考察・解説『雑種の犬』(遠藤周作)― 多くのテーマを持つ傑作 ―

宗教
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作者「遠藤周作」について

日本の敗戦後に生まれた文学を「戦後文学」と呼んでいる。

戦後文学には、おもに作家自身の「戦争体験」をモチーフにした作品が多い。

そんな中で、主に作家自身の「日常」とか「生活」をモチーフにした、「私小説」的な内容を書く人たちが現れた。

彼らはまとめて「第三の新人」と呼ばれている。

遠藤周作というのは、その「第三の新人」の代表格だ。

今回紹介する『雑種の犬』も、遠藤周作の体験を元にした「私小説」といえる作品だ。

彼の作品の中でも かなりマイナーな掌編ではある。

ページにして わずか15ページと、かなり短い。

ただ、その短さの中に、遠藤文学の重要テーマがいくつも見られる

しかも、読後の余韻もすばらしく、哀愁と悲哀が、潮のように押し寄せてくる。

『雑種の犬』は、知る人ぞ知る、かくれた傑作短編だとぼくは思う。

この記事では、『雑種の犬』に見られるテーマについて、考察していこうと思う。

で、その上で必要なのは、遠藤周作の「幼少時代」だ。

以下、簡単にそれを示そう。

  •  3歳・・・父の転勤により、満州「大連」での生活を始める
  •  9歳・・・父の不倫などが原因で両親が不仲になる。
  • 10歳・・・両親が離婚。母に連れられ帰国。兵庫県へ移り住む。
  • 12歳・・・母がキリスト教に入信。周作も受洗。キリスト教徒になる。

と、とりあえず、ここまで書けば、今回は十分。

なお、押さえておいて欲しいキーワードが3つある。

  • 「両親の不仲」
  • 「孤独な日々」
  • 「キリスト教」

である。

次に、これらを念頭に、作品についてまとめていく

登場人物とあらすじ

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あらためて。

『雑種の犬』はこちらの短編集に収録されている。

この本は、「母」をテーマに編集した短編集だ。

表題作『影に対して』も、「母」をストレートに描いた作品だ。

2020年に発見され、話題になった作品なので、知っている人も多いかも知れない。

なお、『影に対して』がどんな作品なのか知りたい人は、以下の記事も読んでみてほしい

『影に対して』(遠藤周作 著) ― 主要テーマ「母なるもの」について ―

それでは、以下、登場人物についてまとめる。

勝呂
……主人公。妻子持ち。「クウ」という雑種犬をもらってきた。幼少期、大連(満州)に住んでいた経験があり、その頃に両親が離婚した。大連でも「クウ」という雑種犬を飼っていた。
勝呂の妻
……動物を飼うことが嫌いで、勝呂に「クウを棄ててきてください」と言う。雑種は恥ずかしいので、どうせ飼うなら「ちゃんとした犬」を飼いたいと思っている。

……勝呂の1人息子。10歳。芸1つ覚えない「クウ」を馬鹿にしている。どうせなら「名犬ラッシー」のような犬を飼いたいと思っている。
クウ
……勝呂が牛乳屋からもらってきた雑種。オスと思われていたが、後にメスだと分かり、棄てられる。

次に、以下、あらすじについてまとめる。

三ヶ月前、勝呂が牛乳屋から雑種犬をもらい「クウ」と名付けた。

ある日、妻は勝呂に「クウを棄ててきてください」と言ってきた。

息子の稔も、妻の意見に賛同している。

2人は「名犬ラッシー」のような「ちゃんとした犬」なら飼っても良いと思っている。

しかし、勝呂は「ちゃんとした犬」は嫌だという。

なぜ、勝呂は「雑種犬」にこだわるのだろう

その理由は、勝呂の幼少時代、大連での孤独な生活にあった。

この作品のテーマを以下の3つに設定する。

  • 「雑種」
  • 「棄てる」
  • 「犬」

では、これら1つ1つを見ていきたい。

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重要テーマ「雑種」

勝呂がクウをもらってきた最大の理由は、クウが「雑種」だったことだ。

勝呂は雑種だからこの仔犬がかわいかったのである。なぜかしらないが、同じ犬でも血統のいい小利口な犬は性に合わなかった。臆病で、人がよい、雑種犬が彼は好きだ

(P86より)

勝呂が雑種を好きな理由は大きく2つある。

それは

  1. 雑種には「臆病さ」「人のよさ」「不細工さ」といった愛嬌があるから。
  2. 大連時代、幼い勝呂に寄り添ってくれたのが「雑種犬」だったから。

まず、1つ目に関しては、いまほど引用した箇所にも見て取れる。

その雑種の愛嬌を「人間臭さ」と言い換えてみるのは、ちょっと唐突だろうか。

だけど、ぼくは、それをもっと拡大解釈をしてみようと思うのだ。

その解釈とは、

「雑種」=「弱さ」「惨めさ」「醜くさ」「卑怯さ」の体現者

というものである。

上記に羅列したのは、誰もが目を背けたくなるような、「人間の負の側面」である。

「名犬」や「ちゃんとした犬」に見られる「崇高さ」とか「高貴さ」とかとほど遠い、「泥臭さ」とか「人間臭さ」というものに、勝呂はどうしても惹かれるというわけだ。

同じような論理で、勝呂は、長年乗ってきた「ボロの中古車」にも愛着を持っている

「クウ」に対する思いと、「ボロ車」に対する思いは、とてもよく似ている。

昨年、自動車を売るか売らないかという時も、今と同じような気分を味わった。それは三カ年、彼の家で使ったボロのオースチンを売って新しい車に変えようと 妻が言い出した時だ。

(中略)

だが 彼はそのボロ車に奇妙な愛着をもっていた。車体の格好も不細工で 塗りもはげかかっている。坂道をのぼる時、その古いオースチンはまるで喘ぐような音を どこかで立てる。だが その音を聞くたびに彼は、これは俺とそっくりだ、太った女房と子どもとを背負って 人生を喘ぎながら登っていくこの俺だ と時々思うことがあった。

(P94より)

この「ボロ車」にも、「弱さ」「醜さ」「惨めさ」といった、上記で紹介したイメージが投影されていることが良く分かる。

そして、さらに、もう1つのイメージを加えることができるだろう。

それは、「老い」である。

時間とともに、そこらじゅうが傷み、ガタがきて、動けなくなり、誰かの役にたつこともなく、人から嫌悪され、疎まれ、遠ざけられ、しまいには棄てられてしまう。

そんな「ボロ車」は、じつは遠藤周作の「老人観」と、ぴたりと一致している。

では、「弱さ」「醜さ」「惨めさ」「老い」といったイメージを持っている「雑種犬」や「ボロ車」を棄てることには、いったいどんな意味があるのだろう。

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重要テーマ「棄てる」

唐突だが、遠藤周作の「愛と恋について述べた言葉」を紹介しよう。

「愛」と「恋」は全く違う。「恋」は誰にでもできるものだ。キラキラと美しく魅力あるものを愛好すれば、それで良いのだから。だけど「愛」は 誰にでもできるとは限らない。誰もが嫌悪するような「弱くて醜いもの」 それを棄てないことこそが「愛」という行為だからだ。だから、どんなに年老いて、醜くて、惨めだろうと、その相手を棄ててはいけない。それは「愛」のない行為だからだ。

これは、遠藤周作が、彼のエッセイなどで繰り返し述べているものだ。

そして、この「恋愛観」は、そのまま彼の「人生観」にも通じている

どんなに醜くて、惨めで、情けなくても、あなたはあなたの人生を棄ててはいけない。それは、人生に対する「愛」のない行為だからだ

もちろん「愛」という言葉は、「クリスチャン」である彼ならではの言葉なのだが、この言葉には、すべての人たちに通用する普遍性があると、ぼくは思う。

そして、ここで話しは戻る。

「雑種のクウ」にも「ボロ車」にも、「弱く、醜く、惨めな人間」が投影されている。

だからこそ、それを「バカにする」ことや、「棄てる」ことに、勝呂は抵抗と嫌悪を感じる。

まず引用するのは、息子稔が「雑種」をバカにするシーン

「ばっかじゃないのか。この犬」

 息子は次第に飽きたのか犬に見向きもしなくなっていた。学校から戻ってクウが尾をふって、庭でおやつを食べている彼に近寄っても、

「ノオ・ノオ」

 追っ払うだけである。

お前、なぜこいつが嫌いなんだ

だって汚いもの。それに頭だってよくない。名犬ラッシーみたいならいいんだけど」

「かわいがってやればどんな犬だって利口になる」

「駄目。もともと雑種だらね。生まれつきぬけているんだよ」

勝呂は嫌な顔をした。子どもを𠮟ろうと思ったが、どう𠮟っていいのか、言葉に迷い口をつぐんだ。

(P90より)

次に、「ボロ車」を妻が棄てようとしたシーン

「嫌だ。俺は売りたくない」

だってあれはもうすぐ使いものにならなくなるのよ

使いものにならなくなったら・・・・・・お前、売るのか

妻は当たり前じゃないの、と言った。息子も格好の悪い車はいやだと言った。その時勝呂は今と同じような不快な気持ちで黙り込んだ。

「クウを棄てる」ことも、「ボロ車を棄てる」ことも、勝呂にとっては、「弱く醜いものを棄てる」という「愛のない行為」なのだ。

それはつまり、誰しもが直面する「老い」を嫌悪することとも、「老いた自分」を拒絶することとも、「人間の人生」を否定することとも、根っこの部分でつながっている。

遠藤周作の小説には、

「棄てる」

というモチーフが多く描かれている。

それは、「主人公の母」であったり、「雑種の犬」であったり、「ハンセン病患者」であったり、「人間の老い」であったり、様々である。

ぼくたち人間は、「醜いもの」を棄てようとする、身勝手な存在だと、遠藤周作は言いたいのかもしれない。

たとえ、どんなに愛していた存在でも、それを棄ててしまおうとするのが、ぼくたち人間だ。

たとえ、どんなに愛されていたとしても、いつか棄てられてしまうのが、ぼくたち人間だ。

だからこそ、ぼくたちには

「決して棄てようとしない存在」

が、必要となってくる。

どんなに弱くて、惨めで、情けなくても、決して棄てようとしない存在・・・・・・

遠藤周作は、彼の作家人生をかけて、それを描こうとしていた。

それが、

「母なる神」

イエス・キリストだった。

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重要テーマ「犬」①

次に、「犬」について考えてみたい。

勝呂が雑種に惹かれる理由は2つあった。

  1. 雑種には「臆病さ」「人のよさ」「不細工さ」といった愛嬌があるから。
  2. 大連時代、幼い勝呂に寄り添ってくれたのが「雑種」だったから。

1については、すでに見た。

ここでは2について見ていきたい。

大連での生活は幼い勝呂にとっては、辛く、悲しく、孤独に満ちたものだった。

毎日のように聞こえる両親のいさかい。

嘆き悲しむ母の姿。

それらを見たり聞いたりする苦しみは、幼い勝呂にとって耐えられるものではない。

しかも、彼には、その苦しみを分かち合えるような友もいない。

彼にできるのは、少しでも家から距離を取ること。

遅くまで学校に残るか、学校を出ても家に戻らず、外をぶらつく毎日。

そんなときに、いつも彼のあとをついてきくれた存在があった。

それが、かつて飼っていた犬、「雑種のクウ」だったのだ。

彼のあとをいつもクウだけがついてきた

   (中略)

彼が立ち止まると、首をかしげ、哀しそうな眼で勝呂をじっとみつめた。

(P92より)

父親と母親が憎み合い傷つけ合った毎日、彼は自分のつらさをうちあける相手を持っていなかった。

(中略)

だから彼は、犬にだけ自分の悲しみを訴えたのである。あの一匹の黒い雑種犬だけが少年時代の勝呂の伴侶であり、その孤独を知っていた。彼は首をかしげ、哀しそうな眼で夕暮れの雪のなかに立ちどまった主人をじっと見るのだった。

クウは、勝呂の孤独に寄り添ってくれた「伴侶」だった。

だれにも打ち明けられない勝呂の悲しみを、唯一知ってくれた「理解者」だった。

勝呂の悲しみに「哀しい眼」を向け、ともに悲しんでくれる「共感者」だった。

だが、勝呂はそんな「クウ」を裏切ることになってしまう。

両親の離婚が決まり、勝呂は伯母の家に引き取られることになるのだが、そこに「クウ」をつれていくことができなかったのだ。

クウはどうするの

「母ちゃんが戻ってくるまでクウもおとなしくお留守番だろ」

伯母は父の顔をちらっと見ながら言った。

「時々、お前、会いにくればいい。伯母ちゃんのところでは伯母ちゃんが犬が嫌いだから連れて行けないんだよ

(P97より)

そうして、勝呂を乗せた馬車が動き出す。

クウは、馬が怖くて、馬車に近づけない。

どんどん遠ざかっていく馬車。

クウはそれを、じっと見つめていた。

この体験が勝呂に、与えたのはクウに対する「罪悪感」だろう。

だからこそ、大人になった勝呂は「雑種犬」を拾ってきたと思われる。

その犬をかわいがるのは、勝呂にとっての「贖罪」だったのかもしれない。

だけど、勝呂は、けっきょく同じことを繰り返す。

母と稔の言うとおり、ふたたび「クウ」を棄ててしまうのだ。

この物語は、次のように幕を閉じる。

仕方なく勝呂はクウを連れて家を出た。夕靄の中でクウはあっちこっちの電信柱をかぎ、草むらに鼻を入れ、あとをついてくる。クウと勝呂は呼ぶ。するとこの雑種の犬は彼を見上げて弱々しく尾をふる。大連で別のクウが、彼を哀しそうにみつめ、尾をふってついてきたように。

(P100より)

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重要テーマ「犬」②

では、最後。

遠藤周作ファンであれば、彼の作品の多くに「犬」が登場することは知っていると思う。

「犬」とは、遠藤文学において、どんなモチーフとして描かれているのだろう。

その答えは、これまで見てきたことで、すでに明らかになっている。

遠藤文学にとって「犬」とは何か。それは、

悲しみと孤独の同伴者

である。

『雑種の犬』という作品の中においても同様だ。

すでに、確認したことだが、大連時代の「クウ」は、幼い勝呂にとって、孤独に寄り添ってくれる存在であり、悲しみを理解してくれる存在であった。

作中では「伴侶」という言葉が使われているが、遠藤周作は「同伴者」という言葉を様々な作品の中で使っている。

そして、その言葉はある文脈において最も多く使われる。

その文脈は「キリスト」だ。

遠藤周作は、「人生の同伴者としてのキリスト」というものを、数々の作品で描いている。

それは、「人間の悲しみ」を知る同伴者であり、「人間の孤独」を知る同伴者であり、「人間の弱さ」を知る同伴者でもある。

同伴者としてのキリストは、「弱くて惨めな人間」を裁く神ではない。

「信じるものは救いますよ」などと、条件付で人間を選ぶ神でもない。

だけど一方で、「苦しむ人間」を分かりやすく救済してくれる神でもない。

その人にぴったりと寄り添い

「お前の悲しみは、わたしだけが知っている」

と、その人と共に、ただただ悲しむだけの神である。

この神は、「人間の悲しみを、悲しんでいる存在」ということができる。

ぼくは、遠藤周作の作品を読むたびに、いつも考えることがある。

それは「人間の悲しみを癒やしてくれる存在」のことだ。

そして、ぼくはこう思う。

人の悲しみを癒やすのは「その悲しみを知る存在」であり、「その悲しみをともに悲しんでくれる存在」なのだ。

そういう存在がいてくれるだけ、人は悲しみに耐えられるし、孤独を生きていける。

だけど、ほとんどの「人」は、そんな存在にはなれない。

辺りを見渡してみても、そんな「人」を見つけることは難しい。

なぜなら、ぼくたち人間は、「弱く醜いもの」を、棄てようとしてしまう生き物だからだ。

最後の最後まで、孤独に寄り添ってくれる存在……

きっと、それは、人間じゃないのかもしれない。

だから、ぼくは、遠藤周作の言う「同伴者」(たとえばイエス・キリスト)のことを、ちょっとだけ信じてみようとすることがある。

すると、まれに、ふしぎなあたかかさから、涙が出そうになることがある。

他の誰が見捨てようと、絶対に自分のことを見捨てずに、傍に寄り添って共感してくれる同伴者。

たしかに彼は、なにもできない、無力な同伴者かも知れない。

だけど、そんな同伴者の存在に、救われる人たちというのは、きっと沢山いる。

遠藤周作の文学には、

「あなたの悲しみや孤独を知っている存在は、きっといるのだ」

という、小さな小さな希望を与えてくれる、そんな力が宿っていると思う。

『雑種の犬』は15ページ足らずの短い作品かもしれない。

ほとんどの人が知らないマイナーな作品だろう。

だけど、遠藤文学のエッセンスを凝縮した、とても純度の高い作品であり、人間の悲しみや、それに寄り添ってくれる存在の可能性を提示してくれる。

20分もあれば読める作品なので、ぜひ、よんでみてほしい。

「遠藤周作」を読むなら……

『沈黙』

遠藤周作の「母性的キリスト観」が描かれた問題作。

「さばく神」ではなく、「ゆるす神」の存在が、描かれている。

日本人にとって「キリスト教」とは何か、「救い」とは何かを問うた、宗教文学の最高峰。

なお、『沈黙』についてはこちらで考察をしているので、ぜひ参考にしてみてほしい。

【参考記事 『沈黙』(遠藤周作 著) ― 日本人にとって宗教とは ―

『深い河』

遠藤周作の晩年の作品にして、遠藤文学の集大成とも言える傑作。

「すべてを包み込む大いなる生命」という彼の宗教観が描かれている作品。

日本を代表する、第一級の宗教文学と言える。

【考察記事 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー

『海と毒薬』

遠藤周作の代表作の1つ。

九州大学病院の日本人医師による、米軍捕虜に対する生体解剖を扱った本作。

神を持たない日本人にとっての「罪の意識」や「倫理」とはなにかを問いかけた作品。

「日本人は、神の概念を持たなかった」というフェレイラの言葉にも通じる作品。

【考察記事 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー

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遠藤周作の作品を読むなら、電子書籍の「Kindle」がオススメ。

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少しでも興味のあるかたは、ぜひ参考にどうぞ。

【  2022年版【Kindle】のメリット・デメリット・おすすめ機種を解説!  】

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