はじめに「小説の2つの潮流」
文学と一口にいっても、そのジャンルは多岐に渡っている。
一番オーソドックスなのは「小説」、次に「随筆」とか「詩」、さらに「短歌」や「俳句」なんてのもあげられるし、意外に思われるかもしれないが「評論」だってモノによっちゃ立派な文学の1つである。
その中でも「小説」に至っては、そのジャンルはさらに細分化される。
思いつくままに列挙しても、
- 純文学
- エンタメ小説
- ミステリー小説
- 時代小説
- 児童文学
- ライトノベル
と、これだけのジャンルが「小説」にはある。
もちろん、上記のジャンルの中には、さらに細分化できるものもあるし、これらの枠に収まりきらない作品も少なからず存在している。
さて、この記事で取り上げるのは、「純文学とエンタメ小説の違い」についてである。
両者は、「小説」の中では最も有名なジャンルであり、最も大きな潮流であり、互いの違いや共通点について、しばしば議論される。
――純文学とエンタメ小説って何が違うの?
――純文学とエンタメ小説の共通点って何?
小説好きなら、そうした疑問を一度は持ったことがあると思う。
あるいは、小説を執筆している人ならば、
――僕の小説って純文学なのかな? エンタメ小説なのかな?
と、一度は悩んだこともあるかもしれない。
この記事では、そんな人たちの疑問に答えるべく、「純文学」と「エンタメ小説」の正体について明らかにしていきたい。
お時間のある方は、ぜひ最後までお付き合いください。
まずは結論から
もったいぶらず「純文学」と「エンタメ小説」の違いを明らかにすべく、さっそく両者の特徴を端的に答えよう。
以上が、「純文学」と「エンタメ小説」の定義だといっていい。
“作者ファースト”の純文学
「純文学」はいわば「作者ファースト」
ちなみに、芥川賞作家の「村上龍」は、「何のために小説を書くんですか?」というインタビューに対して、次のように答えている。
「そんなもん分かれば、文学なんてやっていない」
なんとも煙に巻かれるような返答だと感じるが、ここで大事なのは、彼の創作の動機に「文学とは何か」といった問いがあることだろう。
それは決して「読者を楽しませたいから」とか、「書いていて自分が楽しいから」といったものではない。
なんなら、村上龍の返答には、書きながら苦しんでいる彼の姿さえ想像できてしまう。
こんな風に、純文学というのは、作者による“芸術”や“哲学”への探求が、創作における最大の動機なのだ。
- 美しさとは何か
- 生きるとは何か
- 人間とは何か
そうした思考や思索の跡が、純文学作品には必ずある。
だから、作品で描かれる世界は“常識”や“社会通念”にとらわれないものが多い。
また、文体に対する意識が高いのも大きな特徴の一つだ。
時に表現が特殊だったり、難解な抽象語が多用されたりと、「読者の理解」を強烈に拒む作品というのも、純文学には少なくない。
ということで、基本的には ストーリーやプロットの優先順位はそこまで高くはない。
モノによっては、全く話が進展しなかったり、明らかな齟齬や矛盾をはらんでいたりするくらいなのだ。
「純文学」と聞いて、「なんだか難しそう」とか、「どうせ退屈なんでしょ?」とか、多くの人々がそうした感想を持つとすれば、それはこうした「作者ファースト」に由来しているといっていいだろう。
総じて、純文学とは、決して多くの読者に受け入れられるものではない。
だけど、一部の読者に対しては、文字通り「存在が揺さぶられる」ほどの衝撃を与えることもある。
ちなみに、純文学に揺さぶられる読者というのは、
「ああ、なんてこの世界は生きづらいんだ」とか、
「どうして、人とうまく付き合うことができないんだ」とか、
「いっそ、自分なんて消えてしまえばいいんだ」とか、
そうした、何かしらの“実存的な不安”にさいなまれている可能性が高い。(ま、ぶっちゃけ、僕もそうなんですが)
純文学というのは、基本的に、そうした「生きづらさ」を抱える少数派をターゲットにしたジャンルだといっていいかもしれない。
それが理由に、エンタメ小説畑では、「10万部達成」といった言葉飛び交うが、一方の純文学畑では「1万部売れれば大成功」なんていう言葉が飛び交う。
ちなみに、純文学の新人賞「芥川賞」で最も売れた作品は、又吉の『火花』で約300万部。
作者が芸人であることや、映画化も手伝って、芥川賞では異例の大ヒットとなった。
“読者ファースト”のエンタメ小説
一方で「エンタメ小説」はいわば「読者ファースト」
エンタメ小説には “読者を楽しませたい”という作者による工夫や苦心が必ずある。
だから、最も優先されるのはストーリーの面白さや、プロットの巧みさだ。
しかも、そこにはある種の「分かりやすさ」がなければならない。
ここで急いで強調しなければならないが、エンタメ小説では、「読者の想像を裏切る展開」とか「読者の意表を突く内容」とかはむしろ大歓迎される。
ただし、それらはあくまで「社会通念上のモノ」でなければならないし、「常識の範囲内」にとどめなければならない。
文体や使われる語句、表現も、標準仕様が基本である。
エンタメ小説は、多くの読者からの理解が得られなければならないのだ。
ということで、エンタメ小説の主眼は、なんといっても「沢山の読者を楽しませること」だ。
たとえば、エンタメ小説界の重鎮、伊坂幸太郎は、エッセイや対談の中で、
「僕は楽しい話を書きたい」
と、頻繁に語っている。
一方で彼は
「僕は楽しい話を読みたい」
と、読者の視点から語ることも多く、彼のこのスタンスの中に、僕は「エンタメ小説」の本質があるのだと考えている。
つまり、「エンタメ小説」の世界では、作者はもちろん、読み手もまた「楽しい話」や「面白い話を」求めているのである。
作者の多くは“芸術”や“哲学”を追究するために小説を書いているわけじゃないし、読者もまた「存在を揺さぶれる衝撃」とかを求めて本を手に取るわけじゃない。
どっぷりと小説世界にのめり込み、腹から笑うことができたり、ワクワクドキドキ興奮できたり、温かい気持ちで涙を流すことができたり――そんな作品を書いたり、あるいは読んだりすることが、エンタメ小説にとっては最も大切なことなのだ。
―― 多くの人たちに驚きや感動を届ける ――
これが「エンタメ小説」の意義であり、だからこそ「大衆小説」という別名があるワケだ。
映画化やドラマ化、アニメ化されることが多いのも、そこに由来しているといっていい。
“二刀流”の作家たち
現代の文学シーンを眺めてみると、ある作家が「純文学畑」なのか「エンタメ畑」なのか、ある程度すみわけされているのが現状だ。
たとえば東野圭吾とか伊坂幸太郎を「純文学作家」と呼ぶことはまずないし、村上春樹とか大江健三郎とかを「エンタメ作家」と呼ぶこともない。
ただし、
「純文学もエンタメ小説も、どっちもやります!」
といった作家が存在するのもまた、事実。
たとえば、吉田修一なんかが挙げられる。
代表作『悪人』や『怒り』は発表後またたく間にベストセラーとなり、映画化もされたので有名だが、あれは間違いなく正真正銘の「エンタメ小説」だ。
稀代のストーリーテラーと言える吉田修一は、いまや「エンタメ畑の人」と人々から認知されているだろう。
だけど、意外に思われるかもしれないが、彼はもともと「純文学畑」の作家だったのである。
彼のデビュー作『最後の息子』は、文学界新人賞を受賞したゴリゴリの純文学作品で、その後『パーク・ライフ』で第117回芥川賞を受賞し、彼は「純文学作家」としての地位を確立。
しかし、その同年、『パレード』という作品で、なんと彼は山本周五郎賞を授賞している。
山本周五郎賞は「エンタメ小説」を対象にした権威ある文学賞だ。
1人の作家が「芥川賞」(純文学)と「山本賞」(エンタメ小説)を受賞することは史上初。
まさに吉田修一は、文學界の“二刀流”とも言える作家なのだ。
「読む手」は止まる? 止まらない?
さて、ここで、作家「平野啓一郎」の言葉を紹介したい。
その前に、平野について簡単に紹介しておくと、彼もまたマルチに活躍する作家の1人だ。
1998年、超難解で観念的な小説『日蝕』で芥川賞を受賞し、鮮烈なデビューを果たした平野。
若干23歳でのデビューは、あの大江健三郎と並ぶ、当時としては最年少記録。
「三島由紀夫の再来というべき神童」
そう言われた平野の作品は、選考会でも「近代小説の正統」との評価が与えられた。
つまり、ゴリゴリの純文学作品である。
ところが、近年の彼はさまざまなジャンルの作品を手掛け、中には「これってもはやエンタメ小説だよね」と思うほどに面白い作品もある。
特に、本格恋愛小説『マチネの終わり』は、読む者の手を止めない面白さがあり、映画化もされたことでも有名だ。
「純文学」と「エンタメ小説」を巧みに描き分ける平野啓一郎。
彼もまた、文学界の二刀流だと言っていいだろう。
そんな彼だが、とあるインタビューで「純文学とエンタメ小説の違い」について、次のように語っている。
定義づけは難しいですが「ページをめくる手をとめてはいけないのが」エンタメだとすれば、ページをめくる手を止めながら、いろいろ考えたり感じたりするのが純文学。通念的な常識では収まりきらない思索なり問いなりをはらんでいるのが、いわゆる純文学作品ではないかと思います。(雑誌『公募ガイド』より)
この言葉は、「純文学」と「エンタメ小説」、両者の本質を上手に言いえている。
平野の言葉を踏まえて、もう一度「純文学」と「エンタメ小説」の違いを整理すると、次の通りになる。
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主な文学賞と文芸誌を整理
これまで「純文学」と「エンタメ小説」の特徴の違いについて、まとめてきた。
とはいえ、である。
とはいえ、様々な作品に触れていると、判断が難しい作品に出会うことが多々ある。
「これって、エンタメ小説っぽいよね」といった純文学に出会うこともあるし、
「これって、純文学っぽいよね」といったエンタメ小説に出会うこともある。
そうした作品に出合った時、その作品が「純文学なのか、エンタメ小説なのか」どのように判断すればよいのだろうか。
その判断材料として、
「その作品がどんな文学賞を受賞したのか」
「その作品がどの雑誌に掲載されたのか」
に注目することが挙げられる。
「文学賞」には、純文学作品を対象にしたものと、エンタメ系作品を対象にしたものがある。
また「雑誌」にも、純文学作品を対象にしたものと、エンタメ系作品を対象にしたものがある。
上記はそれぞれの代表的な「公募制新人賞」だ。
もしも手に取った作品に「新潮新人賞受賞作!」なんてキャッチコビーがあれば、その作品は客観的に「純文学作品」になるだろうし、「小説すばる新人賞受賞!」なんてキャッチコピーがあれば、その作品は客観的に「エンタメ小説」ということになる。
また、掲載されている(された)雑誌が「文芸誌」なのか「小説誌」なのかで判断することもできる。
「文芸誌」というのは純文学系の雑誌であり、「小説誌」というのはエンタメ小説系の雑誌である。
上記は、代表的なものである。
もしも手に取った作品が『群像』(講談社)に掲載されたものであれば、その作品は客観的に「純文学作品」になるだろうし、『小説現代』(講談社)に掲載されたものであれば、その作品は客観的に「エンタメ小説」ということになる。
こんな風に
「その作品がどんな文学賞を受賞したのか」
「その作品がどの雑誌に掲載されたのか」
そうした観点から、純文学かエンタメ小説かを客観的に判断することができる。
おわりに「小説を書くあなた」へ
ここまで「純文学」と「エンタメ小説」との違いについて解説をしてきた。
それぞれの特徴を改めてまとめれば、次の通り。
また、作家の平野啓一郎の言葉を参考にすれば、こう言い換えられる。
さて、最後に「そもそも」の話をしよう。
そもそも、「純文学か、エンタメか」って、そこまで大事なのだろうか。
正直に言えば、多くの人にとっては、そこまで大事じゃない。
だって、読書をする上で大切なことは
「その本を通じで、自分自身が何を感じたか」
この1点に尽きるからだ。
とはいえ、「純文学か、エンタメか」といった問いが尽きないのは、間違いなく、次のような人たちの存在が大きいと言っていいだろう。
それは小説を執筆する人たちだ。
実は、僕自身も小説を執筆し、文学賞に応募してきたクチである。
「自分の小説って、そもそも、どこに出すべきなの?」
そうした疑問を抱いたときに、
「純文学って何? エンタメ小説って何? 両者の違いって何?」
に強い関心を持ち、とにかく、いろんな本をあさった。
そうした経験が、この記事には生きているし、僕と同じ悩みを持つ人の役に立てればと、この記事をしたためた次第である。
もしも、あなたが、小説を執筆する人で、
「純文学と、エンタメ小説って何が違うんだろう」
そんな疑問を持って、この記事にたどり着いたのなら、ぜひ、記事の内容を参考に応募先を検討してみてほしい。
以上です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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