【 参考 各時代の詳しい解説 】 ・解説【奈良時代まで(上代)の日本語】 ・解説【平安時代(中古)の日本語】 ・解説【鎌倉時代(中世前期)の日本語】 ・解説【室町・安土桃山時代(中世後期)の日本語】 ・解説【江戸時代(近世)の日本語】 ・解説【明治時代(近代)の日本語】 ・まとめ【日本語の歴史と変遷】(奈良時代から現代まで)
はじめに「日本語の歴史を学ぶ」
突然だけれど、あなたは日本語について、どれくらいのことを知っているだろうか。
普段なにげなく使っている日本語だけれど、そこにどんな歴史があるのか、どのように変化してきたのかについて、考えたことがあるだろうか。
おそらく、多くの人がそんなことを考えずに日常を送っていることと思う。
だけど、日本語というのは知れば知るほど興味深く、いまでも解明されない多くの謎を持つ魅力的な言語なのだ。
さて、この記事にたどりついたあなたは、少なくても「日本語の歴史」を知りたいと思っている日本語に興味のある人なのだと思う。
この記事では、そんな人の好奇心を満たすべく、「中古(平安時代の)日本語」について分かりやすく丁寧に解説をしている。
お時間のある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。
主な流れを年表で整理
まずは、本題に入る前に、平安時代の日本語の流れについて年表で整理をしてみよう。
平安時代初期である9世紀は、中国(唐)の勢いが絶頂の時期で、日本文化にも大きく影響を与えた。
こうした9世紀の文化は「唐風文化」と呼ばれていて、この頃の日本の文学は主に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』といった漢詩文がメインとなっていた。
それが9世紀の「かな文字」の成立によって、状況は大きく変わることになる。
これまで漢文でしか書かれなかった文学に、「カタカナ」や「ひらがな」が参入したからだ。
10~11世紀になると、ひらがなは主に女性の間に浸透していき、さまざまな文学作品が登場することとなる。
『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』、『枕草子』、『土佐日記』、『古今和歌集』など……
日本人の多くが知るこうした古典文学は、この時期に登場したものである。
特に『土佐日記』なんかは、「本来は漢字文字を描く男性が、ひらがなで文学を書いた例」として、日本文学史において超重要な作品となっている。
ちなみに、10世紀以降の日本文化は「国風文化」と呼ばれていて、人々の間には、日本のオリジナリティを重んじる風潮が高まっていた。
そうした風潮の中で生まれたこれらの文学には、かな文字による和語が多く使用されていて、当時の人々の日常的な言葉づかいを知ることができる。
また、10~11世紀というのは、いわゆる「古典語」が完成・成熟した時代とされている。
この古典語は、日本における「理想的な言葉」として尊重され、明治時代にいたるまで書き言葉として重用された。
つまり、日本語では鎌倉時代以降、「話し言葉」と「書き言葉」は一致していなかったってワケだ。
日本語において「話し言葉」と「書き言葉」が一致するのは、明治時代の言文一致運動を待たなければならないが、それはまた別のお話なので、気になる方は以下を参照。
【 参考記事 「二葉亭四迷」の人生・言文一致をわかりやすく解説 】
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文字表記について
漢文の訓点が定着
ここからは、平安時代における「文字表記」について紹介しよう。
まず、平安時代のはじめごろは、まだまだ漢文が全盛のころである。
このころ読み書きができたのは、主に男性貴族と男性僧侶だった。
彼らは、中国から輸入されてきた漢籍や仏典を熱心に読んでいたわけだが、次のような悩みを持っていた
「なんとか効率的に漢文を読めないだろうか?」
そこで発明したのが「訓点」である。
訓点というのは、まっさらな漢文(白文)に書き加えられた様々な記号のことで、漢文を日本人にとって読みやすいようにしようという目的のもと発明されたものである。
その代表的なものには「オコト点」というものがある。
これは、漢字の右下に「・」があれば「ヲ」を補うとか、漢字のやや右上に「・」があれば「コト」を補うというものである。
オコト点は、漢文に「助詞」や「助動詞」を書き加えるためのもので、やや補助的な性格が強いものだ。
漢文を読む人の中には、
「そもそも、この漢字の読みが分からないんですけど」
といった人も少なくなかったわけで、そういう人たちのためには、漢字の読みも記す必要があった。
こうして、平安初期の人々は、漢文に「オコト点」を施したり、「漢字の読み」を書き加えたりして、漢文を日本人流に改変して読んでいた。
こうした当時の文体を「漢文訓読体」と呼ぶ。
カタカナの成立
さて、漢文を読むために日本人が訓点をあみだしたことは今ほど述べた通り。
その際に、漢字の読みを記す必要があったわけだが、その一つ一つに「万葉仮名」をガッツリ書き込んでいたのでは、効率が悪いし、見た目的にもガチャガチャしてしまう。
(なお、万葉仮名について知りたい方はこちら。
【 参考記事 解説【上代(奈良時代まで)の日本語】―文字・漢字の伝来はいつ?万葉仮名とは?― 】)
そこで、当時の人たちは、漢字の読みを描くために、字画の少ない万葉仮名を用いたり、ときには「編」や「漢字の一部」で書いたりするようになった。
そして、「漢字の読み」のために省略された万葉仮名が使用されるようになり、それがいつしか、一定のルールを持ち、広く使用されるようになる。
こうして成立したのが、僕たちが良く知る「カタカナ」である。
カタカナという名前は「片(漢字の一部)」で作られた「仮名(仮の文字)」という意味がある。(なお、仮名に対して、漢字は「真名(真の文字)」と呼ばれた。)
ちなみに、カタカナの起源は以下の通りとなっている。
カタカナの成立時期については、諸説があるが、9世紀ころというのが定説となっている。
828年に記された『成実論』が、現在残る最古のカタカナ文書といわれている。
ひらながの成立
カタカナ同様、ひらがなの成立も9世紀頃といわれている。
ひらがなの起源は、万葉仮名を崩した文字「草仮名」にある。
まず、この草仮名が確認できる文書として、古いもので9世紀初期の『多賀城跡漆紙仮名文書』などが挙げられる。
こうした文書で書かれているものの中には、「ひらなが」に近似したものもあるのだが、あくまでも「崩した万葉仮名」(草仮名)の域を出ない。
ところが、時代が下り、9世紀後半になると、草仮名をはるかに逸脱した新たな文字体系があらわれる。
これが「ひらなが」である。
ひらがなの起源は以下の通りとなっている。
ひらがなの使用が認められる日本で最古の文書は9世紀後期の『教王護国寺手観音像胎内檜扇墨書』と言われている。
つまり、現存する資料を頼りにすると、
・草仮名の最古の使用→9世紀初期 ・ひらがなの最古の使用→9世紀後期
ということになる。
ただ、『教王護国寺手観音像胎内檜扇墨書』で書かれた「ひらがな」というのが「手すさび」(平たく言って“落書き”)のようなテンションで書かれたものなのだ。
つまり、どうも9世紀末には、すでにひらがなは広く普及していたようなのだ。
したがって、早ければ800年ごろには、ひらがなは成立していたとみられている。
ちなみに、和語を表すのに適していた平仮名は、当時、主に女性によって用いられた。
そこから、女性による日記や物語といった文学作品が生まれ、そこで用いられる文体は「和文体」と呼ばれている。
ひらがなの登場は、ちょうど国風文化の開花と同時期にあたる。
日本のオリジナリティを重んじる国風文化の時期に、和語を書き示すことができるひらがなが生み出されたのは、決して偶然ではない。
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音韻について
母音の数
平安時代において、音韻にも大きな変化が生まれた。
それが母音の数である。
奈良時代における母音の数は、「上代特殊仮名遣」の存在から「6つ」とか「8つ」とか言われている。【 参考記事 解説【上代(奈良時代まで)の日本語】―文字・漢字の伝来はいつ?万葉仮名とは?― 】
それが、平安時代になると、現在の5つ(すなわち「a」「i」「u」「e」「o」)に落ちつく。
音韻の区別と混同
現代日本語において、たとえば「あいうえお」の「い」と、「わいうえを」の「い」は、別段区別されてはいない。
ところが、これらは平安時代においては区別されていて、時代が下るとともに両者が混同され、自然と統一されてくる。
平安時代には、こうした「音韻の区別」と「音韻の混同」が見られる。
具体的には以下のものが挙げられる。
【 ア行の「エ」とヤ行の「エ」 】
・平安初期……両者は区別。
※ヤ行の「エ」は“イェ”と発音された。
・10世紀半ば……区別が消え「イェ」に統一。
【 ア行の「オ」とワ行の「ヲ」 】
・平安初期・・・両者は区別。
※ワ行の「ヲ」は“ウォ”と発音された。
・11世紀初期……区別が消え「ウォ」に統一。
【 ア行の「イ」とワ行の「ヰ」 】
・平安初期……両社は区別。
※ワ行の「ヰ」は“ウィ”と発音された。
・鎌倉時代……区別が消える。
【 ア行の「エ」とワ行の「ヱ」 】
・平安初期……両者は区別。
※ワ行の「ヱ」は“ウェ”と発音された。
・鎌倉時代……区別が消える。
こんな感じで、奈良時代から平安初期まで、別々のものとして区別されていた音韻が、次第に混同されだし、平安時代末には一本に統一されていった。
そうした「音韻の変化」を知る資料の1つとして、有名な「いろは歌」がある。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
これは、当時の音韻全てが書き記されているといわれているが、ご覧の通り、ア行の「い」とワ行の「ゐ」は区別されているし、ア行の「え」とワ行の「ゑ」も区別されているし、ア行の「お」とワ行の「を」も区別されていることが分かる。
ところが、ア行の「エ」と、ヤ行の「エ」の区別はすでになくなっている。
つまり、この「いろは歌」が作られた時期は、ア行の「え」とヤ行の「え」の区別がなくなった、10世紀半ば以降と特定することができるのだ。
「いろは歌を作ったのは、弘法大師空海である」という俗説があるが、空海が生きたのは774年~835年であることを考えれば、この説が誤った説であることが分かる。
ハ行点呼音
ハ行点呼音とは、語中・語尾のハ行音がワ行音で発音される現象をいう。
たとえば、
- 「あは → あわ」
- 「うへ → うえ」
といったものが、ハ行点呼音の具体例である。
では、なぜ、このような現象が起きたのか。
そもそも、「ハ行」というのは、その発音が大きく変化してきた音韻といわれている。
まず、奈良時代以前において、「ハ行」は「パ、ピ、プ、ペ、ポ」と発音されていた。
それが、奈良時代において「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」と発音されるようになり
、平安時代になると、「ワ、イ、ウ、エ、オ」という風に発音されるようになった。
この、最後の「ハ行 → ワ行」がハ行点呼音の正体である。
なぜ、ハ行はこんなにも何度も変化してきたのだろう。
定説となっているのは「唇音退化のため」である。
つまり、だんだんと「唇をつかわなくなっていった」というワケだ。
では、なぜ、唇をつかわなくなったのかというと、
「そっちの方が発音上、省エネになるから」
というのが良く言われる説なのだが、確実なところは良く分かっていない。
ちなみに、現代日本語における「私は」や「学校へ」という発音は、ハ行点呼音の名残である。
五十音図
このころの五十音図は、行や順序がさまざまで、配列が安定しなかった。
現存する最古の五十音図『孔雀経音義』。
キコカケク シソサセス チトタテツ イヨヤエユ
ミモマメム ヒホハヘフ ヰヲワヱウ リロラレル
こんなふうに、ア行とナ行がなく、行毎に「イオアエウ」とまとめられていて、現行とは随分異なった印象を持つ。
段がアイウエオに固定するのは鎌倉時代12世紀ころ、行がアカサタナハマヤラワに固定するのは13世紀後半、全体的に現行のようになるのは江戸時代17世紀ころといわれている。
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語彙・文法について
最後に、平安時代の語彙や文法について、簡単に解説をしておこう。
動詞
奈良時代の動詞の活用の種類は全部で8つだった。
平安時代になると、そこに、下一段活用の用法が加わり、動詞の活用の種類は9つとなる。
【 平安時代の動詞の活用の種類 】 四段活用 上一段活用 下一段活用 上二段活用 下二段活用 カ行変格活用 サ行変格活用 ナ行変格活用 ラ行変格活用
こうして、古典語の動詞の活用の種類が全部そろったことになる。
形容詞
形容詞については、ク活用、シク活用の2種類のみで、これは奈良時代から変わらない。
ただ、活用の仕方に変化が生まれ、古典語としての完成を迎えた。
形容動詞
形容動詞の増加。
これは、平安時代の日本語において特筆すべき事柄である。
そもそも、形容動詞は奈良時代において、ほとんど存在しない品詞だった。
それが、平安時代において、爆発的に数を増やしていくことになる。
それはなぜか。
端的にいえば、
「日本語のボキャブラリー不足が露呈したから」
ということになる。
平安時代になると、漢籍や仏典の翻訳が盛んに行われることになる。
すると、中国由来の様々な概念を日本語にする必要に迫られるワケだが、このとき、既存の「形容詞」だけではそれらをカバーすることができなかった。
つまり、日本語は中国に比べて、圧倒的に語彙が不足していたのである。
そこで日本人が考えたのが「じゃあ、語彙を増やせばいいんじゃね?」ということだったのだが、そのやり方というのが「名詞」に「断定の助動詞」をくっつけて、むりやり一語にするという力技だった。
こうして生まれたのが、「あはれなり」とか「堂々たり」といった形容動詞である。
上記はそれぞれ、ナリ活用、タリ活用と呼ばれている。
ちなみに、両者の特徴の違いは以下の通り。
【ナリ活用 と タリ活用の違い】
・ナリ活用=「和語」+「断定の助動詞なり」
・タリ活用=「漢語」+「断定の助動詞たり」
こうして平安時代でボキャブラリー不足に直面した日本語は、形容動詞を量産することでそれを乗り越えようとした。
音便
言葉というのは非常に合理的な側面がある。
その合理性の1つに、「発音しやすいように音を変化させる」といったものがある。
こうした音の変化を「音便」という。
平安時代になると、この音便という現象が生じる。
音便には4つの種類がある。
すなわち、イ音便、ウ音便、促音便、撥音便だ。
【 各音便の具体例 】
・イ音便
「泣きて → 泣いて」など。
・ウ音便
「給ひて → 給うて」など。
・促音便
「持ちて → 持って」など。
・撥音便
「あるなり → あんなり」など。
撥音便だけ、やや注意が必要な用法だといえるが、いずれにしても平安時代になると、こうした音便化現象がさかんに見られるようになる。
助動詞
助動詞も平安時代になると数が増える。
主に増えた助動詞ラインナップは次の通り。
- 「る・らる」(受身、自発、可能、尊敬)
- 「す・さす・しむ」(使役、尊敬)
- 「らし」(推定)
- 「めり」(婉曲、推定)
- 「む・むず」(推量、意志など)
- 「べし」(推量、意志など)
- 「まじ」(打消推量、打消意志など)
- 「り」(存続、完了)
- 「ごとし」(比況)
- 「まほし」(願望)
- 「たり」(存続、完了)
などが登場。
こちらも奈良時代の物と合わせ、古典語の完成を迎える。
助詞
こちらについても、格助詞、副助詞、係助詞、終助詞、間投助詞、それぞれが体系化し、古典語としての完成を迎える。
日本最古の辞書の誕生
平安時代に古典語が完成し、「語彙」が体系化されたこともあって、日本で初めての辞書が編纂されるが、それを皮切りに、数々の辞書が登場した。
『新撰字鏡』(著者・・・晶住/898~901年ごろ) 現存最古の漢和辞書。約2万の漢字が掲載されている。部首順に漢字をならべ、それに対応する和語を添える。
『和名類聚抄』(著者・・・源順/931~938年ごろ) 全20巻からなる漢和辞書。約2600の漢語を分類し、漢文注を記したあとに、ソレに対応する和語を添える。
『類聚名義抄』(著者不詳/12世紀初め) 漢和辞書。『新撰字鏡』と同じタイプの辞書。
『色葉字類抄』(著者・・・橘忠兼/1144~1181年ごろ) 和語・漢語を第一音節によってイロハ47部に分けている。イロハ順になっている辞書としては最古のもの。のちの辞書に大きな影響を与えた。
以上、中古(平安時代の)日本語に関する解説を終わります。
この記事が、日本語を学ぶあなたの役に立てたのなら幸いです。
ちなみに「もっと日本語を学びたい!」そう思う人には、沖森卓也著『日本語全史』をオススメします。
この1冊を読めば「日本語の歴史」について、大体のことが分かると思います
日本語を学ぶなら、ぜひ、一読しておきたい1冊なので、ぜひ参考にどうぞ。
それでは、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
【 参考 各時代の詳しい解説 】 ・解説【奈良時代まで(上代)の日本語】 ・解説【平安時代(中古)の日本語】 ・解説【鎌倉時代(中世前期)の日本語】 ・解説【室町・安土桃山時代(中世後期)の日本語】 ・解説【江戸時代(近世)の日本語】 ・解説【明治時代(近代)の日本語】 ・まとめ【日本語の歴史と変遷】(奈良時代から現代まで)
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