作者について
アルバイト先の事務所で「明日休んでください」と言われた日の帰り道、突然、小説を書いてみようと思いつきました。
これは、作者 今村夏子の太宰治賞受賞のことばだ。
バイトをクビになり? 思いつきで書いた小説は、半年そこらで完成させてしまったという。
そして、生まれたのが『あたらしい娘』のちに『こちらあみ子』と改題され出版された。
さらに数ヶ月後、『こちらあみ子』は三島由紀夫賞も同時受賞するという快挙をなしとげる。
こうして作家今村夏子は華々しいデビューをかざり、沢山の文学ファンを魅了している。
その後、『あひる』(河合隼雄賞受賞)、『星の子』(野間文芸新人賞)と、立て続けに芥川賞の候補となり、2019年『むらさきのスカートの女』で芥川賞を受賞した。
こうして書くと、やっぱ、とんでもない経歴の作家だなと改めて思う。
ちなみに、今村夏子はあまり精力的に書くタイプではないらしく、一時期は筆をたつこともあったらしい。
そんなとき、担当の編集者は、「あなたのペースで書いてくれれば大丈夫です」と、今村夏子が再び描くまで、辛抱強く待ってくれたらしい。
このエピソードからも、今村夏子の才能がうかがえる
「今村作品」について
今村夏子の作品には気取った「修辞」というのが、一切ない。
- 「暗示的・象徴的な表現」
- 「芸術的に美しい表現」
- 「ペダンチックで難解な表現」
そういう、まあ言ってしまえば「読者を退けてしまう表現」みたいなものは、今村作品においては全く採用されていないのだ。
簡単で分かりやすい表現だし、回りくどく説明することもないし、ただ淡々と書き込んでいくだけだ。
だから、たとえば「中編小説」であれば、2時間かそこらで あっという間に読み切ることができてしまう。
にもかからず、彼女の作品は「すさまじい」
何が「すさまじい」って、その「不穏さ」と「不気味さ」である。
読んでいると、心がソワソワ、いや、ザワザワしてくるのだ。
そんな作品を読み終えて本を閉じたとき、
「さあ、感想でも書こうかな」
なんて思って筆をとってみるのだが、その独特の「読後感」をうまく言葉にすることがなぜかできない。
そんな経験をした読者も、きっと多いことだろう。
それも、そのはず。
なぜなら、その「不穏さ」も「不気味さ」も、今村夏子は分かりやすく言語化してはいないからだ。
それらは全て行間に隠されていて、文章中に曖昧で不確かなまま、じっとりと底流しているだけなのだ。
だけど、確実に、読み手に「あるもの」を強く訴えかけてくる。
その「あるもの」とは何だろう。
おそらくそれは、「人間の不可解さ」とか、もっといえば誰もが内面に隠し持っている「狂気」とか、そういうものなのだと思う。
「書かずして、書く」
これは、おそらく多くの作家が腐心してやまないところだと思うのだが、今村夏子はそれをさらりと、こともなげにやってのける。
その作風に魅了されたぼくは、彼女の作品は新刊が出ると、必ず予約して購入するほどだ。
ちなみに彼女の全作品については、こちらで紹介している。
時間がある方は、ぜひ、参考にしてみてほしい。
【 参考記事 天才芥川賞作家【今村夏子】全作品おすすめ ーあらすじと魅力を紹介— 】
『むらさきのスカートの女』について
「不可解」さを生む理由
改めて、今回紹介するのはこちら。
『むらさきのスカートの女』
2019年上半期、芥川賞。
多くの選考員から絶賛された。
講評の中でこんな言葉がある。
「新進作家らしからぬトリッキーな小説である」
そう、この小説の最大の特徴は、その「トリッキーさ」にある。
そして、その「トリッキーさ」ゆえ、多くの読みや解釈を可能にしている。
きっと読者の中でも、こんなふうに思った人は多いのではないだろうか。
――結局、「むらさきのスカートの女」って、なんだったの?
――そもそもそんな「女」、実在しないんじゃないの?
――「女」は「わたし」が生み出した妄想なのかもしれないね。
――案外、「わたし」と「女」ってのは 同一人物なのかも。
などなど。
実際、ぼくもそんな風にあれこれと考えたりした。
そして、色んなツジツマを合わせてみようとしたりした。
が、どれもしっくりこない。
というか、どうにもうまく説明ができない。
先ほどの「今村夏子作品は、分かりやすい」という説明と矛盾するようだが、『むらさきのスカートの女』は、とにかく「不可解さ」が残る作品なのである。
それは、どうしてなのだろう。
「信頼できない語り手」とは
その理由を握る、最大の人物がいる。
それは、「語り手」である「わたし」 である。
もっとも、それは、すべての読者が勘づいていることだろう。
読み進めていけば、誰だってこう思うはずだからだ。
この「わたし」、なんかヘンだぞ。
そして、読み進めるうちに、読者の不安はいっそう募っていく。
――ほんとうに、この人の言ってることって正しいの?
――ほんとうに、この人を信頼してもいいの?
さて、小説の叙述トリックの1つに、
「信頼できない語り手」
というものがある。
「この語り手の言うことを、簡単に信頼しちゃダメだぞ」
といった書き方をあえてする手法である。
たとえば、文豪「芥川龍之介」の『藪の中』という小説が有名だ。
芥川はこの作品において、複数の「信頼できない語り手」を登場させている。
彼らは「ある武士の死」について自分が見たことを証言しているのだが、それらはどれも矛盾だらけで、互いにまったくかみ合わない。
「いったい、何が本当のことなんだろう」
「いったい、だれを信じればいいんだろう」
読者にこう思わせて、作品をミステリー仕立てにしてしまうのが「信頼できない語り手」という叙述トリックの効果なのである。
『むらさきのスカートの女』という作品にも、この叙述トリックが使われている。
そして、作品の「不可解さ」というのも、まさにここに根ざしている。
だから、そもそも「わたし」の言うことを、文字通り受け取って読んではいけないのだ。
彼女は、おそらく、「ウソ」をついている。
彼女は、きっと「事実」を語ってはいない。
そんなふうに、ぼくたちは「わたし」を疑ってかからなければならない。
以下、そんな「疑いの目」でもって、作品の考察に入っていきたいと思う。
そして、この一筋縄ではいかない作品について、ぼくは敢えて ある1つの解釈を提示しようと思う。
その解釈とは、
「そもそも、むらさきのスカートの女なんていなかった」
というものである。
まずは、簡単に登場人物とあらすじについてまとめていこう。
登場人物とあらすじ
主な登場人物
わたし(権藤さん・黄色いカーディガンの女) ・・・語り手。ホテルの清掃員。「むらさきのスカートの女」を執拗に尾行・観察している。彼女と「友だちになりたい」と思い、自分の職場に引き込もうとする。
「むらさきのスカートの女」(日野まゆ子) ・・・いつもむらさき色のスカートを履いている、町で有名な女。「わたし」の画策により、ホテルの清掃員として働き始め、そこで所長と不倫関係になる。
所長 ・・・ホテルの事務所で清掃員をまとめている。妻子があるにもかかわらず、「むらさきのスカートの女」と不倫関係になる。
ホテルの清掃員たち ・・・全員が女性。初めは「むらさきのスカートの女」に好意的だが、彼女が出世するや、悪意と敵意を向け始める。みなが噂好きで、「むらさきのスカートの女」と所長の不倫に気がつく。
スポンサードリンク
あらすじ
「むらさきのスカートの女」(以下、女) と友だちになりたい「わたし」は、彼女を執拗に尾行・観察し、自分の職場に引き込もうと画策する。 そのかいあってか、「女」は「わたし」と同じ「ホテルの清掃員」として働き始める。 はじめは内向的な「女」だったが、その謙虚な働きぶりが評価され、他の清掃員らと良好な関係を築いていく。 すぐに「女」はチーフに抜擢され、次第に自信を身につけ、所長とも不倫関係になる。 すると、清掃員たちの間に「女」の良からぬ噂が流れ、清掃員たちは「女」に悪意や敵意を向けはじめる。 そんな矢先に、ホテルの備品が何者かに盗まれ、バザーで出品されていたことが発覚。 たちまち、「女」は犯人扱いされてしまい、清掃員たちに責められる。 所長にもハシゴを外されてしまい、激昂した「女」は、所長に意図せぬ危害を加えてしまう。 取り乱す「女」の前に現れた「わたし」は「黄色いカーディガンの女」と名乗り、逃亡の手助けをする。 こうして「むらさきのスカートの女」は逃亡し、忽然と姿を消したのだった。
考察①「わたし」による2つのウソ
さて、ここからは、先ほど紹介した
「むらさきのスカートの女なんて、そもそも実在していない」
という解釈を展開していきたい。
そのための大前提を、改めて確認しておこう。
「わたし」は「信頼できない語り手」であり、彼女の言うことを鵜呑みにしてはいけない。
ぼくたちは、そういう姿勢を持つ必要がある。
では、具体的に、「わたし」のどの語りについて疑う必要があるのだろうか。
それは、大きく以下の2点だ。
- 「むらさきのスカートの女」という都市伝説
- 「彼女と友だちになりたい」という「わたし」の告白
である。
と、こう書くと、
「え、それって、このお話の核心部分なんじゃない?」
と、読者はきっと困惑するだろう。
だけど、ぼくはあえてこの作品の根幹部分を、「『わたし』によるウソ」として読んでみたいのである。
もちろんぼくは、無根拠にこんなことを言っているわけではない。
ぼくがそう判断するのには、それなりの根拠がちゃんとあるのだ。
スポンサーリンク
考察②「むらさきのスカートの女」伝説はウソ
町の人々は「女」に無関心
まず「むらさきのスカートの女」とい都市伝説は存在していない、という件に関して。
その根拠は、
- そもそも、「むらさきのスカートの女」について、町の人々が無関心であること
- そもそも、「むらさきのスカートの女」には、言うほど特異な点がみられないこと
- そもそも、「むらさきのスカートの女」は、「むらさきのスカート」を履いているのか怪しいこと
である。
まず、1「町の人々の無関心」について。
そもそも、「むらさきのスカートの女」にまつわる都市伝説というのは、「わたし」によって語られたものである。
うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさきのスカートを穿いているのでそう呼ばれているのだ。
これが、作品の冒頭で、ここから、「女」に関する情報が「わたし」によって次々に語られていく。
「わたし」によれば、「むらさきのスカートの女」を見た町の人々は、こんな反応を見せるという。
- 知らんふりをする
- さっと道を空ける
- ガッツポーズをする
- 嘆き悲しむ
ところが、実際に「女」が商店街をあるいても、こういった反応をする人というのは一切いない。
というよりも、みなが「むらさきのスカートの女」を認識していない。
そもそも「女」は、商店街で普通に買い物をするし、普通に就活だってするし、普通に採用だってされるし、普通にバスにものるし、普通に居酒屋にもいくし、挙げ句の果てに「痴漢」だってされてしまう。
いったい どこの誰が、彼女を「むらさきのスカートの女」として認識しているというのだろう。
確かに、公園の子どもたちは「女」に声をかけたり、タッチしたりしてはいたが、それが「むらさきのスカートの女」をターゲットにしたゲームであるかは、全くの不明なのだ。
それが理由に、彼らはあっというまに「まゆさん」と呼んで、彼女と打ち解けてしまうではないか。
むしろ、町の住人に声を掛けられ、不審者扱いされるのは「わたし」の方なのだ。
「わたし」がシャンプーの試供品を配り、「むらさきのスカートの女」を待ち伏せするシーンがある。
シャンプーの小袋が残り5つとなった時、むらさきのスカートの女が商店街に現れた。
試供品を配るわたしに気がつくと、興味ありげにビニルバッグの中身にチラチラと視線を走らせた。だが、こちらに近寄ることなく、そのまま通り過ぎようとした。
追いかけて手渡そうと体の向きを変えた瞬間、突然左腕をつかまれた。
「あんた、どこの人? 組合に許可とってる?」
私の腕をつかんだのは、たつみ酒点の主人だった。
(中略)
「ねえ、今、配ってたのは、それ何? ちょっと見せて」
わたしは主人の手を振りほどいた。
「あっ。こら。まちなさい」
この主人というのは、商店街の組合長だと紹介されている。
普段は愛想の良い主人が、大真面目な顔で詰問してきた。
「愛想の良い人」が、いきなり今日の今日で、「大真面目な顔で詰問」してくるというのも、なんだか唐突に感じられる。
ひょっとして、商店街の人たちはすでに、不審な動きをする「わたし」をマークしていたのではないか?
そんな風に推測することだってできそうだ。
以上のように、ぼくはある程度の確信を持って、こう考えている。
「むらさきのスカートの女」という都市伝説は、「わたし」が作り上げたウソなんじゃないか。
スポンサーリンク
・
「女」に特異点は見られない
次に、2の「女には言うほど特異な点がない」について。
これは、読み進めれば、誰だってすぐに分かることだろう。
結論を言えば、「女」は常識的なコミュニケーションを取ることができるのだ。
同僚と飲みにも行くし、子どもたちに慕われもするし、所長と恋愛関係にもなるし、甥っ子にプレゼントも送るし、お世辞もいうし、冗談もいうし、怒るし、悲しむし、嫉妬もするし・・・・・・
結局、彼女には「不気味」なところなんて、ほぼほぼない。
確かに、所長の家に「オニ電」する件や、所長への強い嫉妬心をむき出しにする件など、狂気じみたものを感じる場面はあるのだけれど、そこには「理屈」や「論理」というものが きちんとあって、理解しようと思えば、理解できる。
それよりも、そんな「女」の生活に対して異常なまでに執着し、尾行し、観察している「わたし」のほうが、よっぽど読者の理解を拒んでいるといえる。
「むらさきのスカート」穿いてる?
最後に、3の「むらさきのスカートはいてるの?」について。
そもそも、作中で「女」が「むらさきのスカート」穿いているという、客観的な記述は全くない。
ただ正直、ここに関していえば、積極的な「反証」というのもない。
たとえば、
「青いジーパンを穿いていた」とか、
「茶色いキュロットを穿いていた」とか、
そういう記述が多くあれば、
「ほらね、そもそも、むらさきのスカートなんて穿いてないじゃん」
といえるのだけれど、そう言えないのが残念。
ただ、こんな場面があるのは興味深い。
昨夜のむらさきのスカートの女が何色の何を穿いていたのか、わたしはどうしても思い出すことができなかった。
どうだろう。
そもそも彼女は、「むらさきのスカート」なんて穿いてたの? と、疑ってかかるためには、ここに十分妥当性があるのではないだろうか。
と、いうことで、そもそも根本的なところが「?」であると、ぼくは思っている。
スポンサーリンク
考察③「『女』と友だちになりたい」はウソ
「わたし」の不可解な2つの行動
「わたし」は、少なくとも1年以上、「むらさきのスカートの女」を尾行し、観察している。
それは、平日だろうと休日だろうと、夜だろうと昼だろうと、お構いなしだ。
執拗な尾行や観察がどれだけ徹底しているかというと、なんと「わたし」は、その「足音」だけで、それが「むらさきのスカートの女」かどうかを判別できてしまう。
これを「狂気」といわずに、なんと言おう。
そこまでして、「わたし」が『女』に執着するのは なぜだろう。
作中では、「彼女と友だちになりたいからだ」と、はっきりと紹介されている。
実際、「わたし」は、あれこれと画策して、なんとか彼女を自分の職場に引き込むことに成功する。
だけど、不可解なのは なぜか一向に「わたし」は「女」と友だちになる気配がないことだ。
2ヶ月だって声を掛けたのは、「ねえねえ」と「もしもし」だけなのだ。
チャンスはいくらでもあったはず。
公園で、通勤のバスで、職場の更衣室で、ホテルのフロアで・・・・・・
にもかかわらず、積極的な動きを見せることもなく、「わたしは」これまで通り、ひたすら尾行と観察を繰り返すだけ。
一体「わたし」は、何がしたいのだろう。
そこで、改めて、次の視点を持って作品を読んでみる。
「『友だちになりたい』なんて、そもそもがウソだったんじゃない?
すると、「わたし」の不可解な行動が、妙にひっかかり出すのだ。
それは次の2つの場面における、「わたし」の行動だ。
- 「女」が痴漢された場面
- 入院した所長を見舞う場面
である。
1つずつ、順に見ていこう。
スポンサーリンク
・
「女」が痴漢された場面
「むさきのスカートの女」は、出勤するバスの中でサラリーマン風の男に痴漢被害に遭ってしまう。
「この人、痴漢です!」
そう訴えるや、すぐに大事になり、その日は始業時間に遅れてしまうことになる。
当然、職場では「女」の遅刻についてあれこれと取り沙汰される。
朝のミーティングを終え、フロアへと上がるエレベーターの到着を待つ間、スタッフたちは口々に噂していた。早速無断欠勤か。いつものパターンだ。きっともう来ないだろうね。
この後、清掃員の女たちによって、「日野さんの遅刻の理由」について、あれこれと議論が交わされる。
「何か事情があるのよ」
「何も言わずに辞めるような子じゃないと思うわ」
「そうですかあ?」
「今回もお決まりのパターンだと思いますけどね」
「彼女、トレーニングがんばってるみたいだから」
「そういう子に限って、何も言わずに辞めたりするんですよお」
念のために言っておくが、彼女らのやり取りは、「わたし」の目の前で展開されている。
エレベーターを待つ「フロア」など、大した広さではないだろう。
客観的に見て、「わたし」は彼女の会話の輪の中に入っている。
にもかかわらず、なぜ「わたし」は一言も発しないのだろう。
「日野さん、痴漢にあってしまったんですよ」
そんな風に一言でいいから言えば良いのに。
なぜ、「わたし」は、朝起きた事件について、彼女たちに報告しないのだろう。
「友だちになりたい相手」であれば、普通はフォローの1つでもするのではないか。
入院した所長を見舞う場面
そうなってくると、ある1つの仮定が思いつく。
それは、
「わたし」は「女」の立ち位置が悪くなることを、望んでいるのではないか。
というものだ。
このままだと、清掃員の「女」への印象はこうなってしまう。
「結局、あの子も、いままでの子と一緒だね。口では偉そうなこと言っておいて、結局、無断欠勤するような子じゃない」
ところが、「わたし」はこうなっていくことを、実は望んでいるのではないだろうか。
ちなみに、この「ホテルの清掃員」たちは、みな女ばかりである。
彼女たちが噂で盛り上がるタイプの人間であり、同僚をあげつらったり、「あいさつができない子」をいじめるような人間であることを、「わたし」はよく知っている。
実際に 作品の後半でやり玉にあげられた「女」は、彼女たちからいじめに近い仕打ちをうけることになる。
「わたし」は、ひょっとして、そういうことを全て想定して「女」を職場に引き込んだのではないだろうか。
そんな風に思ってみると、作品の最後のシーンから見えてくるものがある。
それは、入院した所長を見舞うシーンだ。
所長が入院したのは、「女」との不倫関係がこじれ、その痴話げんかの結果、高所から転落したからである。
だが、周囲は、その事実を全く知らない。
むしろ、彼は「日野さん」にストーカー行為を受けていた被害者として扱われている。
もちろん所長は「ほんとのことがバレるんじゃないか」と、内心ヒヤヒヤしている。
「あの・・・・・・、マネージャーは、何か言ってた?」
と所長が言った。
「何かって?」
「いや、その・・・・・・」
「あの女のこと?」
所長はうなずいた。
「警察に任せてあるって、それだけ」
「そう、警察に・・・・・・」
所長は眉間にしわを寄せた。
秘密が露見しないことを確信したのか、このあと所長は生き生きと語りだす。
- 「あの女から、ストーカー被害を受けていたこと」
- 「あの女から、家族をダシに脅迫されていたこと」
- 「あの女を改心させようと、アパートへ一人でいったこと」
そして、所長の言葉を信じて疑わない、彼の家族、清掃員たち。
「バザーの転売事件」の犯人も「日野さん」ということで落ち着き、そんな危険な女は今や警察に追われる身、きっといつかは逮捕されるに違いない。
こんな感じで、周囲にとってはみれば、完璧に「めでたしめでたし」の趣なのだ。
ただ、「わたし」だけが、全てを知っている。
たが、彼女はじっと沈黙したままだ。
「いや、そうじゃないんです、本当は日野さんと所長は不倫関係にあって・・・・・・」
と、真実を告げるのが、「友だち」としての正義ではないだろうか。
ほんとうに「友だちになりたい」のなら、本当に「女」を助けたいのなら、いまこそ、この場で「所長のウソ」を糾弾するべきではないのか。
だが、「わたし」は沈黙を守り続ける。
それは、「女」が痴漢被害にあった、あの日となんら変わらない。
どうして「わたし」は、あれほど友だちになりたいと願った「むらさきのスカートの女」を助けてやらないのだろう。
それは、「友だちになりたい」という「わたし」の言葉は そもそもがウソで、彼女の本当の意図というのは別にあったからなのだと思う。
スポンサーリンク
考察④「わたし」の真の意図とは
では、最後に「わたし」の真の意図とは何だったのか、それについて考えてみたい。
結論を言えば、
「女」を(社会的・存在的に)抹殺すること
これだったのではないだろうか。
もちろん、これは「結果ありき」の論かもしれない。
痴漢、不倫関係、痴話げんか・・・・・・
「女」が消えることとなった背景には、少なからず偶発的な事件があるからだ。
だけど、ぼくは、この作品を読みながら、「わたし」の不穏で不気味な意図を感じずにはいられなかった。
「女」の立ち位置が明らかに悪くなっていっていくことを、「わたし」が望んでいたのだとすれば・・・・・
「女」を職場に引き込んだ「わたし」の目的が、「友だちになること」以外にあっとすれば・・・・・・
そう考えると、「むらさきのスカートの女」は、「わたし」によって抹殺された被害者だったのではないかと思えてくるのだ。
なんなら「女」は、逃亡しているワケじゃないのかもしれない。
なぜ彼女は消えてしまったのか。
「わたし」だけが、その理由を知っているのかもしれない。
「女」はもう、この世界にいないのかもしれない。
存在もろとも、「わたし」に消されてしまったのかもしれない。
ぼくは、そんなことさえ考えてしまう。
スポンサーリンク
・
まとめ「本当の都市伝説は別にある」
「むらさきのスカートの女」は、「わたし」によって職場に引き込まれ、最後はその姿を消してしまった。
とすると、すぐに次の疑問が浮かんでくるだろう。
じゃあ、そのターゲットは、どうして「日野さん」だったの?
それは分からない。
論理的な答えなど、ないのかもしれない。。
「たまたま」ターゲットにされただけなのかもしれない。
ここで、改めて「信頼できない語り手」の話を思い出して欲しい。
この『むらさきのスカートの女』という作品は「わたし」による語りで進められていく。
そして、この物語の前提には「むらさきのスカートの女」という都市伝説がある。
だけど、読者は、「わたし」の言葉を鵜呑みにしてはいけない。
「むらさきのスカートの女」なんて都市伝説は、じつは最初から存在していない。
「わたし」の作り話なのだ。
とすると、「わたし」に抹殺されてしまったのは、「むらさきのスカートの女」なんかではなく、一市民である「日野まゆ子」さんだったということになる。
さて、ここで、芥川選考委員の講評を紹介したい。
語り手と語られる女が、重なったり離れたりしながら、最後には語られる女が消えて、その席に語り手が座っている。
この講評をよんで、ぼくは、鳥肌が立つ思いだった。
小説の最後。
「わたし」が「むらさきのスカートの女」のベンチに座るシーンがある。
これはきっと、真の「都市伝説の主人公」は誰なのかを暗示していると思われる。
「女」が消え、最後に残ったのは結局のところ「わたし」だけ。
つまり、この小説世界において存在するのは「黄色いカーディガンの女」だけなのだ。
――ねえねえ、黄色いカーディガンの女って知ってる? いつも黄色いカーディガンを着ている女なんだけど、その女に出会ってしまうと、この世界から消されてしまうらしいよ――
そんな都市伝説が、きっとこの小説世界では流布している。
そして、「黄色いカーディガンの女」のターゲットになってしまった女性は、「日野さん」のように、この世界から消されてしまうのだ。
この小説は、信頼できない語り手である「黄色いカーディガンの女」による、「日野さんを消すまでの物語」なのだろう。
物語の最後では、「黄色いカーディガンの女」が、その実在性を強烈に放っている。
公園の南方、3つならんでいるうちの、一番奥のベンチ・・・・・・
「黄色いカーディガンの女」はそこに座って、今日もターゲットを物色しているかもしれない。
次に読むなら”この作品”
最後に『むらさきのスカートの女』を読んでおもしろいと思った人に、おすすめの本を紹介しようと思う。
以下で紹介するの作品も、独特の「生きづらさ」を抱える女性が主人公の純文学だ。
『こちらあみ子』(今村夏子)
主人公の「あみ子」は純粋な心を持つ少女。
彼女と世界との間には埋められない溝があって、彼女の優しさはなぜか周囲をいら立たせていく。
あみ子が周りを幸せにしようと思えば思うほど、彼らの生活が壊れていってしまう。
そして、あみ子は疎んじられ、厭われてしまう。
どうしてあみ子はこうも生きづらいのだろう。
純粋すぎることは罪なのだろうか。
読みながら、そう問わずにはいられないだろう。
【 参考 考察・解説『こちらあみ子』(今村夏子)― 純粋という美しさ ― 】
『コンビニ人間』(村田紗耶香)
2016年の芥川賞受賞の、ザ・「生きづらい人」文学。
36歳未婚女性、古倉恵子は、大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。
彼氏も作らず、結婚もしない彼女を、周囲は「異常」と呼ぶ。
だけど、筆者は読者にこう問うてくる。
「異常だなんて、一体、だれが決めてるの?」
村田紗耶香の作品は、とにかく「異常って何?」という強烈なメッセージがあるが、それは本作も同様。
哲学的な主題を扱いながらも、不気味に、おかしく、おもしろく、秀逸な文学にしたてあげている。
自分たちは「まともだ」と、平穏にあぐらをかいている読者を、じわじわと揺さぶってくる1冊。
【 参考 解説・考察『コンビニ人間』村田沙耶香)ー異常だなんて誰が決めた? ー 】
『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)
主人公のあかりは「生きづらさ」を抱える女子高生。
世間の中で居心地の悪さを感じ続ける彼女が、唯一自分らしくいられるのは「推し」を推しているときだけ。
そんな推しがある日「炎上」してしまう。
ファンをなぐったらしい。
あかりが信じたものは、神でも仏でもなく、人間である「推し」だった。
彼女にとって「推しごと」は救いになりうるのか。
そして、生きづらさを感じる人が前向きに生きていくことはできるのか。
本作は「推し」を推すファンの心理を描いた作品だけど、生きづらさを抱えて生きる全ての人に刺さるはず。
【参考 考察・解説『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)ー推しに見られる宗教性- 】
その他「今村夏子」作品の紹介
今村夏子の作品にはハズレがほとんどない。
どの作品にも「不穏さ」や「不気味さ」が底流していて、読んでいて心がザワザワするものばかりだ。
寡作の作家ではあるが、発表される作品は、どれも独特な魅力をもつものばかり。
以下の記事で、その魅力について賞書いているので、ぜひ参考にしてみてほしい。
【 参考 天才芥川賞作家【今村夏子】全作品おすすめ ーあらすじと魅力を紹介— 】
その他「芥川賞」受賞作の紹介
近年の芥川賞は、読みやすいものが多い。
しかも、ただ読みやすいだけではなくて、今回の『むらさきのスカートの女』のように、おもしろく、かつ読み応えもある。
以下の記事では、『むらさきのスカートの女』を含めた5作品を、「芥川賞を読むなら、まずはここから」という主旨で紹介している。
ぜひ、こちらも参考に、次に読む本を選んでみてほしい。
【 参考 【本当におもしろい】おすすめ芥川賞作品5選 ー初級編①ー 】
ぜひ、ご参考にどうぞ。
”Audible”で芥川賞を聴く
今、急速にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。
【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、人気の芥川賞作品が月額1500円で“聴き放題”となる。
たとえば以下のような作品が、”聴き放題”の対象となっている。
『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)や、『むらさきのスカートの女』(今村夏子)や、『おいしいご飯が食べられますように』(高瀬隼子) を始めとした人気芥川賞作品は、ほとんど読み放題の対象となっている。
しかも、芥川賞作品に限らず、川上未映子や平野啓一郎などの純文学作品や、伊坂幸太郎や森見登美彦などのエンタメ小説の品揃えも充実している。
その他 海外文学、哲学、思想、宗教、各種新書、ビジネス書などなど、多くのジャンルの書籍が聴き放題の対象となっている。
対象の書籍は12万冊以上と、オーディオブック業界でもトップクラスの品揃え。
今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。
・
・
コメント