はじめに「日本人のルーツとは」
『古事記』は西暦712年に成立し、“日本最古の歴史書”と呼ばれている。
だが、実はそこに書かれているのは人間の姿ではなく、八百万の神々の姿だ。
『古事記』は“歴史書”でありながら、正真正銘の“神話”なのである。
“神話”とはいえ、そこには古代日本人の世界観や人間観、そして宗教観、死生観なんかが色濃く表れている。
そしてそれらは、現代の日本人にも通じるものであり、僕たちは『古事記』を読み解くことで、自分たちのルーツというものを知ることができるのだ。
この記事では、そんな『古事記』の中から、その冒頭にあたる「天地開闢」と「国産み」神話を取り上げたい。
ストーリーをできるだけ分かりやすく紹介・解説したうえで、最後に「日本人の自然観」について考察していく。
なお、記事における引用はすべてこちらの本によっている。
『古事記』(池澤夏樹 訳)
その他『古事記』に関する記事はこちら。
【 参考記事 】 ・『古事記』(神産み)の世界観・人間観をわかりやすく解説・考察 ・『古事記』(天岩戸)の世界観・人間観をわかりやすく解説・考察
「世界の始まりを説く」書物
この世界はどのように始まったか
『古事記』の冒頭を読めば、そのことが描かれている。
では、さっそく冒頭を見てみよう・・・・・・
と、言いたいところなのだが、ここではあえて『旧約聖書』の「創世記」の冒頭から確認したい。
西欧における「世界の始まり」と比較することで、日本における「世界の始まり」の本質が見えてくるからだ。
はじめに神は天と地とを創造された。
いわゆる「天地創造」と呼ばれる有名な場面だ。
ここにははっきりと「世界を作ったのは神である」ことが書かれている。
『旧約聖書』によれば、神が『光あれ』というと、世界に光が生まれたという。
その後も神は、「闇」を作り、「空」を作り、「水」を作り、「陸」を作り、「季節」を作り、「時間」を作り・・・・・・と、こんな風におよそ3日間かけて外界を作っていく。
そして4・5日目には、「地上の生き物」、「海の生き物」、「空の生き物」といった「動物」たちを作り、とうとう6日目には神そっくりの姿をした「人間」を作りあげた。
そして、神は人間に対してこういった。
「地を従えよ。すべての生き物を治めよ」
これは「人間が地上を支配する根拠」と解釈されることもある。
こうして6日間に及ぶ大仕事を終えた神は、7日目に休息をしたと言われている。(これが“一週間”の起源である)
こんな風にキリスト教の世界観というのは、
「この世界を作ったのは全知全能の神である」
というものなのだ。
では、日本の世界観は いったいどんなものなのだろう。
次の章でいよいよ『古事記』の冒頭を見ていこう。
ストーリー「天地開闢」編
『古事記』の冒頭はこうだ。
天と地が初めて開けた時、高天の原に生まれたのは、
天之御中主神(アメノ・ミナカヌシのカミ)と
高御産巣日神(タカ・ミ・ムスヒのカミ)、
そして
神産巣日神(カミ・ムスヒのカミ)
の三名の神たちであった。
『古事記』(池澤夏樹 訳)より
これがいわゆる「天地開闢」と呼ばれる場面なのだが、さて、どうだろうか・・・・・・
ここを読んで、おそらくこんな疑問が浮かんだのではないだろうか。
で、結局、天と地はどうやってできたの?
そうなのだ。
『古事記』の冒頭を読んでみても「世界はどのように始まったのか」について、全く書かれてはいない。
- (なぜか分からないけど)世界はあってね、
- (なぜか分からないけど)天と地が分かれてね、
- (なぜか分からないけど)3体の神が生まれてきたんだよ。
これが「天地開闢」で書かれていることなのである。
さらに、『古事記』には「序文」というものがある。
書いたのは、編者である「太安万侶」という男だ。
その説明によれば、
そもそもの初め、混沌の中に造化のきざしが見えながら、いまだ気と形が分かれる前、万事に名がなく動きもありませんでした。
そのときのことを知るものは誰もおりません。
やがて天と地が分かれ、三人の神が世界を造り始めました。
『古事記』(池澤夏樹 訳)より
ここにも「世界はどのように始まったのか」は、全く書かれていない。
まず初めに「混沌」があってね。
と、いきなりこう来たあとに、
- (なぜか分からないけど)天と地が分かれてね、
- (なぜか分からないけど)3人の神が現れてね、
- 彼らが世界を造り始めたんだよ。
と、こう来るわけだ。
まぁ結果的には、この国は「神がつくったもの」ということになるようだが、「世界の根源」とか「第一原理」といったものは『古事記』に一切登場してこない。
「世界」は、混沌からぼんやり生じてきたもの
これが『古事記』に描かれた世界観なのである。
ここに、日本と西欧との違いがはっきりと見て取れるだろう。
日本・・・・・・「世界」はぼんやりと生じてきたもの。 西欧・・・・・・「世界」は神によって造られたもの。
両者の本質を分析していくと、日本人の「倫理観」とか「価値観」が見えてくるのだが、これについては記事の最後で解説したい。
では次に、これまた有名な「国産み」のシーンを紹介しよう。
スポンサーリンク
ストーリー「国産み」編
「男女の神」の登場
(なぜか分からないけど)天と地が分かれて、3体の神が生じてきた。
彼らが生じたのは「天」の方であり、ここは「高天の原」と呼ばれた。
(なぜか分からないけれど)むくむくむくーっと生じてきた3体の神だったが、その後すぐ、ふわふわふわーっと消えていく。
すると今度は「地」の方で、2体の神が生じてきた。
この時「地」は、まだクラゲみたいにグニャグニャで、輪郭が定まらないまま海の上を浮遊していたという(どういう状態?)。
2体はそこから、まるで葦のように、これもまたむくむくむくーっと生じてきて、これもまたふわふわふわーっと消えていく。
生まれてすぐに消えていく神々・・・・・・
えっと、いります? こいつら。
と多くの人が思うかもしれない。
だが、この5体は神々の中でも「別格の神」と呼ばれていて、これから登場する神々よりも遙かに崇高な連中なのである。
とはいえ、彼らに何の役割もなければ、具体性もない。
一説によると、この5体は後から書き加えられたんじゃないか、と言われているくらいなので、まぁいらないちゃいらないのかもしれない。
さて、5体が消えてしまったあと、今度は「男女1対の神」が、これまたむくむくむくーっと生じるが、一応こいつらは消えずに高天の原にとどまる。
そこから「男女のペア神」というのが何組か生じてくるのだが、その最後に生じたのが、「国産み」の主人公ともいえるあの2体、すなわち、
イザナギ(兄)
イザナミ(妹)
である。
ちなみに、彼らに与えられた「イザ」という名前。
これは「いざなう」の「いざ」で、現代語で言うところの「さあ」という「誘い」の言葉だ。
では彼らは何に誘っているのかというと、それは「性行為」である。
ということで、ここからは怒濤の下ネタラッシュなので、心して読んで欲しい。
イザナギ・イザナミの2体は、天にいる神々から、
「地上ってグニャグニャのクラゲみたいでしょ? だからそれを固めて国土にしなさい」
と命令される。
そこで渡されたのが「天の沼矛」と呼ばれる矛だった。
この「矛」は男根の象徴とされている。
2体は、天と地の間にかかる「天の浮橋」に立つと、天の沼矛をおろして「こおろころお」と謎の音を響かせて海をかき混ぜた。
海水から矛を引き上げると、その先っちょから塩水がしたたり落ちるわけだが、これも体液の象徴とされている。
そのしたたった液体は自然と凝り固まって「オノゴロジマ」という島になった。
この名前は「おのずから」が由来であり、つまり「自然にできた島」という意味を持っている。
この辺りからも「世界はぼんやりと生じた」とする『古事記』らしい世界観がかいま見える。
さて、こうしてオノゴロジマに降り立ったイザナギとイザナミ。
いよいよ2体による「国産み」の始まり始まりである。
スポンサードリンク
「まぐあい」開始
イザナギ・イザナミの2体は、まずオノゴロジマに「天の柱」を立てた。
これも男根の象徴とされている(再び!)。
そしておもむろにイザナギ(兄)がイザナミ(妹)に問う。
「君の身体はどんな風に生まれたんだい?」
イザナミ答えて言うことには
「(良く分からないけれど)むくむくーって生まれてきたの・・・・・・」
「ほう。むくむくーか」
「そうなの。でもね、私の身体には一部だけ足りないところがあるの」
それを聞いて、イザナギ答えて言うことには、
「奇遇だな。実は兄もお前と同じくむくむくーって生まれたのだ。だが、お前と違う点が1つだけある。兄には余剰な部分が一カ所あるのだ。そこで、提案なのだが・・・・・・」
そして兄は妹に対し、臆面もなくこう「いざ」なった。
「お前のその足りないところに、兄のこの余剰部位を差し込んで、国を生むってのはどうだろう」
その驚愕の勧誘に妹は、
「それは良い考えね」
とすんなりと賛同するのだった。
( とんでもない兄妹だ、と思うかも知れないが、古代では近親相姦は珍しくなかったのかもしれない )
今さら説明不要だと思うのだが「足りない部分」に「余剰部位」を差し込んで「国を生む」という一連のコレは「まぐわい」(性行為)を表している。
つまり、彼らは近親相姦によって国を生もうというのだ。
だけど、ここで1つ問題があった。
「だけど、どうやってやればいいんだろう・・・・・・」
実はイザナギ・イザナミの2人は、性行為の「ノウハウ」を持っていなかったのである。
途方に暮れる兄妹。
と、そこに現れたのが、ながーいシッポを持つ鳥「セキレイ」だった。
え? 鳥? いつのまにいたの?
って話なのだが、その辺りの説明は『古事記』にはない。
セキレイはその長ーいシッポを上下に振って、
「ほら、こうやってやればいいんだよ」
と、性行為の「ノウハウ」を2人に教えてやった。
ここで下世話な話をするが、セキレイの動きから「イザナギ・イザナミの体位」は推測できるらしく、2人はいわゆる“ドギースタイル”で行為に及んだようなのだ。( ってことは、おそらく古代日本人の主流も“ドギースタイル”だっということなのかも )
さて「ノウハウ」も分かったわけだし“善は急げ”と、イザナギはこう提案する。
「じゃあ“出会い”から始めようじゃないか」
いや、あんたらもう、出会ってるじゃないか!
とツッコみたい気持ちを押さえつつ、イザナギの決めた段取りについてもう少し見ていく。
イザナギはこう続けた。
「今からこの“天の柱”を互いにぐるりとまわるのだ。そして向こう側で出会ったところで、性行為をしよう」
「うん」
「お前は右からまわるんだ。兄は左からまわろう」
「うん」
そして「天の柱」を回る2人・・・・・・
反対側で出会ったとき、まず妹のほうがこういった。
「あら、すてきな男性ね」
すると兄もこういった。
「ああ、なんて素敵な女性なんだ」
そういい終えるや、セキレイ先生に教わったとおり2人は行為に及ぶのだった。
さあ、いよいよ国が生まれるぞ。
スポンサーリンク
「日本」の原型の誕生
生まれて来た子は、なんとグニャグニャした「ヒル」のような子だった。(こいつは「ヒルコ」と呼ばれている)
そのヒルコを見て「うわぁ、きもちわりい」と思った2人。
おもむろに舟を作り、生まれたてのわが子を乗せ、そのまま海に流すのだった。
彼らはヒルコを、なかったことにしたのである。
しかし、このヒルコ。
実は、このあと長いあいだ海を漂った末に、ある土地に漂着し、そこで人間に拾われ「ありがたい神」として祭られることになる。
これが後の、七福神の「エビス様」である。
えー? 急に?
って話なのだが、エビス様ってのはもともと国産みの一発目で誕生した「不具の子」だったのだ。
もちろん、このときのイザナギ・イザナミには、そんなことは知るよしもない。
気を取り直し、
「よし、もういっちょ」
と、2人目を生むのだが、こんどは「淡く」薄ぼんやりした姿の子だった。(こいつは「アワシマ」と呼ばれている)
それを見た2人は「うわぁ、今度もきもちわりい」と、再び海に流してなかったことにした。
「おっかしいなあ、きもちわりいのしか生まれないぞ。よし、天の神に相談だ」
すると天の神はこう教えてくれた。
「そもそも出会い方が間違っているんだよ。女の方から声をかたよね? ダメダメー、男の方から声かけないと」
女性よりも男性が主導権を取りなさいよ、というわけだ。
なるほど。
ここには、男性優位を説くイデオロギーが色濃く表れているのだが、『古事記』には「男性優位」の正当性とか妥当性とかを説く場面が結構ある。
いずれにしても、「男性が主導権を握れ」というアドバイスの通り、イザナギたちは“出会い”からやり直した。
天の柱をぐるりとまわる兄妹。
まず兄がいう、
「ああ、すてきな女性だ」
つぎに妹がいう。
「ああ、素敵な男性ね」
そしてまぐわう2人、こうしてついに生まれたのが、
淡路島
なんと、この世界の長男は淡路島だったのである。
「おお、本当にちゃんとしたのが生まれたぞ」
調子づいた2人は、その後も立て続けに国を生む。
- 次男、四国
- 三男、隠岐島
- 四男、九州
- 五男、壱岐島
- 六男、津島
- 七男、佐渡島
- 八男、本州
こうして生まれた8人兄弟は「大八島国」と名づけられた。
そしてこれが、現在の「日本」の原型ということになるのだが、このラインナップを見て気づくことはないだろうか。
そう、「大八島国」は、あくまで関西から九州地方にかけての島国なのだ。
ここには北海道や沖縄はもちろん、東北地方も含まれていない。
その理由は明らかで、それらの地域はまだまだ未開の地だったからだ。
さらに興味深いのは、7番目に「佐渡島」が生まれた点だろう。
佐渡は、日本の歴史において「流刑地」として有名だが、それは佐渡が「辺境の地」と認識されていたからなのだ。
その認識は『古事記』が書かれた当時からあったもので、古代日本人の世界の果ては「佐渡島」だったということなのだろう。
狭い。それにしても狭い。
まぁ、それもそのはずで、確かに『古事記』には「世界の始まり」が書かれているわけだが、世界とはあくまでも、当時の「大和朝廷」を中心とする国なのだ。
『古事記』に書かれた神話は、もちろん、太古から人々の口伝によって伝わってきた物語である。
ただ『古事記』が書かれたのにはそもそもの目的があって、それは、
「天皇を中心とした中央集権国家をつくるため」
というものだった。
だから、必然的に、物語の中心は「大和(日本)」になるし、そこで書かれるのは「天皇がいかに凄い存在か」ということになるわけだ。
が、「天皇ってすごいよね」話が本格的に展開されるのは、まだまだ先、『古事記』の中盤あたりの話になる。
「天地開闢」や「国産み」神話といった序盤の神話には、古代日本人の原初的な世界観が色濃く表れているといっていい。
さて、こうして無事に「日本」の原型を産んだイザナギとイザナミだったが、その後も小さな島々を生み続ける。
そして、「国はすべて生み終わったぞ」という段になると、次のフェイズへと移行する。
それが「じゃあ、つぎに、神々を生みますか」のフェイズ、すなわち「神産み」神話なのだが、それについてはこちらの記事に譲りたい。【 参考記事 『古事記』(神産み)の世界観・人間観をわかりやすく解説・考察 】
スポンサーリンク
解説・考察「日本的世界観について」
日本は「なる」文化
さて、ここからは『古事記』に見られる「日本的な世界観」について解説・考察していこう。
思想家の丸山真男によると、世界の文化は次の3つに分けられるという。
- 「つくる」文化
- 「なる」文化
- 「うむ」文化
この記事の冒頭でも『旧約聖書』と『古事記』の比較をした。
そこで明らかになったのは、両者の世界観の違いだった。
旧約聖書(西欧)・・・世界は神によって造られた。 古事記(日本)・・・世界は渾沌から生じてきた。
ここに、丸山真男の分類を当てはめるなら、
旧約聖書(西欧)・・・「つくる」文化 古事記(日本)・・・「なる」文化
ということができる。
実際に、丸山真男は『古事記』の記述を考察し、日本文化の本質についてこう言っている。
つぎつぎとなりゆくいきほひ
丸山真男「歴史意識の古層」より
物事は人間の手によって作り上げられるのではなく、「自然の流れ」によって自ずから生じ、やがて消滅していく。
それらは次々と生成し、次々と消滅し、それが延々と繰り返される。
人間というのも、その「自然の」の一部分にすぎず、自然とともに生きている。
だから人間は「自然の流れ」の中で無力な存在であり、「自然の成り行き」に身を委ねていくしかない。
これが日本的な「自然観」であり「人間観」であり「生命観」であると、丸山真男は言う。
そこで改めて『古事記』を振り返ってみれば、冒頭からして「つぎつぎとなりゆくいきほひ」は見てとれる。
たとえば「天地開闢」では、世界は渾沌から生成し、自ずから天地が別れ、神々が植物のように生まれ出て、そして消えていく。
これも日本の「なる」世界観にピッタリと合致している。
もっとも、続くイザナギ・イザナミの「国産み」を見れば、そこには「うむ」文化的な要素も認められる。
ただし、それは日本文化の本質ではなく、あくまで副次的な要素だと考えて良いだろう。
その辺りのことは『古事記』における「人間」の描かれ方を見れば、納得していただけると思う。
『古事記』において「人間」は「青人草」と呼ばれている。
つまり、『古事記』における人間とは、植物みたいな存在なのだ。
動物のようにこの世界に「産み」落とされるのではない。
地面からムクムクと「生成」してくるのである。
これを『旧約聖書』の人間観と比較してみると、キレイな対照をなしている。
『旧約聖書』によれば、人間は「粘土」であり、神は「陶工」であるという。
つまり、『旧約聖書』において「人間」は神によって「つくられた」存在なのだ。
双方の人間観を整理すると、
日本・・・人間はムクムクと「生成したもの」 西欧・・・人間は神の手で「作られたもの」
ということになる。
そして、ここまでを踏まえて日本人の「自然観」「人間観」「生命感」をまとめれば、次の通りになる。
自然 = 成り行きによって生成と消滅を繰り返している 人間 = あくまでも自然の一部であり無力な存在 生命 = 自然の一部として生成と消滅を繰り返している
このように、ふんわりとした世界観が日本人の世界観なのだ。
そしてこれは、現代を生きる僕たちと決して無縁な世界観ではない。
現代の僕たちの行動原理に大きく影響を与えている世界観なのだ。
では最後に、「なる」文化が現代の日本人において具体的にどんな風に現れているか、その一例を紹介しよう。
スポンサーリンク
「なりゆき」に任せる日本人
唐突だが、ここで問題。
次の2つのセリフのうち、日本人らしいのはどっちだろうか。
舞台は結婚式の披露宴、発話者は新郎新婦である。
「この度、私たちは結婚することにしました」
「この度、私たちは結婚することとなりました」
答え合わせは後ほどすることにして、次の問題。
一問目と同様、日本人らしいセリフを選んでほしい。
舞台は会社の会議、発話者はヒラ社員である。
「今回は、私のプロジェクトを進めることとします」
「今回は、私のプロジェクトを進めることとなりました」
そして次が最後の問題。
舞台は学校、発話者は担任の先生である。
「あなたたちの担任をします、山田です」
「あなたたちの担任をすることとなりました、山田です」
さて、どうだろう。
おそらく多くの日本人は後者、つまり、
「この度、私たちは結婚することとなりました」
「今回は、このプロジェクトを進めることとなりました」
「あなたたちの担任をすることとなりました、山田です」
が日本人らしいセリフだと思ったのではないだろうか。
逆に、
「この度、私たちは結婚することにしました」
「今回は、このプロジェクトを進めることとします」
「あなたたちの担任をします、山田です」
には、どこか傲慢で横柄な響きがあり、聞いていて少し鼻についたのではないだろうか。
これらのセリフに対するあなたの印象には、日本人の「なる」文化の影響があらわれている。
日本人には「なりゆき」に任せることを美徳と考える傾向がある。
ものごとは、自分の「意志」とか「意図」でコントロールできると考えるのは 人間の思い上がりであって、あくまで僕たちは「成り行き」の前で謙虚でなくてはならないのだ。
「結婚」も「プロジェクト」も「担任」も、あくまで「自ずから」生まれた事態であり、人間が主体的に選び取ったものではない。
「結婚することにします」
「プロジェクトを進めることとします」
「担任をします」
これらのセリフがどこか鼻につくとすれば、それは「自然に対する謙虚さ」を失った人間に対する嫌悪感なのだろう。
「~ということになりました」
「~することとなりました」
日本人がこれらの表現を多用するのは、「成り行き」に任せること、あるいは人間の「主体」を消すことが、「なる」文化にとって美徳だからなのだ。
とかく日本人は、国際社会からこう非難されてしまう。
- 日本人は自己主張しない
- 日本人は謙虚すぎる
- 日本人はイエスマンだ
これらの非難も、「つくる」文化と「なる」文化の本質的な違いから生じている。
西欧のような「つくる」文化では、人間の「意志」とか「意図」が重んじられるが、その一方で、日本のような「なる」文化では、「なりゆきに任せること」とか「自己主張しない」とかが重んじられるというワケなのだ。
ここで紹介したのはあくまでも一例にすぎない。
それは言葉に限らない。
芸術、文学、倫理、宗教、伝統行事、生活様式・・・・・・
とにかく日本の様々な文化を分析してみると、少なからずこの「なる」文化の影響が見てとれる。
そして、そんな日本人の文化的な起源を遡っていくと、奈良時代に書かれた『古事記』という書物に行き着くのだ。
『古事記』に描かれているのは、八百万の神々の姿である。
しかし、ここに書かれた世界観を理解することで、現代に生きる僕たち日本人の価値観のルーツが見えてくる。
ぜひ、興味を持った方は、改めて『古事記』神話を手に取ってみてはいかがだろうか。
【 参考記事 】 ・『古事記』(神産み)の世界観・人間観をわかりやすく解説・考察 ・『古事記』(天岩戸)の世界観・人間観をわかりやすく解説・考察
オススメ本―古事記を読むならー
『マンガ 面白いほどよくわかる!古事記』
活字で読むより、とにかく分かりやすい。
しかも解説が充実していて、日本人のルーツを根底から理解できる。
この1冊を読めば、古事記のことなら大抵のことは分かるはず。
ちなみにKindle Unlimited を利用すれば、こちらの本を無料で読むことができる。
古事記に関する本だけでなく、宗教、哲学、思想、文学を含む 200万冊以上が読み放題可能となる。
通常月額980円のサービスが、今なら30日間の無料体験ができる。
退会も簡単にできるので気軽な気持ちで試すことができる。
興味のある方は、以下のホームページからどうぞ。
『古事記』(池澤夏樹 編)
マンガじゃなくて、文章で読みたいって人も多いと思うが、古事記を原典で読むのは専門家じゃない限り、たぶん無理。
ただ、現代語訳なら十分いけると思う。
ということで、現代語訳で読みたい人にはこちらの1冊がオススメ。
かなりかみ砕いた現代語訳だし、解説も充実しているし、なにより訳者は芥川賞作家だし、古事記の文学性をとっても重んじてくれている。
古事記のオリジナリティを全く損なっていないので、「ちゃんと読みたい」という人にオススメ。
オススメ本―日本人を知るなら―
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一 著)
この人は言語学者ではなくて、倫理学者。
日本語や日本文学に見られる、ぼくたちの人間観や自然観、死生観について解説をしている。
「成り行き」に任せる日本人の本質は、別れの挨拶「さよなら」に表れている、というのはこの論考の柱だ。
ぼくは新書で「泣く」なんてことはまずないのだが、この本は読んでいて、そのやさしさから自然と涙がこぼれた。
人間のはかなさと、そんな人間を包み込む、あたたかい存在。
そんなことを感じさせられたからだと思う。
『日本語文法の謎を解く』(金谷武洋 著)
英語が「する」言語と言われているのに対して、日本語は「ある」言語といわれている。
ここにも、記事で紹介した
- 西欧・・・「つくる」文化
- 日本・・・「なる」文化
といった文化的差異が色濃く表れている。
英語では必ず「I」という主語がつくのに、日本語では必ずしも主語は必要ない。
それはなぜか。
本書の論考はとても明晰で、日本語の謎に一定の解答を与えてくれている。
言語的アプローチで「日本人とは何か」を知ることができる。
本書の考察記事はこちら、ぜひ参考にどうぞ。
【 参考記事 日本語文法の謎ー「主語」がない?「は」と「が」の違いは? 】
コメント