解説・考察『1R1分34秒』(町屋良平)—自意識と身体の相克—

文学
はじめに「解釈を拒む作家」

町屋良平は、現代の純文学作家であり、その独特な文体と世界観が特徴だ。

沢山の文学作品に触れてきた私でも、正直言って「町屋作品」というのは、とっつきにくく、その解釈にいつも頭を悩ませている。

たぶん、純文学になじみのない読者なら、間違いなく、

「つまらない」とか

「よくわからない」とか、

きっとそんな感想を持つだろう。

まぁ、それもそのはずで、町屋良平は自身の作品の中で、「小説の理念」について次のように語っているのだ。

自分がかいた小説に共感されていたら私はその小説は失敗だったとおもってしまう。(『ほんのこども』より)

ということで、町屋良平という作家は、基本的に読者から解釈されたり共感されたりすることを、徹底的に拒絶している、そんな作家なのである。

だから、作品が難解なのは“さもありなん”なのだ。

さて、この記事ではそんな町屋作品の中から、第160回芥川賞受賞作品『1R1分34秒』を徹底解説しようと思う。

本作を読んで

「結局、どういうことだったの?」とか

「結局、何を伝えたかったの?」とか、

そんな疑問を抱いた方は、ぜひこの記事を参考にしていただけると嬉しい。

では、最後までお付き合いください。

 

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あらすじ

主人公「ぼく」は21歳のプロボクサー。

自身のデビュー戦を華々しくKOでかざって以来、なかなか勝つことができない

「あの時ああすれば、パンチがあたったかもしれない……」

「あんな練習をしておけば、試合に勝てたかもしれない……」

こんな風に「ぼく」は日常的に自問自答を繰り返している

さらに「ぼく」は、対戦相手に対して度を超すほどの研究や分析をしている。

どれくらい度を越しているかといえば、対戦相手について分析するあまり、相手が夢にまで出てきて、しかもそのまま対戦相手と友だちになってしまうほど。

そんな病的ともいえる自分の内省癖や研究癖に、実際「ぼく」自身は嫌気がさしている。

次第にボクシングの意欲も失っていき、「なぜボクシングをやっているのだろう」などと考えだす始末。

そんな、ある日、「ぼく」は「ウメキチ」というトレーナーに出会う。

始めのうちはウメキチに対して怒りや嫌悪感を抱く「ぼく」だったが、ウメキチとの練習を重ね、ウメキチを信頼していくうちに「ぼく」の内面に変化が生まれていく

そして、試合に向けて激しい減量をしていく中で、「ぼく」は自分自身の中にある「勝ちたい」という強い思いに気付くのだった。

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登場人物

ぼく(主人公)
・・・21歳のプロボクサー。KO勝ちでデビュー戦を飾ったけれど、その後は2敗1分と勝ちなし。人見知りで自意識が強く、病的なまでの研究癖と分析癖を持つ。慢性的な孤独や不安を抱えていて、無気力で無意欲。生活に対する意識は低いものの、パチンコ店のバイトで生計をしのいでいる。
ウメキチ
・・・「ぼく」が通うボクシングジムのトレーナー。年齢は25歳ほど。ウメキチはあだ名。奇人の噂がある。「ぼく」の練習や減量を指導する中で、「ぼく」からの信頼を得ていく。
友だち
・・・「ぼく」の唯一の友人。頻繁に「ぼく」を美術館に誘い、iPhoneで「ぼく」の映画を撮影する。よく小学生のような表情を見せる。
彼女
・・・「ぼく」のセッ〇スフレンド。「ぼく」の孤独を慰める。
近藤青志
・・・「ぼく」の5回戦の対戦相手。3Rで「ぼく」にKO勝ちする。
南軒心
・・・「ぼく」の6回戦の対戦相手。1R1分34秒で「ぼく」にTKO負けする。

「ぼく」の”実存的不安”

作中で一貫して描かれているもの、それは主人公「ぼく」のいいようもない不安感である。

その「不安感」に、もう少し言葉を与えるならば、

  • 孤独
  • 人間不信
  • 劣等感
  • 倦怠感
  • 無気力
  • 無意欲
  • 希死念慮

といった感じになる。

たとえば、作中では、「ぼく」の不安感はこんな風に描かれている。

生きたくない、死んでもいいじゃない。死にたい。死の能動。吐きそうだ。(単行本P53より)

信じられない。目の前の人間を。信じたほうがいいのかも、わからない。目が回る。ぐるぐる。死にたい。(P53より)

面倒くさい面倒くさい面倒くさい。なにもかも、もう面倒くさい。(P65より)

こんな風に上げたらキリがないのだが、じゃあ、この感情は何に由来しているのかといえば、はっきりと示されてはいない。

ボクサーになったことで実家から義絶されたこと(P100より)や、ボクシングで負け続けたことで劣等感をこじらせたことなんかも、「ぼく」の不安感を掻き立てているといえるだろうが、だけど、それが原因の全てではないだろう。

こうした、言葉にできない漠然とした、だけど、その人の存在を根幹から揺るがす「不安感」は、文学や哲学の世界では「実存的不安」などと呼ばれている。

あの芥川龍之介が遺書で語った「僕の将来に対するただぼんやりとした不安」なんかも、「実存的不安」のことだし、仏教が説く人間の苦しみの1つ「五陰盛苦」(存在することへの苦しみ)なんかも、「実存的不安」のことだといっていい。

この『1R1分34秒』という作品が、単なる「ボクシング物」にとどまらず、本格的な「純文学作品」となっている最大の理由は、この主人公が抱える「実存的不安」に依るところが大きいと私は考えている。

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「ぼく」の強すぎる”自意識”

「ぼく」の抱える「実存的不安」は、確かにその原因をはっきりと突き止めることが難しい。

とはいえ、「ぼく」を苦しめる大きな要因として、彼自身の「自意識」があるのは間違いない。

それは、自分自身に起こり得たすべての出来事について、思い詰めるほどに病的である。

ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない判定勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定負けを、パラレルに生きる他ないのだ。

こうした彼の「思考」は、彼から「現在を生きるリアリティ」を奪っていく

「ぼく」が生きるのは具体的な「生活」であり、具体的な「人生」であるにもかかわらず、「ぼく」の病的なまでの「自意識」は、彼を「観念の世界」に閉じ込めてしまう。

「パラレルに生きる他ない」という「ぼく」の言葉は、彼のそうした現状を物語るものだろう。

こんなふうに、彼は自分自身の「自意識」と「思考」とによって苦しんでいるわけだが、実は彼自身もそのことにはうすうす感づいている。

景色をながめていても、内省ばかりが胸にひろがる。鼻からおおきく酸素を吸い込み、口からほそくながく吐く。なるべく考えない。なるべく考えない。考えないように送る人生は、幸福か?(P23より)

こんな風に、彼は、自分自身の「思考」が苦しみを生み出していることにうすうす勘づいてはいるのだが、だけど、その「思考」を捨てることはできない

自意識が強い人なら共感してくれると思うのだが、

「考えないようにしよう、考えないようにしよう」

と思えば思うほど、「考えないうにしよう」という形で意識をしてしまう。

作中の「ぼく」もまた、そうした「自意識」の呪縛にとらわれ苦悩しているというワケだ。

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「思考」と「身体」の相克

では、「ぼく」はそうした「実存的不安」をどのように打開することができるのだろう。

その糸口になるもの、それが「ボクシング」である。

いや、厳密には、ボクシングというよりも「身体性」といった方がいい。

実は、町屋良平の作品の中には、この「身体性」というのを重要なテーマとして描いた作品が少なくない。

『1R1分34秒』の前作『しき』(芥川賞候補作品)でも、この「身体性」というのが主要テーマとして扱われていた。

本作はYouTubeのいわゆる「踊ってみた」を扱った作品なのだが、そうした「身体性」によって「実存的不安」を打開しようとする若者たちの姿が印象的に描かれていた。

『1R1分34秒』は、『しき』で扱ったテーマを「ボクシング」というモチーフで描きなおした作品なのだとみることができるだろう。

なお、『1R1分34秒』で描かれている彼女との「セッ〇ス」や、「肉が好き」という記述も、身体性を連想させる一つのアイテムなのではないかと私は踏んでいる。

ということで、「ぼく」の「実存的不安」は、「身体性」によって乗り越えられていくわけだが、その立役者となる存在、それが「ウメキチ」というトレーナーである。

「ウメキチ」の登場

ある日突然「ぼく」の前にあらわれたウメキチというトレーナー。

ウメキチはどうやら人の心の中身が読める力があるらしく(P44より)、おそらく「ぼく」の自意識を読み取っただろうウメキチは、さっそくこんなアドバイスをする。

「考えて。考えるのはおまえの欠点じゃない。長所なんだ。それをおれが教えてやるよ」(P47より)

…と、ここまで読んでくれた方なら、こう突っ込みたくならないだろうか。

「いや、ウメキチさん! 思考をうながしちゃってどうするのさ!」

そうなのだ。

「病的な思考」が「ぼく」を苦しめ縛り付けているのなら、「身体性」を強化することで、「ぼく」を「思考」という呪縛から解き放つべきではないか。

そのことをウメキチは理解しているのか、いないのか、それは良く分からない。

だけど、ウメキチは次第に「ぼく」に次のようなアドバイスをするようになっていく。

「きょうはスパーまで相手をみるな。」(P73より)

ここで思い出したいのは、対戦相手が夢に出てくるほどの「ぼく」の分析癖である。

このときウメキチは「ぼく」に対して、

「対戦相手を分析するな」

ということを伝えているのであり、それはつまり「いらん思考は一切捨てろ」ということを伝えているのである。

その後も、スパー中にあれこれと思考を続ける「ぼく」に対して、ウメキチは、

「おい、雑音に惑わされるなよ」(P76より)

と、再び「邪念を捨てろ」と念押ししているのである。

こうしたウメキチの指導は、少しずつ「ぼく」の内面に変化を与えていく

その最たるものが、「ウメキチに対する全幅の信頼」である。

「ぼく」はこれを「信頼のシステム」と呼ぶ。

ぼくは信頼というゲームを試してみよう。ウメキチをゲーム感覚で信頼する。そこにぼくの意志はなくとも。感情も感覚もなくとも、信頼というシステムを。(P67より)

ぜんぶウメキチに、預けきってしまおう。そういう信頼の空間を、意識して生きよう。(P96より)

こうして、自らの存在をウメキチにいったん預けることができた「ぼく」は、「思考」という呪縛から徐々に解き放たれ、「身体性」を強化させていく。

ウメキチのパンチを食う。脳に、鼻柱に、腹に。痛い、壊れてゆく。加減はされているが、十分に記憶がはじける感触がある。(P101より)

立った立った。しかし腕があがらなかった。でもスパーを再開したい。ガードを固めた状態で、やがて崩されたダメージよりも精神力より体力が削られて、どんどん生命が脅かされる体験を、もっとたくさんの時間していたい!(P101より)

こんなふうに、身体は痛みや苦しみを感じているものの「ぼく」自身は、その体験を好意的に迎え入れ、「すがすがしさ」や「全能感」に酔いしれることになる。

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「ぼく」の劇的な変化

こうして、ウメキチによって「思考」から解放され「身体性」を強化されていく中で、「ぼく」はつきものが落ちたように、“人間関係”という屈託から自由になっていく

人間関係。くそくらえだ。ぼくはボクサーだから、ボクシングでぜんぶかたをつける。(P106より)

これは、「思考」にとらわれまくっていた今までの「ぼく」を思えば、とても大きな変化である。

なぜなら、「ぼく」はその宿命的な「自意識」によって、人間関係にも苦しめられてきたからだ。

そもそも「ぼく」の性格は「人見知り」と紹介されていて、「ぼく」の会話内容を考えてみても極端に寡黙であり、つまり、コミュニケーション能力は極端に低いといっていい。

作中でははっきりとは描かれていないが、「ぼく」が対人関係に苦慮してきたことは容易に想像することができる。

そんな「ぼく」が、「人間関係なんてくそくらえ」と言い放ち、「ぜんぶボクシングでかたをつける」と宣言しているのだから、これは劇的な変化と呼ばずしてなんであろう。

そうした変化は、「ぼく」自身によって、こんな風に表現されている。

人格が完全に変わっていた。(P106より)

「ぼくはこれまでのぼくじゃない」

こんな意識を持ち始めた「ぼく」だが、実際、友人がとった映画を見て、そこで自分の声を聞いた「ぼく」は、

ぼくの声、へんだ。きもちわるい。これは他人だ。(P116より)

と実感している。

 

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「1R1分34秒」の意味

さあ、いままでの「ぼく」という殻を少しずつ脱ぎ始めた「ぼく」

そんな彼が、改めて気づくことができた強い思いがある。

――勝ちたい――

このとき、すでに「ぼく」の体の中で「ボクサーの細胞がうごめいて」いて(P112より)、彼の身体は典型的なボクサーのそれになっている。

そして、物語の終盤では、何度も「勝ちたい」という「ぼく」の本心が連呼されていく。

どうしても勝ちたい。(P135より)

勝つ以外の選択肢はない。(P136より)

このシーンは、読む者の胸を強く打つシーンなのだが、私がもっとも心打たれたのは、「ぼく」が「記憶を失いたくない」と思うシーンである。

失いたくない。記憶を。描出を。自分を失いたくない。友達の映画に他人を見つけるようなきもちは、もう味わいたくない。(P139より)

これまで「ぼく」は、自らを苦しめる記憶を心の底に押し込めてきた

たとえば、それは「試合前後における記憶」だったりするのだが、そのことは作中で次のように描かれている。

おもいだせない。おもいだしたくないのかも。おもいだせない。(P57より)

いつからだ? わからない。試合前の記憶を放棄したのは、いつからだ?(P138より)

こんな風に、これまでの「ぼく」は、自分自身をくるしめる記憶を抑圧してきたのだ。

だけど、それは、自分自身を抑圧することと同じであり、大げさではなく自分で自分を精神的に殺すことと同じである。

だからこそ、「ぼく」は、

「もう自分を失いたくない」

「みじめな気持ちは、もう味わいたくない」

と、自分を抑圧することに強い抵抗感を示しているのである。

そして、記憶を、自分自身を失わないためにできること、それが彼にとって「ボクシングで勝つこと」だったのである。

この時、ボクシングに勝つことが、「ぼく」にとって、まさに「実存的不安」を打開するためにどうしても必要なことになっていたのだ。

「ぼくが“ぼく”であるために、勝つしかない」

そんな「ぼく」の止むに止まれぬ切実な思いを踏まえて、物語のラストシーンを読んでみたい。

タイトル『1R1分34秒』に込められた意味が、きっと理解できると思う。

勝つよ。きっと勝つ。

そうしたら記憶をひからせてやるからな。

という決意を三十秒でうしないまた繰り返す。三日後に一ラウンド一分三十四秒にTKOであっさり勝つ、そのあっけない結末のためだけにこの夜をあと2回。

この「1R1分34秒」とは、「ぼく」が見事に対戦相手からTKOを奪い、まさに「自分自身」をとりもどした、そんな“瞬間”だったのだ。

過去も、記憶も、自分自身も抑圧しなくて済む、そんな「本当の自分」を取り戻すことができた瞬間だったのだ。

この物語は、「ぼく」の独白であり、過去の回想という体裁を取っている。

とすれば、これを語っている現在の「ぼく」の姿が浮かび上がってくる。

きっと「ぼく」は、自らの過去の苦悩と、それを打開した瞬間を思い出しながら、それを克明に記しているのだ。

現在の「ぼく」は、いまどんな生活をしているのだろう。

ボクシングは続けているのだろうか。

相変わらず強い自意識に悩んでいるのだろうか。

あの真っ暗なアパートからは引っ越したのだろうか。

いずれにしても、

現在の「ぼく」が、どうか「本当の自分」を生きられてますように

と、こんなことを願いつつ、『1R1分34秒』の解説記事を終えたいと思う。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次に読む”町屋作品”を読むなら

『ほんのこども』

2022年に野間文芸新人賞を受賞した長編小説。

その選評が、この作品の本質をドンピシャで物語っている。

今回はこれ以外にはなかった。他の四作は小説を書く前から問題があり、アプローチも小説を書くプロセス以前にできている。『ほんのこども』だけは、問題が何なのか、小説に先んじてあるわけではなく、問題はとても錯綜していて私は説明はできないが、とにかく、小説で考え、小説が考える。作者には小説に対する圧倒的な信頼がある。

(保坂和志「選評」より)

まさしく、本作は「小説のための小説」であり、純文学を地で行くような作品だといえる。

なお、その他の候補作には、「くるまの娘」(宇佐見りん)や、「ミシンと金魚」(永井みみ)といった佳作が名を連ねていたが、それらを完全に退けての受賞となった。

『1R1分34秒』を読んで町屋良平に興味を持った方には、ぜひ読んでほしい1冊。

【 参考記事 『ほんのこども』(町屋良平)―野間文芸新人賞受賞作を徹底解説!―

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