はじめに「哲学」って何?
「哲学」と聞いて、あなたはどんな印象を持つだろう。
たぶん多くの人は、高校時代に勉強した「倫理」を連想したり、ソクラテスだのプラトンだのアリストテレスだのといった有名な哲学者を思い浮かべたりするかもしれない。
あるいは「無知の知」とか、「三角形のイデア」とか、例の哲学用語を思いだ出したり、『純粋理性批判』とか『精神現象学』とかいった有名な書物を思い出したりするかもしれない。
すると、人々の感情として、
「哲学=なんだか小難しいもの」とか
「哲学=自分とは無縁なもの」とか
とにかく、哲学に対する「あまりよくない印象」を持つにいたってしまう。
だから、急いで強調しておきたいことがある。
それらを全部「哲学」ではない。
あえて言えば、それらは全部「哲学史」なのである。
「ソクラテス」とか「イデア論」とか「純粋理性批判」とかを覚えることは、言うまでもなく哲学の本質なんかじゃない。
では、哲学とは何なのだろう。
それを定義するとすれば、
ということになる。
それは時におもしろくて、時にスリリングで、時にちょっと恐ろしいもので、つまるところ、ずっとずっと魅力的なものなのだ。
この記事では、そんな哲学の主要テーマについて徹底解説していきたい。
プラトンとか、アリストテレスとはか基本的に登場してこないが、彼らが全身全霊でぶつかってきた問いばかりを分かりやすく紹介している。
「哲学を勉強してみたい!」
「哲学を勉強したばかり!」
そうした人たちは、ぜひ、記事を参考にしていただけると嬉しい。
それでは、最後までお付き合いください!
テーマ①「意識」の不思議
ちょっと顔を上げて、周囲を見渡してみてほしい。
そこには、どんな世界が広がっているだろうか。
もしかしたら、テーブルにコーヒーカップが置かれているかもしれないし、テレビからバラエティが流れているかもしれないし、家族がそれをみて笑っているかもしれない。
そうした景色を見ることができるのは、あなたに「意識」があるからにほかならない。
何をそんな当たり前のことを……
そんな風に呆れる人もいるかもしれない。
だけど、哲学では、その「意識」と呼ばれるものを徹底して疑ってかかる。
その典型的な疑問が、こんなヤツだ。
目の前の景色は「見たまま」の姿で存在しているのか?
一般的に人々は、
「世界は見た通り、聞こえた通り、感じた通りに存在している」
と、目の前の世界を信じて疑わない。
だけど、それは本当だろうか。
「あなたの世界」というのは、目とか、耳とか、そうした感覚器官によってとらえられた世界だ。
だけど、他の動物たちは、人間とは異なる仕方で世界をとらえている。
たとえば、ダニ には「視覚器官」や「聴覚器官」がない。
彼らが世界を認識する際に頼りにするのは「嗅覚」と「温度感覚」、「触覚」、「光の方向」だけらしい。
とすれば、ダニたちは僕たち人間とは全く違う仕方でこの世界を経験していることになるだろう。
この例1つとってみても、人間の世界だけが絶対ではないことが分かるだろう。
ほら、僕たちが信じる「客観的世界」なんてものは、とっても疑わしいものなのだ。
とすれば、「五官」によってとらえられた世界というのは、いわば「仮の姿」であって、あなたはこの世界の「本当の姿」を知らないことになる。
こうして哲学では、あなたの「意識」に上った世界を徹底的に疑ってかかる。
だけど、哲学が本当にすごいのはここからなのだ。
なるほど、僕たちは、この世界の「本当の姿」を知ることができない。
経験できるのはこの「意識の世界」にすぎず、あなたが知りうるのも「意識の世界」だけだ。
たとえば机の上にコーヒーカップがあったとすれば、「本当の世界」にもコーヒーカップはあるはずで、コーヒーカップがちゃんと「存在」しているからこそ、あなたの「意識」にコーヒーカップが現れるというわけだ。
だけど、本当にそうなのだろうか。
たとえば、こんなことは考えられないだろうか。
――実は、あなたの脳みそはコンピュータにつながれて、そこから直接「コーヒーカップ」の電子情報が与えられているため、あなたの「意識」上にコーヒーカップが立ち現れている――
どうだろう。
こんな話を聞くと、僕たちが信じる「この世界の確かさ」が、まるで指の間から砂がこぼれ落ちるように、ジワリジワリと失われていかないだろうか。
「あなたが見ているスマホのディスプレイも、手にしているスマホの感触も、窓から入ってくる心地よい風も、つけっぱなしのテレビの音も、ちょいちょいつまんでいるポテチの味も・・・・・・すべては、あなたの脳に直接流し込まれた電子情報である」
そう言われたとしても、それに反駁することはどうあがいたって、あなたには絶対できない。
「本当の世界」と「意識の世界」
その2つの間に因果関係を認めることは原理的にできないのだ。
いや、もっといえば、「意識の世界」にそもそも“原因”があるのかさえ、僕たちには分からない。
とすると、存在するのは「あなたの意識」だけ、(こういう考えを「独我論」と呼ぶ)ということになってしまう……」
こんな感じで、哲学は「意識上の世界」だけでなく、「世界の実在」そのものまでも疑ってかかる。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【独我論とは何か】ー意識と実在と他者の関係に迫るー 】
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テーマ②「記憶」の不思議
突然だが、あなたはどんな小学生だっただろう。
ちょっと、自分自身の小学生時代を思い出してほしい。
きっとあなたにも、ありありと思い出せる「過去」があるだろうし、当時の「記憶」を思い出し、懐かしんだり、悲しんだり、温かい気持ちになったりするだろう。
だけど、哲学では、そんなあなたの「記憶」も「過去」も疑ってかかる。
「その記憶は本当に正しいの? そもそも過去なんて本当に存在していたの?」
これを聞いて、僕たちは次のように反論したくなる。
「いやいや、そりゃ昔のことだから“記憶違い”ってことだってあるさ。だけど、その記憶のもとになった出来事は確かに存在していたよ。存在していたからこそ、こうして過去を思い出して語ることができるんじゃないか。こうした記憶があることが、過去があったっていう確かな証拠だよ」
すると、「哲学(君)」はこう反論する。
「違う違う、僕は“記憶違い”なんて話をしているわけじゃない。文字通り、君の過去は“無かった”って言ってるんだ。たとえ君に記憶があったって、それが過去があったことの証拠になんてならないよ」
まるで僕たちにイチャモンをつけるかのような「哲学君」の主張だが、残念ながら彼の主張に反論することは難しい。
哲学における「過去」に関する議論の1つに「5分前世界創造仮説」というものがある。
文字通り「世界は5分前に生まれた」とする仮説だ。
今のあなたにとって「5分前」と言えば、ちょうどこの記事を読み始めた辺りということになるだろうか。
となると、この記事を読み始めた瞬間に、この世界は誕生したということになる。
だけど、これを聞いてあなたはこう反論したくなるだろう。
「いや、僕には30分前の記憶も、1時間前の記憶も、なんなら1週間前の記憶も、間違いなく思い出せるんですけど」
そうなのだ。
「5分前に世界ができた」なんて言われたって、そうした「記憶」がある以上、そんな仮説は到底受け入れられたものじゃない。
だけど哲学君が言った通り、「記憶」は「過去」の存在を保障するものではないのだ。
なぜなら、5分前に世界ができたとき、その「記憶」も一緒に作られた可能性を否定できないからだ。
「30分前の記憶も、1時間目の記憶も、1週間まえの記憶も、すべては5分前にそうしたものとして作られました」
そう言われてしまうと、僕たちはそれ以上反論することが難しくなってしまう。
こんな風に哲学は、あなたの「記憶」も「過去」も、徹底して疑ってかかる。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【世界5分前仮説とは何か】—過去なんて存在しない?— 】
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テーマ③「時間」の不思議
「時間を守りましょう」
「時間を大切にしましょう」
「時間を有効に使いましょう」
こんな風に、僕たちは「時間」という概念を当たり前のものとして生活をしている。
だけど、哲学は、まさしくこの「時間」という概念について疑ってかかる。
たとえば、哲学者は、こんな疑問を僕たちに投げかけてくる。
「時間が流れるっていうけど、一体、“何”が流れているの?」
何を素っ頓狂なことを? と思う人もおられるだろうが、だけど確かに、この世界中のどこを見渡してみても、「時間の流れ」というものを見つけることはできない。
では一体、何が流れているのだろうか。
そもそも、時間が“流れる”ってことは、時間が“動いている”ということだ。
であれば、当然、時間は“止まる”ことも想定される。
そこで思い出すのが、人気アニメ「ドラえもん」の秘密道具の1つ「ウルトラストップウォッチ」である。
これは自分たち以外の「時間」を止めることができるという夢のような道具だ。
映画なんかでは登場頻度が高いこのアイテムは、「時間」とは何かを考えるうえで、僕たちに大きな示唆を与えてくれる。
たとえば、映画では、こんなシーンが想定される……
のび「ドラえも~ん、敵の監視が厳しすぎて、これじゃ一歩も進めないよ~」
スネ「こんな時なんとかするのがドラえもんの役目だろ?」
ジャイ「ったく、いざって時に頼りにならないタヌキだぜ」
ドラ「僕はタヌキじゃない、猫方ロボット! えーっとこんな時は、あれでもないこれでもない・・・・・・・あった! ウルトラストップウォッチ~」
スイッチオン。
のび「わーすご~い。僕たち以外、みんなが止まっちゃったぞ」
ドラ「このボタンを押すと、僕たち以外の全ての時間が止まるんだ。さ、時間が止まっているうちに先を急ごう」
一行「おー!」
・・・・・・…さて、ドラえもんたちのこの状況をよくよく考えてみると、根本的な問題点にぶち当たる。
あらためて考えるべき点、それは
「ほんとうに“時間”は止まったのか」
という点だ。
確かに、ボタンを押したことで、敵の監視員の動きはピタリと止まった。
それ以外にも外界のすべての動きは止まっているだろう。
時計の針なんかも止まっているし、川の流れも止まっているし、ヒラヒラ舞っていた葉っぱも空中で止まっている。
ただ、それってイコール「時間が止まったこと」になるのだろうか。
そもそも外界の全ての動きが止まる中をドラえもんたちは自由に動き回れるワケなのだが、彼らの時間は依然として流れ続けているようにも思われる。
ウルトラストップウォッチで、一体なにが止まったのだろう。
こう考えてみると、僕たちが普段「時間」に対して持っている認識を、改めて問い直さなければならない。
その第一歩となるのが、
「時間って、そもそも流れるものなの?」
といった問いなのである。
上記のドラえもんの例に矛盾点や不都合が認められるとすれば、僕たちは「時間」という概念や、「時間」にまつわる言葉の使用方法を再点検しなければならないだろう。
また、他の代表的な議論には、
「“今”はいったいどこへ行くの?」
「“過去”はいったいどこにあるの?」
「“未来”はいったいどこからくるの?」
といったものがあげられる。
これらの問いは全て「時間は流れるもの」といった、僕たちの常識を大きく揺さぶってくる。
こんな風に哲学では「時間」はもちろん、「今」も「過去」も「未来」も、すべて主要なテーマとして議論される。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【時間とは何か】—現在や過去や未来は存在しているのか— 】
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テーマ④「私」の不思議
あたりまえのことを言うが、あなたにはあなたの「世界」があり、僕には僕の「世界」がある。
例えば、僕は、いまパソコンの画面に向かって、この文章を書いている。
今日は少し肌寒くて、窓から入ってくる風が冷たく感じるくらいだ。
となりの部屋にはテレビが付けっぱなしになっていて、ワイドショーの音がここまで届いてくる。
お昼のラーメンが、結構しょっぱいラーメンだったせいか、ノドが渇いている。
お腹もいっぱいで苦しいし、少しずつ眠気もやってきている。
「そうだ、記事を書き上げたら、ちょっと昼寝をしようかな」
ふと、そんなことを思った。
……さて、これは、今の僕自身について説明した文章だ。
当たり前だが、上記の内容は、いまこの記事を読んでいるあなたのものではない。
「パソコンの画面」も「少しつめたい風」も「ワイドショーの音」も「ノドの渇き」も「満腹感」も「眠気」も「昼寝しようという思考」も、すべて僕の「ここ」で起きている出来事だ。
そしてそれらは、どうやら僕のこの脳が生み出しているらしいことを、科学は明らかにしている
だけど、これって不思議じゃないだろうか。
この世界には、今まさに、約70億の人々が生きている。
言い換えれば、70億の脳が同時に存在しているということだ。
そして、その70億の脳が、それぞれの「わたし」を生み出している(らしい)。
その内の1つの脳によって、僕の「こころ」は存在している(らしい)。
ただ、そう考えていくと、不思議に思わないだろうか。
どうして、“僕”を生み出しているのは、「あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも……(×約70億)……あの脳でもなく」、この脳だったのだろう。
これが「なぜ、わたしは、この『わたし』なのか」という、哲学の伝統的な問いである。
繰り返しになるが、僕には「僕固有の世界」があって、あなたには「あなた固有の世界」がある。
そして、僕は「あなた固有の世界」を経験することはできないし、あなたは「僕固有の世界」を経験することはできない。
とっても当たり前のことだけど、これは考えれば考えるほど不思議なことだ。
そして哲学は、この点をとことんまで突き詰め、挙げ句の果てにゾッとするようなことを平気で言い出してくる。
それは、
「周囲の人間が、自分のような“世界”を経験しているとは限らない」
ということであり、もっといえば、
「そもそも、周囲の人間に“世界”なんて存在していないのかもしれない」
ということだ。
“世界”というのは、先ほど説明した「パソコンの画面」だったり、「少しつめたい風」だったり、「ワイドショーの音」だったり、そうした具体的な経験のことである。
ありていに言えば、“こころ”ということになるだろう。
見た目ではいかにも“人間”らしく、自分と同じように見える人たちでも、実は彼らは“こころ”を宿していないかもしれない。
こうした発想が哲学にはある。
たとえば、あなたの友人が「痛い!」と顔をしかめていたって、彼(彼女)はひょっとして痛みを感じてないかもしれない。
「もう!」と怒っていたって、「嬉しい!」と喜んでいたって、彼(彼女)に感情は存在していないかもしれない。
そんなバカな? と思うかも知れないが、残念ながら僕たちにこのことを反証することが原理的にできない。
これは「哲学ゾンビ」(あなた以外は、みんな心を持たないゾンビかもしれない)という有名な議論で、「私とは何か」や「心とは何か」を問うもののうち、最もスリリングな問いの一つだ。
こうした哲学は、別名「こころの哲学」とも呼ばれ、現代哲学の一つの潮流となっている。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【クオリアとは何か】—逆転スペクトルと哲学ゾンビを中心に— 】
【 詳しくはこちら 考察・解説『ロボットの心』―【心の哲学】を分かりやすく説明ー 】
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テーマ⑤「規則」の不思議
僕たちが社会生活を送っていく上で大切なことの1つに「ルールに従う」というものがある。
そのルールとは何かというと、分かりやすいところで「法律」(悪いことをしちゃダメ)とか「経済」(お金とモノを交換しよう)なんてものが挙げられる。
そこに加えて「言葉」も、僕たちにとって大切な「ルール」の1つだ。
たとえば
「ちょっと聞いてくれよ、昨日ペットの犬がさあ」
という友人の言葉を聞いたとき、僕たちは「犬」や「ペット」の意味を理解し、
「なになに、お前んちの犬がどうかした?」
と答えることができるだろう。
これは「言葉」のルールを、あなたと友人が共有しているからだと思われる。
だけど、哲学は、
「本当に君たちはルール(規則)を共有しているの?」
といった問いを投げかけ、その上さらに、
「そもそも、ルール (規則)に従うってどういうこと?」
といったことまで問い始める。
そして、どんどん考えを突き詰めていき、しまいにはこう結論する。
「みんなが同じ規則にしたがっているかは、永遠に確かめることはできない!」
なぜ、哲学者はそんなことをいうのだろう。
ここではクリプキという現代の天才哲学者による、「規則のパラドックス」という、有名な議論を紹介したい。
たとえばここに、足し算を勉強したてのA君と、B君がいる。
教師にルールを教わった2人は「1+3=4」と難なく答え、「5+5=10」と難なく答え、「23+42=65」と難なく答え、こんな感じで初歩的な「足し算」については、全て答えることができた。
一見して、足し算の「規則」を理解していたように見えた2人だったが「50+51」の問題において、2人の答えは分かれてしまった。
- A君「101!」
- B君「100!」
なぜ、このようなことが起こったのだろう。
この後、教師であるあなたは、B君にその他の問題を出題していくうちに、驚愕の事実を知ることとなる。
あなた「じゃあ、30+90は?」
B君「100!」
あなた「じゃ、じゃあ、80+80は?」
B君「100!」
あなた「じゃ、じゃ、じゃあ100+100は?」
B君「100!」
さて、このときB君に一体なにが起こっているのだろう。
クリプキによれば、B君は「足し算」のルールではなく、「クワス算」という彼独自のルールに従っていたのだという。
「クワス算」というのは、次のようなルールだそうだ。
・答えが100以下であれば、X+Yの答えは双方の和になる。 ・答えが101以上であれば、X+Yの答えは100になる。
つまり、A君の「規則」とB君の「規則」は異なっていたのである。
ただ、両者の違いが「答えが100以下」の問題において表面化しなかっただけなのだ。
「答えが100以下」であれば、「クワス算」でもXとYの単純な和を求めようとするため、「足し算」の規則とすれ違うことはない。
「答えが100以下」の足し算をしている限り、B君が「足し算」の規則に従っているのか、「クワス算」の規則に従っているのか、表面的には全く分からない。
しかも厄介なのは「+」の意味をA君のようにではなく、B君のように解釈したとしても、そこになんら矛盾点はないということなのだ。
とすると、あなたにだってB君のようなことが起こりうるのではないだろうか。
つまり、次の瞬間に、周囲と決定的な食い違いが生まれ、
「あれ、俺だけ、みんなと違う規則に従ってたの?」
と衝撃を受けるという事態が、あなたにも起こり得るのではないだろうか。
こんな風に哲学では、「規則に従うとはどういうことか」を問いながら、最終的に「人とのコミュニケーションの脆弱さ」を言い当ててしまう。
僕たちは、家族と、友人と、恋人と、ちゃんとコミュニケーションをとれていると信じて疑わないが、ひょっとするとそれは思い込みなのかもしれない。
次の瞬間、そのことが露見してしまう、そうした可能性を否定できないことを、哲学は明らかにしてしまう。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【規則のパラドックスとは】ー天才クリプキによる解釈よりー 】
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テーマ⑥「意味」の不思議
たとえば「言葉のキャッチボール」という表現があるが、僕たちはいったい“何”をやりとりしているのだろうか。
だって、そもそものところを言うと、僕たちがやり取りしているのは「音声」であって、もっといえば「空気の振動」であって、物理的に言えるのはそれ以上ないからだ。
なのに、僕たちは“何か”を理解し、そして相手に“何か”を伝えようと言葉を発している。
それは「文字」についても同様だ。
本や手紙を読んで、その内容を理解できる僕たちだが、よくよく考えてみれば、そこにあるのは大量の「インクのシミ」でしかない。
なぜ「インクのシミ」から、僕たちは何事かを理解することができるのだろう。
これは要するに「意味ってなんだろう」という問いなのだが、これも哲学の主要テーマの1つである。
実はこのテーマは、
「この世界は何でできているの?」
といった問いと深く関わっている。
もし「この世界は物質のみからできている」という立場に立つと、上記のように言葉は全て「空気の振動」や「インクのシミ」ということになってしまい、そこから「意味」というものが消えてしまう。
だけど、それはやっぱり僕たちの生活実感からは遠くかけはなれた発想だ。
僕たちは、言葉に「意味」という非物質な何かが宿っているという直感を捨てることはできない。
ということで、「この世界は物質と非物質的な“何か”でできている」という立場が採用される。
でも、そんな非物質的な“何か”の存在を、論理的に証明するにはどうすれば良いのだろうか。
「意味」という色や形をもたないものの存在を、どのように説明することができるのだろうか。
哲学が挑むのはまさしくソコなのだ。
中には、
「意味なんて、そもそも存在していない」
という驚きの主張する哲学者も少なくない。
だけどそう言うときの彼らの論理はとても明晰で、読めば読むほど「なるほど」とうならされるものばかり。
「“意味”とは何か」
「“意味を理解する”とはどういうことか」
こうした問いも、僕たちの常識を覆す強烈なインパクトを持つ哲学の1つである。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【意味とは何か】—野矢茂樹の”プロトタイプ説”を参考に— 】
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テーマ⑦「自由」の不思議
「あなたの人生を決めるのはあなたです」
学校では、いつもそんなことを言われていたような気がする。
たぶん多くの人が「自分の人生は自分で決めたい」という思いを持っていて、実際にあなたも、人生において少なからず様々な「選択」をしてきたのではないだろうか。
「よし、第一志望はあの学校にしよう」とか、「よし、あの企業に就職しよう」とか、そういう大きな決断に限らず、「よし、今日の昼食はラーメンにしよう」とか、「よし、今日こそあの子に告白をしよう」とか、そうした日常的な決断も含め、きっとあなたは沢山の選択をしてきたはず。
だけど、それは、あなたの思い込みだったとしたら。
全てはあなたとは無関係に、すでに決められていたとしたら。
これも哲学の主要テーマの1つ、すなわち「人間に自由意志はあるのか」という問題である。
哲学者の中には、
「人間の行為はすべて決定されていて、そこに人間の意思や選択が入り込む余地はない」
と考える者がすくなくない。
こうした考えを「決定論」と呼ぶ。
決定論者の主張の根っこには、この世界を支配している「因果律」というものがある。
「因果律」とは、言い換えると「物理的な法則」ということになる。
まず、人間の心や意思を生み出しているのは、どうやら「脳」であるらしい。
しかし、その脳というのは自然物であり、当然、自然の物理的なルールに支配されることになる。
とすると、人間の意思や心というのも、自然の物理的なルールによって生み出されたものということになる。
「ビリヤードの玉」を想像すると分かりやすい。
転がった球は別の球に当たり、その球も転がり別の玉に当たり、さらにその球も転がっていく……
原因は結果を生み、その結果もあらたな結果を産むのがこの世界であり、人間もその一部であるとすれば……
仮に、あなたが「よし、第一志望はあの学校にしよう」と意志したとしても、それは物理的なルールによって生み出された「自然現象」でしかない。
そうなると、これまでの人生であなたがしてきた「選択」の全ては、この宇宙が誕生した瞬間から、すでに決定されていたということになってしまう。
だけど、これもさすがに僕たちの生活実感から大きく外れた考えだ。
もちろん、哲学者の中には、
「人間に自由意志はある」
と主張する者もおり、今もなお「決定論者」と活発な議論を展開している。
ちなみに、近年の脳神経科学者らの研究により、「決定論」を根拠づけるような事実が明らかになっている。
その事実とは、
「人間の思考が生まれる一瞬前に、脳はすでに発火を始めている」
というものだ。
たとえば、「手を上げよう」と、人間が考えるよりも一瞬(0、2秒)早く、脳はすでに「手を上げる」ための反応を始めているらしい。
果たしてそれは、自ら「手を上げた」ことになるのだろうか。
それとも、脳に「手を上げさせられた」ことになるのだろうか。
やはり、人間の「自由意志」なんてものは錯覚なのだろうか。
―― 決定論はやっぱり正しいのかもしれない ――
そんなことを考えさせられる科学的な根拠の1つである。
【 詳しくはこちら 哲学を解説・考察【決定論とは何か】を分かりやすく—人間に自由意志はあるかー 】
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おわりに「哲学」を効果的に学ぶなら
以上が、哲学の主要テーマと議論の内容だ。
- 意識
- 記憶
- 時間
- 私的体験
- 規則
- 意味
- 自由
これらは、古くから議論されてきた伝統的な問いであるし、また、現代でも盛んに議論されるホットな問いでもある。
そしてこれらの問いと「無縁な人間」というのは、1人として存在していない。
哲学とはどこまでも「人間存在」と深く関わった学問なのだし、なによりも、「考える楽しみ」を知ることができるスリリングな学問なのだ。
最後に、そんな哲学を「効果的に学ぶ」のにとっても便利な2つのサービスを紹介してこの記事をしめくくりたい。
「哲学を学んでみたい」
そんな思いがある人は、ぜひ参考にしていただけると嬉しい。
オーディブルで”耳読書”
今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、哲学書・思想書・宗教書が月額1500円で“聴き放題”。
例えば、以下のような「解説書」も聴き放題の対象だし……
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以下のような「原著」も聴き放題の対象となっている。
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それ以外にも純文学、エンタメ小説、海外文学、新書、ビジネス書、などなど、あらゆるジャンルの書籍が聴き放題の対象となっていて、その数なんと12万冊以上。
これはオーディオブック業界でもトップクラスの品揃えで、対象の書籍はどんどん増え続けている。
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今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、軽い気持ちで試すことができる。(しかも、退会も超簡単)
興味のある方は以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。
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キンドルで”幅広く読書”
電子書籍Kindleには「Kindle Unlimited」という「定額読み放題」のサービスがある。【 KindleアンリミテッドHP 】
サービスを利用すれば、哲学書・思想書・宗教書が月額980円で 読み放題。
たとえば、以下のような「解説書」が読み放題の対象となっている。
・
それ以外にも、純文学、エンタメ小説、世界文学、新書、 ビジネス書、漫画、雑誌など、 200万冊以上が月額980円で読み放題可能となる。
読書好きであれば十分楽しめるサービスだといっていい。
Audible同様、こちらも30日間の無料体験ができるので、Audibleと合わせて試してみることをオススメしたい。
興味のある方は、以下のホームページからどうぞ。
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