜわたしは、『わたし』として存在しているのだろう」という問いは、
「なぜ、わたしは生まれてしまったのだろう」
「なぜ、お母さんは生まれてしまったのだろう」
「なぜ、わたしたちは、こんなに苦しいのだろう」
と、緑子の頭の中でぐるぐるとめぐっていく。
そんな緑子の問いを、一言でまとめるとすれば、きっとこうなる。
なぜ「世界」はあるのだろう。
これは、緑子の「何もないねんから、何もないねんから」という涙の訴えと対応している。
そして、これこそ、ぼくたちの「存在」をゆさぶる根源的な問いであり、多くの哲学者を戦慄させたものだった。
たとえば、天才と呼び声の高い哲学者ウィトゲンシュタインはこう言っている。
「世界があるということ、これが謎である」
なぜ、「ない」のではなく、「ある」のか。
この謎は、ある日突然に、その人にふりかかってくる。
それはちょうど、まるで空から降ってくる雨みたいに、
「あっ」
と、気が付いてしまうものなのだ。
もちろん、その謎に気が付かない人も多い。
ただ、間違いなく、緑子はその謎にとらわれてしまった人間の1人だ。
が、悲しいことに、この謎に答えはない。
いや、あるのかもしれないけれど、少なくとも、思想史上のどんな科学者も哲学者も、その謎に答えを出すことはできなかった。
「ほんとうのこと」など、だれにも分からないのだ。
だから、巻子が緑子に対して、
緑子、ほんまのことって、なに、緑子が知りたいほんまのことって、なに
と尋ねたところで、緑子はそれをうまく言葉にすることさえできない。
「ほ、ほんまのことを」
と絞り出すので精一杯なわけだ。
そんな緑子に、巻子はこう答える。
ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。(単行本P106より)
だけど、「ほんまのこと」を知りたいと、切実なまでに求めてしまうのが、ぼくたち人間だ。
「どうしても、真実がしりたい」
それは、きっと科学ではたどり着けないことを、ぼくたちは知っている。
そのときに、哲学や、文学や、宗教がはじまる。
うん。
『乳と卵』は、間違いなく、哲学であり、文学である。
- 「存在の謎」
- 「世界の不思議」
- 「わたしの不可解さ」
そういうものに、「あっ」と気づいてしまった人たちに、この本を読むことを強く勧めたい。
以上で『乳と卵』の解説記事を終わります。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
もっと「川上未映子」を読むなら
『ヘヴン』
川上未映子の傑作長編。
ここで扱われるテーマも哲学的だ。
- 「宗教」ってどうして生まれたの?
- 「善」とか「悪」って何なの?
凄惨な「いじめ」を扱う中で、これらの哲学的なテーマを深めていく。
主人公と、彼をいじめる少年が「善悪」について議論をするシーンは圧巻。
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」をほうふつとさせる凄みがある。
読んでいて重く苦しい小説だけど、ストーリーは面白くキャラクターも濃いので、夢中になって読み進められるだろう。
【 参考記事 解説・考察・あらすじ『ヘヴン』ーニーチェの「ニヒリズム」よりー 】
『夏物語』
『乳と卵』の後日譚といえる内容。
嬉しいのは、成長した「緑子」も登場すること。
650ページほどの作品で、その序盤は『乳と卵』の(読みやすい)リライト。
なので、まずはこの記事の考察を参考にしつつ、『夏物語』を読んでもらえるとうれしい。
主人公は、語り手の「私」、すなわち「夏子」
彼女は、AID(非配偶者間人工授精)によって、子どもを産むことを決意する。
もちろんここで問われるのは「命を生むこと」の是非だ。
「新たな命の誕生」は、一般的に喜ばしいことと捉えられている。
が、一方で、世の中には「反出生主義」といって、「この世界は苦しみであり、いかなる理由があっても、子どもを産むべきではない」と主張する人たちがいる。
作中においても「反主出生主義者」の女性が登場するのだけれど、作中においてもっとも悲しい存在として描かれている。(が、作中において最も吸引力があるのは、間違いなく彼女)
- 「存在することの苦しみ」
- 「存在することの不条理」
『乳と卵』において描かれたこれらのテーマは、次のように新拡充され、読者に問いかける。
「どうして人は、人を産むんですか?」
『乳と卵』の読者には自信をもってオススメできる1冊。
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