解説・考察・あらすじ『くるまの娘』―“家族”という牢獄、“愛”という支配―

文学
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はじめに「作者紹介」

作者「宇佐見りん」がデビューしたのは2019年。

壊れてしまった母親を救おうとする少女の物語『かか』文藝賞受賞をしてのことだった。

『かか』を読んだ時の衝撃は今でも忘れられない。

詩情と熱量に富んだ文章と、的確な表現、鋭い世界認識など、その「文学的感性」に圧倒された。

なんといっても「かか弁」と呼ばれる独自の文体が効いていた。

主人公の母が使っていたとされるその語り口には、家族の「閉鎖性」や「独自性」のようなものが残酷なまでに表れていて、僕は読みながらなんども胸が詰まる思いがしたのだった。

ちなみに『かか』は2020年に、三島由紀夫賞を同時受賞

審査員長の高橋源一郎氏は、「文学的な絶対音感がある」と宇佐見りんを高く評価している。

続く2作目『推し、燃ゆ』もすごかった。

彼女の「文学的絶対音感」は相変わらず――というか更に磨きがかかっていて、「推し」という現代的なムーブメントを扱いつつ、「生きづらい人間」の悲哀と切実さを見事に描き切った。

同作は、2021年に芥川賞を受賞

綿矢りさ、金原ひとみに次ぐ、史上3番目の若さだった。

ということで、宇佐見りんは、今、もっとも注目すべき、現代文学を牽引する書き手の1人である。

さて、今回、この記事で扱うのはこちら『くるまの娘』

芥川賞受賞第1作、宇佐見りんにとっては3作目の中編小説である。

テーマは「家族」

ふりかえってみれば、作者は『かか』以来、ずっと家族を描いてきたといっていい。

間違いなく、作者には「家族」を書かねばならない必然性がある

そう確信できるほど、本書『くるまの娘』には鬼気迫るものがみなぎっている。

以下、そんな『くるまの娘』について考察をしていこうと思う。

お時間のあるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。

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あらすじ

かんこは17歳の女子高生。

家族構成は、父、母、兄、かんこ、弟の5人。

母は2年前に脳梗塞を起こし、その後遺症に苦しみ、酒におぼれている。

「アル中」で「ヒステリック」な母に辟易する父だが、彼もまた時折、家族に暴言・暴力を浴びせている。

そんな両親から逃れるため、兄と弟はすでに家を出て、別の暮らしを送っている。

かんこはといえば、1年半ほど前から「ウツ」を発症し、希死念慮を抱いている。

そんなある日、「祖母の死」の報を受け、車にのって葬儀に向かう父、母、かんこ。

思い出の景色や、車中泊の閉鎖空間が、家族の「歴史」と「今」を徐々に明らかにしていく。

「どうして、家族は傷つけあわなければならないのだろう」

「どうして、自分は家族を捨てることができないのだろう」

そんな自問自答の末、かんこはあることを悟る。

そして、かんこは「車」に住むようになった。

登場人物

かんこ
……主人公。17歳の高校2年生。1年半前に「ウツ」を発症し、精神科医に通っている。希死念慮を持つ。現在は兄と弟が出ていった家で、両親と3人で暮らしている

……2年前に起こした脳梗塞の後遺症で、顔面麻痺と記憶障害に苦しんでいる。繊細な心の持ち主で、日々の苦しみから逃れるように酒を飲み、ささいなことでパニック症状を起こしてしまう。過去の家族を美化し、固執している。

……会社員。昔から家族に暴言や暴力を浴びせてきたが、現在その頻度は少ない。自身も両親からネグレクトにあい、暴力を振るわれた過去を持っている。
兄(にい)
……かんこの兄。現在は家を出て妻と2人で暮らし、意識的に家族を避けている。家を出られないかんこに対して「自立していない」と非難する。
弟(ぽん)
……かんこの弟で高校1年生。現在は、母方の祖父母の家から高校に通っている。中学の頃にいじめられた過去を持つ。家族のことを冷静に眺めているが、深刻な場面に直面すると「ヘラヘラする」ことで自分を守ろうとする。
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考察①「かんこの窮状」

作品の冒頭にこんな記述がある。

細く入り込んできた風に鼻をうごめかし、左頬をかるく冷まされながら、かんこは自分がだれかを背負っている気がした。(P4)※引用はすべて単行本より

かんこは一体だれを背負っているのか。

その問いに性急な答えを出すのをためらいつつ、だけどあえて言うならば、やはり「両親」ということになる

かんこは5人家族。

そのうち兄と弟は、すでに家から出ていったので、現在はかんこと両親の3人暮らし。

母は記憶障害で、アル中で、パニック持ちだし、父はそんな母に辟易し、かんこに暴言暴力を振るってくる。

はたから見てグチャグチャなそんな家族を、かんこはたった1人で背負っている。

そんな状況の中で、かんこは「ウツ」を発症する

そして、そこはかとない希死念慮を抱く。

「おいおいおい」最上階まで続く階段を上った。近頃、おもいがけなくそれに取りつかれる。(P7)

足が勝手に階段を上る。(P11)

無意識に、階段を上がり続けるかんこ。

その目的については明示されてはいないが、それが自ら命を絶つためであることが、次の場面からもうかがい知ることができる。

かんこは階段を上り切り、ドアに体をうちつけた。そこで初めて、体はとまった。ドアノブを捻る。やはり鍵がかかっている。屋上にでられるわけもなく、ドアの向こうの空を思った。しゃがみこむ。今はその気もないのに想像だけが先走った。今までこの窓から何人の生徒の幻影が落ちたろうと思う。(P11より)

別にその気があるわけではないのに、無意識のうちに死のうとしてしまうかんこ。

その始めについては、サラリとこんなふうに記されている。

ある朝。目覚めたかんこは気分が晴れやかだった。足がとまらなくなり、ホームセンターに行って縄を買い、その足で待ちの小さな神社に行って、縄をご神木にかけた。(P7より)

これもまた、無意識裏に彼女が縊死を企てたのだと思われる

また、印象的なのは、彼女の自己防衛の手段である。

いわく、痛みを感じるや、突然「ただの物になる」というのだ。

すると、とたんに彼女は「変化を受け付けなくなるし、動けなくなる」のだが、この「物」には具体的なイメージが伴っている。

たとえば、「めざし」「トマト」「肉」などなど。

「めざし」になれば、勉強や学校から解放されるし、「トマト」になれば、なぐられて液体(涙)を流すのは当たり前だし、「肉」であればたたかれてミンチにされても仕方がない、と説明されている。

かんこは痛みを感じると、よくものになった。ものは、考えないものになると、考えない代わりに痛みを少し和らげることができる。(P102より)

どうして、自分はこんなに苦しいのか。

どうして、父は自分に暴力を振るうのか。

かんこは「物」になり、思考を停止することで、そうした問いから目を背け、自分自身を守っているのだと言える。

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考察②「かんこの思い」

と、ここまでギリギリに追い込まれているかんこ。

彼女を追い詰める大きな要因に「両親」の存在があるのは間違いない。

だからこそ、彼女の兄と弟は、自分自身を守るために「両親」から敢然と距離をとっている。(特に兄に関しては、意識的に家族との交わりを拒絶している)

誰だって、この家族のありさまをみれば、

だったら、さっさと家族から逃げちゃいなよ

と、思うに違いない。

実際に、かんこは周囲の大人から、繰り返しそう諭されてきたことがうかがえる。

だけど、かんこの問題は「家族」から距離を取ることで解決できるような、そんなシンプルなものではないし、かんこの「家族」への思いも、「0か100か」で割り切れるような、そんな易しいものではない

かんこの両親への「思い」はこう記されている。

かんこにとって大人たちの言うことは、火事場で子どもを手放せと言われているのと同等だった。言われるたびに苦しかった。あのひとたちはわたしの親であり子供なのだ、ずっとそばにいるうちにいつからこんがらがって、ねじれてしまった。(P123より)

かんこの内には、両親に対する「あわれみの念」がある。

いや、あわれみの念が巣食っている・・・・・・といったほうが相応しいのかもしれない。

彼女の心に巣食って彼女を支配するのは、

「私が見捨てたら、いったい誰がこの人たちを救えるんだ」

といった思いであり、かんこ自身それを「子どもに対する親の思い」になぞらえているワケだが、その実態はほとんど「強迫観念」であると言わざるを得ない。

一方で、彼女の両親への「あわれみ」には、憎しみの色がはっきりと表れてもいる。

これまでにかんこが放った恨み言を、父は覚えているだろうかと思った。父さんのせいだ。父さんのせいでわたしは、と泣きながら何度も言った。(P112より)

かんこが感情的に両親を非難するシーンは、本書で他にも描かれている。

「家族を避ける兄」を非難する母に対して、

「兄ちゃんが出ていったのは、うちがおかしくなったからだ。全部あんたらのせいだ」(P84より)

と言って、いさかいに発展するシーンなどがそれだ。

この「愛憎」相半ばするアンビバレンスな感情に、かんこはとらわれ続けている。

もちろん、かんこ自身、自分自身の思いがいかに不合理であるかも理解している。

だけど、理性ではなく、彼女の感情が――いや命が――両親を捨てることを許そうとしない

どちらかというと子どもに対する心持ちのようだと、かんこは思っていた。つきはなしてはいけないと、理性ではなく自分の命が、要請してくる。(P109より)

だからこそ、兄からの「いよいよなら家を出ていいと思う」という助言も、「おまえは自立していないだけ」という批判も、かんこを動かすことはできないのだ。

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考察③「両親を捨てられない理由」

では、なぜ、かんこは両親に対して屈折した「愛」を抱くようになったのだろうか。

なぜ、かんこは「苦しみ」を背負ってまで、両親を抱え込もうとするのだろうか。

これらの問いに答えるため、まずは次の点について考えてみたい。

「両親を捨てられた兄弟」と「両親を捨てられないかんこ」との違いは何か

他の兄弟は両親を捨てることができたのに、かんこにはそれができなかった……

両者の違いを明らかにできれば、かんこが両親を捨てられない理由が分かるかもしれない。

そう思って、本書を隅から隅まで読んでみると、次の3点が相違点として見つかった。

  1. かんこだけが、父に「学習面」において期待されていた点
  2. かんこだけが、両親に対して「想像力」がよく働いた点
  3. かんこだけが、兄弟の中で、最後まで家にとどまってしまった点

1の「勉強面」について言えば、かんこは父から「三兄弟のうちで、一番向いている」とお墨付きをもらっているし、2の「想像力」について言えば、かんこは父の「虐待された過去」について同情をしているし、3の「家にとどまった点」について言えば、かんこが「自分だけは両親を見捨てまい」という思いを持つのも当然のことと考えられる。

以上が、「かんこが家族を捨てられない」理由として挙げられそうなのだが、とはいえ、そのすべてまとめ天秤にかけたとしても、かんこが置かれている窮状はあまりにひどすぎる

合理的に、論理的に考えれば、かんこは早急に家族から距離をとるべきなの火を見るより明らかだ。

そのことを、かんこ自身が理解していることは、先にも触れた通りだ。

その点を踏まえて、あらためて問うてみよう。

なぜ、かんこは、決して両親を捨てようとしないのか。

本書『くるまの娘』で描かれる最大の問いは、まさにここにあると僕は考えている。

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考察➃「家族愛というフィクション」

僕は本書を読みながら「なぜかんこは、家族を捨てられないのか」という問いについて、何度も何度も思考をめぐらした。

だけど、明確な答えを見つけることはついにできなかった。

いや、厳密にいえば、たった1つの結論には至った。

ただそれについて、僕は「論理的」に説明することはできない。

その結論とは一体何か、もったいぶらず言ってしまおう。

かんこが両親を捨てられない理由、それは、

「両親が家族だから」

というものになるだろう。

こう書くと、まっさきにこんな反論が飛んできそうだ。

いや、それを言うなら、兄と弟は、両親を捨てることができたじゃないか

うん、まったくその通りなのだ。

だけど、こと「かんこ」について言えば、彼女は「家族だから」としかいいようのない理由で両親にしがみついている、と僕は思うのだ。

そんなかんこの姿を思わせる、次の一節を引いてみたい。

少し長いが、大事なところなので、ぜひ読んでみてほしい。

自立した人間同士のかかわりあいとは何なのか? 自分や相手の困らない範囲、自分や相手の傷つかない範囲で、人とかかわることか。かんこは、家族でない人に対しては、少なくともそういう関わり方をしていた。その範囲を超えたらその人間関係はおしまい、潮時だった。だが家の人間に対しては違った。たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。(P123より)

この時、かんこは明らかに「家族」という関係に、ある種の特権を与えている

「家族の前では“利害関係”は無効であり、“論理”や“理屈”も意味を為さない」

「家族は“家族である”という理由によって、無条件で肯定されねばならない」

そんな思いに、かんこはとらわれてしまっている。

いや、「家族が無条件で大事」なんて、当たり前じゃない?

そう感じる人は、実際のところ多いかもしれない。

「家族こそが、人間にとって最も大切なもの」

「家族こそが、人間の最も安らげる居場所」

「家族なんだから、愛し合って当たり前」

そうした「家族至上主義」は、僕たちの生活に当たり前のように根付いているからだ。

巷では、「家族愛」を感動的に描いた映画やドラマ、バラエティ番組であふれかえり、「家族がやっぱり一番だよね」というストーリーを人々の意識に植え付けていく。

そのストーリーを、ここでは「家族神話」と呼ぶことにする。

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考察⑤「家族愛という支配」

その「家族神話」に苦しめられる人間というのは、この世界の“日陰”に一定数存在している。

それは例えば、家族から暴力をふるわれる者であったりする。

かんこもそうなのだ。

かんこは間違いなく「家族神話」を内面化してしまっている

「両親への憎しみ」と「家族愛という神話」

その両者の狭間で、彼女の存在は引き裂かれていく。

「両親を愛せない自分」や「両親を憎む自分」というのは、かんこにとって「許せない自分」であり、「罰すべき自分」であり、「改善すべき自分」である。

母親が泣き叫ぶとき、父親に暴力を振るわれる時、かんこが攻めるのは「両親」ではなく、「自分自身」である

愛されなかった記憶は、かんこにはなかった。(P109より)

こうあるように、かんこは両親からの「愛」を疑おうとしない

それは上述した通り、「両親の愛を疑うこと」や「両親を憎むこと」は、かんこにとって許せないことだからだ。

それは、父の背中を見て罪悪感にさいなまれる、かんこの次の姿によく表れている。

わたしが悪かった、あなたはあんなに期待をかけて育ててくれたのに、たいへんな思いをして学校にいれてくれたのに、できそこないの人間に育ってしまった、学校に通えなくなったとき、そのことを、あなたや母さんのせいにした。背につかまって泣きたくなった。(P112)

だが、「ウツ」を発症したのも、学校に通えなくなったのも、それは決してかんこのせいなんかではない。

父親の「期待」なんてのも、母親の「パニック」なんてのも、それは「愛情」なんかではない。

それらは、かんこにそこまでの加害者意識を植え付けた、正真正銘の「暴力」であり「支配」だといっていい。

だけど、かんこはその「暴力」や「支配」に気が付かない

それらは「家族愛」という優しい顔でかんこの前に表れ、「親の愛を理解できないお前がわるい」と、かんこを責めさいなみ続けるだけなのだ。

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考察⑥「家族という閉鎖空間」

『くるまの娘』のテーマは、間違いなく「家族」である。

言うまでもなく、「家族」とはある種の閉じられた世界であり、外部の者を拒絶する性格を持っている。

それゆえの「独自性」とか「唯一性」があるワケだが、それは家族の「ルール」とか「習慣」とかなどに表れている。

たとえば、僕は生まれて初めて「友達」の家に遊びに行ったときカレーライスをごちそうになったのだが、その際に出された「コップの中に入ったスプーン」に衝撃を受けたことがある。(どこが衝撃なのか分かりますか?)

それ以外にも、「台所の下から出てきた自家製梅酒」にひるんだりしたし、「家族以外は絶対入っちゃいけない部屋」に疎外感を感じたりした。

要するに、幼いぼくは、

「ああ、ここは僕の家じゃないんだな」

ということを、強烈に自覚させられたのだった。

作中には、かんこが久しぶりに兄と再会し、彼が「知らないジャンパー」を着て、「知らない髪型」をしていたことに寂しさを感じる場面がある。

それは、兄の風貌が かんこに対して、

「ああ、兄はもう、わたしたちの家族ではないんだな」

ということを教えたからにほかならない。

家族には、それぞれの「閉鎖的世界」がって、それぞれ「固有の歴史」がある。

かんこの家族にも、そうした「独自の世界」があるわけだが、

たとえば、「にい」「かんこ」「ぽん」という独特の呼称がそれであるし、「車中泊」という独特の旅行スタイルがそれであるが、なんといっても「父親との勉強」が作品で重要な意味を持っている。

なぜなら、「父親との勉強」こそ、かんこに「愛という名の支配」を植え付けた時間だったからだ。

かんこの家では、かつて父が絶対だった時代があった。(P95より)

こうある通り、幼いかんこたちは父に逆らうことができなかった。

そんな父から教わる「勉強」は、かんこにとって「稽古」であり「修行」だった

なお、父から発せられる言葉は、かんこたちの人格を破壊するほどの残酷さで、作中では「かんこ」だけでなく「母」や「弟」も、彼の言葉によって「半狂乱」にさせられている。

「気持ち悪い顔だ」

「かなちいでちゅね」

「あたまおかちいでちゅね」

「馬鹿面がなにほざいてまちゅね」

そんな父の理不尽な言動に耐えながらも勉強を続けたかんこだが、彼女にとって「父親との勉強」の時間は「幸福な時間」だったと記憶されている。

兄や弟が苦々しく思い出すらしいあの鍛錬の時代を、少なくともかんこは、人生で一番幸福な時代だったと記憶している。(P96より)

かんこは、父親からの「暴力」を「愛情」に変換して記憶しているわけだ。

どこの家庭にもありふれた光景かもしれなかった。(P29より)

かんこが暴力だ暴力だと思っているものは、本当は他の家庭でも至極当たり前のものではないか?(P127より)

こうある通り、かんこが「父の暴力」を正しく認識できないのは、「他の家庭」を知らないからであり、「自分の家庭」を対象化できないからである。

ここに「家族の閉鎖性」という問題が立ち上がってくるわけだ。

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考察⑦「“車”が象徴すること」

“車”=家族の閉鎖性

最後に『くるまの娘』のタイトルにもある、「車」が象徴するものについて考えてみたい。

ここまで読んでいただければもう分かると思うが、「車」が象徴しているのは「家族の閉鎖性」である

その「閉鎖性」こそが、かんこ家族が抱える諸問題の“根源”だといっていい。

かんこが、父の「暴力」を「愛情」と変換してしまうのも、この「閉鎖性」によるものだということは、先に述べた通り。

要するに、かんこは「自分の家族」を「他の家族」と比較をすることができないので、「自分たち家族の問題」を対象化、客観化することができないわけだ。

作中には、それをよく物語るこんな箇所がある。

いつものように家族の“いさかい”が起きた、その後につづく場面である。

また何かが起きた。だがすべてが終わってしまうと、なぜそれが起こったのか正確にたどれる者はいなかった。いつも話は食い違い、食い違う徒労感で、最後には皆だまった。そして誰々が悪い誰々のせいだとそれぞれ別のことを記憶して、眠るまで過ごした。(P78より)

家族の“いさかい”は「問題」として確かに認識されるのに、その「発端」や「原因」、「理由」なんかは、誰一人正確に把握できていないという。

しかも、各自がそれぞれにとって都合のいい解釈をするし、記憶だって都合のいいように改変されてしまう。

つまり、家族のうち誰一人として、「問題の原因」や「問題の本質」を語れる者はいないのだ

こうして、「家族の問題」は放置されたまま、時間だけがいたずらに経過していく。

すると、それぞれが抱く「怒り」や「悲しみ」ばかりが醸成され、互いの「負の感情」は閉鎖空間の中で着実に増幅していく。

家族の負の感情は、ささいなことで再び表面化し、“いさかい”に発展する。

要するに、閉鎖空間は逃げ場のない「負のスパイラル」を生み出すのだ。

そしてこの「負のスパイラル」は日常化する

つまり、家族の問題は「問題」と認識さえされなくなってしまうわけだ。

いつもそうだった。何かが起こり、それに傷ついても、気づくとなあなあに溶け込んでいる

  (中略)

現実には、少なくともかんこたちには、何も起こらない。バナナやせんべいや笑いや眠りによって、解決しないまま日常に組み込まれた。(P81より)

さて、こうなるってくると、自分の身を守るためには、もはや2つの方法しかない。

1つは「外の世界に逃げ出すこと」であり、もう1つは「思考を停止すること」だ。

結局、兄と弟は外の世界に逃げ出すことができたのだが、それができないかんこは、自らを「物」と化して思考を停止することでしか、自分自身を守れなかったというワケだ。

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なぜ かんこは“車”に住んだか

「逃げ出したい」

もちろん、かんこはそうした思いを抱えている。

そんな彼女の潜在意識は、次の場面によく表れている。

かんこはとある民家に、一匹の犬が取り残されているのを見つける。

犬はかんこを見るや、鼻を窓ガラスに押し付け、窓には犬の鼻水の跡が残っている。

犬は、猫に吠え、車を見つめ、人に尻尾をふる。そのたびガラスの壁に阻まれる。洟水の痕跡が、なみだのそれよりもはるかに切迫したもののように思われて、かんこは目を背けた。(P95より)

この犬に、かんこは自分を投影している。

「外に出たい、出してくれ!」

そう叫びながら、助けを求めるかんこ。

涙や鼻水にまみれた顔を窓ガラスに押し付け、バンバンと窓ガラスを叩いてみても、彼女の声は決してそとには届かない。

かんこが外に出ることはできないのだ。

物語の終盤で、彼女はその事実を悟る。

そして、ある決断をする。

それが“車”に住むことだった。

物語の終盤で、かんこは“車”に住むようになるのだが、先述の通り「 車 」=「 閉鎖的家族の象徴」なのだとしたら、かんこは「家族の内にとどまる決断」をしたということになる。

だけど、それは、

「自分が家族を背負って生きていくのだ」とか、

「自分が家族を地獄から救ってやるのだ」とか、

そうした積極的な動機からではない。

むしろ、

「自分は、ここから出ていくことは絶対にできないのだ」

そうしたかんこの「絶望」とか「諦念」があらわれている、と僕は解釈している。

この結末は決して前向きなラストではない

「かんこの逃げ場のなさ」

「家族のままならなさ」

そうしたことを読者に淡々と突き付けてくるラストなのだ。

少なくとも、この物語中には かんこの救いは存在していない

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おわりに「家族という不条理」

当たり前だが、人は生まれてくる場所を選べない

生まれ落ちたその場所が、地獄のような場所だったとしても、子どもというのはどこまでも無力で、そこから逃げ出すことはできない。

――自分で選んだわけじゃないのに、気づいたら勝手に押し付けられていたもの――

そういうものを「不条理」という。

家族というのは、どこまでも「不条理」なものであり、そんな家族の問題で苦しむとき、多くの人はこう問わずにはいられない。

「どうして自分は、この家族に生まれたんだろう」

「自分がこの家族のもとに生まれた意味ってなんだろう」

そうした自問自答を繰り返し、最終的に行き着く問いがこれだ。

「家族」って、そもそも、なんなのだろう。

かの文豪「トルストイ」の有名なことばに、こんなものがある。

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである

古今東西、「家族」は多くの文学作品で扱われてきた。

その多くは、「幸せな家族」ではなく、いつも「不幸な家族」の姿ばかりである。

それだけ、「家族」で苦しむケースは、多種多様、千差万別ということなのだろう。

宇佐見りんの『くるまの娘』も、1つの「家族の不幸」を切り取った作品だと、僕は解釈している。

そう解釈してしまうのは、僕自身も家族の問題で苦しんできたからなのかもしれない。

だから、かんこの痛みは、それこそ痛いほどに理解できた。

かんこたちの「ままならなさ」も、自分の家族のことのように苦しかった。

本書は間違いなく「家族という不条理」に苦しんだことのある人間に突き刺さる作品だ

決して愉快な読書体験にはならないが、「家族ってなに?」と問わずにはいられない、すべての人たちにおすすめしたい。

「宇佐見りん」の他作品

本書『くるまの娘』や「宇佐見りん」という作家に興味を持った人に、彼女の他作品を紹介したい。

記事の冒頭でも触れたが、改めてここに示すので、ぜひ参考にどうぞ。

『かか』

ここでも「家族という不条理」「家族のままならさ」が、ヒリヒリするような筆致で描かれている。

「かか弁」という独自の文体が採用されることで、家族の「独自性」とか「閉鎖性」といったものが、効果的に表現されているように思う。

『くるまの娘』とは、また違った切り口で「家族とは何か」を鋭く問う作品。

『推し、燃ゆ』

もはや「宇佐見りん」の代名詞的な作品といっても過言ではない。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

このあまりにキャッチ―な一文で始まるや、読者をいっき小説世界へと引きずり込む。

「推し」という現代的なムーブメントを扱いつつ、「生きづらい人」の切実さを見事に描き切っている。

芥川賞選考委員たちも絶賛、ほぼ満場一致での受賞作。

宇佐見りん、瞠目の才能を知るうえでは外せない。

【 参考記事 考察・解説『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)ー推しに見られる宗教性-

すき間時間で”芥川賞”を聴く

 

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