はじめに「常識を解体する作家」
文学に意味があるとすれば、その1つに「常識を解体すること」が挙げられるだろう。
村田沙耶香は、そうした“常識”を解体する作品を書き続ける作家の一人である。
2016年に芥川賞を受賞した『コンビニ人間』で、彼女は「普通」や「常識」というものを見事に解体してのけた。
たとえば、
「あの人って、ちょっと異常だよね」
と、これを読んでいるあなたも、一度や二度、そんなことを思ったことがあると思う。
だけど、村田作品はいうのだ。
「異常異常ってみんな言うけどさ、その異常の基準って、いつ、だれが、どんな権限で決めたわけ?」
今回、紹介する『信仰』も、まさに「常識」を解体する強烈なパワーを持つ短編集である。
収録されているどの作品も強烈なメッセージをはらんでおり、村田文学の本領が存分に発揮されているといっていい。
特に表題作の「信仰」は、わずか60ページほどの短編ながら、そのインパクトは凄まじい。
ちなみに本作は、米シャーリイ・ジャクスン賞候補にノミネートされており、世界からも高く注目されている。
以下では、この「信仰」という短編について解説・考察を行っていく。
記事の最後ではオススメの村田作品や、効率よく読書をするサービスなんかも紹介しているので、興味のある方はぜひそちらも参考にしていただけると嬉しい。
それでは、最後までお付き合いください。
あらすじ
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考察①「人々の“信仰”の対象」
本作「信仰」で鋭く問われるもの、それは、
「どこまでがマトモで、どこからがカルトなの?」
である。
作品冒頭で石毛という元同級生が、
「俺と、新しくカルト始めない?」
とミキを勧誘してくる。
ここでいうカルトとは、「スピリチュアル(霊的)なものを押し出して、人々に商品を売るビジネス」のことを指している。
石毛は言う。
「俺たちさ、今からその馬鹿を騙そうとしてるんじゃん」(単行本P11)
要するに、スピリチュアルなどという、“目に見えない何か”を信じる人間など、石毛にとっては非合理的な「無知蒙昧」(要するにバカ)なのである。
実際、石毛は、かつて「浄水器」を高額で購入した斉川をさして、
「今時こんなのに引っかかる奴いんのかよって、すげえ笑ったもんな」
と、正面切って大馬鹿にしている。
おそらく、多くの読者も「スピリチュアル」を持ち出して、「浄水器」とか「壺」とか「数珠」とか「お札」とか、そういったものを高額で売りつける商売に対しては、
「それはカルトだ! 詐欺だ! あやしい!」
といった認識を持っているだろう。
だけど「信仰」は、僕たち読者に、次のように問うてくる。
「じゃあ高額なブランド品はカルトじゃないの?」
「どうしてバッグや財布はマトモで、浄水器はマトモじゃないの?」
そうした問いが露骨に表現されているのは、ミキがかつての同級生らと「女子会」さながらの会合を開いているシーンだ。
ミキの同級生たちも、基本スタンスとしては石毛と同じで、
「高額な浄水器を買う人 = バカ」
という価値観を持っている。
「愚かだから引っかかるの。バカなんだよね、はっきりっって」(P18より)
こういった、その舌の根も乾かぬうちに、彼女たちは「ロンババロンンティック」という高級皿に目を輝かせ「すごい、やっぱり素敵」と大騒ぎをする。
この「ロンババロンティック」なる高級皿だが、平皿でなんと50万くらいするというのだ。
いや、セットでそろえようとすれば、200万だとか、700万だとか、その金額の高さはもはや「浄水器」の比ではない。
高級な浄水器はバカにしつつ、高級な皿にうっとりする同級生たち。
そんな彼女の姿を見て、ミキはこう思う。
浄水器は詐欺で、ロンババロンティックは「本物」。私はよくわからなくなっていた。(P20より)
浄水器と高級皿……どっちが「本物」なのかはさておき、もしも合理的に比較するならば、浄水器のほうが「きれいな水」を作り出すという点で、高級皿よりもよっぽど「物理的な価値」があるように思われる。
だけど、同級生たちは、浄水器ではなく「ロンババロンティック」に大きな価値を見いだしている。
その理由は「誰もが憧れる皿」であり「誰もがほしがる皿」だからに他ならない。
要するに、ロンバババロンティックには「目に見えない」価値があるわけだ。
それは、超がつくほどの現実主義者であるミキには、とうてい理解することのできない世界観だった。
改めて確認すると、ミキの口癖は「原価いくら?」である。
原価と価格の差を考えれば、ミキにとって「浄水器」も「ロンババロンティック」も、どちらも詐欺であり「カルト」に他ならないのだ。
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考察②「現実を“信仰”するミキ」
では、「原価の割に高額な商品 = カルト」で「原価に忠実な商品 = マトモ」なのかといえば、ことはそう単純ではない。
「信仰」のすごいところは、
「現実主義者とカルト信者と、何がどう違うの?」
と読者に鋭く問うてくるところだ。
まず浄水器を買った斉川や、高級皿に憧れる同級生たちは、「目に見えない物」を信仰しているといっていい。
整理するとこんな感じだ。
浄水器(斉川)・・・霊的な力(目に見えない・数値化できない) 高級皿(同級生)・・・世間のイメージ(目に見えない・数値化できない)
一方のミキが何を信仰しているのかといえば、「目に見える物」や「数値化できるもの」である。
それを明示している、ミキのこんな言葉を引用してみよう。
私は子供のころから、「現実」こそが自分たちを幸せにする真実の世界だと思っていた。(P28より)
こういうミキは幼い頃から、周囲の人間たちに、
「やめなよ、あんなの、原価○○円くらいだよ。ぼったくりだよ」
などと、説得を続けてきたという。
周囲がドン引きしているにもかかわらず、ミキは自らの信仰をまげず、周囲を「現実」の世界へと勧誘し続ける。
そんな「現実」に強く執着するミキに対して、妹は次のように言い放つ。
「お姉ちゃんの『現実』って、ほとんどカルトだよね」(P33より)
この発想はすごいと思う。
ここで「カルト= 人を困らせるもの」と定義することができるならば、ミキの「現実への信仰」も「現実への勧誘」も、明らかに人々を不快にさせており、そういう点では世に言う「カルト」と何ら変わることがない。
「買う気がない人に浄水器を押しつけてくる人」と、「買いたいのに現実を押しつけ諦めさせようとしてくる人」と、両者の本質的な違いとは何なのだろう。
ミキの異常なまでの現実信仰は、読者に対して、
「そもそもマトモってなに? カルトってなに?」
という問題を提示してくる。
これこそ、村田文学の「常識を解体する力」だといっていい。
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考察③「マトモとカルトと何が違う?」
ここまでの内容を踏まえて、登場人物と「信仰」について、簡単に整理すると以下の通りになる。
同級生・・・目に見えないものを信仰 ミキ・・・目に見えるものを信仰
両者の姿を見ていると、「マトモとカルトの垣根」が何であるのか、分からなくなっていく。
だけど、両者を見ていて1つ言えることは、
「信仰している当の本人は幸せであること」
である。
そのことを自覚しているキャラクター、それが優等生の斉川である。
斉川にとって「マトモ」も「カルト」も、本質的には変わらない。
それを象徴的に語るのが次のシーンである。
「私、なんで地動説を信じてるのかなあって」(P23より)
なんだか唐突に感じられる「地動説」だの「天動説」だのというワード。
2つの概念について一般的な知識を確認しておくと、次のとおり。
こうしてみてみると、
【 斉川 】
……浄水器 = 天動説的 = 非科学的
【 ミキ 】
……原価至上主義 = 地動説的 = 科学的
という対応関係にあることが見えてくる。
その上で、斉川は「地動説(現実)って、本当に正しいの?」と、ミキに問題提起をしてるワケだ。
その根拠は「だって、地面が動いているの、肉眼でみたことないし」というものであり、「地動説が正しいって判断している根拠って、結局は人から受け取った情報ばかりでしょ?」というものである。
さぁ、すごいことになってきた。
つまり、斉川はこう言いたいのだ。
高級皿 = 人から受け取った情報(イメージ)で価値が生まれている。
地動説 = 人から受け取った情報(科学者の言葉)で価値が生まれている。
つまり、両者は「自分自身の目には見えない」という点で、全く同じなのである。
僕たちは科学的世界観を、さも当然のように受け入れているけれど、それらは全て「科学者が言い出したこと」であり、僕たち自身が「肉眼」で確認したことではない。
つまり、確証など、ちっともないに等しい世界観なのだ。
ここにきていよいよ強まる次の問い。
「マトモとカルトの線引きってどこ?」
「偽物と本物の違いってなに?」
これに対して斉川は言う。
「違いなんて、本質的に必要ないのだ」
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考察④「斉川の“信仰”への思い」
斉川は「マトモだろうがカルトだろうが、本質的には問題じゃない」という思いを持っている。
言い換えれば「本物だろうが偽物だろうが、大切なのはそこじゃない」ということになる。
そんな斉川の思いがもっとも表れた箇所を以下に引用してみよう。
「始まりはカルトだって、それで世界中の人が救われたら、それは真実になるわ」(P40より)
要するに「信じる対象は何だって良い、何かを信仰した結果、その人が「幸せ」になれること、それこそが最も大切なことなのだ」と斉川は言いたいのだ。
この斉川の言葉は、ある種、宗教の本質を突いているといえる。
周囲がなんと言おうと、浄水器を買ってしまう人。
周囲がなんと言おうと、高級皿を買ってしまう人。
周囲がなんと言おうと、原価優先で考えてしまう人。
「大切なのは、彼らの信仰が、彼らの心の充足につながっていることなのだ」というのが、斉川の「信仰」に対する思いである。
だが、ここに宗教がはらむ大きな問題点がある。
それは、対象を本気で信じるが故に、自分の信仰を他者に押しつけてしまうという問題だ。
それは、ミキと妹のやりとりが最も暗示的だろう。
ミキから「現実」を押しつけられてきた妹。
ことあるごとに「それ原価いくら?」とか「詐欺だからやめなよ!」と言われ続けた妹は、次第にミキから遠ざかっていく。
そして、妹は母にこうこぼす。
「お姉ちゃんといると、人生の喜びの全てを奪われる」(P34より)
ここから僕たちは何を思えばいいんだろう。
それはおそらく、
「宗教の危険性は、信仰を他者に無理矢理おしつけてしまうこと」
ということになるのだろう。
そして僕自身は、そうした強制力で、人々から「生きる喜び」や「幸福」を奪うもの、それこそが「カルト」なのだと考えている。
だから、信じる対象が現実的なものであっても、合理的なものであっても、それを無理矢理他者におしつけ、その人を抑圧しつづけるのなら、それは「カルト」となる。
また、信じる対象が「仏」とか「神」とか、多くの人が知る「既存の宗教」であったとしても、それによって誰かが苦しい思いを強いられているのだとすれば、それは「カルト」だと言わざるを得ない。
繰り返しになるが、大切なのは、信じているその人が「喜び」を感じていることなのだ。
物語の最終シーンで、斉川は教祖となり、セミナー参加者に「啓示」を与える。
そのときミキに与えた言葉、それは、
「現実こそ、あなたの洗脳です。それこそがあなたが一生を共にする美しく完全な幻覚なのです。それがあなたの宿命なのです」(P56より)
というものだった。
つまり、ミキにとっては「現実」こそが宗教であり、そこから決して離れられないことを、斉川は見抜いていたということなのだろう。
ミキが救われるとすれば「現実」への敬虔な信仰心によってなのだ。
だが、繰り返すが、それを人に強制したとき、ミキの尊い信仰心は「カルト」に一変してしまう。
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感想「カルト=奪うもの/宗教=与えるもの」
最後に、本書を読んだ僕の感想を述べて、この記事を締めくくりたい。
本書は「宗教」の本質と、問題点を、ユーモラスに描いた良作だと感じた。
宗教の本質が「信じる者が幸せを感じられること」であることを、本書はするどく見抜いているが、その一方で「宗教が他者に信仰を押しつけたとき、そこに深刻な暴力性が生まれる」という宗教のはらむ問題も言い得ている。
日本人はとかく「無宗教だ」といわれるが、決してそんなことはない。
宗教の本質は、現実的か非現実的かは問題ないからだ。
宗教とは「宗」となる「教え」のことだ。
つまり、特定の対象を「生活の宗(中心)」としているなら、それはその人にとって立派な宗教となりうるし、そこに「喜び」や「幸福」を感じているのなら、それも立派な宗教になりうる。
宗教というのは、どこまでも「与えるもの」であるはずなのだ。
だけど、世の中には、「信仰」が生み出す問題が後を絶たない。
その全てには、例外なく「信仰が利用され、誰かが何かを奪われている」という共通点がある。
批評家の若松英輔は、「カルト」について次のように定義している。
カルトとは「恐怖・搾取・拘束により人を支配する集団」である。
つまり、
「脱会したら、あなたは不幸になりますよ」とか
「信仰を続けたいのなら、高額な布施を納めなさい」とか
「あなたはこの教団から逃れられません」とか
1つでもそういった側面があれば、それは集団の規模にかかわらず「カルト」であるということだ。
「浄水器を買わなければ不幸になるぞ」とか、「財産を教団に納めなければ地獄に落ちるぞ」とか、「親が信者なのだから、子どものお前は脱会できないぞ」とか、そんなものは宗教の名を借りたただの「脅迫」であるし、「詐欺」でさえある。
繰り返すが、宗教とは奪う物ではなく、どこまでも「与えるもの」でなければならないからだ。
そうした「原点」に回帰するためには、あらためて「宗教 = 非現実的な物」とか「宗教 =怪しい物 」といった人々の常識を解体しなければならない。
そういう意味でも、村田沙耶香の「信仰」は、ユーモアを交えつつ「宗教とは何か」を読者に鋭く問う良作である。
この作品が翻訳され、海外の人たちに届いたことの意義はとても大きいと思う。
「信仰」の解説・考察を記事は以上となります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
オススメの村田作品
コンビニ人間
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36歳未婚女性、古倉恵子は、大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。
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すき間時間で”芥川賞”を聴く
今、急速にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。
【 Audible(オーディブル)HP 】
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