【日本仏教の歴史】 ―現代を わかりやすく簡単に解説 ―

宗教

日本仏教史の概要を把握したい人は、まずはこちらから

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現代:「宗教」が失われていく時代

説明するのが難しい「日本仏教」を、時代ごとに外観しようというのが、この記事の目的。

これまでの記事では、

【仏教伝来・奈良時代編】

【平安時代編】

【鎌倉時代編】

【室町・安土桃山時代編】

【江戸時代】

【明治時代】

【大正時代】

と、各時代の日本仏教の展開を確認してきた。

簡単に振りかえると、

  • 奈良時代では、知的エリートたちによる学問であり、
  • 平安時代で、貴族を中心に根付いていき、
  • 鎌倉時代で、民衆たちへと爆発的に広がりだし、
  • 室町・安土桃山時代で、武士を中心に世俗化していき、
  • 江戸時代で、葬式仏教化が決定的になり、
  • 明治時代で、排斥にあうが、なんとかそれを乗り越え、
  • 大正時代で、「個人」の救済の性格を取り戻しはじめた。

そして、日本は戦争へと突入し、戦後、現代へといたる。

いま、仏教は「葬式仏教」などと呼ばれ、バカにされることがある。

お坊さんも「ボウズ丸儲け」とか「ナマグサ坊主」とからかわれることがある。

ぼくは寺の長男として生まれ、何度も何度もこれらの言葉を聞いてきた。

そして、何度も何度も、悲しくて、悔しい思いをしてきた。

みんな仏教や宗教に関心がなさそうにしているのに、なぜか盆にはお墓にやってくるし、肉親が亡くなれば寺へとやってくる。

それは、なぜなのか。

仏教や寺というのは、いま、どんな立ち位置にあるのか。

みんな、仏教や寺に何を求めているのか。

この記事では、まず、戦前・戦後における仏教について概観したい。

そして、現代の寺と仏教のありかたや、寺と仏教の行く末について、ぼくなりの考えを書いてみたい。

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戦争に協力する仏教

もう、タイトルの通りである。

第二次世界大戦禍のこの時代、あろうことか、仏教は戦争に積極的に加担する。

まず、一部の宗教家が、天皇崇拝を積極的に宣伝するようになる。

たとえば、前回の【大正時代】の記事でも書いたが、暁烏敏があげられる。

彼は浄土真宗の立場から、仏教と神道を勝手気ままに融合させ、

「阿弥陀如来への信仰 = 天皇への崇拝」

という、独自の論を喧伝した。

天皇を崇拝することは、すなわち国家神道と発想は同じ。

だから、この頃の暁烏の解く仏教は、「国家神道化した仏教」と言われることがある。

戦争に加担したのは、残念ながら浄土真宗ばかりではない。

禅宗は、日本兵たちのマインドに大きく影響を与えた。

禅宗には、座禅や公案に見られるように、その人の「内面を開発する」という性格がある。

その性格が、「精神の鍛錬」として解釈しなおされたわけだ。

「肉体なんかより、精神をおもく見ろ!」

「死ぬのが怖い? 精神の鍛錬が足りないんだ!」

こうして、この世に執着する人間は、「修行が足りない臆病者」というレッテルを張られることになる。

ちなみに、日本は「恥」の文化と言われている。

日本兵にとって、「臆病者」扱いされることは「恥」であり、最大の不徳だった。

「死を恐れない精神こそが美しい」

こんな風に、禅の思想は、日本兵に「死ぬ」ことの美徳を植え付けていったといえる。

これは室町時代、禅が武士に「死の覚悟」を与えたのと全く同じ構造だ。

それから、日蓮主義も忘れてはならない。

これは、日蓮の「法華経が1番」という主張と結びついて生まれた、近代的仏教思想だ。

そもそも日蓮思想には

「他国が侵略してくるのは、法華経を信じていないからだ」

という、かなり原理的な性格がある。

「邪教は全て捨てろ、正教(法華経)を信じなければ、安息はないぞ」

という論理で、人々の心を一つにしようとするのが日蓮の教えだった。

しかも、

「正教を信じるものには、受難がつきものだ」

という論理で、信者の心を奮い立たせるのも日蓮の教えだった。

これは、とってもナショナリズムとくっつきやすい。

「国民よ! 心を一つにして国難に立ち向かえ! 」

というわけだ。

実際に、国家主義者たちの中には、この日蓮主義者が多かったと言われている。

こんな風に、どの宗派においても戦争協力が見られた。

もっとも、それらは本来の教義とは全く違ったものだ。

鎌倉仏教の始祖たちに、「戦争」を肯定した人たちは一人としていない。

一部の為政者が、その教義を勝手に解釈しなおしたに過ぎない。

だけど、宗教とは得てして戦争に利用されやすいということなのだろう。

実際、この時期の日本では、国家神道はもちろん、キリスト教や、儒教なんかも戦争に利用されていた。

仏教に限らないのだ。

あらためて、ぼくたちは、宗教の本質を考え直さなければならないと思う。

ぼくは、宗教についてこう考えている。

宗教とは、どこまでも、与えるものでなければならない。

「宗教のために死ね」

「教義のために死ね」

「信仰のために死ね」

こんなものを宗教と呼んではいけない

だけど、現代においては、宗教の名を借りた暴力が世界中に溢れている。

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宗教は危険という風潮

さて、戦後も宗教への逆風はやまない。

前後、日本社会に「合理的価値観」が広がっていく。

アメリカ人たちは、戦時中の日本を分析して、

「なんで、日本人って、こうもワケが分からないなんだろう」

という疑問を持った。

「なんで、簡単に自分の命を捨てちゃうんだろう?」

「なんで、潔く負けを認めなかったんだろう?」

そんな疑問を解決し、日本人にアメリカ流の「合理性」を与えようというのが、彼らの目論見だった。

ちなみに、彼らの分析の1つに、

「日本が負けを認めなかったのは、みんなバカだっからじゃないのか?」

などという、とっても失礼なものまであった。

まあ、ちゃんと言い換えると、

「漢字が読めなくて、ただしく情報を理解できなかったんじゃない?」

というものだ。

いや、これも十分失礼! 

と思うだろうが、実際にそれを真に受けた為政者も多くいて、

「確かに! じゃ、漢字をなくしましょう」

という運動まで起きる。が、それはまた別の話。

宗教の文脈でいえば、

「とりあえず、国家神道をなんとかしましょう」

というものがある。

ここは、とっても早かった。

敗戦の4か月後に、「国家神道廃止令」が出される。

こうして、国家と宗教とは分離させられた。

そして、翌年に発布された日本国憲法において、

「信教の自由」「政教分離」がきちんと明記された。

「もう絶対、戦争に宗教を利用すんじゃねえぞ」

という、アメリカ側の意図が強く表れた部分である。

さて、「信仰」には、理屈を超えた部分というものが、実際のところ必要だ。

それは、つまり「非合理的」という非難を受ける、宗教のウィークポイントでもあるわけなのだが、そこのところをビシッと言われてしまうのが、戦後のことだ。

戦後に流行った思想、それが、

マルクス主義だ。

この思想を簡単に言うと、

「この社会を動かすのは、精神じゃくて、物質だよ」

というものだ。

要するに、

技術の進歩によって、人々の生活スタイルが変わっていくし、生活スタイルが変わっていけば、経済の制度も変わっていくし、経済の制度が変わっていけば、社会の制度や文化も変わっていく。

人類の社会はこうやって、

【奴隷制 → 封建制 → 資本主義】

と変ってきた。これが今後、

【資本主義 → 社会主義 → 共産主義】

と、変わっていくのは必然なのだ、とマルクスは言う。

これを、

唯物史観(物質が歴史を作る)とか、

史的唯物論(歴史を物質で説明する)と呼んでいる。

だから、マルクスは物質的、合理的、科学的な思考を重視している。

一方で、精神的、非合理的、非科学的な思考を完璧に否定している。

だから、マルクスはこう言い放つ。

「宗教はアヘンだ」

宗教なんて、人々から現実感を奪い去り堕落させていく毒物だ、といったところだろうか。

このマルクスの思想は、戦後の日本に急激に広がっていく。

いわゆる「学生運動」と呼ばれるムーブメントの根っこには、このマルクス主義がある。

こうして、人々は、科学的・合理的な思考をドンドン強めていくわけで、それは同時に、宗教の持つ吸引力をどんどん弱めていくことになる。

それにしても「宗教はアヘンだ」というこのパワーワード……

聞くたびに、いつも、ぼくはこう思う。

もう、なんでこんなにキャッチ―なの!?

実際、この言葉、学校の倫理とか歴史の授業で説明される。

なんなら、先生なんかも、結構気に入ってるフレーズなんじゃないかなあと、ぼくは邪推さえしてしまう。

「マルクスは言いました『宗教はアヘンだ!』」

それを聞いた現代の子供たちは、

「ああ、確かに、宗教っておっかないもんな……」

という、意識を潜在的に持っちゃうんじゃないかと思うのだ。

だけど、それは無理からぬことだ。

だって、

「この宗教はおっかない」

という意識を、戦後の人々に植え付けた有名な集団だっているからだ。

それが、オウム真理教だ。

もう、説明はほとんど不要だろう。

「地下鉄サリン事件」に代表する一連の事件では、死者29名、負傷者6000人の犠牲を出したと言われている。

日本宗教史上でも類を見ない、大規模かつ深刻な事件といえる。

なにより人々を驚かせたのは次の3つだろう

  1. 常軌を逸した宗教行為が日常的に行われていた点。
  2. 自動小銃や化学兵器を密造し、人々に向かって使用した点。
  3. 信者の中に高学歴なエリートたちが多数いた点。

まず、1については、もう吐き気を催すレベルだ。

修行の名のもとに、リンチしたり、教祖の体液を高額で売って飲ませたり、性行為を強制したり、覚せい剤を飲ませたり、電気ショックを与えたり、挙句の果ての殺害である。

2については、言うまでもない。

地下鉄サリン事件は地下鉄での犯行だったのだが、なんと、ヘリコプターで東京上空からサリンをまき散らし、東京都民を大量に殺戮しようとする案もあったという。

3については、「オウム真理教事件」の本質と大きくかかわる部分だと思う

地下鉄サリン事件にかかわった幹部の多くは、超高学歴のエリートたちだった。

一見して、前途が有望で順風満帆な彼ら。

現代の日本というのは、言ってしまえば「学歴社会」だし、「競争社会」だ。

高学歴の人たちは、多くの人が望む「幸せ」に、ある意味では一番近い存在だったといえる。

そんな彼らが、なぜ、あんなデタラメな教義にのめり込み、なぜ、あのような卑劣極まりない行動に走ったのか。

多くの信者の手記には、幹部たちは、とても真面目で熱心な信者であったことが書かれている。

「多くの人から奪ってやろう」

そんなふうに思って入信した人なんて、きっといなかったはずだ。

もともとは、固有の悲しさ、固有の苦しさ、固有の空しさを抱え、救いを求めて入信した人たちだったんじゃないだろうか

どうしてなのだろう。

ぼくは、オウム真理教を考えるときに、いつもこう問うてしまう。

いったい、人間ってなんだろう。

いったい、人間の幸せってなんだろう。

きっと、日本中がそういう問いを持ったと思う。

そして、こう感じた日本人も、多いと思う。

「宗教って、恐ろしいな」

「宗教って、良く分からないな」

「宗教って、関わらないほうがいいな」

オウム真理教の根っこに、「マインドコントロール」があったというのも、大きな原因だと思う。

もちろん、みんながみんな、そう感じたとは言えないだろう。

だけど、少なからず、宗教のイメージを損なったオウム真理教の罪は、とてつもなく大きいと、ぼくは思っている。

いや、オウム真理教だけじゃない。

日本の新興宗教と呼ばれるものの中には、人々から色んなものを「奪おうとする」似非宗教が数多く存在している。

本来、人々に「与える」はずの宗教が、人々から幸せを奪っている

一方で、世界に目を向けてみれば、宗教に由来する戦争があとを絶たない。

こんな時代であれば、無理もない。

「宗教は、不合理で、デタラメで、おそろしいもの」

そう誤解するひとが増えていくのにも、それなりに理由がある。

こんな時代「だからこそ」、人々は救いを求めているのに。

だけど現代のぼくたちは、宗教を、神を、仏を、救いを、確実に失いつつある。

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多様化する葬式のあり方

さて、現代における仏教について、考えてみたい。

この辺はもう、読者の実感の通りだと思う。

「仏教 = 葬式」

たぶん、これだ。

これまで、仏教の歴史について長々と確認してきた。

仏教には、様々な思想体系や、修行体系や、救済の形がある。

だけど、いま、仏教にそれらを求める人は、いったいどれだけいるだろう。

ここに、2つのデータがある。

ちょっと古いデータだけど、参考にしてほしい。

それぞれ、文化庁とNHKによる調査結果である。

1つ目は、【日本人の信者人数】についてである。

これは、日本中の各宗教施設が報告した人数をまとめたものらしい。

だから、日本人の「意識調査」ではなく、「実態調査」ということだ。

  • 神道   ……約1億1000万人
  • 仏教   ……約9000萬人
  • キリスト教……約150万人

やはり、神道と仏教とが大半を占めている。

が、よく見るとこのデータ、おかしくないだろうか。

そう、すべての人数を足すと2億人

日本の人口を軽く超えてしまうのだ。

この原因はいろいろあるようなのだが、1つ言えるのは、

日本人の多くが「神道」と「仏教」とに、何らかの関わりを持っているということだ。

そこで、2つ目のデータ【あなたは信仰をもっているか】に対する日本人の回答を見てみよう。( 比較の対象として、アメリカの数字もあげておく )

  • 信仰を持っている ・・・・・ 日本:33% (アメリカ:93%)
  • 信仰を持っていない・・・・・・日本:65% (アメリカ: 7%)

こちらは、先ほどと違って、完全なら「意識調査」だ。

だから、ほとんどの日本人が「自分は無宗教だ」と考えているというわけだ。

1と2のデータを、いったいどう解釈すればいいのだろう。

1は、「ほとんどの日本人が神道か仏教の信者だ」といってるし、

2は、「ほとんどの日本人が無宗教だ」といっている。

これに関しては、こう思う。

つまり、日本人はこう思っている。

「お盆とか、葬式とか、初詣とか、結婚式は、あくまでも文化・習俗であって、ぼくたちの行動様式だ。だから、宗教じゃない。宗教というのは心の問題だ。神様や仏様を信じているかどうかだ。だから、特定の信仰を持っていないぼくたちは、無宗教なんだ」

それでは、この視点で、現代の仏教を眺めてみる。

「肉親が死んだら、葬儀をする」

「何年に一回、親戚で集まって、法事をする」

「お盆になったら、親戚であつまって、墓参りをする」

これらは、「仏」や「悟り」や「救い」を信じることではなく、家族や大切な人たちのために「する」ことなのだ。

もちろん「する」ことの中に、家族への「思い」はある。

というかむしろ、その「思い」を「行動」で表している、とったいったほうがいい。

だから、葬式にまつわる思いというのは「仏」や「神」への思いではなく「家族」への思いなのだ。

そうなると、こうなる。

「別に、仏式じゃなくてよくない?」

そりゃ、そうだ。

「仏」とか「悟り」とか「救い」とかに、多くの人々は別段、関心を向けていないからだ。

だから、いまの葬儀は本当に多様化している

自然に骨を散骨する「自然葬」に始まり、

宇宙へ骨を飛ばす「ロケット葬」や、

風船で骨を空へ飛ばす「バルーン葬」なんかもあるらしい。

それから、時間のない人たちのために、仏式の行事もどんどん利便性・合理性が求められている。

「ドライブスルー焼香」とか、「オンライン墓参り」なんかが、その例だ。

僧侶をネットで手配する「お坊さん便」なんていうのも一時期は耳にした。

こうなってくると、

人々は仏教に、何を求めているのだろう、

と、ぼくは思わずにいられない。

しかも、この風潮は、今後ドンドン進んでいくだろうと、ぼくは確信している。

なぜなら、江戸時代以降「葬式仏教」を支えてきた、「家制度」が、ほとんど崩壊しつつあるからだ。

日本の人口は、田舎から都会へドンドン流れていっている。

そして、田舎の墓を畳んで、都会の寺の「合葬墓」へ納骨する人がいる。

「家から近いから」と、浄土真宗の人が、曹洞宗のお寺にお願いして、手っ取り早く法事を行おうとする人がいる。

別に、それが悪いといいたいんじゃない。

ただ、それが、現代の寺と仏教をとりまく状況だというだけだ。

明治時代以降、「家の宗教」から「個の宗教」へ、という動きがあった。

そういった動きは、実は、戦後においてもみられた。

「同朋会運動」と呼ばれる、浄土真宗による運動だ。

だけど、それは結局人々に根付かなかった。

あくまでも仏教は「家の宗教」であり続けた。

それでも、今までは「家の宗教」として、寺や仏教が求められてきた。

だけど、いまや「家の宗教」としての機能さえも奪われつつある

こんな時代の中で、寺は、仏教は、どうあるべきなのだろうか。

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まとめ:現代の寺の行く末

最後に、実際に寺に生まれた僕が、現代の寺や仏教について、つらつらと書いてみようと思う。

そこで、あらためて、冒頭にかかげた2つの言葉を示したい。

「ボウズ丸儲け」

「生臭ボウズ」

この2つの言葉は、実際にぼくが何度か言われた言葉だ。

それは、中学時代だったか、高校時代だったか、大学時代だったか、社会人になってからか、はっきりとは覚えていない。

あるいは、その全てだったかもしれない。

ただ覚えているのは、その言葉の裏側に、寺や住職に対する侮蔑や不信感のようなものが潜んでいたことだ。

たとえば、ぼくが「寺の生まれ」であることを告げるとする。

するとある人は、

「おお、いいなあ、ボウズ丸儲けだもんね」

と大袈裟に反応するし、ある人は、

「あははは、じゃあ、ナマグサ坊主じゃん」

と親しげにからかってきたりする。

酷いときには、

「寺って税金払わなくていいんでしょ?」

と、恨めしげに言ってくる人さえいた。

とんでもない話だ。

ぼくは、彼らの言葉によって、悲しい思いをしたし、悔しい思いもした。

なんだが、ぼくたち家族の大切な部分が、決定的に冒涜された気がした。

始めは、彼らの固定観念を正そうと、躍起になって寺の経済事情を説明したこともあった。

「いや、うちの寺は小さいんで、お金持ちじゃないんですよ」

「浄土真宗では、肉食妻帯が許されてるんですよ」

「毎年ちゃんと税務署の監察を受けているんですよ」

だけど今じゃ、ムキになってまで彼らの意識を変えようとはしなくなった。

真面目にいってみたところで、なんだか必死な自分が嫌だったし、何よりも、ぼくの思いが彼らに届くことはほとんどなかったからだ。

しかし、なぜ彼らは「寺」と聞くと、「ボウズ丸儲け」とか「ナマグサ坊主」とか言うのだろう

その背景には、「人々の寺への期待」とか「それに応えられていない寺の現状」とが、複雑に絡み合って存在しているような気がするのだ。

では、人々は寺に何を求めているのだろうか

まず、「死者供養としての葬儀一般」であることは間違いない。

だけど、それに関しては、どの寺もちゃんとクリアしていると断言できる。

だって、そうじゃなきゃ、ぼくたち寺の人間は食っていけないからだ。

職業人としての僧侶は、葬儀を行わなければ、お金をもらえないのだ。

檀家の葬儀や法事を行わない寺なんて、まずないだろう。

じゃあ、人々の侮蔑や不信感はどこからくるのだろう。

それを考えた時に、ぼくは、こう思う。

やっぱり、みんな、寺にちゃんと「教え」を説いてほしいんじゃないだろうか

「悟り」とか「救済」とか、そんな大それたものじゃなくていい。

だけど、生活の中で感じる「悲しさ」や「苦しさ」や「むなしさ」とか、そういう心の底に凝り固まったものを、なんとかしてほしいって、心のどこかでお坊さんに期待しているんじゃないだろうか

いや、それ以上に、彼らにはもっと強烈な感情がある。

葬儀で出会う彼らのほとんどが、大きな悲しみに覆われている。

大切な人が亡くなったとき、そのどうしようもない悲しみを、お坊さんや、仏教に、なんとかしてほしいって、みんなは心の奥底で思っているんじゃないだろうか。

それはいつだってそうなのだ。

昔も、今も、人間が悲しい存在であることは、変わらない。

人間が悲しい限り、仏教は、宗教は、絶対に必要なはずだ。

じゃあ、今の寺は、住職は、ほんとうに仏教を説いているのだろうか

人々が仏教に触れることができる、そういう空間であり得ているのだろうか。

寺は、住職は、人々の悲しみに寄り添えているのだろうか。

残念ながら、ぼくは、否だと思う。

その最大の理由こそ、人々が発する「ボウズ丸儲け」と「生臭ボウズ」という言葉に他ならない。

寺や仏教は、彼らの「悲しみを慰めてほしい」という願いに、ちゃんと応えられていないと言わざるを得ない

そこから生まれる落胆、失望、不信感、そういった感情が、「ボウズ丸儲け」とか「生臭ボウズ」といった言葉として表れているのかもしれいない。

現代においては、「寺」と「こころの安心」は、ちゃんと結びついてはいない。

じゃあ、その責任は寺だけにあるのか、といわれれば、それも違う。

現代の寺にも、住職にも、どうすることもできない人々の意識というものがある

寺が堕落したから、人々の意識が変わったのか。

人々の意識が変わったから、寺が堕落したのか。

鶏が先か、卵が先か、で、これはなかなかシンプルには行かない。

だけど、歴史をさかのぼれば、色んな要因が見えてくる。

  • そもそもの日本人の死生観・宗教観
  • 江戸時代以降に生まれた葬式システム
  • 戦前戦後に見られる宗教の腐敗
  • どんどん広がる科学的・合理的世界観

それら、いろんな要因が絡み合って、日本人の宗教に対する意識を変えてきた。

もはや、多くの人々は寺に仏教を求めてはいない。

人々に仏教を説こうとしない住職だって、現実的にいる。

いま、仏教と人々のつながりが無くなりつつある。

これから100年後、果たして、どれくらいの門徒が残っているだろう。

これから100年後、果たして、どれくらいの寺が残っているだろう。

葬式のありかたは、どんどん多様化してくだろうし、合理化していくだろう。

そうなったときに、仏教は、宗教としての生命力をちゃんと保ち続けることができるのだろうか。

ぼくは、正直、とても悲観的だ。

だけど、思うのだ。

人間は悲しい生き物だ。

救われなくちゃいけない生き物だ。

最後の最後は、合理的・科学的なものじゃ救われない。

最後の最後に、本当の意味でぼくたちを救ってくれるのは、自分にとっての真実の物語だ。

ぼくは、ぼくにとっては、それが宗教であり、仏教だと思いたい。

現代は、あまりに悲しみにあふれた時代だ。

助けてくれ! という悲痛な叫びはいたるところから聞こえてくる。

だけど、それを受け止める価値観が、いま無くなりつつある。

いままで寺は、人々に何をしてきたのだろうか。

これから寺は、人々に何ができるのだろうか。

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