解説考察『自他の間あい』(鷲田清一)の内容を分かりやすくシンプルに解説!

哲学
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はじめに「自他の関係を見つめ直す良書」

「自他の間合い」は、論理国語の教材として採用された文章であり、哲学者の鷲田清一の著書『「聴く」ことの力』の一節である。

この文章は、現代の「個人主義」に対する批判であり、この生きにくい時代を生き抜くために、必要なことが書かれた文章だといっていい。

ただ、これまで「私」とか「他者」とかに思いを致したことがない人にとっては、やや読みにくく、理解しにくい文章かもしれない。

そこで、この記事では『自他の間合い』について、わかりやすく丁寧に解説をしようと思う。

主なトピックは以下の通り。

  1. 間 = 自己調整の場
  2. 他者=自分を感じさせてくれる存在
  3. 他者=単独的な存在
  4. 他者の無関心=存在意味の消失
  5. 現代文テーマ「私と他者」

お時間のあるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。

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200字要約

【 200字要約 】

「間」とは、自分を変化させたり、自分を解放させたりする「自己調整の場」である。

「間」が取れないと関係が近くなりすぎて自他が衝突しあうことになり、逆に大きすぎるとその関係は隔てられ、自己の内に閉じこもることになり、アイデンティティが損なわれる。

このように、アイデンティティには必ず他者が必要である。

具体的で単独的な存在としての他者から、なんらかの関心を向けられているという実感が人の存在証明となる。

(198字)

解説①間 = 自己調整の場

さっそく解説を始めようと思うのだが、まずは冒頭にある次の一文を読んでみてほしい。

本文にはこうある。

「間」というのは、そこに自分を預けることによって自分の枠を緩めたり、目の前にいる他者のその他者として自分を感じたりというふうに、そこにおいて自分が揺さぶられ、また捏ねられ、新たな形を与えられる、時にはそこで自分を休ませる、いわば自己調整の場ではないだろうか

とにかく、まどろっこしいくらいに長いこの一文。

結局どういうことなの? と疑問に思う人も多いのではないかと思う。

とりあえず、いろんな部分をはしょって結論だけいえば、

「間」とは「自己調整の場」である

ということだ。

では、自己調整の場とは、いったいどういう場のことなのだろう。

それを理解する上で、上記の一文を二つの論理に分ける必要がある。

それが、これ。

1、自分の枠を緩める場
自分を休ませる場
2、自分を感じる場
新たな形が与えられる場

これだけでは、ちんぷんかんぷんだと思うので、もう少し説明をしてみよう。

たとえば、あなたは友達関係に疲れて「ああ、ちょっと一人になりたい」なんて思ったことはないだろうか。

そんなとき、あなたと友人との間に「適切な間」を取ることができれば、あなたは自分自身をリフレッシュさせ、疲れ切った心を回復させることができるだろう。

また、たとえば、「ああ、この子と一緒にいると自分も成長できるなあ」と思えるような、素敵な友人を持ったことはあるだろうか。

そんなとき、あなたはその友人から影響を受ける中で、自分を変化させ、自分に新たな形を与えることができるだろう。

つまり、人間関係における「適切な間」というのは、疲れ切ったあなたの心を癒やしたり、あるいは、あなた自身を変化させ成長させたりすることができる、そういう力があるのである。

こんな風に考えると、冒頭の一文の意味が理解できるだろう。

ということで、ここで整理。

Q 「間と自己調整の場である」とはどういうことか。

A 他者との適切な隔たりは、自分を解放させたり、自分を変化させたりする場になるということ。

なるほど、人間には他者との間に「適切な間」が必要なのであり、それがあるからこそ自分を保てたり、自分をアップデートさせたりできるのである。

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解説②他者=自分を感じさせてくれる存在

さて、ここまで「他者との適切な間」が人間にとって必要であることを確認した。

「適切な間」があるからこそ、僕たちは他者との交流が可能になるのであり、その中で「自己を調整」することができるのである。

さて、本文ではさらに「他者」と「自己」の関係について、次のように説明される。

他者との差異に思いを致すことで、自分という存在の輪郭を思い知らされることであろう。

うーん、この言葉も、なかなかイメージしづらい言葉である。

これを少しかみ砕いていえば、

他者がいるから、あなたは「ぼく」(あるいは「わたし」)という感覚を持つことができる

ということになる。

人間関係というのは、基本的には「あなた」自身を映し出す“鏡”だといっていい。

たとえば、「犬派か猫派か」といった議論は、もはや永遠のテーマともいえるものであるが、(ですよね?) 「猫派」のあなたは「犬派」の友人と関わる中で、

「ふーん、君は犬派なんだね(僕は猫派だけど……)」

ってな具合で、自分自身の価値観や立ち位置を再認識することができる。

「なんだ、このアホみたいな たとえは」

と思う人もいるかもしれないが、基本的にあなたの持つ「ぼく」(あるいは「わたし」)という感覚というのは、こうした「他者との差異」によって獲得してきたものなのだ。

僕たちは生きていれば、「意見の衝突」や、「考えのすれ違い」というものを、嫌というほど経験する。

もちろん、人とぶつかることは決して愉快なものではないし、できれば避けたいと思う、それが人間だろう。

だけど、繰り返すが「自分が自分であること」、言い換えれば「自分という存在の輪郭」というのは、他者との違い、つまり「差異」によって形作られるのである。

上述した一文、

「他者との差異に思いを致すことで、自分という存在の輪郭を思い知らされることであろう」

というのは、まさにそのことを説明している。

そして、このことこそ、この『自他の間合い』という文章の勘所というか、とにかく、最も大切な部分なのである。

だからこそ、本文では同じ趣旨の事が、様々な表現で繰り返される。

自己の同一性、自己の存在感情というのは、(中略)他者によって、あるいは他者を経由して与えられる

自分というものの存在を確かなものとして感じ得るには他者の存在を欠くことはできない

アイデンティティには必ず他者が必要だ

ほら。

表現こそ違うけれど、基本的にここで主張されているのは、「他者がいるからこそ、自己のアイデンティティが形作られるんだよ」ということである。

あなたは、「あなた」ひとりで成り立っているのではない。

他者がいるからこそ、あなたは「あなた」を感じることができるのである。

そして、他者との交流は「適切な間」がなければ、決して成り立つものではない。

間が近すぎれば、互いに傷つけ合うことになる。

間が遠ければ、そもそも関係は生まれない。

やっぱり、他者を感じるためには「適切な間」というものが必要不可欠なのである。

必要な間があるからこそ、他者との交流が生まれるのであり、他者との交流が生まれるからこそ、あなたのアイデンティティが形作られるのである。

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解説③「他者」=単独的な存在

ここまで確認してきたのは、

「適切な間があるからこそ、自他の関係が築かれること」

「自他の関係があるからこそ、アイデンティティが形成されること」

の2点である。

この2点は『自他の間合い』における非常に重要な論点なのだが、ここで一つ疑問が残る。

それは、

「他者、他者っていうけど、いったいどういう他者なの?」

といった類の疑問である。

その点については、最後のパートで説明される。(が、これがまたわかりにくい)

結論を言うと次の通り。

Q アイデンティティに必要な他者とは

× 社会的存在としての他者

「誰」という単独的存在としての他者

ほら、やっぱり何がなんだか、ちんぷんかんぷんである。

ということで、両者について、できる限りかみ砕いて説明をしてみよう。

まず「社会的存在としての他者」について。

これは本文において「教師」とか「医師」といった具体的肩書が例として挙げられている。

それはちょうど、生活を支えてくれる「衣食住」になぞらえられている。

というのも、あなたが生活していく上で「教育」や「医療」というのは、決して欠かせないものだからだ。

教師や医師というのは、それを提供してくれる存在なのだが、たとえば彼らがあくまで「社会的肩書」だけで、あなたと関わるなら、そこに人間的交流は生まれない。

それはすなわち、あなたの「アイデンティティ」に何らの影響を与えないということでもある。

逆に、もしもその教師や医師が、肩書にとらわれない「一人の人間として」あなたと関わるなら、そこには人間的交流が生まれる。

そして彼らは、あなたのアイデンティティに、何かしらの影響を与えることになる。

そういう「一人の人として」といった態度をとるとき、その教師も医師も、社会的肩書を超えた「単独者(一人の人間)」となる。

そして、この単独者こそが、人間のアイデンティティ構築に関与してくる「他者」なのである。

『自他の間合い』の最後のパートでは、この「社会的存在としての他者」と「単独的存在としての他者」が対比して紹介されていて、

「アイデンティティに必要なのは、社会的存在としての他者ではなく、単独的存在としての他者なのだ!」

と結論付けられている、というわけ。

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解説④他者の無関心=存在意味の消失

さて、次でいよいよ最後の解説になる。

しつこいが、ここまで確認してきたのは

「適切な間があるからこそ、自他の関係が築かれること」

「自他の関係があるからこそ、アイデンティティが形成されること」

「他者とは、一人の人間として関わろうとする『単独的存在』であること」

の大きく3点について確認をしてきた。

もしもあなたが「ぼく」(あるいは「わたし」)といった実感を疑いなく感じられているのなら、それは紛れもなく、「一人の単独者としてあなたに関わろうとしてくれる他者」がいるからなのである。

これは、とっても恵まれていることだ。

なぜなら、世の中には、そうした他者を持たず、だれからも関心を向けられない、そういう切ない人だっているからだ。

そのことが、最後に寺山修司の言葉を借りて暗示されている。

他人のなんらかの関心の宛て先になっているということが、他人の意識の中で無視し得ないある場所を占めているという実感が、人の存在証明となる。寺山修司もある文集の中で触れているが、人は「誰もわたしに話しかけてくれない」という遺書を残して自殺することだってあるのである。

他者からの存在は、そのままその人のアイデンティティとなり、その人の存在証明となる。

存在証明……それは、つまり、

「自分はここに居ていいんだな」

という実感である。

もっといえば、自らの「かけがえのなさ」の実感である。

他者から関心を寄せられず、他者との関係がどこまでも断たれてしまったとき、人は自らの存在意義を見出せず、絶望することになる。

大げさではなく、「誰からも話しかけてもらえない」ということが、自ら命を絶つことにつながることがあるのだ。

このことは、誰にとっても「他者との適切な間」が必要であり、「他者からの関心」、もっといえば「一人の人間として受け止めてもらえる」そんな体験が、人間を生かす原動力になる、ということなのである。

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解説⑤現代文テーマ「私と他者」

最後に、現代文的なテーマである「私と他者」について触れておきたい。

そもそも、なぜ現代において「自他の関係」が論じられるのか。

それは、

「自立した〈個人〉なんてものは、そもそも存在しない」

ということを、改めて現代人に示す必要があるからだ。

これは、考えてみれば納得できる話である。

僕たちはいつも「自分」という存在の確かさを、信じて疑わない。

普段の生活では、それこそ息をするように「私は~」とか「僕は~」とか一人称を主語にしていろんな物事を語っている。

そして「私のペン」や「私の友達」に始まり、「私の気持ち」、「私の悲しみ」、「私の痛み」があることも実感している。

「私」という存在は、僕たちにとって、そこまで当たり前で、疑いようのないものとなっている。

こうした「私」という意識は、誰しもが持つものなのだが、現代はこれが肥大しすぎた時代だといっていいだろう。

「私のことは、私自身が一番よく知っている」とか、

「私の問題は、私だけで解決することができる」とか。

こうした状況は、実は西洋文明に起源があるといっていい。

というのも、西洋文明では、これまで「個人」を「何ものにも依存しない、自立した存在」と信じられてきたからだ。

つまり、彼らは「他者がいなくたって、独り立ちできる立派な存在」と、自らを評価してきたのである。

これは近代が掲げる考えの一つで「個人主義」と呼ぶ。

要するに、他人に縛られず、自由で、独立した「私」を大切にしようという考えである。

欧米人は「個人主義」だ、なんて言説を聞いたことがある人も多いと思うが、こうした考えは今や欧米に限らず、すごい勢いで世界中を覆いつくそうとしている。

だけど、この個人主義が現代において、様々な弊害をもたらしているともいえる。

最もシンプルで分かりやすいのは、「個人の孤立」である。

他者との交わりを絶たれた人々は、根源的に「孤独」になってしまったのだ。

「俺は一人でも生きていける!」

と息まいていた人たちも、心の底では漠然とした「さみしさ」を抱いている。

自らの体を傷つけ寂しさを紛らわす人もいれば、自ら命を絶ってしまう人もいる。

小さなアパートの一室で、誰に看取られることもなく、ひっそりとなくなる、いわゆる「孤独死」が社会問題となっているのだって、このことと無縁ではない。

こんな時代、こんな社会だからこそ、近代的な「個人主義」には見直しが必要なのだ。

そして生まれたのが、まさに『自他の間合い』で書かれているような思想だった。

つまり、

「個人は一人で立っているのではない。いつだって、他者との関係の中で立つことができるのだ」

という思想である。

本論『自他の間合い』「だから、他者との繋がりを、もう一度見直すべきである。他者との繋が例を、もう一度取り戻すべきである」と、寂しさを抱えながら生きる僕たちに、強く訴えかけているのである。

近代は、とにかく「個人」を尊重し、他者との関係を徹底的に断ち切ってきた時代だった。

「人間は一人で生きているわけではない」という、至極当たり前の事実にふたをして、「俺たちは一人っきりで生きていける」と息まいてきたのが、近代という時代だった。

だから、人は寂しくなった。孤独になった。

本書は、そうした「近代偏重」な風潮を、「私と他者」といったテーマで批判的に論じた、正真正銘の「近代批判」の評論文だといっていいだろう。

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