くだらない思い出話し
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高校時代の話しだ。
部活動の合宿で、とある辺鄙な田舎の宿に泊まった。
ぼくは素行がよい生徒ではなかったので、同じく素行の良くないチームメイトと、こっそり宿を抜け出して、街灯1つないまっくらな道を散歩した。
よもやま話に花も咲き、携帯電話の灯りをたよりに、だだっ広い一本道をひたすらと進んでいくと、何やらぼんやりと光るものがある。
近づくにつれて、それが自動販売機らしいことが分かったのだが、ぼくたちが見知っているものとは、どうやら、なんとなく、違うらしい。
果たして、その正体が分かったとき、多感な男子高生だったぼくたちは、まるで思いもよらないお宝をみつけたかのように、大はしゃぎで喜んだ。
「シアワセ家族計画」
それは、避妊具の自動販売機だったのである。
「シアワセ家族計画」という、このキャッチコピー。
第一に幸せな香りがするかと思いきや、じわじわと、そこはかとなく、卑猥さがただよってきて、なにより響きがとてもキャッチー。
ということで、このキャッチコピーは、すぐにぼくたちの気に入り、頭の弱かったぼくたちは、しばらくの間、好んでこの言葉を連呼していたのだった。
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「家族計画」という言葉の違和感
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さて、「くだらない思い出話し」と銘打ったにもかかわらず、ちゃんと読んでくれた奇特な読者に、まずは感謝をしたい。
なぜ、こんな話しをし出したかというと、「家族計画」という言葉に、ぼくはいつしか違和感を抱くようになったからだ。
この違和感は次のように言い換えられる。
はたして、子どもとは、人間の意図とか計画によって作られる(べき)ものなのだろうか。
しかし、この違和感を感じている人というのは、意外と少ないのかもしれない。
それが証拠に「子作り」とか、最近であれば「ベビ活」などといった言葉が、日常の中に平然と溶け込んでいる。
「シアワセ家族計画」とは、要するに「子作り」も「避妊」も含めた、人間の意図による出産のタイミング操作ということなのだろう。
人間しかしない、2つのこと
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こんな言葉がある。
人間にできる最も意識的な行為は、自殺すること、子供をつくらないこと、この2つである。
これは、戦後文学の旗手、埴谷雄高の言葉である。
なかなかどうして、ドキッとさせられる言葉なのだが、ぼくはこれを、
「自殺と避妊は人間しかしない」
と変換して理解している。
「自殺と避妊を動物はしない」
と変換してもよい。
というのも、自らの命を絶つ自殺と、種の存続に逆らう避妊とは、本能的に行動する動物たちの本質と、真っ向から対立しているからである。
ちなみに、いまほど紹介した埴谷雄高だが、「子どもをつくらない」という彼の理念のもと、妻に3度も堕胎をさせたという。
はっきりいって、ふざけんな、である。
偉そうなことを言っておきながら、やることやって、避妊もしないやつなど、ぼくは人として軽蔑する。
とはいえ、そういった変人こそ、優れた文学を生むのもまた事実だ。
彼の代表作『死霊』は、約50年にも渡って執筆された未完の超大作で、しかも内容は観念的で難解ときている。
文学的には価値が高いのだろうが、色んな理由から、ぼくはきっと読まない。
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避妊をするのは人間だけ
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閑話休題。
なぜ、人間は避妊をするのだろう。
こう考えていくと、問いそのものも、その答えも、どんどん入り組んでいくように思う。
ただ、ぼくなりに答えはある。
それは、人間が「意味」とか「価値」とかにとらわれてしまう生き物だからだ。
「いま、子どもを作る意味」とか「いま、子どもを作る価値」とかを考えて、それらと生活の色んなあれこれとを天秤にかけて、「うん、いまじゃないな」と判断したとき、人々は避妊をするというわけだ。
では、問いをこう変換してみよう。
なぜ人は子どもを産むのだろう。
「そんなの生き物だからに決まってんだろ!」
と短絡的に結論づけるのは、やっぱりふさわしくない。
なぜなら、「ぼくたちは生き物であるにもかかわらず、避妊をするからだ」
避妊については価値を問い、子供を産むことについては価値を問わないというのは、やはり矛盾している。
では、
子どもを産む「意味」とか「価値」とは、一体なんなのだろう。
これは、結構目を背けてしまいたくなる問いである。
まさにタイムリーで子作り中のカップル、現在子育て中の親たちなんかは、ドキッとさせられるに違いない。
この問いについては、ぼくも以前に考えていた時期がある。
そして、当時、まだ子供のいなかったぼくは、いつしかこう考えるようになっていた。
子どもというのは、本当に生むべきなのだろうか。
子どもは産むべきではない?
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「こどもはいかなる理由があっても、産むべきではない」と主張する人たちが、実は結構いる。
ためしに、インターネットで
「反出生主義」
と検索してみてほしい。
これらの人たちの考えと、その根拠に触れることができるだろう。
有名どころに、ベネターというアメリカの現役哲学者がいる。
難しい議論は割愛するが、彼は生まれてくる子の人生の可能性を綿密に想定した上で、
人生とはとにかく困難の連続であり、子供を生むことは反道徳的な行為であるため、子どもは生むべきではない。
と主張している。
そして、彼の論理はとても明晰であるため、読んでいると「なるほどなあ」と、理解できてしまうのである。
ぼく自身、かつて
「どうして人は子どもを産むのだろう」
とか
「ほんとうに子どもを産んでよいのだろうか」
とか、考えていたクチだが、今では2児の父である。
幸か、不幸か、ぼくは子どもを産むことに対して、「反出生主義」の人たちほどの強い反発がなかったからである
ただ、振り返ってみると、子づくりに励んでいた時も、子どもができたと聞いて大喜びしたときも、娘が無事に生まれて涙したときも、小さな小さな「後ろめたさ」のようなものが、ぼくの心の奥のほうにあったような気がする。
そして、父親になった今でも、不思議なひっかかりは依然として存在する。
たとえば夜、隣で眠る娘や息子の寝顔を眺めているとき、なぜだか胸が締め付けられるような、不思議な感情がわいてきて、涙が浮かぶことがある。
その感情の正体は、いったいなんなのだろう。
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親の子どもに対する「うしろめたさ」
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誤解のないように、すぐに付け加えなければいけない。
ぼくは娘や息子を産んだことに対して、後悔などしていない。
「おまえがこの子たちの命と存在を肯定しないでどうする、バカタレ、しっかりしろ!」
という話である。
父親のぼくがそんなことを考えるなんて、断じてあっていい話ではないし、何かの気の迷いで、少しでもそんなことを考えはじめでもしたら、ぼくは罪悪感と自己嫌悪からおかしくなってしまう。
ただ、その一方、ベネターの主張の中で、納得している箇所もある。
「人生は困難の連続である」という箇所だ。
だから、ぼくの娘や息子に対する思いを言葉にするなら、
「おまえたちの人生は決して平坦ではない。
たくさんの悲しみや困難に、きっと出会うだろう
だけど、人生に負けないで、しっかり歩いていくんだよ」
こんなところだ。
そして、そこには、やっぱり「うしろめたさ」といった感情が、否定しがたく存在している。
その「後ろめたい」感情を踏まえ、改めて「なぜ子どもを産むのか」といった問に対し、現時点でのぼくの答えを書こうとおもう。
それは、「親がそう願ったから」である。
ぼくと妻が、わが子に会いたいと強く願ったから、ぼくたちは娘と息子を、この世界に迎え入れた。
そして、言葉を選ばず、有り体に言ってしまえば、それは「親の都合」である。
かりに、反出生主義者から、
「それは親のエゴだ」といわれれば、否定する余地はない。
よく耳にする、
「この子たちを、この素敵な世界に迎え入れてあげたかった」
少なくともぼくは一度も、そう思ったことはない。
この世界の不条理を、それなりに経験してきたからだ。
もちろん、この世界には悲しみや困難ばかりではなく、ちゃんと喜びや幸せがあふれていると思う。
とはいえ、ぼくたちは、人生のどこかで、ある種の悲しみや困難に直面しなければならない。
それは、わが子であっても例外ではない。
そんなとき、ほんとうの意味で、彼らを助けてあげるなんてことは、おそらく世界中の誰にもできない。
もちほん、親であるぼくにもできない。
そういった意味で、ぼくたちは子どもの人生に100%の責任を負うことができないといえる。
「責任を負いたい」と、心から願っても、それは原理的にできないことなのだ。
ぼくが感じる「うしろめたさ」はこの辺りに根ざしている。
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子どもたちが教えくれたこと
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ぼくが父親になってようやく理解できたことがある。
それは「かなしみ」の意味だ。
「かなしい」をネット辞書で引いてみる。
1、心が痛んで泣けてくるような気持ち。
2、心に染みていとしい。 かわいくてならない。
goo辞書より
日本人の現状として、「かなしい」という感情を、だれもが1の意味で理解しているし、1の意味で使用している。
しかし、この「かなしい」という感情には、2の「(相手を)いとしく思う」といった側面もある。
むしろ、語源を考えれば、これこそ「かなしみ」の本質であるとさえいえる。
こう聞いても、
「そんな、またまた。1と2なんて、むしろ相入れない感情でしょ?」
と、すぐには納得することは難しいだろう。
実際にぼくもそうだった。
ただ、父親になって、娘と息子と過ごす中で、この「かなしい」という感情のほんとうの意味を理解することができたのである。
それは、理屈の上での理解ではない。
身体感覚というか、感情的な手応えというか、
「ああ、こういうことだったのか」と、ある日ストンと「腑に落ちた」のである。
ここで、惜しげもなくいうが、ぼくは娘と息子を愛しいと思っている。
そりゃ、腹も立つこともあれば、どなりつけたくなることだってある。
(実際、昨日もフロの最中、腹が立って×100、「ああ、もう勝手にせえ!」と、投げやりに言い放ったくらいだ)
「夜、安らかに眠る彼らの寝顔を見ていると、涙が浮かんでくるという話」を、先ほどしたのだが、じつは「ああ、かなしいって、こういうことなのか」と理解したのは、まさにこの時だったのだ。
「かなしい」という感情をよーく観察してみると、以下のようなことが見えてくる。
彼らを「いとしく」思うからこそ、彼らが直面するだろう困難を想像して、「ああ、何もしてやれなくて、ごめんな」と、自分の無力さを痛感し、彼らを「かわいそう」に思ってしまう。
かわいい、がゆえに、かわいそうと思う。
いとしいから、涙が浮かんでくる、そういった感情である。
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ぼくが子どもたちにできること
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ということで、
ぼくが、子どもにできることなど、ビックリするくらい限られている。
親なんて、子どもの人生の前で、とても無力なのだろう。
ぼくは、まだまだ新米の父親だが、すでにそんな予感がひしひしとしている。
そんな中、ぼくは子育てをする上で、自分自身に一つの目標を掲げている。
子どもの人生の前で無力なぼくだが、最低限、これだけはかなえたいと思っていることだ。
それは、
子ども達に「どうしてぼく(わたし)を生んだの?」と、言わせない
ということだ。
ぼくたち親は、根源的なところで、こどもに対して常に「うしろめたい」位置にいる。
もちろん、だからといって、子どもたちに迎合する必要などは全くない。
ただ、子に対するその行動が、「ほんとうに子どものため」なのかと、常に点検することは大切だ。
だから、虐待なんて、もっての他なのだ。
そもそもが、この不条理な世界に「親の都合で」向かい入れたのだ。
それなのに、親が積極的に、子どもへ不条理を与えてどうするって話だ。
「子どもを思う集積」 これが、子育ての本質なのだろう。
こうして、言葉にしてみると、あまりにも陳腐な結論で「何をいまさら」と思われるかもしれない。
だけど、ぼくは、この難しさを人よりは理解しているつもりだ。
だから、もう一度ぼく自身へ自戒をこめて、ここにしたためておく。
ぼくの親としての目標は、「どうして生んだんだよ」と子どもに言わせないことだ。
オススメ『夏物語』(川上未映子)
この記事に興味を持った人はぜひ、
川上未映子著『夏物語』を読んでみてほしい。
精子バンクを利用して、子どもを持つことを選んだ女性の葛藤が描かれている。
また、記事の中でも紹介した「反出生主義者」の女性も登場する。
反出生主義を主張せざるをえなかった彼女の姿、彼女の人生を知れば、きっと胸を打たれるだろう。
![](https://houjouwomamorenakatta.com/wp-content/uploads/2021/08/IMG_3084.jpg)
“耳読書”「Audible」がオススメ
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今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、哲学書・思想書・宗教書が月額1500円で“聴き放題”。
例えば、以下のような「解説書」も聴き放題の対象だし……
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以下のような「原著」も聴き放題の対象となっている。
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それ以外にも純文学、エンタメ小説、海外文学、新書、ビジネス書、などなど、あらゆるジャンルの書籍が聴き放題の対象となっていて、その数なんと12万冊以上。
これはオーディオブック業界でもトップクラスの品揃えで、対象の書籍はどんどん増え続けている。
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今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、軽い気持ちで試すことができる。(しかも、退会も超簡単)
興味のある方は以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。
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