考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー

宗教
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はじめに『深い河』における問い」

『深い河』は、遠藤周作の晩年の作品にして、日本を代表する第一級の宗教文学だ。

ご存知のとおり、遠藤周作はクリスチャンであり、彼はその生涯をかけて「キリスト教とは何か」を問い続けてきた。

数々の作品の中で、その問いに応え続けてきた彼は、代表作『沈黙』において「母性的キリスト観」を描き出し、宗教界に大きな反響をもたらした。

その後も遠藤は「キリスト教とは何か」を問う作品を書き続けていくのだが、次第に それらの問いは「キリスト教」という特定の世界観を抜け出し、次のように姿を変えていく。

  • 「宗教とは何か」
  • 「人生とは何か」
  • 「人間とは何か」

そして、彼は、晩年に完成させた『深い河』において、その問いに対する一定の解答を 読者らに提出している。

この記事では、その問いに対する「解答」について考察し、遠藤周作の「宗教観」「人生観・人間観」についてまとめていきたい。

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遠藤周作ついて

日本の敗戦後に生まれた文学を「戦後文学」と呼んでいる。

戦後文学には、おもに作家自身の「戦争体験」をモチーフにした作品が多い。

そんな中で、主に作家自身の「日常」とか「生活」をモチーフにした、「私小説」的な内容を書く人たちが現れた。

彼らはまとめて「第三の新人」と呼ばれている。

遠藤周作というのは、その「第三の新人」の代表格だ。

以下、その略歴を示そう。

3歳・・・父の転勤により、満州「大連」での生活を始める

9歳・・・父の不倫などが原因で両親が不仲になる。

10歳・・・両親が離婚。母に連れられ帰国。兵庫県へ移り住む。

12歳・・・母がキリスト教に入信。周作も受洗。キリスト教徒になる。

19歳・・・学業不振で浪人。母に経済的な負担をかけまいと上京。すでに帰国していた父を訪ね 再び生活を共にする。

20歳・・・慶應義塾大学文学部に入学。

30歳・・・母が急死。

31歳・・・本格的に作家活動を始める。

32歳・・・芥川賞受賞。

34歳・・・代表作『海と毒薬』を発表

38歳・・・3回にわたる肺の手術で、一時は危篤状態になる。

43歳・・代表作『沈黙』を発表

50歳・・・『イエスの生涯』を発表

55歳・・・『キリストの誕生』を発表

57歳・・・『侍』を発表

63歳・・・『スキャンダル』を発表

70歳・・・『深い河』を発表

73年・・・肺炎による呼吸不全で死去

ここで触れておきたい点は、5点だ。

  1. 3歳から 幼い頃に大連で生活をしていた点
  2. 9歳で 両親の不仲によって孤独な生活を送っていた点
  3. 12際で 母の影響で受洗している点
  4. 38歳で 結核の手術で生死をさまよった点
  5. 43歳で『沈黙』を書いて以降、キリスト関連の作品を書き続けていた点

1,2,3,4については、どれも『深い河』の登場人物らのエピソードの元になった経験であり、そういう意味では『深い河』もまた極めて「私小説的」であると言えるだろう。

5について言えば、『イエスの生涯』 『キリストの誕生』 『侍』あたりは どれも「キリスト」について描いた作品だ。

しかし、その後に描かれた『スキャンダル』では、「キリスト教」という文脈から離れ「老醜」「エゴイズム」などにスポットが当てられていて、ここでの主題は「人間」や「人生」であるといえる。

つまり、晩年にかけて遠藤周作の意識は、「キリスト教」という文脈を内包しつつも「人生」や「人間」へと膨らんでいったのだといえる。

だからこそ、彼は『深い河』で「キリスト教」に縛られない宗教観を描いたのだといえる。

また、『深い河』を読むと「人生」や「人間」をみつめる、彼の静かなまなざしを感じることもできる。

では、『深い河』とは一体どんな作品なのか。

以下で、『深い河』に表れた遠藤周作の「宗教観」と「人生観・人間観」について考察をしていこう。

主な登場人物

「あらすじ」の代わりに

遠藤周作は自らを「テーマ型の作家」と評している。

『深い河』もまた「ザ・テーマ型」の作品で、「ストーリー」はさほど重要ではない とぼくは考える。

だから、あらすじはシンプルにまとめようと思う。

5人の男女が ガンジス河へ導かれ、それぞれの「人生」に触れる「群像劇」

だけど、これではさすがに何が何だか分からないと思うので、ここでは「あらすじ」に代えて、主要人物5人について詳しく確認をしようと思う。

磯部について

老年にさしかかった男性。

家庭を顧みず、仕事を優先するような堅物。

ある日、突然 妻をガンで亡くしてしまう。

彼女が死に際に言った言葉「必ず生まれ変わるから、わたしを見つけて」が、磯部の耳に焼きつく。

妻を失った「悲しみ」「喪失感」「空虚感」に苛まれる日々。

次第に「生まれ変わり」「輪廻転生」といった「非合理なもの」に捕らわれていく。

そんな中で 「生まれ変わり」について研究をしているヴァージニア大学に「日本人の生まれ変わりはいないか」と問い合わせをする。

すると、「ガンジス河のほとりのヴァーラーナスィという村に、日本人の生まれ変わりを発見した」という手紙を受け取る。

自らを「無宗教」という磯部だが、自分でも「不合理」だと思いつつインドツアーに参加する。

美津子について

30代くらいの女性。

強い空虚感を抱えている「自分は人を愛すことができない」

「自分の欲しいものが何かわからない」

そんな思いを誤魔化すために、美津子は「大津」という冴えない男の心をもてあそぶ。

神父を志す彼から「キリスト教」を奪ってやろうというのだ。

結果的に、美津子は大津の誘惑に成功する。

「大津がキリストを棄てた」と判断した美津子は、彼をボロ雑巾のように棄てる。

しかし、その後も、大津の言葉や、大津の存在に捕らわれてしまう美津子。

なぜ、自分はあんなくだらない大津にこだわるのだろう。

なぜ、自分はこうも満たされないのだろう。

十数年が経ったある日、大津がインドの修道院にいるという噂を聞きつける。

不可解な自分を知るべく、「自分の心の闇」を探るべく、美津子はインドツアーに参加する。

沼田について

童話作家の中年男性。

幼いころに満州で生活をしていたころ、不仲な両親のため 悲しく孤独な日々を送っていた。

孤独と悲しみを捨て犬の「クロ」にだけ訴える日々。

そんな幼少期を送った沼田にとって、唯一の理解者はいつも動物であり、彼は童話で「人間と動物の魂の交流」を描いている。

ある日、若いころにした結核が再発し 入院をしてしまう。

ここでも自分の苦悩を誰にも言えない沼田は、妻から買ってもらった九官鳥だけに、その思いを吐露していた。

しかし、その九官鳥は、沼田が手術を受けているごたごたの中、餌をやり忘れたせいで死んでしまう。

仕方ないと諦めていた沼田だったが、自分が手術中に心停止を起こしていたことを知ると「九官鳥は自分の身代わりになってくれたのだ」という思いを強めていく。

せめてもの九官鳥へのお礼に「インドで一羽の九官鳥を得て、保護区に放してやろう」と思い立ち、インドツアーに参加する。

木口について

老人男性。

戦時中にビルマの作戦に参加したことがある。

豪雨、飢餓、怪我、疲労、マラリヤなど、極限の状況下で、次々命を落としていく仲間達。

自らも命の危機に陥るも、戦友の塚田の助けによって一命をとりとめた。

敗戦後、東京で再会した塚田は酒に溺れていた。

その理由が「ビルマで戦友の肉を食ったこと」への罪悪感であることを、木口は知らされる。

塚田は 酒が原因で肝硬変になり、さらに食道静脈瘤を患い入院する。

死期を迎えた塚田は、改めて戦友を食べたことを告白して 死ぬ。

木口は 塚田を始め戦友達を弔うため、仏教の発祥地であるインドへのツアーに参加する。

大津について

美津子と同大学出身の同世代。

貧弱で、外見も悪く、気弱で人付き合いも苦手。

母の影響でクリスチャンとなり、神父を志している。

美津子に誘惑されたあげく、ボロ雑巾のように棄てられる。

だが、それがきっかけで「キリスト」への思いはいっそう強くなる。

その後フランスにキリスト教の修行で留学したが、ヨーロッパの合理主義への違和感を訴えたことで 破門される。

大津は「キリストの愛は、ヨーロッパだけに閉じられたものではない」という信念からインドへ赴く。

そして、ガンジス河付近の修道院に入るが、そこでも追い出されてしまう。

その後、ヒンズー教徒たちの集団に受け入れてもらい、病や貧しさから息絶えた人たちの死体を運び、火葬してガンジスに流す仕事をする。

が、暴徒化したヒンズー教徒に暴行され、危篤状態に陥る。
遠藤周作の代表作も対象!!

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「ガンジス河」へ導かれる者たち

直面する「人生の悲しみ」

さて、こうして登場人物を紹介をしてみると、5人が5人、それぞれの過去を持ち、それぞれの経緯でインドへやって来たことがわかる。

それらを一言でまとめるのは あまりに乱暴なのは承知の上だが、改めて5人がインドへやって来た理由を以下にまとめてみたい。

  • 磯部…死んだ妻の「生まれ変わり」を探すため
  • 美津子…自分自身の「心の闇」を探るため
  • 沼田…九官鳥へ恩返しをするため
  • 木口…戦友たちを供養するため
  • 大津…キリストの「愛」を実践するため

こう書けば、やはり5人の理由はバラバラだ。

が、実は彼らには共通点がある。

それは、それぞれが それぞれの「悲しみ」「虚しさ」「寂しさ」「後ろめたさ」を抱えているという点である。

  • 磯部は 突然の妻との死別による「悲しみ」「虚しさ」「喪失感」を抱えている。
  • 美津子は 恒常的な「虚無感」にさいなまれつつも、「自分が何を求めているのか」分からない。
  • 沼田は 動物以外には決して打ち明けられない「孤独」「悲しみ」を抱えている。
  • 木口は 戦争を経て 生き残ってしまったもの特有の「罪悪感」を抱えている。
  • 大津の愛の実践の背景には 少なくとも学生時代に美津子に棄てられた「悲しみ」がある。

こんな風に、年齢も性別もたどってきた人生も異なる5人だけれど、それぞれには決して癒えることのない「心の空隙」のようなものがある。

遠藤周作は、彼の小説やエッセイの中で、

「誰もが人生の途中で 必ず直面しなければならない悲しみがある」

と繰り返し述べている。

その「悲しみ」に出合ったとき、初めて「本当の倫理が問われ」「本当の宗教や人生が始まる」と、遠藤周作は言う。

この5人もまた、その経験は固有のものでありながら、それぞれの「人生の悲しみ」に直面しているということができるだろう。

ガンジス河に赴く人々について、以下のように描かれている。

その1人1人には人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジス川のなかで彼らは浄化せねばならぬ何かを持っている(P321より)

それでは、彼らの「背中」に重くのしかかっている「人生」や「秘密」とは、何なのか。

磯部の場合

まず、彼の場合は「亡き妻の声」だといえる。

これまで磯部は、妻の存在を「空気のよう」と言っていた。

「あっても別段気にならないし、ありがたみも感じないが、なければ困るもの」

ということだそうだ。

そんな妻が、ある日突然、磯部の生活から姿を消した。

すると、妻の姿や声が、磯部を捉えて放さなくなる。

「必ず生まれ変わるから」

「わたしを見つけて」

この声は、磯部にとって 現実のどんな「肉声」よりもはっきりと聞こえてくる。

磯部にとって、死んだ妻というのは単純な死者ではないのだ。

そして彼女の「死」というのもまた、単純な「不在」とは違う。

彼女は、「悲しみ」「虚しさ」「喪失感」といった感情を磯部に与え続ける、はっきりとした輪郭を持つ存在だと言えるだろう。

そうした「存在」に出会ったとき、おそらく人は「人生」を変えられてしまう

それは、磯部もまた同様で、元来は無宗教だったにもかかわらず、「生まれ変わり」や「輪廻転生」といった「非合理的なもの」にどうしようもなく引きつけられていく

「生活」だけが第一優先だったが男が、はじめて「死後の世界」について考えるようになったわけだ。

美津子の場合

彼女の場合は、恒常的な「虚無感」だといえる。

ただ、それが何に由来するのかは、作中では明かされていない。

後天的なものなのか、先天的なものなのか。

いずれにしても、彼女は登場時から 満たされない思いを抱える人間として描かれている。

何処かにいきたい、何か求めて何処かに行きたい。確実で根のあるものを。人生をつかみたい。(P80より)

こう書かれているように、彼女が求めるものは確かな「人生」であり 平凡な「生活」ではない。

実際、美津子は 自分をがまかすように「平凡」を絵に書いたような夫と結婚をする。

いや、むしろ夫は「平凡」どころか 経済的には十分恵まれていて、いうならば美津子は完全な「玉の輿」だったと言っていい。

が、結局のところ、彼女はそういう「誰もが望む生活」に埋もれることを拒絶し 夫とはすぐに離婚している。

そして、ひたすら満たされない思いと虚しさを抱えて生きている。

その虚しさを誤魔化す術が、奔放な性生活であったり、「愛の真似ごと」のボランティア活動だったのである。

そんな彼女をとらえて離さないのは、平凡な「生活」を打ち捨てて 「キリスト」のために生きようとする愚直な大津の姿だった。

そこから、屈折した美津子の感情を読むことができる。

「真実は存在しているのかもしれない」という期待と、

「真実なんて存在しているわけがない」という諦観。

そのはざまにいる美津子は、大津を否定しつつも、彼にどうしようもなく引き付けられてしまうわけだ。

沼田の場合

彼の場合は、「幼少期の孤独な生活」だといえる。

大連での辛い生活は、遠藤周作が多くの作品において繰り返し描く場面だ。

まさしく、遠藤周作自身の「悲しみ」の原体験であり、彼が作家になったのも 少年期の経験が大きく作用していると思われる。

沼田には、そんな遠藤周作の姿が投影されている。

沼田は 幼いころの「悲しみ」や「孤独」から、童話作家という道を進むことになり、幼少期の悲しみを癒すように創作を続けている。

依然として人間を信頼することができない彼にとって、心から交流することができるのは「犬」であり「犀鳥」であり「九官鳥」である

そんな沼田を救ってくれるのもまた 彼ら動物たちだ。

「九官鳥」が、沼田の身代わりに死んでくれた(と本人が確信している)ことは、すでに述べた通りである。

そんな九官鳥への恩返しが、インドへ行く目的であるのだけれど、その根っこには沼田自身が幼少期から抱えている「悲しみ」と「孤独」がある。

木口の場合

彼の場合は、「戦友への罪悪感」だといえる。

戦争や災害を経て 生き残ったものたちの心には、つよい罪悪感が生まれることがある。

えてして戦争体験者が「戦争」について語ろうとしないのは、この罪悪感によるものなのだろう。

決して誰とも共有できない罪の意識は、その人に苦しみ孤独を与え続ける。

これを「サバイバーズギルト」といって、戦後、自ら命を絶った人々とういのも多かったという。

木口の友人の塚田もまた「自ら生き残るために、戦友の肉を食った」という強烈な罪悪感を抱いていた。

それは彼の人格さえも変えてしまうほどで、周囲の忠告も無視して酒におぼれ、吐血し、最後は孤独のうちに死んでいった。

木口の人生は、そんな塚田の上に成り立っている

彼もまた、生きることへの「後ろめたさ」や「割り切れなさ」というものを抱えて、老年まで生きてきたのだ。

あの日、ビルマを経験した多くの日本兵は飢餓とマラリヤによって無惨にも死んでいき、友人の肉を食ってまで生き延びた塚田も 酒におぼれて死んでいった。

そして、なぜか自分はこうして生きている。

「人生とはいったい何なのだろう」

その問いは いよいよ大きくなって、木口をとらえてはなさい。

彼がインドへ赴いたのは、戦友の供養であると同時に「人生」を見つめるためでもあったといえる。

大津の場合

大津の場合は、「ヨーロッパへの抵抗感」だと言えるだろう。

フランスのリヨンに留学したときのことを、後に美津子にあてた手紙でこう述べている。

五年に近い異国の生活で、ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的だと、感服せざるをえませんでしたが、そのあまりに明晰で、あまりに論理的なために、東洋人のぼくには何かが見落とされているように思え、ついていけなかったのです。彼らの明晰な論理や割り切り方はぼくには苦痛でさえありました。(P190より)

大津は、明晰で論理的に善と悪をキレイに区別しようとするヨーロッパ的な考えに抵抗感を感じている。

ぼくはここの人たちのように善と悪とを、あまりはっきり区別できません。

   (中略)

でも、ぼくの考えは教会では異端的なんです。ぼくは叱られました。お前は何事も区別しない。はっきりと識別しない。神はそんなものじゃない。(P106より)

遠藤周作は、善と悪について 多くの作品において触れている。

曰く、「善と悪とは 別々のものではなく、ちょうどコインの裏と表のような関係にある」と。

「善」には必ず「悪」の芽が潜んでいるし、同様に「悪」には必ず「善」の芽が潜んでいるのだと、遠藤周作は言う。

作中では、木口の口を借りてこう語られてもいる。

「私が考えたのは……仏教のいう善悪不二でして、人間のやる所業には絶対に正しいといえることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。何事も善と悪とが背中あわせになっていて、それを刀で割ったように分けてはならぬ。分別してはならぬ。(P324より)

この倫理観は、あきらかに伝統的なキリスト教の倫理観とは異なっている。

これまでのキリスト教の倫理観において、善と悪は完璧に二元化されていた。

神に背くものは悪であり、神への信仰をつらぬくものは善である。

しかし、大津にとって「人間」はそこまで完全な存在ではなく、善をもなし悪をもなす、そういう頼りない存在だった。

「善い人間」と「悪い人間」とに割り切れるほど 人間は単純な存在ではない

そんな不可解で 不完全な人間だからこそ、神は我々を救うのではないか? 

そんな予感が、大津をこうも語らせる。

神は人間の良き行為だけでなく、我々の罪さえ救いのために活かされます(P191より)

しかし、ヨーロッパの神父たちは 大津のこの考えを異端であると指摘する。

繰り返すが、彼らにとって「善」と「悪」とは相容れぬものだからだ。

さらに、彼らは大津に対して核心的な問いをさしむける。

「それでは、お前にとって神とは何なのだ?」

それに対する大津の問いはこうだ。

「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎ見るものではないと思います。それは人間の中にあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」(P191より)

これも明らかに 伝統的な一神教的キリスト観に反している。

だからこそ、西洋の神父たちは

「それは汎神論的な考え方じゃないか」

と厳しく指摘をしたのだった。

神は人間に先立ち、人間を創造した全知全能の存在であるはずだ。

それなのに、大津は「人間だけではなく、すべての生命のうちに神は存在しているのだ」と主張する。

実は、思想史上においても、西洋で「汎神論」を説いた哲学者がいる。

18世紀に活躍したドイツのスピノザだ。

彼もまたキリスト教から「それは無神論だ」と批判され、「汎神論論争」というものを巻き起こしている。

このように、伝統的な神父らにとってみれば「神=自然」という考えは、到底容認できるものではなかった。

こうして大津は破門され、インドへ赴くことになる。

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遠藤周作の人間観・人生観

人生を象徴する神

さて、こうして5人の人生を眺めてみると「人生」のリアルが見えてくる。

それは、

「美しいものだけが人生ではない」

ということだ。

そして、これこそが遠藤周作の「人生観」であり「人間観」なのだ。

『深い河』において、「人生」の象徴として繰り返し登場する神がいる。

ヒンズー教の女神「チャームンダー」だ。

添乗員の江波は、こう説明している。

「彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはサソリが嚙みついているでしょう。彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです。(P225より)

病に苦しみ、飢えと渇きにあえぎ、痛みにじっと耐え、それでも「誰かのために何かを与えよう」と 歯を食いしばって生きていこうとする

これが、ぼくたち人間の姿ではないだろうか。

だとすれば 「チャームンダー」は、「人生」の苦しみを体現した神だといえるだろう

「悲しみ」には意味がある

繰り返すが、人生とは決して美しいばかりのものではない。

遠藤周作は、人生と愛について、こう言っている。

美しいものだけが人生ではない。

だが、人生が「醜い」からといって、それを捨ててはいけない。それは人生に対して、愛のない行為だからだ。

たしかに人生には負の側面がある。

孤独、喪失、絶望、虚無、罪悪……

そんな人生の「悲しみ」に、だれもが直面しなければならないからだ。

だけど、それらは決して無駄ではない。

人生における善と悪も、キレイに割り切ることはできないからだ。

善悪不二 ―― マイナスに見えることの中にも、プラスの芽が潜んでいる。

とすれば、人生の「悲しみ」の中に「新たな人生を生きる」ための芽が潜んでいるのではないか。

孤独や絶望のなかにも、救いの芽が潜んでいるのではないか。

「本当の人生とは何か?」その問いは「人生の悲しみ」に根差しているのだ。

作中に登場する5人というのは、この「本当の人生」を問い始めた人間として描かれている。

彼らは、「悲しみ」に導かれるようにインドへ行き、ガンジス河へたどり着く。

そんな彼らの姿を通して、遠藤周作は ぼくたちにこう訴えているのだ。

人間の「悲しみ」は、決して「悲しみ」のままではない。

「悲しみ」を通して、はじめて出会える「世界」があるのだ。

( 参考記事 解説・考察『かなしみの哲学』ー悲しいとは何か、悲しみに意味はあるのかー

日々の何気ない「生活」を生きるばかりじゃ、決して出会えない世界というものがある。

「人生の悲しみ」に直面した人に、開かれる景色というものが、きっとある。

その景色こそ「深い河」

この作品で、遠藤周作が描いた世界なのだ。

では、「深い河」が意味するものとは、一体なんなのか。

最後に、それを考察しつつ、遠藤周作の宗教観についてまとめていきたい。

遠藤周作の宗教観

「深い河」が意味するもの

当然、「深い河」=「ガンジス河」なわけだが、もちろん、それ以外に象徴的な意味があって、そこにこそ遠藤周作の宗教観が表れている。

では、その象徴的な意味は何か。

結論を言えば、

全ての存在を包み込む大いなる命

である。

それをもっと言い換えれば、

分け隔てなく 無分別に どんな過去があろうと 人間でも動物でも 神羅万象あらゆるものを包み込んでいる この世界の「はたらき」

である。

生きる者、死んだ者

美しい者、醜い者

善い者、悪い者

富める者、貧しい者

現在、過去、未来、

それらを一切問わない、絶対的な受容の世界ともいえる。

ここでは、もはや「キリスト教」という文脈を大きく超え出ている

『沈黙』で描かれたのは「母性的キリスト観」だった。

それは、あくまでも「キリスト教」という文脈で有効な救済の世界だった。

だが『深い河』において、その救済の射程は大きく広げられている。

それは、大津の口を借りて こう語られている。

「日本人だからイエスという名を聞いただけで敬遠なさるでしょう。ならばイエスという名を愛という名にしてください。愛という言葉が肌ざむく白けるようでしたら、命のぬくもりでもいい。そう呼んでください。それが嫌なら玉ねぎでもいい」(P200より)

名を変えていい。

大津の その言葉は 上述したとおり「キリスト」の文脈を超えようとするものだ。

「キリスト」を相対化しようとするもの、ということもできる。

神はいろいろな顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」(P196より)

「神」はキリスト教の世界だけでなく、世界中に遍在しているのだ。

言語化できない「はたらき」

以上が大津(遠藤周作)の宗教観である。

それは「汎神論」といって、ヨーロッパの伝統的キリスト観に反するものだということも、すでに確認をした。

大津の主張によれば、「神」はいろいろな顔をして、ぼくたちの前に現れる。

  • キリスト教 → イエス・キリスト
  • ユダヤ教 → ヤハウェ
  • イスラム教 → アッラー
  • 仏教(浄土真宗) → 阿弥陀如来

しかもこれは、何も 宗教に限ったことではないと、ぼくは思っている。

たとえば、西洋の哲学や芸術にも、「神」は顔を変えてぼくたちの前に現れる。

超越、実在、存在者、一者、美……

それから、東洋の哲学においても「神」は表れている。

ブラフマン、主客未分、絶対無、天、道……

要するに、「神」とは そもそも言語で限定することができないものなのだ

それが、様々な国や様々な文化の中で、それぞれの名前を与えられているに過ぎない。

時には 人格化され、時には異なる解釈のもと 人々の前に現れる。

だけど、それはあくまでも方便に過ぎない。

真実の「神」の姿は、人間の理性や、意識や、言葉によってとらえることはできないのだ。

大津はこう説明している。

神は存在というよりも、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」(P104より)

「神」は この世界の「原理」と言ってもいいだろう。

ぼくたちを生かし、ぼくたちを存在させている 世界の「原理」

それは「運命」や「宿命」といった無機質なものではない。

ぼくたちの存在を包み込んでいる、やはり「命」としか言いようのない「何か」であって、ぬくもりとか やさしさとか慈悲とか愛とか、そういう温かい世界なのだ。

そして、その世界において すべての生命はつながっている

と、同時に、1つ1つは 大きな生命の一部だとさえいえる

ぼくたちは、まるで大きくて深い「河」の 小さな小さな「一滴」のように、この世界に存在しているのだ。

生も死も、

善も悪も、

過去も、現在も、未来も、

何もかも関係なく、すべてを包み込み、すべてを存在させている世界。

それが『深い河』が意味するものなのだ。

繰り返すが、それは決して人間が言葉で言い尽くせるものではない。

だけど、遠藤周作は、作家としてそこに「言葉」を与えようと格闘している。

『深い河』という作品は、遠藤周作によって紡ぎ出された「神」の一つの「顔」なのだと言えるだろう。

遠藤周作の代表作も対象!!

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終わりに「一つの道を信じること」

遠藤周作は、あるエッセイで「宗教」についてこう語っていた。

宗教に優劣はない。正しいも間違いもない

すべては同じところを目指している。ちょうど登山のように、みんなが頂上を目指している。だけど、そのルートは1人1人違う。宗教の違いというのは、そのルートの違いに過ぎない。

ぼくは、この遠藤周作の考え方に とても共感した。

実はぼくは、浄土真宗系の寺の長男として生まれ、気づいたときには寺の都合で「仏教徒」になっていた。

そういった意味でも、幼いころに母の影響で受洗したという遠藤周作に シンパシーを感じている。

これはぼくの父の問題だけれど、彼は昔っから、

「キリスト教なんてだめだ」

「イスラム教なんてだめだ」

と、仏教以外を目の敵にしている人だった。

そして、「仏教こそが、人間の真実を説く 正しい道なのだ」という彼の考えに、ぼくは昔からいいようもない抵抗感を抱いていた。

だから、上記の遠藤周作の言葉に出合った時は、

「これだ!」

と、思わず膝を打ちたくなったものだ。

だけど、一方でこうも思う。

信仰というのは そういった「すべてが正しい」という姿勢で成り立つものでもない。

なぜなら、

「あっちのルートからも頂上にいけるし、そっちのルートからも頂上にいけるけど、ぼくらこっちのルートを選ぼう」

なんて、お手軽な気持ちでは「信仰」など成り立たないと思うからだ。

その姿勢は、ちょうど「カタログ本」から、お気に入りの商品を選ぶのに似ている。

それを信仰と呼ぶことはできない。

信仰というのは、もっと その人の「実存的な選択」や 「主体性」というものがなければならないはずだ。

「こっちの道しか頂上に到達しないんだ!」

という、信念とか 切実さとかが必要なのだ とぼくは思う。

だけど、ここにまた、宗教の難しさがある。

ややもすると、それは「自分たちだけが正しい!」という原理主義につながりかねないからだ。

実際、世界中の宗教同士の争いは、ここに根差している。

だから、大津の姿には「宗教」や「信仰」を考えるうえで、ぼくたちに大きな示唆を与えてくれる。

あらゆる宗教を認めつつ、自らの信仰に生きた大津。

作中で、大津は先輩神父らから、

「なぜおまえは改宗しないのか?」

と問われるシーンがある。

それでも彼は「キリスト教」にこだわる。

そして、自分の姿とイエスの姿を重ね合わせ、愛の実践に努めていく。

ガンジス河で死体を運ぶ彼には 彼の信念と切実さがある。

これが信仰というものなのだろう。

だけど、そこまでの強い信念を持つことは、正直ぼくには難しい。

それはかつての大津も同じだったはずだ。

だからこそ、学生時代の彼は、

「ぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです」(P107より)

と控えめに言っていたのだと思う。

だけど、大津は間違いなく 信仰に生きた人間だった。

信仰というのは、きっと、小さなところから始まるものなのだろう。

まずは、信頼からなのだ。

ぼく自身「阿弥陀如来への信仰があるか?」と聞かれれば、自信をもって「ない」と答える。

だけど、「信頼はあるか?」と聞かれれば、「あるような気はする」と答える。

まずは、そこからでいい。

『深い河』を読んで、ぼくは大津からそう言われた気がした。

以上で記事は終わりです。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「遠藤文学」を読むならコレ

最後に、記事の中でも触れた遠藤周作のキリスト観や宗教観がよくわかる、オススメの本をいくつか紹介したい。

なお【 Kindleアンリミテッド 】遠藤周作の代表作が読み放題となるので、ぜひチェックしていただければと思う。

『深い河 創作日記』

『深い河』の創作秘話が書かれた創作日記。

たとえば、もともと『深い河』のタイトルは『河』だったことが書かれている。

本書を読めば、タイトルを『深い河』とした彼の意図が分かるはずだ。

それ以外にも、遠藤周作が『深い河』に並々ならぬ覚悟で臨んでいたことが分かる。

『深い河』をより深く味わいたい人は、一読することをオススメする。

『沈黙』

遠藤周作の「母性的キリスト観」が描かれた問題作。

「さばく神」ではなく、「ゆるす神」の存在が、描かれている。

日本人にとって「キリスト教」とは何か、「救い」とは何かを問うた、宗教文学の最高峰。

【考察記事 考察・解説・あらすじ『沈黙』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とはー

『海と毒薬』

遠藤周作の代表作の1つ。

九州大学病院の日本人医師による、米軍捕虜に対する生体解剖を扱った本作。

神を持たない日本人にとっての「罪の意識」や「倫理」とはなにかを問いかけた作品。

【考察記事 書評・考察『海と毒薬』(遠藤周作)ータイトルの意味は・日本人とは何かー

『イエスの生涯』『キリストの誕生』

そもそも、イエスってどんな人?

キリストって、イエスと違うの?

聖書には何がかいてあるの?

という、キリスト教の大事な部分がよくわからないという人に超おすすめ。

聖書を読むのは正直とても大変なのだが、こちらの2冊は文学的なアプローチで基本的なところが理解できる。

なにより、遠藤周作のキリスト教理解がよくわかる作品だ。

—KindleアンリミテッドHP—

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