結局はコトバ
多くの書を読んでいると、こう思うことがしばしばある。
「結局、コトバなんだよね」
この「結局」と「コトバなんだよね」の間には、色んな主語が入りうる。
たとえば、
結局「生きていく上で大切なのは」コトバなんだよね、であったり、
結局「学問の根底にあるのは」コトバなんだよね、であったりする。
もっと存在論的、認識論的に、
結局、「人間を人間たらしめているのは」コトバなんだよね、であったり、
結局、「この世界を生み出しているのは」コトバなんだよね、であったりする。
先日ぼくは、例によって、眠れない夜に、とりとめもない考えを巡らせていると、「あ、そうか」と、思った。
―― 結局、ぼくが死ぬのは、コトバがあるからなんだよね ――
ある哲学書を読んでいたときに、こんなコトバに出会った。
「人間が死ぬのは、『死』というコトバがあるからである」
読んでいたそのときは
「うーん、分かるようで、分からんなぁ」くらいのもんだった。
それが、実感としてストンと理解できたのは、夜が持つ不思議な力のおかげもあったと思う。
(しかし、どうして、『夜』とは、ああまで人をセンシティブにするのだろう)
さて、「あなたにとってコトバとは何ですか?」と問われたとして、あなたはなんと答えるだろうか。
多くの人は、きっとこう答える。
「自分の気持ちを伝えるためのコミュニケーションツールです」
うん、ただしい、それはそれで、真っ当な言語観だと思う。
しかし、冒頭にも書いたとおり、コトバとはぼくたちの存在や認識にとって、もっと深くて重要な働きがあるのだ。
そういう点から、コトバを捉えなおした言語観がいくつかある。
で、その中の一つが、「ソシュール」という人の言語観だ。
このソシュールって言う人は、言語学を学ぶ人であれば、知らない人はいないくらい、とんでもない業績を残した人物である
で、こんかい紹介したい本はこちら.
『言葉とは何か』(丸山圭三郎 著)
丸山圭三郎は、ソシュールの思想を日本に広めた、ソシュール言語学研究の第一人者だ。
ソシュールを学びたいと言う人にとって、彼の本は必読である。
ソシュールの言語観①
ソシュールの言語観、それを一言でいうならば、
「コトバとは、ものの名前ではない」
というものだ。
たぶん、これは一般的な言語観と真逆の考え方だろう。
一般的な言語観とは、たとえば、こんな感じだ。
ある日、人間の目の前に、なぞの物体が現れた。
その物体は、「四つ足で歩く生き物で、人間に好意を持っているらしく、こっちに近づいてくる。どうやら嬉しいみたいで、シッポをフリフリふって、『ヘッヘッヘ』と舌を出している。かわいいので、ちょっと頭を撫でてみるとワンと鳴いた」
そうだ!! こいつを「犬」と呼ぼう!!
ってなことで、名もなきその物体に、「犬」という名前が与えられた。
……かくして、人間は、身の回りに存在している名もなき「対象」を見つけては、まるでラベルを貼るかのように、ペタペタと「名前」を付けていったのである……
これが多分、多くの人々が持っている言語観であり、通称「名称目録的言語観」と呼ばれるものだ。
「名称目録」とは「カタログ」という意味。
「コトバ」 = 「商品ラベル」ってなもんだ。
ちなみに、このラベルは言語によって全くちがう。
日本語では「犬」、
英語では「ドッグ」、
フランス語では「シアン」、
ドイツ語では「フント」
といった具合に、ラベルの名前は様々なのだ。
とにかく、「コトバとは、モノの名前である」。
言い換えれば、「モノがまずあって、そこからコトバが生まれるんだ」という考え。
それが、ぼくたちがぼんやりと持っている言語観(名称目録的言語観)だといえよう。
ところが、ソシュールは、そんな一般的な理解に、意義を唱えた。
「ちがう、逆だよ! コトバがあって、モノが生まれるんだよ!」
ということだ。
逆に言えば、
「コトバがなければ、モノもないんだよ!」
ということなのだ。
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ソシュールの言語観②
彼の理屈をもう少し詳しく説明しよう。
例えば、日本語には、「チョウ」というコトバと「ガ」という二つのコトバがある。
ぼくたち日本人は、
ヒラヒラ舞ってかわいい「チョウ」と、
夜の自販機にむらがる不愉快な「ガ」
それら二つを区別している。
チョウには好意的な感情をもよおすし、
ガには嫌悪的な感情をもよおす。
両者は全くの別物だ。
ひるがえって、フランス語に目を向けてみよう。
なんとフランス語には、「チョウ」に対応するコトバも、「ガ」に対応するコトバも、存在していない。
「チョウ」と「ガ」をひっくるめた、「パピヨン」というコトバがあるだけだ。
だから、フランス語話者にとって、「チョウ」も「ガ」も、両者は区別する必要はないし、もっと言えば、区別をして認識することはない。
なんなら、区別して認識することが「できない」といった方が正しいかも知れない。
もう一つ例えをあげてみよう。
空から降ってくるつめたいH2O
あのH2Oには、様々な種類のコトバがある。
あめ、ゆき、みぞれ、あられ、ひょう、などなど……
さらに、「ゆき」なんかは、もっともっと細かく分けることができる。
「粉雪」「牡丹雪」「細雪」「沫雪」「堅雪」「粗目雪」などなど……
本当は、もっともっと種類があるらしく、ネット情報によれば、その種類はなんと77種類。
おどろくべき数字である。
残念ながら、ぼくは、そこまでのコトバはしらないし、そこまで細かく雪を見分けることはできない。
が、きっと77種類の名前を知っている「雪マニア」は、それだけ細かく雪を認識することができるのだろう。
つまり、
「雪にまつわる『コトバ』によって、77種類の雪『モノ』が生まれている」
というわけだ。
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ソシュールの言語観 と 子どもの世界観
改めて、以下の通り、ソシュールに登場してもらおう。
「コトバは、モノの名前ではない。コトバによって、モノが生まれている」
このソシュールの言語観、初めて触れた人にとっては、ちょっと難しいかもしれない。
だけど、ちょっと意識して生活してみれば、「ああ、たしかに、コトバがモノを生んでいるな」と感じる場面がじっさいに結構ある。
ぼくには息子がいる。
彼が1歳のころの話しだ。
ようやく少しずつコトバを獲得してきた彼は、同時にこの世界への興味も増してきているようだった。
が、いかんせん、彼の語彙はすくない。
ソシュールの言い分に従えば、彼にとって、それだけ見える『モノ』も少ないと言うことになる。
とある日、出かけたスーパー。
カートに乗った彼は、しきりに『アンパン(マン)、アンパン(マン)』と繰り返している。
ぼくが周囲を見渡しても、アンパン(マン)らしきものは、どこにも見つからない。
「アンパン(マン)? どこにもいないよー?」
それでも彼の口で繰り返される「アンパン(マン)」
いよいよぼくは真剣に目を凝らし、探しに探したところ、果たせるかな、ようやく「アンパン(マン)」を見つけることができた。
従業員のおばさんの胸に、小さな小さなアンパンマンのワッペンが付いていたのだ。
よくもまあ、あんな小さなアンパンマンを見つけたなあ、とぼくは嘆息した。
こんな感じで、彼は、いつでも、どこでも、驚くべきスピードでアンパンマンを探し当てる。
「なんで、こんな早いのか」と、不思議に思っていたぼくは、ふとソシュールの言語観を思い出し、「ああ、やっぱりそうなのか」と納得がいった。
スーパーの中にある、種々雑多な商品。
あれらを息子は細かく認識できていなかったのだ。
なぜなら、「肉(牛肉、豚肉、鶏肉……)」「野菜(にんじん、ピーマン、たまねぎ……)」「惣菜(焼きそば、たこ焼き、お好み焼き……)」などなどといった、ぼくたちが当たり前のように使っている日常語を、彼は知らないからだ。
それら日常語を知っている大人にとって、スーパーは、種々雑多な「モノ」にあふれかえった世界だといえる。
そこには、コトバの数とおなじ量の情報であふれかえっている。
その中から「アンパンマン」を探し当てるのは容易なことではない。
しかし、一方の息子の世界はというと、そこまで複雑な世界ではない。
大人のぼくたちが見ている世界よりも、きっと、いうなればノペッと凹凸のない世界なのだろう。
だからこそ、「アンパンマン」は、はっきりとした輪郭で彼の目に映るのだろう。
極端に言ってしまえば、息子にとって世界は「アンパンマンとそれ以外」の世界なのだ。
大人の目に映るアンパンマンよりも、強烈なコントラストでもって、息子の目にはアンパンマンがありありと立ち上がってくるのだろう。
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ソシュールを学ぶ現代的な意義
最後に、「じゃあ、この言語観を知って、なんの意味があるの?」
という、問いに簡潔に答えたいと思う。
ソシュール学ぶを意義、それは、
「コトバの持つ、とてつもない力が理解できる」ことだ。
もっと言えば、「コトバを獲得する大切さを理解できる」ということだ。
おこがましくも、ソシュールが言いたいことを、ぼくがこの場で代弁してみる。
「コトバを理解すれば、それだけ深く豊かに、世界を見ることができるよ」
あなたの世界が平凡で陳腐ならば、それはコトバを知らないからだ。
あなたの感情が平凡で陳腐ならば、それはコトバを知らないからだ。
コトバを知れば、世界はより豊かになるし、コトバを知れば、あなたの感情はより深くなる。
ソシュールがぼくたちに言おうとしていることは、「コトバの力」なのだとぼくは解釈している。
だからこそ、ぼくたちは様々なコトバに触れなくてはいけない。
沢山の本を読まなくてはいけない。
「1度きりのあなたの人生、より深く、豊かにするためには読書が必要なのだ」
そんな結論をして、この記事をしめくくりたい。
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