内容を解説『言語にとって美とはなにか』ー吉本隆明の言語観 ー

哲学
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文章と格闘すること

最近、ちまたでよく聞く「速読術」ということば。

「効率よく本を読める!」

「本が10倍速く読める!」

「ひと月100冊読める!」

など、キャッチコピーを様々に、この手の本は本当に多い。

たしかに、ぼくもあえて「速読」をすることがある。

ただ、「速読」といえば、聞こえがいいが、その実は「流し読み」である。

「まぁ、概要がわかればいいや」

くらいの本に出合った時、さらーっとキーワードを拾って、「つまり」とか「すなわち」みたいな言葉を探して、読み進めていく。

でも、こういう読み方をしたあと、一抹の後ろめたさが湧いてくる。

「大切な何かを見落としたんじゃないだろうか」

たぶん、ことばにするとそんなところだと思う。

逆に、1冊の本をじっくり、なめるように、それこそ「眼光紙背に徹す」ように熟読した後には、この上なく充実感に満たされる。

まあ、言ってしまえば、読書方法なんてのは人それぞれで、好き勝手に読めばいいのだけど、とにかく「速読」ばかりをもてはやす昨今の風潮には、やはり抵抗を感じるぼくなのだ。

だから、今回は、あえて「文章と格闘する」ような本を紹介しようと思う。

速読なんかでは太刀打ちできない、腰を据えて、文章としっかりと向き合う

そういう姿勢を強く求めている日本の名著である。

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知の巨人 吉本隆明

吉本隆明とは、戦後活躍した思想家で、その思想の射程は、政治、社会、国家、宗教、サブカルチャーなど、多岐にわたっている。

アカデミズムに所属しない在野の思想家でもあり、独特の論考は後世の論壇に大きな影響を与えた

そんな彼の一番の代表作といえるのが、『共同幻想論』だ。

戦後まもなくに出版された本書は、タイトルの通り、「国家は幻想だ」という強烈なメッセージを持ち、当時の若者をつよく引き付けた。

特に学生運動をしていた人たちには、バイブル的な存在だったらしく、彼らは『共同幻想論』片手に活動をしていた、なんて話も聞く。

それから、現在の論壇で活躍している論客にも大きな影響を与えている。

中沢新一、上野千鶴子、宮台真司、内田樹、などなど。

海外の著名知識人が来日すれば、真っ先に吉本は呼ばれたという。

フーコー、ガタリ、ボードリヤールなんかと対談をしている。

吉本隆明は、詩人としての一面もあり、その優れた文学性は彼の娘「吉本ばなな」にも受け継がれている。

さて、こう説明してみると、「じゃあ、共同幻想論だっけ? 読んでみようかなー」と思ってくれた人もいるかもしれない。

が、この本、一筋縄ではいかない、とんでもなく難解な1冊なのである。

  • 「何が書いているか分からない」
  • 「分かるところから読んだ」

実際、沢山の有名な文人たちがこう言っている。

ぼくも『共同幻想論』を読んだことがあるのだが、内容の半分も理解できなかった。

いや、3割? 2割? とにかく、理解の程度はほっっっとうに怪しい。

だけど、『共同幻想論』の持つ、強烈なメッセージ性と熱量とに引かれて、(実際は気合いで)最後まで読み切った。

あの作品には、「意味」を突き抜けた先の「何か」があって、その「何か」が、実際に今もいろんな人たちを魅了している。

速読では絶対に味わえない読書体験。

文章と格闘する楽しさ。

そういう経験ができることこそ、吉本隆明の作品の魅力といえるだろう。

吉本隆明の言語観

さて、ようやく本題だ。

今回紹介するのは『言語にとって美とは何か』(吉本隆明 著)

やっぱり、この本も、めちゃくちゃ難解な1冊である。

どれだけ難解かといえば、巻末の解説で、

「書かれていることはまるでわからない」と解説者が言ってしまうくらい、それだけ難解な1冊なのだ。

では、そんな本書で、吉本は一体どんな言語観を展開しているのか。

一言で言えば、以下の通りだ。

「コトバには2つの側面がある、指示表出と自己表出だ」

……すでに、なんだか、難しい。

実際、この言語観、定義も説明も、めちゃくちゃ難しい。

専門家でさえ、理解があやふやで、解釈も分かれるところなのだ。

そんな吉本の言語観を、おこがましくも無謀にも、素人のぼくが超シンプルに説明してみようと思う。

1、指示表出とは、文字通り、物事を指し示す役割のこと

「リンゴ」は、あの真っ赤な果物を指し示しているし、

「犬」は、あの四つ足歩行のワンワン鳴く動物を指し示しているし、

「今日は楽しかったよ」といえば、その人の1日の満足感に似た心の動きを示している。

このように、コミュニケーションを取る相手を想定して、事物や感情を指示して伝達する機能。

それが、吉本のいう「指示表出」だ。

2、自己表出とは、文字通り、「自己」の内面が表に現れ出ること

たとえば、美しい夕焼け空を目にしたときの「きれい……」というつぶやきや、

高級ステーキを口に含んだ瞬間の「うまー……」という嘆息。

このように、誰に向けたわけでもない、自分の内面からふつふつと湧いてくる感情の発露。

それが吉本隆明の言う、「自己表出」だ。

3、音声がコトバになるまで

さて、吉本はコトバが生まれるプロセスを3段階に考えているようだ。

  • まず、原初的・反射的音声のレベル
  • 次に、指示表出としてのレベル
  • 最後に、自己表出としてのレベル

たとえば、原始人がはじめて広々とした海を見て、「ウ」と発音したとする。

このとき、「ウ」は、動物的な視覚反応から反射的に発せられた音声に過ぎず、指示表出機能も、自己表出機能も持ち合わせていない。

いわば原初的な「コトバの萌芽」といったレベルである。

やがて、原始人達は海を見る度に「、ウ」と発音するようになっていく。

すると、次第に、「ウ」=「海」 という関係が生まれ、音声「ウ」には指示機能が生じてくる

これが、指示表出としてのレベルである。

この時はまだ、原始人には「意識」や「自己」は存在していない。

だが、指示表出としての「ウ」を使用していくなかで、原始人達はコミュニケートすべき「他者」を発見していくことになる。

「他者」の獲得は、そのまま「自己」の獲得と、表裏一体の関係にある。

「自己」とは、「自意識」と言い換えることができるだろう。

自意識を獲得した原始人は、「ウ」に対する意識(イメージや感情)を併せ持つようになっていく

すると、「ウ」には、それを発する人間の意識(イメージや感情)が含まれることになる。

これが、自己表出としてのレベルである。

こうして、指示表出と自己表出としての機能を獲得したとき、音声「ウ」は、晴れてコトバ「ウ」になるというのだ。

吉本隆明はそう説明している(ようにぼくは思う)。

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吉本とソシュール

以前、【 『言葉とは何か』(丸山圭三郎 著) ー ソシュールの言語観より ーで「コトバの持つ力」について述べた。

そこでは、特に、ソシュールの言語観について触れ、「コトバがあるから、ぼくたちは世界を認識できる」ことを確認した。

じつは、吉本の言語観を理解する上で、ソシュールの言語観と比較することは、とても有効なことだとぼくは思っている。

では、ソシュールの言語観とはなにか。

くわしくは、上の記事を参考にしてほしいのだが、要するにソシュールが言いたいことは、

「コトバによって、感情が生まれるんだよ」

ということだ。

もっと言えば、

「感情なんて、コトバに過ぎないんだよ」

という風にもいえてしまう。

たとえば、どんなに素晴らしい映画を見たとしても、あなたが「ヤベえ」の一言しか持ち合わせていなければ、あなたの感情は「ヤベえ」以上にも、「ヤベえ」以下にもならない。

貧しい語彙は、あなたの感情を貧しくするし、豊かな語彙が、あなたの感情も豊かにする。

これが、ソシュールの言語観だといえよう。

一方で、吉本の言語観は、

「コトバとは、指示表出と自己表出の織物だ」

というものだった。

結論から言えば、吉本の言語観と、ソシュールの言語観は、ほとんど対極にあると言って良い。

なぜなら、ソシュールが「コトバによって、感情が生まれるんだよ」と言っているのに対して、

吉本は、「感情があって、その発露としてコトバが生まれるんだよ」と言っているからだ。

『言語にとって美とは何か』において、吉本はソシュールについて言及もしているのだが、なにやらソシュールに対して批判的な姿勢を見せている。

ソシュール 対 吉本のおもむきだ。

ソシュールの言語観は、人間の主体を否定する性質が強い

彼の主張によれば、「人間の主体や感情は、言語によって規定される」からだ。

ソシュールに端を発する「構造主義」もまた、人間を否定する思想であった。

一方の吉本の言語観は、人間の主体を肯定する性質が強い

彼の主張によれば、「人間の主体や感情があって、言語はそこから生まれ出てくる」からだ。

つまり、吉本の主張によれば、「言語活動とは人間の主体的・実存的営み」だといえる。。

ぼくは、この、言語に意志的であろうとする吉本の立場を指示したい。

もちろん、ソシュールの言わんとすることも理屈では分かるのだ。

実際、ソシュールが言うように、ぼくたちは、コトバやシステムといった外的な要因に支配されているのだろう。

だけど、そんなソシュールの言語観にあらがって、人間を諦めようとしない吉本の姿に、ぼくはなんだかひかれてしまう。

『言語にとって美とは何か』は確かにめちゃくちゃ難解な1冊だ。

だけど、人々を引きつけるのには、なにか理由がある。

ぼくは、それは吉本が捨てようとしない「人間への信頼」なんじゃないか、そんな風に感じている。

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吉本と親鸞

親鸞とは、浄土真宗の開祖である。

は念仏を称えれば、どんな人間でも救われるという、「念仏往生」という救済の世界を説いた。

ここで最後に、そんな親鸞と吉本との関係について触れて、この記事を締めくくりたい。

吉本は、親鸞につよく興味を持ち『最後の親鸞』といった本まで残している。

じつは、まだ吉本の親鸞論をちゃんと読んだことはないのだが、これまで確認してきた彼の言語論を理解すれば、「ああ、だから親鸞なのか」と、納得する部分もある。

じつは、ぼく、浄土真宗の寺院で生まれた仏教徒だ。

改めて浄土真宗の教えを確認すると、「南無阿弥陀仏」を称えれば、すべての人間が救われる、というものだ。

だけど、ぼくはいまだに「南無阿弥陀仏」がなんなのか、分からない

その一方では、最期の最期は、「やっぱり、南無阿弥陀仏なのかもな」という予感めいたモノも感じている。

最期にぼくを救ってくれるのは「阿弥陀仏」なのかもなと、ぼんやりと思っているのだ。

だけど、そんなぼくに、ソシュールはこういうのだ。

「コトバがあって、モノがあるんだから、阿弥陀仏だって、コトバにすぎないんじゃない?」

仏教って、コトバにすぎないのか? 阿弥陀様ってコトバにすぎないのか?

そんな問いがぼくのあたまをよぎり、なんだか、とてもさびしくなる。

だけど、吉本は、ぼくに言う。

「コトバは、人間の感情の表出なんだよ。南無阿弥陀仏は、人間の心の表出なんだよ

ちなみに、当の親鸞は、こう言っている。

南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。

「尊号真像銘文」より

つまり、親鸞は、「南無阿弥陀仏とは、仏を賛嘆し感謝する念のあらわれなのだ」と言っている。

浄土真宗では、南無阿弥陀仏、つまり念仏とは、仏への「報恩感謝」だと解釈する。

自分を救済してくれる阿弥陀如来への感謝の念が、念仏としてこぼれ出るというのだ。

これは、吉本隆明の言語論と、まったく同じことをいっていないだろうか。

吉本は、親鸞に関心を寄せ、親鸞に関する論考を残した。

それは、吉本が、自身と親鸞との間に、何らかの共通点を見いだしたからだろう。

その共通点とは、二人の言語観なのだと、ぼくは思っている。

じっさい、吉本隆明が親鸞をどう解釈していたのか。

それは、吉本のコトバを頼りに、いずれゆっくりと考えていこうと思うところだ。

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