「美しいとは何か」の哲学・心理学―なぜ美しいと感じるのかを解説―

その他
はじめに

「美とは何か」は、古来ギリシア時代からずっと論じられてきたテーマだ。

長い歴史の中で、多くの哲学者や科学者が「美とは何か」を突き止めようと奮闘してきたわけだが、その答えは今もなお出ていない。

「美」とは、それだけ難解な概念なのだ。

この記事では、そんな「美」について書いてみようと思っている。

そこで 次の問いを立てて、考察・解説をしていきたい。

「人はどうして“美しい”と感じるのか」

その結論は次の2つ。

  • 人間が孤独だから
  • 人間が死を知っているから

以下でそれについて詳しく説明をしていくが、トピックは次の4つだ。

  • 「美しい」を論じる難しさ
  • 「美しい」のタイプは2つ
  • 「美しい」と「孤独」の関係
  • 「美しい」と「死」の関係

なお、この記事を書くにあたって参考にした本がある

『人はなぜ美しいが分かるのか』(橋本治 著)

筆者の橋本氏は小説・評論・戯曲・古典の現代語訳など、マルチに活躍する書き手だった。

そんな橋本氏による「美しい」論で、2002年に発刊されて以来、いまでも多くの人々に読まれている一冊だ。

興味を持った方は、ぜひこちらも参考にしていただきたい。

「美しい」を論じる難しさ

そもそも、あなたはどんな時に「美しい」と感じるだろう。

きらびやかな夜景を見たとき?

真っ赤に燃える夕焼けをみたとき?

目の前に広がる鮮やかな花々をみたとき?

人によっては、絵画や彫刻を見て「美しい」と感じるかもしれないし、映画やドラマをみて「美しい」と感じるかもしれないし、好みの異性を見て「美しい」と感じるかもしれない。

科学というのは優秀で、僕たちが何かをみて「美しい」と感じるまさにその時、その脳内で何が起きているのかを明らかにしてきた。

セロトニンやら、オキシトシンやら、ドーパミンやら、とにかくそういった脳内ホルモンが複雑に分泌されているらしい。

ここでそれらについて解説することは僕にはできない。

ただ、一つだけいいたいのは、

それだけで「美しい」を説明したことには全くならない

ということだ。

だって、僕らが何かをみて「美しい」と感じているとき、その“心”のなかにはセロトニンとかオキシトシンとかドーパミンとか、まったく登場してこないではないか。

たとえば、あなたは今、真っ赤な夕焼け空に目を奪われたとする。

すると胸の底から ほのかな温かさが生まれてきて、だけど不思議と 切なさもこみあげてきて、気を緩めるとふいに涙が浮かんできそうな、そんなしみじみとした感情に包まれてしまった。

「この感情は何なのだろう」

そう不思議に感じたあなたに対して、科学者があらわれて、

それはね「オキシトシン」っていう脳内ホルモンだよ とか、

それはね「ドーパミン」っていう脳内ホルモンだよ とか、

そんな説明をされたとしても、きっとあなたは納得できないのではないだろうか。

そう、科学では「美しい」を物質的に説明することはできても、あなたの“心”に起きている具体的な「美しい」を説明することなどできないのだ

もっと言えば、「美しい」を言葉で説明することも、数で言い換えることも、記号に置き換えることも、今の科学には不可能なのだ。

19世紀の分析哲学者にウィトゲンシュタインという天才がいる。

彼は、

「言葉で語ることがきでないものについては、沈黙するしかない」

と言い放った。

これは、「美」を語ることなんてそもそもできないよね、ということでもある。

こうして「美しい」は、天才哲学者に「言語化なんて無理」と、すぱっと切り捨てられてしまったわけだ。

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「美しい」のタイプは2つ

とはいえ、「美しい」について様々な形で論じることはできる。

ここでは、その「美しい」をあえて、2つのタイプに分けてみたい。

その2つとは、

  • 「合理的・理性的」な美しさ
  • 「非合理的・感情的」な美しさ

である。

これだけだと、ちんぷんかんぷんだと思うので、一つずつきちんと説明してきたい。

合理的・理性的な美しさ

さっそく、『人はなぜ美しいが分かるのか』から次の箇所を引用したい。

「美しい」とは、「合理的な出来上がりかたをしているものを見たり聴いたりしたときに生まれる感動」です。(P14より)

筆者はそのたとえとしてスポーツ選手の「美しいフォーム」を挙げている。

なるほど。

たとえば、バスケットのシュートで無駄のない「フォーム」は美しい。

そこから放たれたボールの軌道が「美しい」弧を描き、リングに吸い込まれたとき、観客はその「美」に心が打たれてしまうだろう。

なお、この「美」=「合理的」といった定義は、筆者独自のものでもなければ、別に目新しいものでもない。

その代表的なものに「黄金比」という、有名な比率がある。

これは古代ギリシアで発見されたもので、彫刻や絵画なんかでお馴染みのヤツだ。

「美しさを成り立たせる最も合理的な比率」と言われていて、具体的には「1,618………対1」というものらしい。

ルーブル美術館にある「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」も、そのフォルムは「黄金比」に合致していると言うし、ルパン三世の「峰不二子」のスタイルにも「黄金比」が見られると言う。

だけど、この「黄金比」……分かるようで分からない。

「じゃあ、バスケのシュートフォームに、黄金比が具体的にどう当てはまっているの?

と問われると、正直ぼくにはよく分からないからだ。

とはいえ、プロのシュートとへたくそなシュートと見比べれば、そりゃプロのシュートは間違いなく「美しい」わけで、前者にあって後者にないものは、やはり「無駄のない合理性」ということになるのだろう。

また、建築の分野にも「無駄のない美しさ」というものがある。

いわゆる「機能美」ってやつなのだが、これは僕にも理解できる。

たとえ分からなかったとしても、その「無駄のなさ」をきちんと説明されれば、

「ああ、確かに美しいのかもな」

と、おおむね理解できると思うのだ。

ということで、

「合理的」=「美」

は少なからず成りたつと言える。

そしてその「美」は、たとえ直感的に理解できなかったとしても、

「ほら、ここのね、この辺り見て。ここがカクカクしかじかで、全く無駄がないんだよ」

と、論理的に説明をされれば、おおむね「理性」的に理解できる。

これが「合理的・理性的」美しさである。

「完璧なものに対する」美しさ、と言い換えてもいいかもしれない。

ちなみに、日本の古語には「うるはし」という言葉がある。

これは「均整の取れた美しさ」を表す言葉とされているが、まさしく「合理的な美」を表現した言葉といっていい。

ということで、古今東西の人々は、

  • 「合理的なもの」
  • 「無駄のないもの」
  • 「完璧なもの」

これらを見て「美しい」と感じてきたのは間違いなないだろう。

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非合理的・感情的な美しさ

と、ここまで説明しておいたいなんだが、次の問いを立ててみると、今までの説明の説得力が一気になくなってしまう。

「じゃあ、夕焼けのどこが合理的なの?」

「夕焼けのどこに“黄金比”があるの?」

「夕焼けに無駄がないってどういうこと?」

この不可解さは、先ほどの「バスケットのシュート」の比ではない。

それもそのはず。

なぜなら、夕日を見ている時に感じる「美しさ」というのは、「彫刻」とか「絵画」とか「建築」とか「プロのフォーム」を見て感じる「美しさ」と、本質的に異なっているからだ。

これがタイプ2の「非合理的・感情的」な美しさである。

たとえば「夕焼け」以外にも、「映画」だったり「文学」だったり「マンガ」だったり「音楽」だったりに触れた時にも、この「美しい」は現れてくる。

いわゆる「琴線に触れる」系の「美しさ」である。

そもそも、映画や文学で表現される「人間の姿」なんて矛盾だらけで、彼らは「自分でも不合理だ」と思うようなことをして、人を傷つけたり人に傷つけられたりしているではないか。

それなのに、僕たちは時に、そんな彼らの姿に「美しさ」を見つけて感動してまう。

どう考えてもこれは、先に説明した「合理的な美しさ」とは違う。

論理で説明することも、理解することも難しい。

いわば「非合理的・感情的」な美しさということができるだろう。

そして、僕は日本人か感じる「美しい」の多くは、こっちの「非合理的・感情的」な「美しい」なのではないかと考えている。

日本の古語に「あはれ」という言葉がある。

日本人なら誰でも知っている言葉だろう。

辞書を引いてみると、

「しみじみとした感動」

ぐらいの意味で出てくるのだが、国学者の本居宣長は、

「自然や人事にふれて発する感動・情感」

として、日本人の伝統的、かつ本質的な感受性の一つとした。

ピンと来ない人のために、この「あはれ」を具体的なシチュエーションで説明してみよう。

たとえば、とある仕事の帰り道。

ここ数日のあなたは毎日忙しくて、空を見上げる時間もなかった。

なんとか定時に上がることができたあなただが、すでにヘトヘト疲労困憊。

歩道橋を登りきったとき、ふとあなたの目に飛び込んできたものがある。

それは、燃えるように真っ赤な夕焼け空だった。

「あぁ………」

と、言葉を奪われ、あなたはしばらくその夕焼けを見つめてしまう……

この時のあなたの胸に生まれている感情、これこそが「あはれ」というものだ。

自然や人事に触れた時の「しみじみとした感動」である。

ちなみに、この「あはれ」の語源とは、この時に口から洩れでる、

「あぁ……」

という意味以前の声だと言われている。

この声には「意味」も「論理」も存在してはいない。

ある種の思考停止状態だといっていい。

これが日本人の「あはれ」なのであり、日本人にとっての「美しい」なのである。

ここまでのまとめ

以上をまとめると、「美しい」は、以下の2タイプに分けることができる。

・「合理的・理性的」な美しさ
・「非合理的・感情的」な美しさ

前者は主に「彫刻」や「絵画」など、均整の取れた対象に感じる「美」であり、
後者は主に「風景」とか「自然物」に触れたときに感じる「美」である。

前者は古語でいうところの「うるはし」であり、
後者は古語で言うところの「あはれ」である。

そして両者の本質を考えた時に、こう言い換えられるかもしれない

・「合理的・理性的」な美しさ
 = 西洋的な美しさ

・「非合理的・感情的」な美しさ
 = 日本的な美しさ

合理的な「科学」の起源はそもそも西洋文化にあったわけだし、一方の日本文化は「自然」との親和性が高いことを考えると、あながち的外れな分類ではないのではないだろうか。

ということで、以下では、この「日本的な美」についてスポットを当てて考察を続ける

考えたいのは、「なぜ人は美しいと感じるのか」について。

そのカギを握るキーワードが「孤独」と「死」である。

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「美しい」と「孤独」の関係

「美しい」の根っこに「寂しい」がある

さて、再び『人はなぜ美しいが分かるのか』からの引用だ。

どういうわけか私の中で「美しい」への実感は、「敗北」とからみ合っています。「なんでそうなるんだ?」と思って更に考えると、そこにはもう一つの要素が登場します。「孤独」です

「美しい」と「敗北感」とは関係がある。

そして、その関係を掘り下げていくと「孤独」に行きつく。

筆者はそういっているのだろう。

ここから僕は、

「美しい」と感じる根っこには「孤独」がある

と結論づけたいと思う。

実際、筆者もまた本の中で、

  • 「やるせない美しさ」(P178より)
  • 「寂しいような美しさ」(P178より)

について言及している。

「美しい」の根っこには「寂しい」があるのだ。

だからこそ、夕日を見て「美しい」と感じる時、なぜか涙腺が刺激されてしまうのだろう。

僕たちは「美しい」と思うと同時に、どこかで「寂しい」と感じているのかもしれない。

「美しいもの」を誰と見に行く?

「美しい」の根っこに「寂しい」がある。

そう考える根拠はちゃんとある。

それは、

「美しいもの」を一緒に見に行く相手は、多くの場合「恋愛対象の相手」である

という点だ。

たとえばこんなセリフを思い浮かべてみて欲しい。

「夜景がキレイだから、一緒に見に行こうよ」

「紅葉がキレイだから、一緒に見に行こうよ」

「アジサイがキレイだから、一緒に見に行こうよ」

あなたならこのセリフを誰に対して言うだろう。

ほとんどの人は「恋愛対象の相手」を思い浮かべたのではないだろうか。

もちろん、そうじゃない人もいるだろうし、いたって全然かまわない。

ただ僕の場合、同性の友人に対してこんなセリフは絶対に言えないし、友人と「美しいもの」なんて好き好んで見に行きはしない。

筆者も次のように言う。

「あれ、きれいだよ」と言って、「きれいだから見に行こうよ」と言ったことなんて、いくらでもあります。それが女とは当たりまえに成り立って、男とは成り立たない。だから「なぜだ?」と思うのです。(P206より)

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「美しい」は「孤独」を埋める言葉

さて、「美しいもの」を、主に異性と見に行くのはなぜなのか。

それについての答えは、

彼らは「美しいもの」を見に行くことで、「孤独」を埋め合わせようとしている

ということになる。

そもそも、僕たちが恋をするのは、人間という存在が本質的に「孤独」だからだといえる。

ぽっかりと空いた互いの穴を埋め合わせるように、僕たちはパートナーを求める。

恋愛とはそういう営みなのだ。

そして、そんな恋愛という文脈の中で、恋人たちは「美しい」を共有したがる

それは「美しい」と口にすることは、「寂しい」とか「切ない」ということの表明でもあるからだ

恋人たちは互いに「自分はさみしいのだ」ということを口にし合い、だからこそ、自分たちはその「寂しさ」を埋めるために一緒にならなくてはならないことを確認し合っているのだろう。

筆者は本書でこう言っている。

「きれい」だの「美しい」だの口にするとき、そこに愛情が隠されているのは言うまでもありません。自分が「美しい」と思うことを人に語ると言うことは、「それを”美しい”と思う自分を理解し、共有してもらいたい」と思うことですから、二人きりの関係で「きれい」だの「美しい」だのという言葉が出たら、それはなんらかの愛情表明です。(P206より)

こんな風に、「美しい」ものを共有し、「美しい」と確認し合う行為は一つの「求愛行為」だということができる。

そして、繰り返しになるが、その行為の根っこには「寂しさ」とか「切なさ」といった「満たされない思い」がある。

「美しい」の根っこには「孤独」とか「欠落」といったものがあるわけだ。

「夕日が目に染みるぜ」

といって涙を流す男・・・・・・

間違いなく彼の心には何かしらの「欠落」があって、間違いなく彼のとなりにはお目当ての「女性」がいる。

あなたも自分が「美しい」と感じたときのことを思い出してみて欲しい。

その時のあなたは、たぶん少なからず感傷的になっていて、何かしら「満たされない思い」があったのではないだろうか。

少なくとも僕はそうだった。

そして、これはひょっとしたら僕だけかもしれないのだけど、僕が「美しい」と感傷的になる時ってのは、大抵きまって「腹が減っている」

満腹で満ち足りた状態で、夕日とか夜空とか夜景とかを見たとしても、空腹のときほどに「美しい」と感動することは少ない。

いきなり卑近な話をして申し訳ないが、これは決して無関係な話ではないだろう。

「美しい」の根っこには何かしらの「欠落」があるからだ。

人間というのは孤独な生き物だ。

だからこそ人を愛そうとする。

人を愛そうとするとき、そこに「美しい」を見つけようとする。

そして愛する者と「美しい」を共有し、「美しい」と口にしあう。

その行為とは、自分たちが「孤独」であることを確認することであり、「だからぼくらはそれを埋め合わなくちゃダメなんだ」という思いの表明なのである。

ここまでのまとめ

この章をまとめるとこうなる。

「美しい」が分かるのは、その人が「孤独」だから。

とかく恋人たちは「美しい」を共有しようとする。

それは彼らが「孤独」を埋めようとしているからだ。

つまり「美しい」と言うことは「求愛行動」なのだ。

それでは、次に「美しい」と「死」の関係について見ていきたい。

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「美しい」と「死」の関係

愛情が人に「美しい」を教える

ここでも『人はなぜ美しいが分かるのか』をヒントに考察を進めたい。

筆者の橋本氏の基本スタンスとして、

「この世界は美しさに満ち満ちている」

という世界認識がる。

その世界認識を可能にしたものについて、彼は「人の愛情」を挙げている。

なんでそんな認識が宿ったのかと言えば、人の愛情がそれを宿らせたのです。「人の愛情が、人に美しさを教える」は事実だと思っています。「愛されれば、世界は美しくなる」です。(P228より)

ここで、有名な童謡「赤とんぼ」について触れたい。

♪夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か♪

これは「子どもの頃の郷愁」から作られた歌と言われている。

「負われて」というのは「母親の背中に負ぶわれて」という意味だ。

作者の三木露風は近代を代表する詩人で、「赤とんぼ」は彼の40歳前の作品といわれている。

中年にさしかかった三木は、ある日ふと目にした「夕焼け空」に、幼い頃の記憶を蘇らせた。

その記憶は「母親に負ぶわれた」時の記憶であり、愛され慈しまれた記憶である。

母親の肩越しから見えた、真っ赤な夕焼け空・・・・・・

幼い三木は、おそらくその美しさを理解することはできなかっただろう。

だが、中年になった三木には「夕焼け空」のどうしようもない美しさを理解することができる

それは一体なぜなのか。

ここで、先ほど引用した橋本氏の言葉を思い出してほしい。

「人の愛情が人に美しさを教える」

そう、三木が「美しい」と感じることができたのは、彼が「人からの愛」を知っているからなのだ。

幼い頃に「母親から愛された」という原体験は、「美しい」を理解できる感性をその人に与える。

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愛された日々には戻れない

では、愛情を受けて育った人間が「夕焼け空」を見て「美しい」と思うとき、その人の心の中で何が起こっているのだろう。

それは、無意識的に「愛された頃の記憶」を蘇らせているのだろう。

そのことは童謡「赤とんぼ」が教えてくれるところだ。

遊び疲れて歩けなくなり、母親に負ぶわれた日。

目の前を飛ぶ一匹の虫を見て、

「あれは何?」

と母親に尋ねる。

「あれはね、赤とんぼっていうのよ」

そう優しく教えてくれる母。

その背中はとても温かい。

その安心とぬくもりを感じながら、母の肩越しに見えた真っ赤な夕日・・・・・・

だけど、もう、決してあの日に戻ることはできない。

あの温かい背中を感じることはもうできない。

幸福だった過去。

愛された過去。

戻りたい過去。

だけど絶対に戻れない過去。

そうした諦観の中に「美しい」はあるのだ。

人が「美しい」と感じる時、そこには間違いなく「愛された記憶」がある。

その記憶を蘇らせるのは、夕焼けや星空や自然の風景といった、いつの世も変わらない景色だ。

「変わらないもの」は、それを見る者に「変わってしまったもの」や「変わっていくもの」を否が応でも意識させる。

その時、誰しもが「人生の一回性」「人生の儚さ」を感じることになる。

そして、いつか自分はこの世界から退かねばならず、この景色を見ることもできなくなってしまうことを再認する。

自分はいつか死んでしまう。

人間はそのことを知っている。

これ以上の「孤独」や「欠落」はない。

ここに前章との共通点が認められるのは、もちろん偶然ではない。

ここまでのまとめ

この章をまとめるとこうなる。

「美しい」が分かるのは、その人が「愛」を知っているから。

「美しい」が分かるのは、その人が「死」を知っているから。

愛された過去を想起させる風景に出会ったとき、「美しい」と感じる。

そこには「いつかこの景色を見れなくなる」という諦めも存在している。

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全体のまとめ

この記事では「なぜ人は“美しい”と感じるのか」について、橋本氏の著書を参考に考察してきた。

本稿においては、その問いに答えるため、まず「美しい」を2つのタイプに分けたのだった。

「合理的・理性的」な美しさ 
 = 西洋的な美しさ

「非合理的・感情的な」美しさ
 = 日本的な美しさ

次に、その「日本的な美しさ」に範囲を限定し、その「美しさ」の根っこに何があるかを明らかにした。

その答えは2つ。

「孤独」と「死」である。

そして「なぜ人は“美しい”と感じるのか」という問い対して、次の2つの結論に帰着した。

「人間が孤独だから」

「人間が死を知っているから」

「美しい」の後ろには、「愛された記憶」があり、それをいつか失ってしまうことの自覚があり、だからこその「孤独」と「欠落」がある。

そこにはいかなる合理性も認められない。

夕焼け空をみて感じる「美しさ」というのは、合理性に根ざす「西洋的な美しさ」と本質的に違っている。

それは生きることの「不可解さ」に根ざす「美しさ」といってもいいかもしれない。

「一人ぼっちで生まれ、一人ぼっちで死んでいくこと」

人間誰しもが抱える不条理、それの自覚によって生まれる「美しさ」なのだ。

それを日本人は「あはれ」と呼んだ。

これが日本人にとっての「美しい」なのである。

さて最後に、これまで僕が書いてきたことを裏付けてくれる次の言葉を引用して、この記事を終わりにしたい。

悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。(柳宗悦『南無阿弥陀仏』より)

「美しい」も「愛しい」も「悲しい」も、ある「1つの感情」の別名なのだ。

「美しい」には「愛」があり「孤独」がある。

愛があるから「美しい」

孤独があるから「美しい」

そのことを、日本人はよく分かっていたのだろう。

オススメの本

ここでは「日本人とは何か」を知るうえで、とても頼もしい3つのテキストを紹介したい。

『かわいい論』

とにかく日本人は「かわいい」を連発する。

「おにかわ」「ぐうかわ」「きもかわ」「グロかわ」……

なぜ、こうも日本人は「かわいい」が好きなのか。

そこを考察していくと、古来から脈々と受け継がれた「日本人らしさ」が見えてくる。

本書は「かわいい」にスポットを当てた日本人論といってもいい。

言語的なアプローチから、日本人とは何かを探る。

考察記事を書いているので、ぜひこちらも参考にどうぞ

【 参考記事 解説『かわいい論』―「かわいいとは何か」の哲学、あるいは心理学―

『日本文学史序説』

タイトルに「文学」とあるが、ここで解説されているのは「文学」だけでなく「宗教「哲学」「芸術」などなど。

その射程は驚くほど広く、上下巻読み上げれば「日本人とは何か」をかなり詳しくつかむことができるだろう。

もはや「古典」と呼んでもいいほどの名著

ぜひ、文章と格闘しつつ、じっくりと読んでみてほしい。

『菊と刀』

言わずと知れた「日本人論」の名著。

「日本は恥の文化だ」という言葉はあまりに有名。

欧米との比較の中で「日本人とはどんな生き物か」を明らかにしていく。

執筆されたのは戦後まもなくだが、いまでも色あせない説得力がある。

「日本人論」の源流ともなった本作。

「日本人」を知るうえで一読の価値あり。

考察記事を書いているので、ぜひこちらも参考にどうぞ。

【 参考記事 分かりやすく解説『菊と刀』ー「恥の文化」と「罪の文化」とはー

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