「はじめに」様々な言語学

一口に“言語学”といっても、その分野は実に様々である。
- 比較言語学
- 社会言語学
- 応用言語学
- 歴史言語学
- 心理言語学
これ以外にも大小ざまざまな学問領域があり、その内容も多岐にわたっている。
そんな数ある言語学の中から、今回取り上げたいのが「認知言語学」である。
言語学の中でも、特に、僕たち人間の「根本」に大きく関わってくる学問領域だ。
なお、この記事を書くにあたり、以下の書籍を参考にしている。
なお、記事の終わりにその他オススメの書籍も紹介しているので、「認知言語学」に興味をもった方は、ぜひそちらも参考にしていただきたい。
認知言語学の定義

さて、先ほど僕は「認知言語学は人間の根本に大きく関わってくる」といったのだが、これは一体どういうことなのだろう。
それは、認知言語学の「定義」を知ることでわかってくる。
こう言われたとしても、おそらく多くの読者は「?」だと思う。
もう少し補足説明すると、
「その人の世界の見方や認識が、その人の言語に表れている」
ということであり、それはつまり、
「言語の違いは、それを話す人々の思考様式や行動様式の違いである」
ということになる。
だから、認知言語学で考察の対象になりやすいのは、「具体的な語彙」だったり「具体的な言い回し」だったり「具体的な文法」だったりする。
これは、認知言語学ならではの特徴だといっていい。
たとえば、有名なソシュールの「構造言語学」とか、チョムスキーの「生成文法」といった言語研究は、基本的に「言葉の構造」とか「言語の普遍性」とか解明しようとする、いわば“大局的”に言語を研究する営みだといっていい。
それに比べて、認知言語学は「具体的で個別ケース」を分析し、その背景にある人間の「認知」を明らかにしていこうというのだから、かなり限定的である。
ということで、認知言語学の特徴を、僕は次のようにまとめたい。
そもそも、認知言語学とは「生成文法」に対抗する形で生まれ出た学問だ。
生成文法とは、先ほども触れた通り、「言語の普遍的構造」を明らかにしようとする学問である。
こうした「生成文法」と「認知言語学」の立場をわかりやすく二元化すると、
【 生成文法 】 …特殊性をもたらす普遍的構造を解明しようとする 【 認知言語学 】 …特殊性を特殊性のまま受け止め、その根幹を解明しようとする
と、こんな感じになる。
実際に、先ほど紹介した『言語学の教室』では、認知言語学の具体的議論が紹介されているのだが、素人から見ると、これがとてつもなくニッチな議論で、
「なんだが、細々として、地道な学問だなあ」
と、僕なんかはそんな印象を受ける。
とはいえ、僕たち人間の「世界の認知方法」を教えてくれるという意味では、認知言語学は「人間の根本」を照らし出してくれる学問であり、僕たちが自分自身を知るためには、とても有効なアプローチであるといっていいだろう。
では、認知言語学では、いったいどんな議論が展開されるのだろうか。
この記事では、『言語学の教室』を参考に、次の3つの議論について紹介したい。
- 議論①「雨に降られた」
- 議論②「太郎が話しかけてきた」
- 議論③「時間が流れる」
ほら、めちゃくちゃ限定的でしょ?(笑)
では、興味のある方は引き続きお付き合いください。
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議論①「雨に降られた」

間接受身とは
今日は待ちに待った“あの子”とのデートの日。
勝負服に身を包んだあなたは、念入りに立てた“本日の計画”に目を通す。
さあ、準備はバッチリだ。
そう意気揚々と家を出たけれど、しばらくすると、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。
あわてて傘を取りに、自宅へ引き返すあなた。
結果的に、あなたは待ち合わせに遅れてしまい、先に到着していた“あの子”はプンプン。
「ちょっとー、遅すぎだってー」
そうなじってくる“あの子”にうろたえながら、きっとあなたはこう言うだろう。
「ごめんごめん、時間通りに家をでたんだ。それなのに、急に雨に降られちゃってさあ」
――雨に降られる――
日本人であれば、特に違和感のないこの受身表現。
ところが、実はこの受身表現は、日本語以外の言語ではあまり見られない表現だという。
そもそも、この「雨に降られた」という表現は、能動文に変換しようとすると、どうもおかしなことになってしまう。
〇「僕は雨に降られた」 → ×「雨が僕に降った」
こうした例としては、他にも「彼女に泣かれた」なんて表現がある。
〇「僕は彼女に泣かれた」 → ×「彼女が僕に泣いた」
という具合に、こちらも能動文にしようとするとどうにもおさまりが悪い。
こうした、「直接対応する能動文を持たないタイプの受動態」は「間接受身」と呼ばれている。
日本人の無力さ
この「間接受身」は、日本語以外の言語ではあまり見られない表現だとされている。
では、それは一体なぜか?
認知言語学は、こうした「間接受身」から、日本人の認知(つまり、日本人が世界をどのように認識しているか)を解き明かそうとする。
その結論は、
「間接受身には、日本人の受苦、他者性、諦念が色濃く表れている」
ということになる。
つまり、日本人は他の言語話者に比べて、
「自分自身ではコントロールできない苦しみに対して自覚的である」
ということができる。
これを、上記の「雨に降られた」の表現に当てはめると、「雨が降る」という現象による苦しみ(受苦)は、自分の力ではどうやっても避けられることができなかったことであり(他社性)、自分にできるのはただただその現象を受け入れることだけだ(諦念)という認識が、「雨に降られる」という表現に現れている、というワケだ。
「彼女に泣かれる」の場合も同様で、こう表現する日本人の意識には「彼女に泣かれる受苦」や、「コントロール不能な彼女の他者性」や、「それを受け入れざるを得ない自らの諦念」というのが色濃く表れていると考えられる。
実は、この「間接受身」は、別名「迷惑受身」と呼ばれ、その呼ばれ方のほうが「受苦」「他者性」「諦念」のニュアンスが色濃く表れている。
「雨に降られた」ということができて「財布に落ちられた」ということができないのは、「財布を落とした」という現実が「そもそも自分の不注意が悪い」という認識が日本人に現れているからなのだ。
逆に、「雨」などの自然現象に対しては、「自分の自由意志など全くの無力である」という認識が日本人に現れている。(ということは、泣きまくる彼女に対しても、自由意志など全くの無力なのである!)
ちなみに、こうした日本人の「無力さ」というのは、日本人の別れのことば「さようなら」にも色濃く表れていると言われている。
「さようなら」というのは「それならば」という意味であり、これはつまり「(苦しいけれど)別れなければならないならば(それを受け入れるしかない)」という意味なのである。
ここにも、日本人の独特の世界認識(認知)が現れているといっていいだろう。
なお、「さようなら」に関しては以下の記事でも詳しく説明しているので、興味のあるかたはぜひ参考にしていただきたい。
【 参考記事 日本語の特徴を解説・考察!―日本文化の人間観と世界観を解明― 】
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議論②「太郎が話しかけてきた」

「~てくる」の意味
次に、認知言語学の具体的な議論として「太郎が話しかけてきた」という表現について紹介しよう。
たとえば、あなたは今、恋をしている。
その相手とは、みんなが憧れるクラスのマドンナ「花子ちゃん」である。
ひょんなことから、あなたは2人っきりで花子ちゃんと話をする機会を得ることができた。
(よーし、これを機に、憧れの花子ちゃんと仲良くなるぞ!)
そんな思いを胸に、あなたは花子ちゃんとの会話にいそしんでいた。
……と、その時、
「ねえねえ花子ちゃん、昨日のドラマ見た?」
と、突然、ひとりの男が花子ちゃんに話しかけてきた。
それは恋のライバル、太郎だった。
―太郎が花子に話しかけてきた―
この「~してくる」という表現も、実は、日本語によくみられる表現だと言われている。
上記のシチュエーションの場合、
「太郎が花子に話しかけた」というより「太郎が花子に話しかけてきた」というほうが自然であるが、それはなぜなのだろう。
「太郎が花子に話しかける」という表現には、日本人のどのような世界認識(認知)が現れているのだろうか。
結論を言えば、「“自分の領域”に対する敏感さ」である。
さあ、これは一体、どういうことなのか。
日本人は“自分の領域”に敏感
「太郎が花子に話しかけてきた」という表現には、日本人の「“自分の領域”に対する敏感さ」が現れていると考えられる。
以下では、そのことを具体的に解説してみよう。
まず、「太郎が花子に話しかけた」という表現と「太郎が花子に話しかけてきた」という表現の違いは一体なんなのだろう。
両者が指し示す“事実”は「Taro spoke to Hanako」というものであり、事実として両者は同じことを表現しているといっていい。
だけど、先ほども確認した通り、日本語では明らかに「太郎が花子に話しかけてきた」と表現するほうが自然であり、そこには明らかに話者の独特な世界認識(認知)が現れているといっていい。
そもそも「~してくる」という表現には「来る」という動詞が含まれていることを考えれば、その表現によって話者が表現しているのは「太郎の接近」だと考えてよさそうだ。
「太郎が花子に話しかけてきた」という表現には「太郎が“自分の領域”に接近してきた」といった思いが表れていると考えられる。
ただし、ここで注意したいのは、「~してくる」というとき、それは必ずしも物理的な接近ではないということだ。
たとえば「太郎が花子に電話をかけてきた」なんていう表現は、明らかに物理的な接近でないけれど、「~してくる」という表現がしっくりくる1文である。
しかも、「太郎が花子に話しかけてきた」という表現と、「太郎が花子に電話をかけてきた」という表現は、「空間/非空間」の違いがありながらも、どちらも同じ認知を表現したものだといっていい。
ではその「認知」とは何かというと、「太郎の心理的接近」であり、「自分の領域を侵された」という不快感である。
つまり、日本語において「~してくる」という表現が使えるのは、「心理的距離」が問題になっている場合であり、もっといえば「心理的距離が一方的に侵害された」という場合なのである。
ここに日本人の「“自分の領域”の敏感さ」とか、「“他者との心理的距離”への敏感さ」が現れているといっていい。
それが理由に、「~てくる」という表現は「私」という表現との相性が良い。
たとえば
「太郎が柱にしがみついてきた」は言えないのに、
「太郎が私にしがみついてきた」は言える。
「太郎が猫にしがみついてきた」は言えないのに、
「太郎が私の猫にしがみついてきた」は言える。
ということは、これを踏まえて考えてみると「太郎が花子に話しかけてきた」という表現の真相は、
「太郎が 私の 花子に話しかけてきた」
ということなのであり、こうした表現の中には、話者の「花子は僕のものだ」という認知がはっきりと表れていることが分かるのだ。
「太郎の野郎、俺の花子ちゃんにちょっかいかけやがって!」
そうした不快感が「話しかけてくる」という表現に込められているのである。
「~てくる」は英語にない
ちなみに、英語には、この「~してくる」に対応する表現がないという。
そこからも、日本人と欧米人の世界認識(認知)の違いが見て取ることができるだろう。
つまり、「~てくる」という表現を認知言語学的に考察していくと、
「日本人は欧米人に比べて、対人関係における“心理的距離”が敏感である」
と、こんな結論を導くことができる。
このことは、日本語の敬語が「心理的距離」によって使い分けられていることと、おそらく無縁ではないだろう。
日本語では、心理的に遠い人には敬意を払い、近い人には敬意を払わない。
たとえば「社長」を呼ぶ際、その役職名を呼ぶのは自然であるが、「佐藤さん」と苗字を呼ぶのは失礼だし、ましてや「たかしさん」と名前で呼ぶのはもっと失礼である。
それは、「佐藤さん」と呼ぶのも、「たかしさん」と呼ぶのも、ともに、分不相応に社長に「心理的」に接近する行為だからである。
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議論③「時間が流れる」

認知言語学で哲学をしてみる
上記の議論①と議論②では、「間接受身」や「~してくる」といった表現を認知言語学的に解釈し、日本人の世界認識(認知)を明らかにしてきた。
ここでも、認知言語学的に日本人の世界認識(認知)を明らかにしていくわけだが、あえてやや哲学的な議論を扱ってみようと思う。
それは
「日本人は“時間”をどのように認識しているのか」
といったものである。
いうまでもないが“時間”というのは、哲学における超難問である。
あらためて「“時間”とは何か」を考え始めると、僕たちがいかに“時間”について無知であるか思わずにいられない。
なぜなら、“時間”とは手に触れることも、音に聞くことも、目に見ることもできないものであり、つまり、人間の五感で認識することのできない概念だからだ。
それなのに、僕たちは“時間”という概念を自明なものとして認識し、日常会話でも「やべー、時間がないよー」とか「ほんと、時間が経つのって早いよなー」とか平然と口にしている。
この“時間”という概念の正体は、一体なんなのだろう。
これについて、ここで答えを出すことは恐ろしく難しい。
だけど、認知言語学的なアプローチで、
「日本人はどのようなものとして“時間”を認識しているか」
を明らかにすることくらいならできそうである。
以下では、そのプロセスを具体的に解説してみよう。
「時間」を「空間」として認識
日本人は“時間”をどのようなものとして認識しているのか。
それを明らかにするために、次の表現について分析してみよう。
「時間が流れる」
さて、僕たちは日常的に「時間が流れる」という表現をするが、先ほども確認した通り、時間とは目に見えない概念である。
とすれば、この「時間が流れる」という表現は、いわゆる「メタファー」(比喩)であり、僕たちは時間をまるで「流れるもの」のように認識していることが分かる。
その他にも時間にまつわる表現には、
「時間が経つのが速い」とか、
「時間があっという間に過ぎる」とか、
「時間がまるで止まったようだ」とか、
こんなものがある。
これら「速い」も「過ぎる」も「止まる」も、まるで時間を「動くもの」のように表現したもので、先ほどの「時間が流れる」と理屈は同じであるといっていい。
ここまでくれば、日本人が“時間”をどのように認識しているのかが、うすうす見えてきたはずだ。
そう、日本人は時間を「空間的なもの」として理解をしているのである。
「時間が流れる」という比喩
さて、「時間が流れる」というメタファーから、僕たちが「時間」を「空間」として認識していることが分かった。
と、いきなり、こんなことを言われても、なかなかイメージができないと思うので、もっと具体的に説明をしてみたい。
たとえば、あなたは今ボートに乗って、都会に流れる川を下っているとする。
その主観的な情景を思い浮かべてみて欲しい。
両岸に見える町並みは、ボートが下るにつれ次第にあなたの後方へと過ぎ去っていく。
さきほどまで遠くに見えていたビルも、いつしかあなたの眼前に迫っている。
それもやがて、あなたの後方へと過ぎ去っていく。
川を下っていくにつれ景色はどんどん移り変わり、過ぎていった景色をあなたは二度とみることができない。
さて、もちろん、これは「時間」の例え話である。
「ボートに乗るあなた」は現在を表し、「過ぎ去っていった景色」は過去を表し、「迫り来る景色」は未来を表し、そしてあなたが下っている「川」は「時間」を表している。
遠くに見える「未来」はゆっくりとあなたに迫ってきて、やがて「過去」となって遙か遠くへと消えていく、というワケだ。
こんな風に僕たちは「時間」について理解している。
楽しい時間があっという間に「流れ」ていってしまうのも、苦しい時間がゆっくり「流れ」続けるのも、とりもなおさず、僕たちが「時間」を「川」のような「空間」として認識しているからにほかならない。
僕たちは「時間」を「空間」として、「変化するもの」として把握しているのである。
実際のところ、僕たちは時間の経過を「時計の針の動き」で理解しているし、時の移ろいを「自然の変化」で実感している。
「情景」が変わっていくから、つまり「空間」が変化していくから、僕たちは「時間」という感覚を持つことができるのだ。
こんな風に、認知言語学の方法論を用いると、、
「日本人が時間をどのように認識しているのか」
という、哲学的な問題に答えることもできるのだ。
なお、「時間とは何か」をより厳密に哲学したいかたは、以下の記事を参考にどうぞ。
【 参考記事 哲学を解説・考察【時間とは何か】—現在や過去や未来は存在しているのか— 】
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終わりに「主語のない日本語」

主語不要論とは
この記事では、「間接受身」、「~してくる」、「時間が流れる」といった、超具体的な表現を用いて、認知言語学的議論について紹介をしてみた。
冒頭にも述べた通り、認知言語学のアプローチというのは、こんなふうに極めて具体的かつ個別的なので、人によっては、やや地味に見えてしまうと思う。
そこで、もっと大局的に「日本語」を俯瞰し、「日本人の世界認識(認知)」について述べて、この記事を終わりにしたい。
ここで扱いたい日本語の特徴、それは、
「主語がない」
というものだ。
そもそも、「日本語には主語があるのか? それともないのか?」という議論は、日本語学における超難問で、いまだに決着はついていない。
とはいえ、実際に多くの日本語話者が日常会話においていちいち主語を意識してはいないことを考えれば、「日本語に主語はない」というのは多くの日本人の実感だろう。
こうした主張は「主語不要論」と呼ばれ、僕もこの主語不要論者の1人である。
なお、主語不要論を詳しく知りたい方は以下の記事を参考にどうぞ。
【 参考記事 日本語に主語はない?主語不要論を解説—総主論争、ウナギ文、こんにゃく文より— 】
「主語不要論」と「認知」
ということで、ここではこの「日本語には主語はない」という前提にたち、日本人の世界認識について結論を述べたい。
日本人の世界認識、それは、
「人間の主体意識に乏しい」
というものである。
この主題は本当にいろんな方面から考察されているのだが、これを僕たちに耳馴染みのある言葉で言い換えるならば、
「日本人は自己主張しない」
ということになるだろう。
たとえば、欧米人は「自己主張が強い」とか「個人主義」とか言われるのに対して、日本人は「自己主張が弱い」とか「集団主義」とか言われる。
実はこうした対照関係が、認知言語学的アプローチからも見て取れる。
つまり、
英語には必ず主語「I」があるが、日本語にはほとんどの場合、主語「私」がない
こうした関係が、
英語話者は自己主張が強く、日本語話者は自己主張が弱い
といった関係と対応していると考えられるというのだ。
もちろん、ことはこんなにシンプルではなく、日本人の主体意識については、言語学以外にも、心理学や文化人類学、民俗学、歴史学、宗教学などなど、あらゆるアプローチからの検討が必要だと思う。
とはいえ、僕は上記の対応関係は、決して偶然なものではないと考えている。
実際に、日本人は自己主張よりも、他者との協同に重きを置く人が多いし、自分の都合と同じくらい他者の都合を尊重する人が多い。
日本人の多くが、いわゆる「間」を大切にしたり、「空気」を読んだりするのは、日常的に日本語の主語を想像したり、補完したりしながら生活しているからだろう。
こうした、いわゆる「日本人らしさ」というのは、実は、「日本語に主語がない」ことと、決して無縁ではないと僕は考えている。
とすれば、「日本語と主語」という言語学的な難問に、認知言語学的に迫ることで、僕たち日本人の世界認識(認知)を理解できるし、ひいては、「日本人とはどのような存在か」ということを理解することにもつながっていくだろう。
認知言語学とは、一見すると、地味で、地道で、ニッチな学問にみえるかもしれない。
だけど、突き詰めて考えていけば、大げさではなく「人間とは何か」に迫ることができ得るという意味で、人間の「根本」に関わる有意義な学問であるといえるだろう。
以上で、認知言語学の解説記事を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
認知言語学のオススメ本
以下では、「認知言語学を学びたい」という人に向けて、特にオススメの3冊を紹介したい。
『言語学の教室』(西村正義)
この記事の多くは、本書を大いに参考にしている。
本書は「認知言語学とは何か」を、対話形式で記したとても分かりやすい1冊である。
認知言語学者の西村正義に、言語哲学者の野矢茂樹が質問をしていく、という形式なので、言語学と哲学の両面から、人間の世界認識(認知)について考えることができる。
内容は分かりやすいが読みごたえもあり、初心者から中級者まで楽しめる1冊だと思う。
『ことばと思考』(今井むつみ)
言語が異なれば、世界認識も異なる。
こうした事実を、丁寧に分かりやすく考察をした認知言語学・認知心理学の入門書。
著者の今井むつみは、認知言語学の以前に、認知心理学の専門家であるため、「ことばと心」の関係に関する興味深い議論に触れることができる。
もはや言語学における常識、いわゆる「サピア・ウォーフ仮説」を学びたいなら、絶対に外せない1冊。
なお、本書はこちらの記事でも紹介しているので、興味のある方はぜひ参考にどうぞ。
【 参考記事 「サピア=ウォーフ仮説とは」分かりやすく解説―弱い仮説・強い仮説、正しいのはどれ?― 】
『認知意味論』(レイコフ)
認知言語学の創始者ともいわれる「ジョージ・レイコフ」の記念碑的名著。
単行本777頁という大作であるので、読み通すのには、かなりの集中力と胆力が要するが、「認知言語学を深く学びたい」という人は、ぜひとも手元に置いておきたい「バイブル」的存在。
さらに翻訳者も、池上嘉彦や川上誓作といった日本の認知言語学のオーサーたちなので、これ以上になく信頼できる。
認知言語学を専門に学びたい人にとっては必読の1冊だといっていいだろう。
“耳読書”「Audible」がオススメ

今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、日本語学、言語学関連の書籍が月額1500円で“聴き放題”。
また、英語や英会話についての書籍も充実しているので、リスニング力の向上にも役立てることができる。
それ以外にも純文学、エンタメ小説、海外文学、新書、ビジネス書、などなど、あらゆるジャンルの書籍が聴き放題の対象となっていて、その数なんと12万冊以上。
これはオーディオブック業界でもトップクラスの品揃えで、対象の書籍はどんどん増え続けている。
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今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、軽い気持ちで試すことができる。(しかも、退会も超簡単)
興味のある方は以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。
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