はじめに「“おいしい”を問う」
もしも“純文学”に「意義」があるとすれば、その1つに「当たり前」を解体することが挙げられると思う。
「人と仲良くしなくちゃいけません」
「人に優しくしなくちゃいけません」
「人を傷つけちゃいけません」
例えば、そうした生活における“常識”に対して、
「本当にそうなの?」
「いつ、誰が、そう決めたの?」
「常識で割り切れない価値があるんじゃないの?」
と、強烈に問題提起をしてくるのが、純文学だといっていい。
近年の芥川賞を見てみても、そうした読み手の「常識」を揺さぶる作品というのは、とても多い
「家族」を問うもの
「労働」を問うもの
「優しさ」を問うもの
「普通」を問うもの……
第167回芥川受賞作、『おいしいご飯が食べられますように』(高瀬隼子)もまた、そうした特徴を持つ純文学だ。
では、この作品が問うているものは何か。
それは「ゆたかな食事」である。
「ご飯は味わって食べましょう」
「ご飯は感謝して食べましょう」
「ご飯は大勢で楽しく食べましょう」
そうした、“食”にまつわる世間の常識に対して、作者は
「それって、本当なの?」
「それって、正しい価値観なの?」
と、読者にクエスチョンを投げかけ、多くの人たちが価値を置いている「おいしい」をジワジワと解体していく。
『おいしいご飯が食べられますように』は、「おいしい」を問う文学なのである。
以下では、この作品について、その内容をまとめ、解説と考察を行っていく。
お時間のある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。
「あらすじ」について
舞台は「食品パッケージ」を請け負う会社。
主人公の「二谷」は、そこで働く29歳の男性。
仕事でミスをした「芦川」という女性同僚を慰めたことで、周囲には内緒の「職場恋愛」が始まる。
いつも喜怒哀楽が豊かで、手の込んだ料理をふるまってくれる芦川。
だけど、「食事なんてカップ麺で十分」といった価値観を持つ二谷は、そんな彼女の振る舞いに困惑と嫌悪を抱く。
なにかと会社を早退しがちな芦川は、そのお詫びとして職場に「手作りお菓子」を持参するようになる。
「おいしい、おいしい」と好意的に受け入れる職場の人たち。
それとは裏腹に、二谷は芦川の振る舞いに困惑と嫌悪を強めていく。
その後も、早退を繰り返す芦川。
「お詫びのお菓子」は、その都度、手間とクオリティを高めていく。
「んーっ」「うまあっ」「すごっ」と、感動を表す職場の人たち
二谷もそれに合わせて「すげえ、おいしそう!」とお菓子を受け取る。
だけどその深夜。
残業で会社に残った二谷。
彼は、誰もいなくなった会社でお菓子をグチャグチャに踏みつぶす……
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「登場人物」について
二谷 主人公。29歳の男性会社員。芦川と交際する。「食事はあくまで、生きるためのエネルギー」「食事に労力をかけることは無駄」という価値観を持ち、芦川が手間暇かけて手料理をすることに嫌悪感を抱く。もともと本が好きで文学への志もあったが、そんな自分を誤魔化し、食品パッケージを制作する会社に勤めている。
芦川 30歳の女性会社員。二谷の交際相手。喜怒哀楽が豊か。対人業務や事務処理に難あり。すぐに体調を崩し、会社を早退する。料理上手で、週末には二谷のマンションを訪れ、手間暇かけた手料理をふるまったり、会社に手製のお菓子を持参し、同僚や上司にふるまったりする。
押尾
28歳の女性会社員。辛くても自分でやり遂げようとする強さがある。すぐに早退する芦川や、そんな芦川が周囲から理解されることに対して嫉妬と苛立ちを感じる。二谷に好意を抱いていて、彼を頻繁に飲みに誘っては、芦川の愚痴を言う。
支店長
二谷たちが勤める支店の代表。男性。「飯はみんなで食った方がうまい」というのが口癖で、頻繁に社員たちを昼食に誘いだす。
藤
二谷らの男性上司。40過ぎの既婚者。会社には妻手製の弁当を持参している。早退しがちな芦川に対する理解を示すが、ときどきセクハラまがいの行為に出る。
原田 古参の女性パート員。正義感が強く率直な物言いをする。「お菓子事件」の際に芦川の異変に気が付き、ことの経緯を聞き出して藤に報告した。
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考察①「二谷の“食”に対する姿勢」
あらためて言うまでもないが、日本人は「食」を大変重んじてきた。
- ご飯は味わって食べましょう
- ご飯は感謝して食べましょう
- ご飯は大勢で楽しく食べましょう
多くの人が「食」に対するこうした価値観を持っている。
本作では二谷の交際相手「芦川」がそうした人たちの価値観を体現しているといっていい。
だが「二谷」は、そうした社会通念や、それを体現している芦川に対して嫌悪感を抱く。
というのも、二谷の食に対する姿勢というのが、
- 食事に手間暇かけるなんてムダ
- 食事は大勢でとるものじゃない
- 食事なんて、あくまで生きるための手段
というものだからだ。
そうした彼の「食」に対する淡白な価値観は、作品の随所に表れている。
健康に生きていく食の条件がそろえばいいのだ。一日一粒で全部の栄養と必要なカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。(単行本P5より)
ごはんは食べている。毎日食べないと死ぬから食べている。(P73より)
おれは生きるためじゃない食べ物が嫌いだ(P111より)
こう考える二谷にとって、
「社員たちとワイワイたべる昼食」も、
「手間暇かけた彼女の手料理」も、
「早退してごめんなさいと持参されたお菓子」も、
「歓送迎会で大勢で食べる宴会料理」も、
すべて「無駄なもの」であって、嫌悪する対象となってしまう。
この辺りは、二谷が「わずらわしい人間関係」を嫌悪しているからだと言っていい。
たとえば、二谷が既婚者の藤の弁当をみて、
「ちょっとうらやましいかも」
と感じるシーンがある。
藤さんはいいよな、おれと同じだけ残業したって家に帰ればああいう食べ物が頼まなくても出てきて、朝飯も昼の弁当も用意されていて、食べることを考えなくたって生きている。(P5より)
うん。だけど、結局、二谷はとても徹底していて、
「なんの労力もなく飯を食えるのって、楽ちんだし、うらやましいかも」
と、思っているわけで、決して「妻の手料理」とかにあこがれているワケはないのだ。
だから、二谷の思考はすぐにこうした方向へ流れていく。
一方で、飯の用意を考えなくていいのはうらやましいが、それ以外のことが付随してくるのは面倒だなと思う。(P5より)
結婚に付随してくる「それ以外のこと」とは何か。
たとえば、職場から帰ってきて、
「ただいまー。今日も弁当ありがとう。玉子焼き、おいしかったよ!」
と、妻に感謝を伝えなくちゃいけなかったり、
妻「今日の夕食なんにする?」
夫「別になんでもいいよ」
妻「なんでもいいって、いつもそればっかりじゃない。ちょっとは、あなたも献立考えてよね」
夫「……じゃ、からあげ」
妻「いや、からあげって気分じゃないのよねぇ」
夫(どないやねん!)
といった攻防だったり、それ以外にも「妻側の親戚との交流」なんかも挙げられる。
「盆や正月の親族会」にはじまり、
「結婚式」
「葬式」
「義両親の還暦祝い」
「義父の退職祝い」
「子どものお食い初め」などなど
こうして思いつくままに列挙してみると、日本人は社交の多くを「食」を介して行っていることが分かる。
二谷にとって、結婚に付随する「それ以外の面倒なこと」というのは、こうした「人間関係」全般を指しているといっていい。
だからこそ、彼はこんな言葉をもらいしたりするわけだ。
「そういえば、結婚式も飯食うんだよな」
(中略)
「人を祝うのも、飲み食いしながらじゃないとできないって、だいぶやばいな」(P86より)
こんな風に二谷は、食にまつわる、
「みんなでワイワイたのしくごはんを食べましょうね!」
といった雰囲気を嫌悪しているのだ。
だから、彼は煩わしい人間関係を避けるみたいに、一人でカップラーメンを食べ続けるのだ。
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考察②「二谷が“カップ麺”にこだわる理由」
食にまつわる「わずらわしさ」から逃れるように、二谷はカップ麺を食べ続ける。
食にまつわる「わずらわしさ」とは何か、改めて確認すると、
- ご飯は味わって食べましょう
- ご飯は感謝して食べましょう
- ご飯は大勢で楽しく食べましょう
といった人々の価値観であり、そうした人々の行動様式である。
そんな二谷の食に対する価値観は何かといえば、
- 食事に手間暇かけるなんてムダ
- 食事は大勢でとるものじゃない
- 食事なんて、あくまで生きるための手段
というものである。
こうして彼が食事に選ぶのは、いつも「カップラーメン」ということになる。
しかも、その執着はカナリのものだ。
彼はどんなに「腹がいっぱい」でも、無理やりカップラーメンを食べようとする。
たとえば、芦川が二谷のマンションにやってきて、彼に手料理をふるまうシーンがある。
彼女の手料理を嫌悪しつつ、無理して食べた二谷だったが、彼女が寝静まったのを見計らい、コソコソとカップラーメンを食べ始める。
ずるずると食べてしまいたかったが、芦川さんを起こしたくないので、ちろちろと静かに食べる。片手でスマホをいじりながら、八割ほどを食べてようやく、晩飯を食べたと、という気がした。(P39より)
たしかに二谷のカップ麺への執着は、すこし度が過ぎているけれど、だけど共感できるって人も実際多いんじゃなかろうか。
たとえば、職場での(行きたくない)飲み会の後、一次会を早々にきりあげて一人で「飲み直し」をすることは別に珍しくないだろう。
やはり、気を静めてオンからオフへ切り替える、一日の「シメ」ってやつが、ある一定の人間にとっては必要なのだ。
それが二谷にとってカップラーメンということなのだろう。
こうして、二谷は「芦川の手料理 → カップ麺でシメ」というのを延々繰り返し、ついに、押尾に、
「少し太ったんじゃないですか?」
と言われるまでに至る。
この半年の間少しずつ溜まった肉だった。仕事が忙しくて深夜に夕食を取るからという理由だけではなかった。
(中略)
二谷の頭の中に、眠る芦川さんの顔と、脂の浮いた黄金色の汁が浮かぶ。白いプラスチック容器も。(P126より)
カップ麺食いすぎの二谷。
さすがにここまでくると
――にしても、カップ麺食いすぎじゃね?
と多くの読者が疑問を抱くだろう。
なんぼなんでも、二谷はカップ麺に執着しすぎている。
それもそのはず。
実は、二谷がカップ麺を食べ続けるのには、もっと切実で、もっと人間的な理由があるのだ。
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考察③「二谷は“おいしい”料理を食べられるのか」
「一日のシメ」のためにカップ麺を食べ続ける二谷。
だけど、二谷のカップ麺への執着は、やはり尋常じゃないくらい。
二谷が「カップ麺」に執着するのには、本当の理由がある。
その本当の理由とは「社会や労働に対する反抗のため」ということになるだろう。
と、いきなりこう言われても「?」だと思うので、もう少し説明をしていこう。
まず、同僚の押尾のこんな言葉を糸口にしていきたい。※( )内は僕の補足
この人( 二谷 )は何を憎んでいるんだろう、と考えながら見つめる。おいしい食べ物、料理、自炊。それらを憎むものの結果でしかないような気がする。(P73より)
こう考える押尾は、「おいしい」を嫌悪する二谷の背後にある、何かしらの“闇”を感じ取っている。
では、二谷の背後にある闇とは一体なんだろうか。
それは、「自分をごまかしつづける日常」であり、「俺がいるべき場所は、本当はここじゃない」という思いである。
二谷は現在、食料品のパッケージ会社に勤めている。
が、そもそも「おいしい」を嫌悪する二谷が勤めているのが「食料品関連」という点にまずひっかかる。
「食」に対して冷淡で、反抗的な二谷が、なぜ「食品」に関わる職についているのだろう。
もちろん、この会社や仕事に、二谷が輝ける「やりがい」というものはない。
二谷が会社勤めする理由はただ1つ、それは「生きるため」である。
それは、彼の食に対する価値観と全くもって同じ。
そういう意味で二谷はリアリスト(現実主義者)であり、「どうせ自分の人生なんて、こんなもんなのだ」といった思いを抱えるニヒリスト(虚無主義者)なのである。
実は二谷の理想や本心は、食品会社ではなく、もっと別のところにあった。
それは文学の世界だった。
二谷は高校生のころ「文学部」へ進学したいと考えていたのだが、周囲の「文学を学んだってしょうがない」という声と、「将来の安定」のため、彼は結局「経済学部」へと進学する。
だからいまでも、文学に対して屈折した感情を抱いている。
同じ会社で文学部出身者がいると穏やかでいられなくなる。就職するのに有利なのは経済学部だろうと考えてこっちを選んだ。(P65より)
大学を選んだ十代のあのとき、おれは好きなことよりも、うまくやれそうな人生を選んだんだなと、おおげさだけど何度も思い返してしまう。(P65より)
ここにも二谷のリアリストっぷりと、ニヒリストっぷりがよく表れているといっていい。
また、二谷は大学時代の「文学仲間」がいて、彼らのトークラインにも参加しているのだが、そこでも屈折した「劣等感」や「後ろめたさ」を持っていて、彼らのトークに参加することができないでいる。
ここまで読み進めてくると、二谷の背後には、自分の進路に対する“負”の感情があることが分かってくる。
だけど、そうやって選んだ今の生活に二谷は、特別やりがいを見出しているわけではない。
それどころか、残業残業残業の毎日で、虚無的な思考傾向がドンドン強まっていく始末。
こうして二谷は、人生に対する「割り切れなさ」だったり、「生きづらさ」だったり、「ままならなさ」だったりを抱えたまま生活をしていくこととなる。
これこそが、二谷の「手料理」や「自炊」に対する反発心の真の理由である。
それがストレートに言い表された箇所が、次のくだりだ。
残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、本当に自分を大切にするってことか。
(中略)
作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間を風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分っぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。(P123より)
これが、二谷の本心である。
彼が徹底して「手料理」に嫌悪したのも、「カップ麺」に執着したのも、すべては彼の人生に対する「割り切れなさ」や「生きづらさ」、「ままならなさ」にあるといっていい。
彼が本当に「おいしい料理」を食べるためには、こうした負の感情を、なんらかの形で乗り越えるほかに術はないだろう。
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まとめ「作品の主題を整理」
ここまで『おいしいごはんが食べられますように』の解説・考察を行ってきた。
その内容を踏まえて、本書の主題まとめると大きく2つ。
1「食」に対する常識を解体すること 2「生きづらさ」を抱く人間の姿を描くこと
まず、本書で解体された「食」に関する常識とは、
・ごはんは大勢で食べるのが良い ・ごはんは感謝して食べるのが良い ・ごはんは「おいしく」食べるのが良い ・ごはんは残さず食べるのが良い ・ごはんは健康的なものを食べるのが良い
などである。
これらは全て「やさしい言葉」であり「心地よい言葉」であり、だからこそ「否定しがたい言葉」である。
だけど、いやだからこそ 食に対する常識的な価値観を持つ人たちは、そこになじめない人間を非難し、蔑み、そして排除しようとする暴力性を持っている。
本書における二谷の言葉は、それを端的に言い表している。
「ごはん面倒くさいって言うと、なんか幼稚だと思われるような気がしない? おいしいって言ってなんでも食べる人の方が、大人として、人間として成熟しているってみなされるように思う」(P74より)
食にまつわる常識を共有しない人は幼稚で未熟な人間として非難される。
こうした社会の暴力性を、よく言い当てた言葉だと思う。
次に、本書で書かれた「生きづらさ」を抱える人間について。
二谷も、押尾も、芦川も、3人が3人の生きづらさを抱えている。
それをざっくりまとめると以下の通り。
・二谷 …理想を断念し、本心を誤魔化すがゆえに、無気力のまま生活をしている。 ・押尾 …なんでも一人でやり切ろうとするがゆえに、それができない弱者にイラつく。 ・芦川 …対人力の低さと弱い心を持つがゆえに、社会人として渡り合えない。
こうした個人個人の「生きづらさ」もまた、本書の主題の1つである。
本書は『おいしいごはんが食べられますように』は、そうした「生きづらさ」を抱える人間の内面や生活を「食」という身近なモチーフを採用して描いた佳作である。
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おわりに「“タイトルの意味”について」
さて、本書『おいしいごはんが食べられますように』は、タイトルがかなりキャッチ―なので、「ひょっとしてグルメ小説か?」と思った人も多いだろう。
だけど、実際に読んでみると、不穏で危険な香りがする作品で、人間が抱える“闇”を描いた本格的な純文学だという事が分かる。
それにしても、このタイトルには、どんな意味が隠されているのだろう。
芥川賞の受賞会見で、作者「高瀬隼子」にこんな質問が向けられた。
「“おいしいご飯が食べられますように”とは、誰の言葉なんでしょうか?」
それに対して作者はこんなことを答えていた。
「当初は芦川さんの言葉としていたんですが、今となっては、二谷のような気もするし、押尾さんのような気もします。この辺りは、読者によって解釈がそれぞれだと思います」
僕には、この「おいしいごはんが食べられますように」という言葉が、誰から発せられたものなのか分からない。
だけど、この言葉は、作品に出てくる「すべての登場人物、そして現代を生きる僕たちに向けられた言葉」なのだと感じている。
それぞれが固有の「生きづらさ」や「割り切れなさ」、「ままならさ」を抱えて、それでもなんとか歯を食いしばって生活をしているのが彼らであり、もっといえば、現代を生きる僕たちなのだと思う。
そうした現状が、食事に対して素直に向き合えない最大の原因なのだとしたら?
二谷たちが、そして僕たちが、心から「おいしい」と思える瞬間に出会うためには、やはりそうした「生きづらさ」から解放されなければならないのだろう。
現代を生きる僕たちにとって、「おいしい」とは「生きづらさ」を乗り越えた先にあるものなのかもしれない。
そもそも「おいしい」と感じる事って人間として自然なことであるし、「おいしい」を求めることって「よりよく生きたい」という思いの表れであると、僕は思う。
とすれば、「おいしい」をかたくなに否定し、カップ麺を食べ続ける二谷には、もはや「よりよく生きたい」という思いがないのかもしれない。
「おいしいごはんを食べたい」
本来、誰もが抱くこうした感情が奪われてしまうほど、二谷の心は損なわれてきたということなのだ。
「おいしいごはんが食べられますように」というタイトルに込められたメッセージは、
「心穏やかに、よりよく生きることができますように」
というものなのだと思う。
「“生きづらさ”を感じる全ての人たちが、どうか、よりよく生きていけますように……」
そんな風にタイトルを解釈してみると、この不穏な作品は、また違った表情を読者に見せてくれるだろう。
【 参考記事 最新【2020年代「芥川賞」全作品を紹介】ーあらすじと考察ー 】
すき間時間で”芥川賞”を聴く
今、急速にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。
【 Audible(オーディブル)HP 】
Audibleを利用すれば、人気の芥川賞作品が月額1500円で“聴き放題”となる。
たとえば以下のような作品が、”聴き放題”の対象となっている。
『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)や、『むらさきのスカートの女』(今村夏子)や、『おいしいご飯が食べられますように』(高瀬隼子) を始めとした人気芥川賞作品は、ほとんど読み放題の対象となっている。
しかも、芥川賞作品に限らず、川上未映子や平野啓一郎などの純文学作品や、伊坂幸太郎や森見登美彦などのエンタメ小説の品揃えも充実している。
その他 海外文学、哲学、思想、宗教、各種新書、ビジネス書などなど、多くのジャンルの書籍が聴き放題の対象となっている。
対象の書籍は12万冊以上と、オーディオブック業界でもトップクラスの品揃え。
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