解説【鎌倉時代(中世)の日本語・言葉】―文法や表記、発音、語彙を分かりやすく―

言葉
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【 参考  各時代の詳しい解説 】

解説【奈良時代まで(上代)の日本語】

解説【平安時代(中古)の日本語】

解説【鎌倉時代(中世前期)の日本語】

解説【室町・安土桃山時代(中世後期)の日本語】

解説【江戸時代(近世)の日本語】

解説【明治時代(近代)の日本語】

まとめ【日本語の歴史と変遷】(奈良時代から現代まで)
はじめに「日本語の歴史を学ぶ」

突然だけれど、あなたは日本語について、どれくらいのことを知っているだろうか。

普段なにげなく使っている日本語だけれど、そこにどんな歴史があるのかどのように変化してきたのかについて、考えたことがあるだろうか。

おそらく、多くの人がそんなことを考えずに日常を送っていることと思う。

だけど、日本語というのは知れば知るほど興味深く、いまでも解明されない多くの謎を持つ魅力的な言語なのだ。

さて、この記事にたどりついたあなたは、少なくても「日本語の歴史」を知りたいと思っている日本語に興味のある人なのだと思う。

この記事では、そんな人の好奇心を満たすべく、「鎌倉時代(中世)の日本語」について分かりやすく丁寧に解説をしている。

お時間のある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。

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「話し言葉」に見られる変化

鎌倉時代は、日本語が大きく変化した時代だ。

これは、言い換えれば「古代語が崩れ出した時期」ということになる。

ただ、ここで急いで強調しておきたいのは、鎌倉時代に大きく変化をしたのは「話し言葉」であり、「書き言葉」はさほど変化してはいないということだ。

なぜなら、鎌倉時代において「書き言葉」は、平安時代のもの(主に10世紀のもの)が模範とされ、継承されていったからだ。

これは日本語史の大きな特徴で、日本語において「話し言葉」と「書き言葉」は意識的に区別されてきたのだ。

そして、「話し言葉」は時代とともに変化をしていった一方で、「書き言葉」は明治時代までほとんど変化していない。

こうした状況は、「言文二途」と呼ばれる。

だけど、こう聞くと、次のような疑問を持たないだろうか。

「現代に残る資料は『書き言葉』しかないのに、どうして『話し言葉』の変化について知ることができるの?」

考えてみれば、その通りだ。

鎌倉時代において、書き言葉は平安時代のものを模範として、意識的に継承していたのだとすれば、当然、僕たちが目にする鎌倉時代の資料は「平安時代の日本語」ということになる。

確かに理屈の上ではそうなる。

だけど、そう割り切れないのが言葉の面白いところで、実は鎌倉時代の資料には、当時の「書き言葉」の影響がバッチリ表れてしまっているのである。

どんなに意識して「平安時代の言葉」を書こうとしても、書き手の不注意や文脈の流れによって、自分たちの「話し言葉」が、書き言葉に反映されてしまう。

こうしたちょっとした断片を頼りに、日本語研究者たちは「鎌倉時代」の日本語について体系化することに成功したというワケだ。(研究者ってすごい)

そうした事情を念頭に、以下では「鎌倉時代の日本語」について解説をしていこうと思う。

 

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文法について

「係り結びの消滅」と「連体形止め」

鎌倉時代における言葉の変化を語る上で、絶対に見落とすことのできないメチャクチャ大事な動きがあるので、最初のうちに説明しておきたい。

それが「係り結びの消滅」「連体形止めの一般化」である。

こうして聞くと「何がなんやら、よくわからん!」という人も多いと思うので、もう少し丁寧に説明をしたい。

そもそも、日本語には「基本的に文は終止形で終わる」というルールがある。

それは、奈良時代だろうが、平安時代だろうが、変わらない。

ためしに平安時代の文法にのっとった例文で説明してみると、

ある所に男あり

といった感じで、文末の「あり」は、当然「終止形」になる。

ところが、誰が始めたのかはしらないが、そうしたルールから敢えて逸脱することで、聞き手や読み手に「強い印象を与える表現」というのが生まれてくる。

その代表格が、ご存じ「係り結び」による協調である。

あなたも高校時代に嫌というほど習った通り、「係り結び」というのは、文中に「ぞ」とか「なむ」が来ることで、文末が「連体形」で終止する、といった用法である。

繰り返すが、その「係り結び」の意義というのは「文の強調」である。

先ほどの例で説明すると、こんな感じだ。

ある所に男ある

本来であれば「終止形」で終わらせるべきところを、文中に「ぞ」を入れて、文を「連体形」で終わらせることで、その文を強調したり、読み手や聞き手に余韻を与えようというワケだ。

こうした「係り結び」は平安時代には一般化し、様々な文章に登場するようになる。

ところが、ある時、「ぞ」とか「なむ」がなくても「連体形で強調しちゃえ」といった輩が現れた。

それを皮切りに、「ぞ」とか「なむ」がなくても「連体形で終止する」という強調表現が散見されるようになっていく。

先ほどの例で説明すると、こんな感じだ。

ある所に男ある

こうした「ぞ」とか「なむ」がなくても「連体形で文をとめて強調する」という用法は、「連体形止め」というそのまんまのネーミングで呼ばれているが、この連体形止めが本格的に広がっていくのが「鎌倉時代」になってからというワケなのだ。

では、なぜ鎌倉時代なのか、というと、一説によれば「平安後期から鎌倉時代の日本が、天変地異が連発したディストピアだったから」と言われている。

地震、火事、津波、台風、噴火、飢饉、疫病、そして内乱……

こうした、日本の歴史上もっとも過酷だったのが、平安後期から鎌倉時代であり、こうした混乱期の中で日本語が大きな変化を遂げたというワケだ。

あえてザックリ言えば、

「生きるか死ぬかって時に、正しい日本語とか気にしてらんねえ!」

ということなのだろう。

「ぞ」とか「なむ」をつけないと「連体形」で終止できないとかメンドクサイ! もういっそ、「ぞ」とか「なむ」とかなしで「連体形」で止めちゃって良くない? というのである。

こうして、鎌倉時代の人たちは、「終止形」ではなく「連体形」で文を終止するようになっていった。

これが鎌倉時代における超重要な変化、「係り結びの消滅」「連体形止めの一般化」である。

ほほう、なるほど。

だけど、こんな疑問を持たないだろうか。

で、これの、一体どこが「超重要」なの?

「連体形」の「終止形化」

「係り結びの消滅」と「連体形止めの一般化」が重要な理由とは何なのだろう。

結論を言えば、

「“現代日本語の終止形”は、もともと、“鎌倉以前の連体形”だったから」

ということになる。

そのことを表したのが、この章の見出し、

「連体形」の「終止形化」

である。

こう聞いても「なんのこっちゃ分からん!」と思うと思うのだが、具体例を見ると、とっても分かりやすい。

【 ラ行変格活用の「あり」の例 】

終止形「あり」が連体形「ある」に取って代わられる
【 サ行変格活用の「す」の例 】

終止形「す」が連体形「する」に取って代わられる

こんな感じで見てみると一目瞭然だ。

そう、現代日本語の「終止形」というのは、かつての「連体形」だったのである。

つまり、「係り結びの消滅」や「連体形止めの一般化」があったからこそ、現代日本語における「終止形」がある、というワケだ。

ほら、だから「、係り結びの消滅」も「連体形止めの一般化」も、日本語学において「超重要」と言われているのだ。

 

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二段活用の一段化

しかも、こうした流れは「二段活用の一段化」という変化をもたらすことにもなる。

たとえば、現代語の「起きる」という言葉は、平安文法によれば「カ行上二段活用」の「起く」とされ、その活用は、

未然連用終止連体已然命令
くるくれきよ

という風に展開していく。

ところが、ここに「連体形終止の一般化」というムーブメントが起こると、理論上、活用は次のようになる。

未然連用終止連体已然命令
くるくるくれきよ

さて、言葉というのは合理的な生き物で、とにかく「省エネ」というものを常に目指している。

上記の場合も、その例外ではなく、「省エネ」を目指して変化が起こっていく。

それが「二段活用の一段化」なのである。

要するに「『き』、『き』、ってきたんだから、もうそのまま『きる』、『きれ』、『きよ』で良くね?」というワケだ。

未然連用終止連体已然命令
きるきるきれきよ

こうして、「カ行二段活用」の「起く」は、「カ行上一段活用」の「起きる」になる

ほら、「起く」は完全に古典語だけど、「起きる」はもはや現代語でしょ?

ということで、繰り返すが、「係り結びの消滅」や「連体形止めの一般化」があったからこそ、現代日本語における「終止形」があるのである

なお、この「二段活用の一段化」は、鎌倉時代に徐々に広がっていく、最終的に完璧に定着するのが18世紀ころ(江戸時代)と言われている。

その他の文法事項」

以上が、鎌倉時代の文法事項のうち、超重要なものである。

ここでは、その他、特筆すべき文法事項について簡単にまとめておく。

【 過去の助動詞「た」が登場 】

鎌倉時代になると、連体形の活用語尾の「る」が脱落する。

たとえば「静かなる海」→「静かな海」といった具合だ。

すると、完了の助動詞「たり」の連体形「たる」も、同様の理屈で「た」になった。

鎌倉時代には、連体形終止が一般化されたことは上述の通りだが、同様に、完了の助動詞も「た」で終止できるようになった。

これが、現代語の「勉強した」の「た」、つまり、現代語における「過去の助動詞」の「た」の成り立ちである。

平安時代まで、過去や完了形の助動詞には「けり、き、たり、り、つ、ぬ」と、かなり細分化されていたが、鎌倉時代以降、次第に「た」に一本化されていく。
【 断定の「である」が登場 】

もともと、平安時代まで、断定の助動詞は「なり」だった。

その連用形に「に」というものがあったのだが、鎌倉時代には、その「に」に「て」がつき、さらに「ある」がつく用法が多く用いられる。

すると、それが縮まることで、次のような発音が一般化することになる。

「にてある」→「である」 

これが「である」の誕生の経緯である。
【 打消しの「ん」が登場 】

平安時代までの打消の助動詞は「ず」であったが、鎌倉時代には「ん」という表現が登場する。

これは、「ず」の連体形の「ぬ」が変化したものだ。

鎌倉時代になり、連体形終止が一般化されると、打消の助動詞も連体形の「ぬ」で終始するようになっていく。

こうして「宮中には行かぬ」→「宮中には行かん」という表現が生まれることとなった。

以上、特筆すべき文法事項についてまとめてみた。

これらの変化を概括してみて分かるのは、ここでもやはり「係り結びの消滅」や「連体形終止の一般化」が大きく影響しているということである。

なお、「そもそも、係結びって、どうしてあるの?」とか「係り結びって、どうして連体形で終わるの?」といった、“”そもそも“の部分について知りたい方は、こちらの記事で詳しく解説をしているので、ぜひ参考にしていただきたい。

【 参考記事 解説「係り結びの起源」—なぜ連体形?なぜ已然形?なぜなくなった?謎を全て解決—

文字表記について

仮名文字が庶民に広がる

次に「文字表記」についてである。

鎌倉時代になると、前代(平安時代)に成立した仮名文字の使用が本格化していく。

平安時代では、紫式部や清少納言に代表されるような、一部の中流女性貴族がかな文字を使っていたが、鎌倉時代になると、それが庶民にまで広がっていく。

そもそも、仮名文字というのは誰でも気軽に読めたり書けたりできる平易なものだ。

その仮名文字は、鎌倉時代になると「貴族から庶民へ」とジワジワと広がり始める。

そこに、鎌倉仏教を説く僧侶たちが拍車をかけることになる。

たとえば、浄土真宗を説いた親鸞や、日蓮宗を説いた日蓮といった僧侶たちは、庶民に教義を説いたり、信徒に手紙を書いたりするとき、あえて分かりやすい仮名文字を用いていた。

また、『愚管抄』を記した慈円も「多くの人々に理解できるように」と。あえて仮名文字や和語を用いて表現をしている。

 

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仮名文字交じり文の登場

こうなってくると、仮名文字で書かれた文書というのが、爆発的に増加していく。

もともと漢文で書かれていた書物が、ひらなが文字を中心とした「漢字平仮名交じり文」で書きなおされることも多かったし、仏教関係の書物の中には、カタカナを使用したものが多く、「漢字交じり片仮名文」(漢字主体でカタカナを混ぜた文)や、漢字片仮名交じり文」(カタカナ主体で漢字を混ぜた文)が多く登場する。

こうした書物の存在は、鎌倉時代において、ひらがなやカタカナといった「仮名文字」が、庶民に広く普及していたことを物語っている。

ちなみに、当時の人々にとって、ひらがなよりもカタカナの方が、使用のハードルが低かったようだ。

というのも、ひらがなは、書く上では流麗で繊細な表記が求められたし、読む上では変体仮名の判読が難しかったからだ。

一方のカタカナは、書く上でも読む上でも、ひらがなよりもはるかに簡単だったため、人々は簡単で実用的なカタカナを最初に習い、その後でひらがなを習うというのが一般的だったという。

当時の短編集『堤中納言物語』には、幼い姫君が、

「ひらがなはまだ書けないので、カタカナで和歌を書いた」というシーンがある。

仮名はまだ書きたまはざりければ、片仮名に

こうした記述からも、鎌倉時代では、ひらがなよりもカタカナのほうが、より庶民に普及していたことが分かっている。

 

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音韻について

音韻が整理されていく

鎌倉時代になると、平安時代まで乱れがちだった音韻がより整理され、体系化されていく。

具体的には次のような変化がみられる。

【 鎌倉時代の音韻について 】

1、類似した音韻が統合される

2、拗音が確立する

3、促音が確立する

4、撥音が確立する

類似した音韻が統合

類似した音韻といえば、たとえば、「ア行のエ」と「ヤ行のエ」と「ワ行のヱ」のセットがある。

これらは、平安時代において区別して発音されていた。(ア行のエは「エ」と発音、ヤ行のエは「イェ」、ワ行の「エ」は「ウェ」と発音されていた)

それが、鎌倉時代になると、ヤ行のエ(イェ)に一本化される。

鎌倉時代では、こうした類似音韻の統合が進んだ。

こうした例はいくつかあり、それらを整理すると、次の通りになる。

【 類似音韻の統合 】

  • ア行の「エ」/ヤ行の「エ」/ワ行の「ヱ」
    ヤ行の「エ」(イェ)に統合   
  • ア行の「オ」/ワ行の「ヲ」(ウォと発音)
    ワ行の「オ」(ウォ)に統合
  • ア行の「イ」/ワ行の「ヰ」(ウィと発音)
    ア行の「イ」に統合                

こんな風に、最終的に生き残ったのは、

ヤ行の「エ」

ワ行の「ヲ」

ア行の「イ」

だったわけだが、その理由は、これらがが多くの語において用いられていた「優勢な発音」だったからだと考えられている。

拗音・促音・撥音が確立

拗音というのは「シャ、シュ、ショ」や「キャ、キュ、キョ」といった類の音韻であり、促音というのは「っ」(小さい「つ」)といった音韻であり、撥音というのは「ん」といった音韻である。

これらは奈良時代においては、日本語の音韻として認められていなかったが、平安時代以降になると少しずつ登場し始め、鎌倉時代になると本格的に確立する。

たとえば、拗音の例としては「証文(ショウモン)」や「条(ジョウ)」といったものが見られるし、促音の例としては「専ら(モッパラ)」や「最も(モットモ)」といったものが見られるし、撥音の例としては「非ずんば(アラズンバ)」や「少なくんば(スクナクンバ)」といったものが見られる。

こんな風に、類似した音韻が統合されたり、奈良時代、平安時代にはなかった音韻が確立されたりすることで、日本語が現代の用法にいっそう近づいたのが鎌倉時代だと言える。

 

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語彙について

和漢混淆文の登場

鎌倉時代の語彙に関して、もっとも特徴的な動きは「漢語が一般化したこと」だろう。

もちろん、平安時代においても、限定的に「漢語」は使われていた。

たとえば、平安時代の書き言葉には、次のようなものがある。

  • 和文体=和語をベースにした文体
  • 漢文訓読体=漢語をベースとした文体

両者はおおむね棲み分けがされていて、多くの場合は、

  • 女性=和文体
  • 男性=漢文訓読体

というのが、実情だった。

つまり、奈良~平安時代において漢語の使用は、男性の特権だったのである。

それが、上述したとおり、鎌倉時代になると、こうした対立が徐々に解消されていく

要するに、和文体と漢文訓読体が融合していったのだ。

こうして生まれたのが、「和漢混淆文=和文体+漢文訓読体」である。

この和漢混淆文の使用は『今昔物語集』に始まり、『平家物語』などの軍記物語において、その最盛を迎える。

『平家物語』といえば、その格調高い文体でつづられる武士たちの美しくも悲しい人間ドラマで有名だが、まさに和漢混淆文は、こうした世界観に絶妙にマッチした文体だといえる。

人間の感情の機微は「和語」で。

武士たちの硬質な性格は「漢語」で。

こんな風に、「叙情と論理」、「軟質と高質」、「女性的と男性的」といった対立を絶妙に融合させた文学が多く生まれ、和漢混淆文は鎌倉時代の書き言葉の中心となっていった。

 

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漢語が一般化

和漢混淆文に象徴されるように、鎌倉時代は「漢語」が大きく広がっていった時代だといっていい。

その1つに「和語の漢語化」が挙げられる。

これはどういうことかというと、「返事」という漢語を例にして、次のように説明できる。

【和語の漢語化】

・かえりごと(和語のひらがな表記)

→返り事(和語の漢字表記)

返事へんじ(和語の音読み化)

こうして、現代でも多く使われる「返事」という言葉が生まれたわけだ。

つまり、「和語の漢語化」というのは、「和製漢語の登場」と言い換えることができる。

こうした例として、他にも、

ひのこと → 火の事 → 火事

こちなし → 骨無し → 無骨

といったものがあげられる。

その他の動き

その他、鎌倉時代の語彙について特筆すべき事柄を、以下にまとめたい。

【 代名詞について 】

「いづれ」→「どれ」といった変化が生まれ、いわゆる「こそあど言葉」が完成した。

・一人称に「わたくし」「おれ」が登場し、二人称に「おまへ」が登場し、三人称に「かれ」が登場するなど、現代の人称に大きく近づいた。
【 武家詞について 】

・武家詞という「武士特有」の(強がった)表現が生まれた。

・たとえば「射られる」を嫌って「射させる」と言い換えたものが挙げられるが、これは要するに、自分の優位性を強調しているのだ。(「射られた」わけじゃねえし、「射させてやった」んだし、という感じ)

・たとえば「引く」、「退く」を嫌って「ひらく」と言い換えたものが挙げられるが、これは要するに、敗戦を匂わす言葉を避けているのだ。(ちなみに、会を「お開きにする」は、この語の名残である)
【 待遇表現について 】

・「おはします」→「御座」と漢字表記され、さらにそこに「ある」がくっついた「ござある」が登場する。これが中世後期になると「あ」が脱落。時代劇でおなじみ、武士言葉の代表格「ござる」となる。

これらが特筆すべき「語彙」の変化である。

以上、鎌倉時代(中世)の日本語に関する解説を終わります。

この記事が、日本語を学ぶあなたの役に立てたのなら幸いです。

ちなみに「もっと日本語を学びたい!」そう思う人には、沖森卓也著『日本語全史』をオススメします。

この1冊を読めば「日本語の歴史」について、大体のことが分かると思います

日本語を学ぶなら、ぜひ、一読しておきたい1冊なので、ぜひ参考にどうぞ。

それでは、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

【 参考  各時代の詳しい解説 】

解説【奈良時代まで(上代)の日本語】

解説【平安時代(中古)の日本語】

解説【鎌倉時代(中世前期)の日本語】

解説【室町・安土桃山時代(中世後期)の日本語】

解説【江戸時代(近世)の日本語】

解説【明治時代(近代)の日本語】

まとめ【日本語の歴史と変遷】(奈良時代から現代まで)

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