はじめに「人生のかなしみ」
カトリック作家の「遠藤周作」の言葉に、こんなものがある。
人間は人生のある時期、皆、同じような悲しみや苦しみを味わう
『幼なじみたち』より
人間として生まれ、人生という道程をたどる中で、誰もが悲しみを経験しなければならない。ただ、そんなこと、いまさら言われなくたって分かっている。
テレビでは連日のように悲しいニュースが流れていて、僕たちが“人間の悲しみ”を目にしない日はないからだ。
――悲しみは避けられない——
それは頭ではわかっているけれど、一方で僕たちはこうも思っている。
――できれば悲しみたくはない――
悲しむことを恐れ、悲しみを誤魔化し、悲しみから目を背け続けるのが僕たちだ。
だけど、もし「かなしみ」に意味があるとするならば。
いや、「かなしみに意味がある」と信じることができるならば。
その時、僕たちは、人生のある時期に味わうという「かなしみ」とともに、人生を生き抜くことができるのではないだろうか。
この記事では、そんな「かなしみの意味」について考えていきたい。
参考にした本はこちら。
『かなしみの哲学』
筆者は日本の倫理学者である竹内整一。
「人間の悲しみ」と誠実に向き合い続ける彼は、僕が最も信頼する書き手の1人である。
そんな彼の著書『かなしみの哲学』には、「かなしみ」が隠し持っている「3つの意味」について書かれている。
本書は、「人生の悲しみ」に直面する人たちに、そっと寄り添ってくれるような、そんな温かい1冊である。
「かなしい」の語源
「かなしみ」が隠し持っている「3つの意味」について考察をする前に、まず「かなしい」という言葉の語源について触れておきたい。
かなしみの「かな」は「~しかねる」の「かね」と同根と言われている。
つまり、「かなしみ」には、「~することができない」という“無力さ”への自覚が根っこにあり、もっといえば「自分の限界」、つまり“有限さ”への自覚が根っこにあるということでもある。
では、僕たち人間が、その“無力さ”や“有限さ”を最も感じる場面とは一体なんだろう。
それは「大切な存在を失うとき」である。
その最たるものは「愛する存在の“死”」だろう。
愛するものを失った時、誰もが人間存在の“有限さ”を痛感し、運命に抗えない自らの“無力さ”に打ちひしがれる。
「かなしい」という感情は、基本的にそうした「対象喪失」と関係の深い感情だといえる。
また、「かなしみ」にあてられる漢字として最もオーソドックスなものは「悲」だ。
「非」という字は、「羽が左右に背きあっている様」を表現しているいわれていて、そこに「心」がついてできたのが「悲」という漢字だ。
つまり「悲」という言葉には「心が引き裂かれる」という意味がある。
以上のことから、「悲しい」とは、
「大切な存在を失った時に、人間存在の“有限さ”や自分自身の“無力さ”を痛感し、心が引き裂かれるような心的状態」
これを表す言葉だとまとめることができる。
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日本人と「かなしみ」
さて、「かなしみ」=「心が引き裂かれるほどの辛い感情」だとすれば、僕たちにとって「かなしみ」はどこまでも否定されるべき感情だといえる。
ところが、なぜか日本人は、古くから「かなしみ」にある種の親しみを持って生きてきた。
その事実は、多くの場面で知ることが出来るわけだが、たとえば“童謡”なんかからも見て取れる。
♪ゆうや~け、こやけ~の~、あかとん~ぼ~♪
といった、あのノスタルジーの王道「赤とんぼ」とか、
♪しゃ~ぼんだ~ま~、と~ん~だ~、や~ね~ま~で、と~んだ~♪
といった、死んだ幼子を歌ったといわれる「シャボン玉」とか。
日本の童謡には「これ、子どもに聞かせるんですよね?」と、なんとなく躊躇するような、そんな「悲しく、哀愁に満ちた曲」がなぜか多い。
「灯りを付けましょぼんぼりに~」から始まって「今日は、たのしい~、ひなまつり~」と終わるあの歌だって、
いや、全然楽しそうじゃないんですけど!
と、思ってしまうほど悲しげなメロディである。
だけど、日本人は古くから、こうした曲に親しみを感じてきた。
どうして、日本人は、こうも「かなしみ」や「哀愁」に親和的なのだろう。
この事情は「文学」や「芸術」にも見て取れるのだが、中でもとりわけ「宗教」や「哲学」の文脈において強く見られる。
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「かなしみ」には意味がある
たとえば、日本仏教の代表格「浄土仏教」では、「悲しみ」が重要な意味を持つとされている。
浄土真宗の開祖、親鸞は「阿弥陀如来」による救済原理を「如来大悲の恩徳」という言葉で述べている。
ここで、浄土仏教の世界観を詳述することはできないが、親鸞の言葉をたよりにザックリとその世界観を述べるとすれば、
「われわれ人間は悲しみに満ちた存在であり、阿弥陀如来は、そんな人間の在り方を悲しんでいる」
というものになる。
また、日本の哲学においても「悲しみ」が重要な意味を持つとされた。
近代日本の哲学者「西田幾多郎」は、「哲学と悲しみ」の関係について、こんな言葉を残している。
哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。
『悲しみの哲学』(竹内整一)P27より
注目すべきは、西田が「哲学の出発点」を「かなしみ」に置いていることである。
実はこれ、とっても特別なことなのだ。
なぜなら、哲学生誕の地である「西欧諸国」では、哲学の出発は「驚き」にあったからだ。
要するに、
「なぜ、この世界は存在しているんだ! 不思議でならん!」とか、
「なぜ、俺は存在しているんだ! 不思議でならん!」ときて、
「なぜ、俺は死ななければならないんだ! 不思議でならん」と、こうきて、「哲学」は始まったとされているのだ。
オリジナルの西欧人が「驚き」から哲学を出発させたのに対して、日本人である西田は「悲しみ」から哲学を出発させようとしている点は、やはり興味深いが、その動機の1つに、幼くして死んでしまった我が子の存在があったことは間違いない。
明治40年、西田は5歳の次女を亡くしている。
その時のことを、西田は次のように述べている。
ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
僕なんかが改めて言うまでもないが、西田の「悲しみ」は深かった。
だけど西田は、我が子を失ったその「悲しみ」を、むげに否定しようとはしない。
いや、むしろ、その「悲しみ」を積極的に肯定しようとする。
何とかして忘れたくない。何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
(中略)
この悲は苦痛と言えば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
『悲しみの哲学』P29より
「あの子の死は、それこそ心が引き裂けるほどに悲しい。だけど自分は、その“悲しみ”を手放すことだけは絶対にしたくない。それが親として、自分があの子にしてやれる唯一のことなのだ」と。
あの難解な哲学書を書いた“西田幾多郎”とは思えないくらい、亡き娘に対する切実でストレートな思いがここにしたためられている。
さらに西田はこう続ける。
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものが、たちまち消えて壺中の白骨となるというのは、いかなる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、ここには深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
『かなしみの哲学』P30より
ある日、愛する娘が突然亡くなり白骨となって埋葬されてしまう。
「このことにはきっと意味があるはず、いや、意味がないワケないじゃないか」
このとき西田は、娘の死と、自らの「かなしみ」とに、何かしらの必然性を与えようとしている。
言い換えれば、本来は消極的な感情である「かなしみ」に、彼は積極的・肯定的な意味を与えようとしているわけだ。
西田幾多郎のこの姿勢は、極めて日本人的であるといえる。
日本人は古来、「かなしみ」に親和性を抱いてきたわけだが、その延長上に「かなしみを肯定的に受け止めよう」とする西田の姿があるのである。
さて、改めてここで本題を確認しよう。
「かなしみの肯定的な意味」とは一体何なのか。
その結論は、大きく次の3つになる。
- 「倫理」としての意味
- 「美」としての意味
- 「救済」としての意味
『かなしみの哲学』筆者、竹内整一は次のように述べている。
日本人の精神史においては、こうした「かなしみ」を甘受し表現することを通してこそ、生きる基本のところで切に求められる、他者への倫理や、世界の美しさ、さらには、神や仏といった超越的な存在へつながることができると考えられていたのではないか。
『かなしみの哲学』P13より
もちろん、これだけじゃチンプンカンプンだと思うので、以下で詳しく解説をしていきたい。
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“倫理”としての「かなしい」
「かなしみ」が持つ意味の1つ目は「倫理」としての意味だ。
もう少し分かりやすく言うと、
「かなしい」という感情が、人間の「倫理」へと繋がっていく
ということであり、もっと言えば、
「かなしい」という感情は、他者への「あわれみ」と同根である
ということでもある。
改めて、先の西田幾多郎の言葉を引用したい。
幼子を失った、“父”としての言葉である。
何とかして忘れたくない。何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
(中略)
この悲は苦痛と言えば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
『悲しみの哲学』P29より
なぜ、彼は、心が引き裂かれるような「悲しみ」を、決して捨てようとしないのか。
それは、「かなしみ」という感情を通して、亡き我が子とのつながりを感じることができるからだ。
「かなしい」という感情の根っこには、人間存在の“有限さ”や“無力さ”への自覚があることはすでに述べた。
西田は娘の死を通じて、自分自身の“有限さ・無力さ”だけでなく、幼くして死なねばならなかった我が子の“有限さ・無力さ”も強烈に実感している。
そんな無力な娘への“憐憫”とか“同情心”とかが、西田自身の「悲しみ」なのである。
古来、日本人は「かなし」という言葉に「愛し」という漢字を当てた。
日本人にとって、「悲しい」と「愛しい」は、表裏一体の感情なのである。
本書『かなしみの哲学』で、竹内はこんなことを述べている。
現在では失われた「愛し」という用法でも、基本は「どうしようもないほど、いとしい、かわいがる」で、ここでもやはり、「……しかね」ているのである。つまり、「何をしても足りない程かわいがっている、あるいは、どんなにかわいがっても足りない」という及ばなさ・切なさが「愛し」なのである。
『かなしみの哲学』P55より
たとえば、かわいい我が子が死に行くとき、親心としては
「なんとかして助けてやりたい。自分が身代わりになってやりたい」
と、思うものだろう。
だが、人間というのは根本的には無力な存在で、どんなに「助けたい」「代わってやりたい」と願ったとしても、そうすることは絶対にできない。
我が子を心から「いとしい」と思うからこそ、彼(彼女)を救うことのできない自分は「かなしい」のであり、我が子を「かわいい」と思うからこそ、死なねばならない彼(彼女)を「かわいそう」に思うのである。
こんな風に「かなしみ」という感情には、相手を心から思うという「倫理」としての意味がある。
僕たちは「かなしみ」という感情を通して、心から相手を思うことができるのであり、「かなしみ」という感情を通して、存在論的に他者とつながることができるのである。
時に、深い悲しみにくれている者を救うのが「励ましの言葉」ではなく、「共感的な理解」であったり、「ともに流す涙」であったりするのは、そのことの証だといっていい。
以上が「かなしみ」が持つ、「倫理」としての意味である。
ちなみに、「かわいい」と「かわいそう」の関係については、以下の記事で詳しく解説しているので、興味のあるかたはぜひ参考にしていただきたい。
【 参考記事 解説『かわいい論』―「かわいいとは何か」の哲学、あるいは心理学― 】
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“救済”としての「かなしい」
次に「かなしみ」が持つ意味の2つ目、「救済」としての意味について考えてみたい。
ここまでに確認をしてきたことは、
「人間は“かなしみ”という感情を通して他者とつながることができる」
ということだ。
僕たちは、愛する者の“無力さ・有限さ”について深く悲しむことで、その相手に寄り添うことができる。
そうした悲しみは、一般的に「慈愛」とか「慈悲」とよばれている。
ただし、ここで、忘れてはいけないことが一つある。
それは、他者に「慈悲」を注ぐその人もまた、“無力”で“有限”な存在だということだ。
どんなに、相手に「慈悲」を与えたところで、究極的にその人を救うことはできない。
「自分はどんなに相手を助けたいと思ったって、絶対に助けることはできない」
そうした“無力な自分”を深く悟ったときに、まるで一点の“光”のように兆してくる世界がある。
宗教が扱うのが、まさにそうした世界だ。
たとえば、浄土真宗では「阿弥陀如来」の「慈悲」というのが、人間を救済する「働き」として考えられている。
「誰も救うことができない」そうした“無力な自分”を深く自覚したとき、そのかなしみは「阿弥陀如来のかなしみ」となって、他者を救うというのだ。
『かなしみの哲学』の筆者竹内は、親鸞のそうした思想について、次のように解説する。
親鸞の言っているのは、(中略)自分には慰め助けてやることができない、できないけれどもそれでも何とかしてあげたいという思いの中で祈り(ここでは念仏のこと)を持つとき、その祈りが自分を超えて自分の中に、自分を超えた超越的な働きとして働いてくるということであろう。
『かなしみの哲学j』P103より
【 相手を深く「悲しむ」 → 相手を救えない自分の「無力さ」を悟る → その「悲しみ」は阿弥陀如来とつながる → 悲しみは「阿弥陀如来の悲しみ」となって相手を救う 】
こうしたロジックは、実はキリスト教にも見て取れる。
クリスチャンで作家の遠藤周作は、代表作『沈黙』や『深い河』において、「母性的なキリスト観」を打ち出した作家だ。
遠藤が説く「母性的なキリスト」というのは、「弱く、みじめで、きたない人間を、そばで悲しみつづけるキリスト」のことだ。
遠藤のキリスト観の根底にもまた、人間存在の“無力さ”や“有限さ”がある。
それは、人間存在に対する「あきらめ」と言い換えても言いかもしれない。
「自分はだれも救うことができないし、誰も自分を救ってはくれない」
そうしたことを深く自覚したときに、「キリストの愛」に気が付くというワケだ。
遠藤にとって「キリスト」とは、最後まで絶対に自分を見捨てない存在であり、最後までともに悲しんでくれる存在だった。
遠藤はキリストを「永遠の同伴者」と呼び、数々の作品を通して「悲しむキリスト」の姿を描いている。
さて、以上が「かなしみ」が持つ、「救済」としての意味である。
浄土仏教においても、キリスト教においても、「悲しみ」が重要な意味を持っている。
他者を深く思うからこそ「自分自身の無力さ」を悟り、自分自身の無力さを悟るからこそ「超越との出会い」が生まれる。
ここに「倫理」から「宗教」への跳躍がある。
――「悲しみ」は「救済」である――
そのことを直感した「綱川梁川」という人物の言葉を、ここに紹介しておく。
悲哀はそれ自らが一半の救いなり。……神はまず悲哀の姿して我らに来たる。
『悲しみの哲学』P50より
なお、遠藤周作の『沈黙』や『深い河』における宗教観については、こちらの記事を参照されたい。
【 参考記事➀ 考察・解説・あらすじ『沈黙』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とはー】
【 参考記事➁ 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー 】
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“美”としての「かなしい」
最後に「かなしみ」が持つ意味の3つ目、「美」としての意味について考えてみたい。
突然だが、ここで一曲。
♪ゆうや~け、こやけ~の~、あかとん~ぼ~、おわれ~てみたの~は~、いつの~ひ~か~♪
言わずと知れた童謡の王様「赤トンボ」の一節である。
この歌は「子どもの頃の郷愁」から作られたと言われているが、僕はこれこそ「かなしい」と「美」との関係を知るうえでうってつけの曲だと思っている。
さて、歌詞にある「おわれて」というのは「母親の背中に負ぶわれて」という意味である。
作者の三木露風は近代を代表する詩人で、「赤トンボ」は彼の40歳前の作品といわれている。
中年にさしかかった三木は、ある日ふと目にした「夕焼け空」に、幼い頃の記憶を蘇らせた。
その記憶は「母親に負ぶわれた」時の記憶であり、愛され慈しまれた記憶である。
遊び疲れて歩けなくなり、母親に負ぶわれたあの日。
目の前を飛ぶ一匹の虫を見て、
「あれは何?」
と母親に尋ねる。
「あれはね、赤とんぼっていうのよ」
そう優しく教えてくれる母。
その背中はとても温かい。
その安心とぬくもりを感じながら、母の肩越しに見えた真っ赤な夕日。
だけど、もう、決してあの日に戻ることはできない。
あの温かい背中を感じることはもうできない。
幸福だった過去。
愛された過去。
戻りたい過去。
だけど絶対に戻れない過去。
そうした「悲しみ」の中に「美」はあるのだ。
人が「美しい」と感じる時、そこには間違いなく人間存在の“有限さ”がある。
そして、絶対にあの日に戻れないという“無力さ”がある。
「夕焼け空」が人間存在のそんな“有限さ・無力さ”をかきたててくるのは、自然がいつの世も「変わらないもの」だからなのだろう。
見る者に「変わってしまったもの」や「変わっていくもの」を否が応でも意識させるからなのだろう。
その時、誰しもが「人生の一回性」や「人生の儚さ」を感じることになる。
そして、いつか自分はこの世界から退かねばならず、この景色を見ることもできなくなってしまうことを再認する。
自分はいつか死んでしまう。
これこそが、人間の“無力さ”であり、“有限さ”であるが、人間はそれを知っている。
日本人にとって「美」とは「かなしみ」の別名なのだ。
以上が「かなしみ」が持つ、「美」としての意味である。
なお、「日本人」と「美」については、こちらの記事で解説しているので、興味のあるかたはぜひご覧いただきたい。
【 参考記事 「美しいとは何か」の哲学・心理学―なぜ美しいと感じるのかを解説― 】
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終わりに「悲しみ」の先に
以上、『かなしみの哲学』(竹内整一)の論考を参考に、「かなしみ」が隠し持つ「倫理」「宗教」「美」としての意味について解説をしてきた。
竹内氏は次のようにいう。
現代において見失われつつある、他者への倫理や世界の美しさ、超越的な存在へのつながりといった可能性を持つ「かなしみ」の力を、今あらためて「復権」させるべきだ
『かなしみの哲学』P16より
多くの人は次のように思うだろう。
「できれば悲しみたくはない」
だけど「悲しみ」と無縁でいられる人間なんて、どこにもいない。
遠藤周作が言った通り「人生のある時期、皆、同じような悲しみや苦しみを味わう」ことになるのなら、僕たちはもう一度「かなしみ」が持つ意味について再確認をしなければならない。
- 「かなしみ」は、決して全面的に否定されるべき感情ではない。
- 「かなしみ」には、人間が「世界」とつながるための契機が潜んでいる。
- 「かなしみ」とは、「倫理的」、「宗教的」、「美的」意味を持つ、人間存在にとって根本的な感情だ。
古来、日本人はそのことを良く知っていた。
最後に、日本の思想家「柳宗悦」の次の言葉を引いて、この記事を締めくくりたい。
悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』より)
「美しい」も「愛しい」も「悲しい」も、ある「1つの感情」の別名なのだ。
「かなしみ」という感情の先に、他者があり、世界があり、救済がある。
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「かなしみ」を知れる1冊
最後に「かなしみ」について、もっと知りたいという人のためにに本を紹介したい。
日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (竹内整一)
『かなしみの哲学』の筆者竹内整一の日本人論。
タイトルの通り、「日本人」と「さよなら」についての論考だが、その根幹は「人間存在の”有限さ・無力さ”」である。
「さよなら」と「かなしみ」には深い関係がある。
ぜひ、本書を手に取って、それを確かめてみてほしい。
『悲しみの秘義』(若松英輔)
人間にとって、もっとも大切な感情は「かなしみ」なのかもしれない。
この本は、その「かなしみ」が持つ意味が、美しい言葉でつづられている。
「かなしみ」は「悲しみ」であり「愛しみ」であり「美しみ」でもある。
記事でもふれたこの事実は、この本に書かれていたものだ。
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