日本語文法の謎ー「主語」がない?「は」と「が」の違いは?

文学・言葉
ことばに見られる自然観と人間観

今回紹介するのはこちら。

『日本語文法の謎を解く』(金谷武洋 著)

この本は、日本語の特徴と、そこから生まれている日本人の人間観や自然観について説明している、とっても面白い1冊だ。

英語と日本語とを比べることで、日本語を明らかにしようという手法もいい。

この記事では、日本語の面白さとその難しさについて紹介しつつ、本書の魅力を伝えたい。

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「は」と「が」の違いって何?

大野晋の説明

ところで、日本語に、ある宿命的な問いがあるのをご存知だろうか。

それは、

「は」と「が」の違いって何?

これである。

「ぼくはタロウだよ」と「ぼくがタロウだよ」

この違いを、明確に説明できる人はいるだろうか。

「は」と「が」、どちらも「主語」の直後につく助詞である。

が、やはり、両者には微妙なニュアンスの違いが認められる。

その違いは一体何なのか。

実は、これについては様々な議論があって、いまだに解決されていない。

日本語の代表的な議論の一つである。

たとえば、有名な大野晋の説を紹介してみよう。

  • 「は」の前に来るのは、「すでに知っている情報」
  • 「が」の前に来るのは、「まだ知らない情報」

という説である。

はい? という感じだと思うので、もう少し。

「ぼく は タロウだよ」の場合

まずは「ぼくはタロウだよ」について説明しよう。

「ぼく」という存在自体は、すでに聞き手の意識に上っている。

しかし、それが誰なのか分からない。

聞き手の意識としてはこんな感じだ。

「先週から俺たちの前にあらわれた男、とりあえず誰か分からないけど、なんだか色々と話し続けているぞ。コイツはいったい誰なんだよ?」

誰もがそう不思議に思っているとき、その男はいった。

「あ、言い忘れたけど、ぼくはタロウだよ

こんな風に、「は」の前の「ぼく」の存在について、人々はすでに知っている

だけど、その男が「タロウ」であることについて、人々は知らない。

こんな状況にあるとき、「ぼくはタロウだよ」という文が成り立つというのだ。

「ぼく が タロウだよ」の場合

つぎに、「ぼくがタロウだよ」について説明しよう。

このとき、「タロウ」という存在について、すでに聞き手の意識に上っている。

だけど、一体誰が太郎なのか分からない。

聞き手の意識としてはこんな感じだ。

「なんかさ、この100人の群衆の中に、タロウがいるらしいぞ、それがだれか分からないけどさ。えーと、一体だれがタロウなんだろう……」

誰もが途方に暮れていたその時、突然1人の男が現れてこういった。

「こんにちは。ぼくがタロウだよ

こんな風に、「が」の後ろの「タロウ」については、人々の意識にすでに上っている。

だけど、それが、目の前にあらわれた「ぼく」であることを人々は知らない

こんな時に、「ぼくがタロウだよ」という文が成り立つというのだ。

大野説では説明不十分?

さて、以上を踏まえ、ここでもう一度、大野説を確認してみる。

  • 「は」の前に来るのは、「すでに知っている情報」
  • 「が」の前に来るのは、「まだ知らない情報」

ほほー、なるほどー!

と、納得がいった読者も多いと思う。

だけど、そうキレイにまとめられないのが、日本語のやっかいなところなのだ。

本書では、こんな例が紹介されている。

妻「あなた、佐藤さんがね」

夫「何だ。また佐藤さんの話しかい?」

妻「佐藤さんが面白いことを言いましたよ。」

このとき明らかに、「佐藤さん」は夫婦に共有された「すでに知っている情報」である。

「が」の前に来るのは、「まだ知らない情報」という、大野晋の説に反する例だと言わざるをえない。

じつは、こんな例が、日本語には多数あるというのだ。

じゃあ、大野晋の説には、どんな問題点があるというのだろう。

筆者、金谷武洋はこう言う、

「そもそも、『は』と『が』を同列で比べてるのがおかしいんじゃない?」

さらにこう続ける。

「そもそも、日本語に『主語』なんてないんじゃない?」

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日本語には主語はいらない?

主語にまつわる3つの論争

にわかには信じがたいこの主張。

しかし、この本を読むと、

「ああ、確かに。日本語には主語ってないのかもな」

と思わされる。

日本語における「主語」をとりまく論争については、ぼくもそれなりに勉強した。

その上で、筆者金谷氏の主張を読むと、読めば読むほど、「うん、うん、たしかにそうかも」と納得させられた。

たとえば、日本語の「主語」にまつわる論争が3つある。

  • 総主論争    (この文の主語は1つ? 2つ? 論争)
  • ウナギ文論争  (この文の主語はなに? 論争タイプ1)
  • こんにゃく文論争(この文の主語はなに? 論争タイプ2)

それぞれ、簡単にを問題点だけ示したい。

まず、総主論争

「ゾウは鼻が長い」

述語「長い」に対して、主語って「ゾウ?」、「鼻?」、「ゾウと鼻?」

というもの。

つぎに、ウナギ論争

はは
母「ねえねえ。お昼ごはん、何食べたい?」

子1「ぼくはウナギだね!」

(子2「ぼくはステーキだね!」)

述語「ウナギ」に対して、主語って「ぼく?」

最後に、こんにゃく文論争

女1「ねえねえ、ダイエット始めたんだけど、オススメのダイエット食ってある?」

女2「えー、そうだなあ……あ、こんにゃくは太らないよ!」

述語「太らない」に対して、主語って「こんにゃく?」

はい、以上である。

「日本語の主語は省略される」ってホント?

思い返せば、小学校や中学校の国語の時間。

「日本語には、主語と述語というものがあります。その他にも修飾語とか接続語とか……」

ってな具合に、読者のほとんどが、文法の授業を受けてきたと思う。

「そして、日本語の主語というものは、多くの場合省略されます

こんな風に説明を受けたのではないだろうか。

だけど、たった今確認したとおり、「省略」だけでは、どうにも説明できない文章が日本語にはある。

たとえば、「こんにゃくは太らないよ」という主旨の文を、主語述語の関係を優先して言い直してみる。

「こんにゃくは、あなたがたべても、太らない食べ物だよ」

「あなたは、こんにゃくを食べたとしても、太らないよ」

と、こんなふうに、ムリヤリ主語を変えたり、条件説をつけたりして説明的に表現するほかないだろう。

ただ、こんな奇妙な日本語使っている人はきっといないし、いたとしても、コミュニケーション難のため、きっと友だちが減っていくと思う。

どう考えたって、「こんにゃくは太らないよ」のほうが、自然な日本語だ

じゃあ、この文の「主語」っていったい何なのか?

こう問い続けても、すっきりと気持ちの良い答えは出てこない。

そこで、筆者金谷氏は一刀両断に言い放つ。

「いや、だから、日本語には主語はいらないんだってば」

である。

実際、こんな場面を考えてみてほしい。

車の車窓から、下の図のような美しい富士山が見えたとしよう。

英語話者は言う

「I see Mt FUJI!」

しかし、

「わたしは富士山が見えます」

などと感動を表す日本人はまずいない。

「富士山が見えた!」

というのが、一般的だろう。

そもそも、むりやり「主語」を補うということが、日本語にとって不自然なのだ。

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日本語は「ある」言語 英語は「する」言語

さて、ここからが、本書の1番のキモだ。

この本の副題は

ーー「ある」日本語と「する」英語ーー

である。

英語には、「行為主」つまり「主語」が欠かせない。

日本語は、「行為主」つまり「主語」を入れると、かえって不自然になってしまう

それは先にふれた、「I see Mt FUJI!」と「わたしは富士山が見えます」を見ればわかる。

こういった事情を踏まえて、筆者はこう主張する。

英語は、行為者(私)が「する」ということを前面に表現する言語である。

日本語は、そういう状況がそこに「ある」ことを表現する言語である

英語は、行為者である「主語」が不可欠な言語である。

日本語は、行為者としての人を、できるだけ表現しない言語である

この特徴は、物事の成り行きに対する認識の違いとしてあらわれてくる。

たとえ話をしよう。

いま、あなたにはとっても大好きな恋人がいるとする。

なにがどうしても、その人と結婚したいと思っている。

だけど、自分たちの両親がそれを許さない。

「どうしても結婚するっていうんなら、今日で親子の縁を切る。おまえみたいなやつは、さっさと出ていけ!」

そう言われて、あなたは家を飛び出す。


「おう、縁でも何でも切りやがれ! だれが何と言おうと、ぼくたちは結婚するんだ!」

そんな強い決意のもと成し遂げた結婚

そんなあなたは、その晴れ晴れしい披露宴で、きっとこういうだろう。

「このたび、わたしたち2人は、結婚することとなりました

……だから、なに? という感じだろうか。

では、もう少し。

たとえば、同じシチュエーションで、

「このたび、わたしたち二人は、結婚することにしました

といった場合、どうだろう。

確かに状況としてはこっちの方がぴったりだ。

なのに、どこかフォーマルに似つかわしくない、鼻につく響きがあるように思わないだろうか。

それは、結婚「する」という表現が、日本語には似つかわしくないからだ。

日本語にとっては、結婚することと「なる」という表現のほうがふさわしいわけだ。

この「~と(に)なりました」という表現、日本語になんと多いことか。

「きみたちの担任をすることとなりました、タロウです」とか、

「今回のプロジェクトは、わたくしの案で進めることとなりました」とか。

これらの表現の背後にあるのこうだ。

「ぼくの意志とは無関係に、自然のなりゆきでそうなったんだよ」

つまり、ぼくが「したこと」なんじゃないんだよ、

ぼくはそういう状況に「ある」んだよ、

と、こういうことなのだ。

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自分たちの無力さを知っている日本人

このように日本人は、「自分自身のコントロールのおよばない自然の原理」についての意識がとても強い。

さらに、ものごとの成り行きは、その「自然の原理」にゆだねられているという発想が、日本語の根っこにある。

それは、つまるところ、「人間の無力感」「あきらめの思い」「いさぎよさ」へとつながっている。

なんとなく、「武士道とは死ぬことと見つけたり!」といった「葉隠」の有名なセリフを思い出しはしないだろうか。

桜が散ってしまうはかなさに、こころが動かされる日本人の感性と、どこか通じる部分があると思わないだろうか。

すこし、話がそれるが、日本人が別れ際にいう挨拶「さようなら」

じつはこの「さようなら」も、「自然の原理に対するあきらめの思い」から発せられた言葉だと言われている。

「さようなら」の元のかたちは、「さようならば」、つまり「それならば」である。

「(分かれなくちゃいけない)そういう成り行きならば(それならば)、しかたないよね。ぼくたちにはどうすることもできないよね。ぼくたちはそれを受け入れなくちゃいけないね」

コントロールできない現実と、自らの無力さ、それらをかみしめつつ、ぐっとこらえて口からこぼれ出てきてしまう言葉。

それが「さようなら」だというのだ。

ここにも、筆者の主張、すなわち、

日本語は「ある」言語、英語は「する」言語

という言語観が如実に表れていると言ってよいだろう。

そして、ここで紹介してきたのは、ほんの序章に過ぎない。

筆者の論が冴えわたるのは、このあと展開される「自動詞・他動詞」の話と「受身・使役」の話なのだ。

とても明晰かつ刺激的な論考なので、ぜひ読んでみてほしい。

日本語に表れた自然観や人間観。

本書を手に取れば、それを知ることができるはずだ。

日本語に関する”おすすめ本”

さて、日本語をもっと知りたいという人に向けて、いくつかおすすめしたい本がある

(ほら、「本をおすすめしたい」じゃなくて、「おすすめしたい本がある」のほうが、謙虚でしょ)

『日本語と外国語』(鈴木孝夫 著)

日本語学の権威ともいえる鈴木孝夫の代表作。

こちらも、外国語との比較を通して、日本語とは、日本人とはをあきらかにしていく

以前、紹介したソシュールの言語学にも通じるもので、なかなかスリリングな1冊だ。

(参照【 『言葉とは何か』(丸山圭三郎 著) ー 世界を変えたければコトバを覚えろ ー 】)

こちらはエッセイなので、とってもよみやすく、かつ言語学のおもしろい部分をしっかりと味わえる。

『日本語の教室』(大野晋 著)

こちらも日本語学の第一人者、大野晋の言語学エッセイ。

この記事でも紹介した「は」と「が」の違いについても書かれている

それ以外にも興味深いトピックが多く、身近な表現を例に日本語の本質へと迫っていく。

また、日本語と漢字の関係についての説明は、とってもためになる。

日本語力をアップさせたいという人におすすめ

『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一 著)

この人は言語学者ではなくて、倫理学者。

日本語や日本文学に見られる、ぼくたちの人間観や自然観、死生観について解説をしている。

記事の途中で紹介した「さよなら」の説明は、この本を参考にしている

ぼくは新書で「泣く」なんてことはまずないのだが、この本は読んでいて、そのやさしさから自然と涙がこぼれた

人間のはかなさと、そんな人間を包み込む、あたたかい存在。

そんなことを感じさせられたからだと思う。

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