解説・考察『コンビニ人間』(村田沙耶香)ー「異常なんて誰が決めた?ー

文学
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おもしろい「純文学」の好例

「純文学」という響きを聞いて、

「ああ、国語で読まされる、よく分かんないヤツでしょ?」

といった印象を持っている人は多い。

そんな人の固定観念を180度ひっくり返してしまうのが 村田沙耶香の『コンビニ人間』である。

2016年に芥川賞を受賞した、正真正銘の「純文学」でありながら、ストーリーもおもしろく、オチもあり、エンタメ性も高い。

そしてこの主人公は、世の中に数多ある小説の主人公と比較してみても、抜群に生きづらそうだ。

まさにキングオブ「生きづらい」女性なのである。

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考察①「生きづらい」主人公について

では、そんな主人公、「古倉恵子」について、簡単に紹介しよう。

  • 36才の女性。
  • 見た目悪い。
  • 年齢=彼氏いない歴。
  • コンビニのアルバイト店員。

まあ、ここまでであれば、

「なるほど、ちょっと生きづらそうだな」ってなところだろうか。

それから、「コンビニ店員? ああ、なるほど、この人がコンビニ人間なのかな?」

くらいのもんだろう。

では、ここからは更に、彼女の「生きづら」ポイントについて、具体的に見ていきたい。

彼女の「生きづら」ポイントは以下の5つ。

  1. 価値観が、常識から大きく外れている点
  2. 相手の気持ちを想像することができない
  3. いきすぎた合理的発想がある
  4. 数字に対して強い執着をもっている点
  5. 柔軟な思考、臨機応変の行動ができない点
【1、彼女の非常識 】
・幼少期、ケンカする同級生をスコップでぶん殴りって争いをしずめようとした過去を持つ。
・泣き叫ぶ甥っ子を見ながら「本当に黙らせたいなら 殺せばいいのに……」と思う。
【2・3、想像力の欠如と合理的発想 】
・幼少期、焼き鳥好きの家族のために、死んだ小鳥を持ち帰ろうとして、家族を驚かせた過去を持つ。(死んだ鳥という意味じゃ、拾った鳥も食用の鳥も同じでしょ? という理屈 )
【4、数字に対する執着 】
・コンビニの勤続日数を細かく数えている。
・人から「なぜ結婚しないの」「なぜアルバイトなの」と言われた回数を細かく数えている。
【5、柔軟性の欠如 】
・具体的なマニュアルがなければ行動できず、マニュアルが徹底しているコンビニでしか働けない(恵子がコンビニで働いている最大の理由)

さて、このようなパーソナリティに、冒頭のスペックを加え、改めて彼女を紹介すると、こんな感じになる ↓

「常識外れで、人の気持ちが読めなくて、応用も利かず、人間関係にも難ありで、結婚どころか彼氏も作らず、正社員にもなれず、36歳になるまでコンビニアルバイトを続けている

そんな彼女を、家族や世間は「異常」と呼ぶわけだ。

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考察② 世間の「異常/普通」とは何か

恵子は家族から「異常」であるため「治る」必要があると認識されている。

だけど、作者はそこで一歩立ち止まり、なぜ恵子が「異常」と呼ばれなければならないか、それを問うている。

現代の日本という社会のなかで、恵子をこうも生きづらくしている、その根本原因とは、一体なんなのか。

『あのさ、異常、異常っていうけど、一体いつ、だれが、どんな権限のもとで決めてるわけ?』

というわけである。

これが、作品内に流れる大きなテーマだ。

以下、「異常とは何か」について考察を進めていきたい。

まず、コンビニが恵子の居場所となり得たのは、前述の通り具体的なマニュアルのおかげだ。

そのルールのもと、コンビニの「店員」はみな営業利益を求める「同志」となる。

そして、ルールを守ることで、恵子はそこに溶け込む「普通」の存在になれる。

朝礼での「誓いの言葉」によってルールが身体レベルで刷り込まれ「普通」の存在に作り上げられていく様子はとても興味深い。

「ここは強制的に正常化される場所なのだ。異物はすぐに排除される。(P58・L3)」

そのように恵子も考えるとおりコンビニは「普通」が身体化されていく場であり、ルールを守れない存在は即座にクビになる場なのだ。

そして、ルールを守る恵子はこのようなコンビニで一時的な「普通」を手に入れることができた。

しかし実際、店長や同僚の泉達は「営業利益」なんかよりも、恵子と白羽の「ゴシップ」を優先する存在だったのだ。

「彼らは自分と同じ志を持つ存在ではなかったのだ」

そう分かると、恵子はたちまち自身が「異常」であることを感じる

そして、バイトの新人君の前で「涙ぐみそうに(P111・L8)」なってしまう。

コンビニのマニュアルよりも「もっと大きなルール」にそって生きている彼らは、恵子と「同じ細胞(P119・L16)」を持つ同志などではなかったわけだ。

では、コンビニの店員達をはじめ恵子の周囲の人々が守るルールとはなんだろうか

地元のBBQにおける友人ユカリの夫のセリフがまず目に付く。

いや、就職が難しくても、結婚くらいしたほうがいいよ。(P74・16)」

彼らの守るルール、つまり彼らの「普通」とは「就職」であり「結婚」であることは明らかだ

だから、それらに無頓着な恵子は、彼らにとって「やべえ」のであり、「不気味な生き物」のようであり、排除の対象になってしまうわけだ。

この後すぐ、恵子は自分が「異常」であることを意識し、「普通」でいられるコンビニの音を聞きたくなる。

ただ、この時、恵子はコンビニさえも「就職」と「結婚」のルールが蔓延する場であることは知らない……

 

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考察③ なぜ恵子は「異常」なのか

なるほど、恵子は結婚もしないし、就職もしない。

だから、世間は彼女を「異常」とみなす。

だけど、ここで1つの疑問が浮かぶ。

そもそも、なぜ、就職も結婚もできない存在を、世間は「異常」とみなすのか

結論から言えば、

組織や集団はその存続と繁栄を目的とするもので、それを妨げる存在は排除の対象となるから

である。

もう少し分かりやすく説明してみよう。

白羽という男がいる。

彼もまた「異常」のレッテルを張られた男なのだが、彼はファミレスで、恵子に対して次のように語る。

「この世界は、縄文時代と変わっていないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にムラから追放されるんだ。(P84・L15~)」

共同体の存続を妨げるものであれば、男も女も関係なく、すべて排除の対象となってしまう。

そもそも、近代社会が目指してきたものは「個人の幸福の追求」であったはずだ。

「共同体の繁栄」というのは、あくまでも、「個人の幸福」のための手段だった。

だけど、いつしか「共同体の繁栄」それ自体が自己目的化してしまった。

その先にあった1つの例が「優生学」という危険思想であり、ナチスによるホロコーストというおびただしい「個の排除」であった。

「共同体の存続の足を引っ張るやつは、みんな殺してしまえ」という論理である。

ここにきてホロコーストのたとえは、やや唐突に感じられるかもしれない。

だけど程度の差こそあれ、恵子と白羽が「異常」とみなされるのには、全く同じ論理が働いている。

彼らは「縄文時代」から続く、「排除の原理」の被害者だったのだ。

繰り返すが集団とはその存続が自己目的化するものであり、そこには必ず排除の原理が生まれる。

それは、今も昔も変わらない。

恵子の頭の中で響き続ける「変わらないねえ(P85・L12)」という言葉は、とても暗示的だ。

集団というのは排除を繰り返し、細胞を変えながら存続し続ける。

それは、いつの時代も「変わらない」ということなのだろう。

 

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考察④「コンビニ人間」とは何だったのか

さて、最後に「コンビニ人間」が意味することについて考察をしたい。

作品の結末において恵子がコンビニの「声」を聴く。

そして、次のように言い放つ。

「私は人間である以上にコンビニ店員なんです(P149・L10)」

これは、彼女の「人間やめます」宣言であり、「コンビ人間」宣言である。

そして彼女は再びコンビニに戻ろうとする。

ここで描かれている恵子は、明らかに「普通」とはかけ離れた存在であり、あの白羽にさえ「狂ってる」「人間じゃない」と言われる程に狂気じみている。

多くの考察記事において、このシーンは、

――恵子はコンビニで、自己実現を果たしたのです。

――結局コンビニが恵子にとって、唯一の社会との接点だったのです。

なんて解釈されているようだ。

だけど本稿をここまで読んでいただいた方は、この解釈が 見当違いであることが分かると思う。

集団の存続のための「就職」と「結婚」を重んじる「ムラのオスとメス」(P119・L16)しかいないコンビニに恵子はすでに絶望しているからだ。

むしろ恵子は社会との接点を自ら断ち、「コンビニ人間」として狂気の中で生きていくことを決意したのだといえる。

だから読者が読後に持つであろう

――いや、そんなにコンビニが好きならもう社員になれよ

といった類の反論も、全くもって不毛なのである。

「コンビニ人間」となった今の恵子にとって、「社会的なステータス」などもはや意味がないからだ。

当初恵子にとって社会とつながるための「手段」であったコンビニは、今やそれ自体が神聖さを帯びた「目的」となったのである。

恵子は自己を殺してまでも社会に適合することでを選ばなかった。

たとえ「異常」というレッテルを張られても、自身の「狂気の声」に素直に耳を傾けていくことを選んだのである。

これからの恵子は周囲の人の言葉を真似ることなどなく生きていけるだろう。

もっともその代償は「人間」の資格を失うことなのだが。

 

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考察⑤「異常」を解体した哲学者

さて、以上、本書に描かれたテーマ「異常とは何か」について考察をした。

この「異常」というレッテルは、時代や地域によって全然違う

いまでこそ、LGBTなど、セクシャルマイノリティと呼ばれる人たちに対する理解は、どんどん進んできている。

けれど、一昔前は、そういった理解はなかったと記憶している。(たとえば、一昔前の本を開いてみると、同性愛者を侮辱するような表現が平気で登場する)

ちなみに、時代をもっとさかのぼって、江戸時代以前に目をむけてみれば、男性の同性愛なんて、常識だったわけだ。(あの織田信長も男性の恋人がいたし、同様に武田信玄なんて、小っ恥ずかしくなるほどに濃厚なラブレターを男性の恋人に送っている)

そう考えただけでも、「正常/異常」なんてものは、時代や集団ごとに全然違うといえる。

現代の人々の意識に植え付けられている「正常/異常」の線引きには、絶対普遍の根拠などない

もし、今、あなたが「異常」というレッテルをはられ、生きづらい思いをしているとすれば、それは、あなたのせいなんかじゃない。

強いて言えば、この時代、この地域の「正常/異常」の線引きをしている、どこかの誰かが悪いのである。

と、してみれば、すぐさま一つの疑問が頭をよぎらないだろうか。

「だったら、その線引きをしているヤツは、一体誰なんだ?」

じつは、この「異常」の出自について、全身全霊で問うてきた1人の人間がいる。

フランスの哲学者、ミシェル・フーコーだ。

彼自身、同性愛者であり、彼もまた「生きづらい」思いをしてきた1人だ。

これまでの歴史の中で、人々の好奇や悪意に晒され、なす術もなく、尊厳を踏みにじられてきた人々は、ごまんといる。

しかし、フーコーには、彼らにない大きな武器があった。

優秀な頭脳と明晰な思考力である。

彼は、「自分を異常として排除しようとするこの言説は、一体いつ、どこで、だれが作ったのだろう」という問いのもと、主著『狂気の歴史』において、「正常/異常」が生まれた歴史と、その原理について考察し、ある一定の答えを出している。

彼の論考もまた、本当にスリリングなので、『コンビニ人間』と合わせて、こちらも強くおすすめする。

(こちらも参照 『狂気の歴史』(ミシェル・フーコー 著) ー正常とか異常とか、一体何が決めてるのか ー

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考察⑥「村田沙耶香」の凄まじさ

本書『コンビニ人間』もまた、現代の日本社会の「正常/異常」の線引きを決めているものが何なのか、その問いに対して、大きな示唆を与えてくれる1冊なのである。

ここで改めて、レストランでの白羽の言葉を引いてみたい。

この世界は、縄文時代と変わっていないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にムラから追放されるんだ

彼は、「正常/異常」による線引き、排除の原理は、今も昔も変わらないと主張している。

「異常」を形作る、ある普遍的な原理がある、ということだ。

村田沙耶香も登場人物の議論を通して、「正常/異常」の出自について、明らかにしようとしている。

『コンビニ人間』をじっくりと読み、解釈してみると、

なんと村田沙耶香はフーコーと同じ結論にたどり着いていることがわかる。

ちなみに、フーコーというのは、「正常/異常」を相対化する強烈な言説によって、「西洋中心主義」を破壊し、多様性というものを世界に広めた張本人(の1人)である。

この、「西洋中心主義」を破壊した思想群を「構造主義」と呼ぶ。

今、世界が、いろんなことに寛容になりつつあるとすれば、それはフーコーをはじめとする「構造主義者」らのおかげだといっても過言ではない。

それぐらいに、フーコーが成し遂げた仕事は、人類にとって大きな意味を持っている。

村田沙耶香のすごさは、作者自身が日常の中で「生きづらさ」をリアルに感じ、コンビニといった題材を用いて、フーコーと同じような哲学的な問いを扱い、そして、すさまじい小説として描き切ったところなのだと思う。

彼女の、人間を見る洞察力は半端じゃない。

なお、村田沙耶香のその他の作品を読むと、「構造主義」の論理と似たモチーフが散見される。

おそるべし村田沙耶香なのである。

オススメ作品を紹介

最後に、『コンビニ人間』を読んでおもしろいと思った人に、おすすめの本を紹介しようと思う。

『コンビニ人間』で描かれたのは「生きづらさ」を抱えた女性だった。

以下で紹介するのは、恵子と同じく「生きづらさ」が主人公の純文学だ。

『むらさきのスカートの女』(今村夏子)

2020年の芥川賞受賞作

街で有名な「むらさきのスカートの女」

彼女は、お決まりの公園の、お決まりのベンチに座り、お決まりのクリームパンを食べている。

そんな都市伝説みたいな彼女と、「私」は友達になりたいと思っている。

この作品は「私」による一人称の語りで、「むらさきのスカートの女」について語っていくのだが、次第に読者はなに不穏なものを感じ始める。

この「私」……何かが変なのだ。

果たして「私」とは誰なのか。

「むらさきのスカートの女」なんて、本当に存在するのか。

誰が正常で、誰が以上なのか。

ぜひ本書をとって、自分なりの解釈を楽しんでみてほしい。

【 参考 解説・考察『むらさきのスカートの女』―「語り手」を信じてよいか―

『こちらあみ子』(今村夏子)

主人公の「あみ子」は純粋な心を持つ少女。

彼女と世界との間には埋められない溝があって、彼女の優しさはなぜか周囲をいら立たせていく。

あみ子が周りを幸せにしようと思えば思うほど、彼らの生活が壊れていってしまう。

そして、あみ子は疎んじられ、厭われてしまう。

どうしてあみ子はこうも生きづらいのだろう。

純粋すぎることは罪なのだろうか。

読みながら、そう問わずにはいられないだろう。

【 参考 考察・解説『こちらあみ子』(今村夏子)― 純粋という美しさ ―

『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)

主人公のあかりは「生きづらさ」を抱える女子高生。

世間の中で居心地の悪さを感じ続ける彼女が、唯一自分らしくいられるのは「推し」を推しているときだけ。

そんな推しがある日「炎上」してしまう。

ファンをなぐったらしい。

あかりが信じたものは、神でも仏でもなく、人間である「推し」だった。

彼女にとって「推しごと」は救いになりうるのか。

そして、生きづらさを感じる人が前向きに生きていくことはできるのか。

本作は「推し」を推すファンの心理を描いた作品だけど、生きづらさを抱えて生きる全ての人に刺さるはず。

【参考 考察・解説『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)ー推しに見られる宗教性-

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