日本仏教史の概要を把握したい人は、まずはこちらから
明治時代:ピンチをチャンスに変える時代
説明するのが難しい「日本仏教」を、時代ごとに外観しようというのが、この記事の目的。
これまでの記事では、
と、各時代の日本仏教の展開を確認してきた。
簡単に振りかえると、
- 奈良時代では、知的エリートたちによる学問であり、
- 平安時代で、貴族を中心に根付いていき、
- 鎌倉時代で、民衆たちへと爆発的に広がりだし、
- 室町・安土桃山時代で、武士を中心に世俗化していき、
- 江戸時代で、葬式仏教化が決定的になった。
そして今回は明治時代。
この時代の動きは、大きく2つ。
- そろそろ「神」と「仏」を区別しましょう、という動き
- 押し寄せる欧米文化に なんとか対抗しましょう、という動き
1の流れでは、仏教は激しい排斥運動にあってしまう。
2の流れでは、仏教はその論理体系が評価される。
一度は絶体絶命のピンチを迎える仏教。
だけど、そのピンチを乗り切ったのは、他でもない仏教が持つ宗教的な生命力のためだった。
では、明治時代、仏教にどんなピンチがおとずれ、それをどう乗り切ったのだろうか。
そこを中心に見ていきたい。
仏教をおそったピンチ
権力とズブズブだった江戸時代
明治初期、仏教はピンチを迎える。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動だ。
ありていに言えば、「仏教をつぶしちゃおう」というこの運動。
なぜ、起こってしまったのか、その経緯を説明しようと思う。
そこで、いったん江戸時代の復習を。
江戸時代、「本末制度」と「寺檀制度」により、仏教と政治はズブズブの関係にあった。
それらの制度がもたらした結果は、以下の2つ。
- 寺が民衆の戸籍を管理するようになった
- 寺が民衆の葬式を行う権利を獲得した
「村人の管理をよろしくね。その代わり、彼らの葬式は独占していいからね」
と、要するに、江戸幕府は、民衆の管理をすべて寺に任せる代わりに、僧侶たちの食いぶちを確保してやったというわけだ。
この瞬間、「寺 = 葬式屋さん」という立ち位置が、決定的になったといえる。
これを「立派な役割」とみるか「堕落」とみるかは、人それぞれだろう。
とにかく、確実に言えるのは、
「江戸時代、仏教が人々の生活に根付いていった」
ということだ。
これが後々、仏教をピンチから救うことになる。
神道から仏教を引きはがそう
時代は流れ、明治時代。
日本人たちは、欧米の国々が びっくりするくらい強いことに驚いていた。
そして、彼らが持ち込んでくる学問や文化が、とっても便利なことにも驚いていた。
「おれたち、このままだと、欧米の連中にやられちゃうかもな」
そんな感じで、権力者たちは、危機感を強めていった。
「いまこそ、日本人は一致団結して、欧米列強と張り合っていかなくてはならない」
そんな中で、ある人が、こういった。
「よし、ここからは、神道を国教化していこう!」
唐突に聞こえるかも知れないが、ここにはちゃんとした理由がある。
その理由は次の通り。
- 江戸時代以来、国学の影響から神道の勢いが強くなっていたから
- 幕末に起こった尊皇攘夷運動によって、神道の勢いが強くなっていたから
- 神道は日本土着の宗教なので、誰にとっても馴染み深かったから
- そもそも外来の仏教は、「やったるぜ日本人!」意識を強めるのに向いてなかったから
- オリジナルの神道のほうは、「やったるぜ日本人!」意識を強めるのに向いていたから
つまり、「神様に守られた、ぼくたち日本人」という意識をみんなに植え付けることができれば、日本一丸となって欧米列強と戦えるぞって、そういう腹だ。
鎌倉時代、「おれたちは神風に守られている!」とナショナリズムを高めていった、あの時とまったく同じ論理である。
「よっしゃ! 神道でいこう!」
そうと決まれば善は急げ。
明治元年、さっそく「神仏分離令」が出される。
これは、「ごちゃまぜになった神と仏をいったん引きはがしましょう」という命令だ。
考えてみれば、仏教伝来から明治時代まで、神様と仏様はほとんど一緒になっていた。
神様は、仏様の仮の姿と考えられてたし(本地垂迹説)
寺の中に神様がいたり、神社の中に仏様がいたりした(神仏習合)
このままでは、「神道一本でいこう」といっても、もれなく仏様がくっついてきてしまう。
そこで、権力者たちは、この神仏癒着状態に むりやりメスを入れたわけだ。
具体的にはこういう動き。
- 神社に立っている仏塔を破壊
- 神社に安置されている仏像を破壊
- 神社で働いているお坊さんをリストラ
こんな感じで、神社から仏教的なあれこれを排除していった。
だが、いつの時代も、時代の風潮にのって悪乗りするヤカラがいるものだ。
「もう、いっそのこと、すべての寺とかも燃やしちまえ!」
と、暴動をおこす人々が現れた。
神社と関係のない寺まで、破壊、そして炎上。
ここには、神道関係者の怨恨があったという。
「江戸時代、幕府とズブズブで散々うまい汁をすすりやがって!」
という鬱憤が、神社関係者のみなさんにはあったというのだ。
加えて、民衆の鬱憤もあったという。
「いつもいつも、高いお布施を搾り取りやがって!」
そう感じていた人々が便乗しての廃仏毀釈。
こうして、寺排斥のムーブメントが明治初期に広がっていく。
しかも、弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりは続く。
僧侶という身分に対してもメスが入ったのだ。
「僧侶のみなさん! 君たちは今日から結婚していいし、肉食べていいし、髪の毛はやしてもいいし、戒律も守らなくていいし、まあ、好きにやってくれていいからー」
と、こういうワケである。
こうきくと、
「ほんとうですか? ありがとうございます!」
と、僧侶達にとってありがたい政策みたいな感がある。
が、ここには明治政府の、
「僧侶と俗人との境界をなくそう」
という思惑があった。
僧侶の威厳をなくし、完璧な一般ピープルに降格させ、聖職者としての性格も奪いとろうというわけだ。
こうして、明治の僧侶たちは「宗教者」ではなく「職業人」という扱いを受けることになる。
これは、間違いない、仏教のピンチだ。
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ピンチを乗り越えた仏教
さて、明治政府としては、仏教をコテンパンにのして「しめしめ」の図である。
晴れて、神道を国教化し、日本人一致団結のもと、欧米列強に張り合えるぞ!
……と、こうなるはずだった。
結果的に、神道が国教化することはなかったのだ。
それはなぜか。
仏教がカンペキにつぶれることはなかったからだ。
それどころか、改めて人々は、仏教の宗教としての生命力を知ることになる。
紀元前5世紀から2000年以上生き残ってきた、プライドといおうか、生命力といおうか、底力といおうか、とにかく世界宗教の面目躍如と言えよう。
仏教はしぶとく、この難局を乗り越えていったのである。
その理由は大きく3つ。
- 1つ目は、仏教と人々のつながりが、あまりに強かったこと
- 2つ目は、仏教の深遠な論理体系が、思想家たちに評価されたこと
- 3つ目は、仏教が西洋哲学に接近していったこと
である。
以下、この3つについて説明していきたい。
ピンチを乗り切った理由①「仏教と人々の強い繋がり」
やっぱり神と仏をくっつけよう
明治政府がどんなに仏教を排除しようとしても、仏教と人々とを完全に断ち切ることはできなかった。
では、仏教と人々の繋がりとは、いったい何か。
それは、「仏式の死者供養の習慣」である。
仏教による死者供養の歴史は、仏教伝来時にまでさかのぼれる。
日本人は仏教を受容してからというもの、実に1000年以上にわたって、仏式の死者供養を行ってきたわけだ。
制度化そのものは江戸時代と、ごく最近のことではあるが、仏教は土着レベルで人々の生活にしっかりと根を張っていたといえる。
だからこそ、たとえ寺や仏像が焼き払われたって、人々の仏教に対する信頼は厚くて強かった。
どんなに神社を優遇しても、人々は寺に残り続けたのである。
神道を国教化したくて、神仏分離令を出した明治政府は皮肉にも、
仏教 > 神道
という現実をまざまざと見せつけられてしまったのだった。
さて、悩む権力者たち。
そして、ある人はこういった。
「やっぱり、もう一回、神と仏をくっつけよう」
これは、神道の敗北宣言である。
仏教を排斥するのが無理と判断した権力者達は、一度は遠くに追いやった仏教に、再び接近していくことを決める。
今度は、思い切って「神仏習合」させることで、「神道+仏教」を、まるっと国家宗教にしてしまおうと思ったわけだ。
だけど、ここまで読んで、あなたはこう思わないだろうか。
「そこまでして宗教を利用しないと、欧米列強と戦えないの?」
ぼくもそう思う。
島地さんもそう思った。
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国民に信教の自由を
島地さんの本名は島地黙雷という。
彼は権力者に向かってこういった。
「シューキョーシューキョー言ってるの、時代遅れっすよ」
島地さんは、ヨーロッパへ視察をして、最先端の政治や文化に触れてきた男だった。
ヨーロッパ諸国では、宗教を政治利用しているどころか、むしろ政治と宗教を分けて考えていて、国民に信教の自由を許していたのだ。
むしろ、ヨーロッパでは、「個人の自由」というモノを尊重していて、だからこそ、あれだけの文化を築き上げられたのだと、島地さんはあつく語った。
えぇぇぇぇ!? そうなの!? じゃあやめよう。
ということで、特定の宗教を国教化しようという流れは、ここでおしまい。
権力者達は、方針を180度転換する。
そして、欧米事情をよくよく観察してみた。
「欧米では、誰が何を信じようが、その人の自由なんだってさ」
「欧米では、そういう信仰の在り方を『religion』って呼んでいるんだってさ」
「じゃあ、おれたちも、その『religion』ってやつを見習おうぜ」
ということで、日本人は「religion」を取り入れて、「宗教」と翻訳した。
欧米列強の良いところは、遠慮なく、どんどんパクる。
ここに日本人のしたたかさがあるといえよう。
こうして、信教の自由は保障され、明治22年に公布された「大日本帝国憲法」にも、「信教の自由」が明記されるにいたった。
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国家神道ってなに?
が、するどい人はきっとこう思う。
あれ? 戦時中、神道って政治利用されなかったっけ?
「国家神道」っていう言葉を聞いたことがあるんだけど?
それって、信教の自由に反しているんじゃないの?
一応、学校の授業ではこう教えているらしい。
「国家神道」は、「宗教」を利用した国家による「政策」です。
つまり、
「国家神道 = 宗教」であり、「国家神道 = 政策」である
というのが、一般的理解というわけだ。
では、
「国家神道は、信教の自由に反しているのか」
という疑問について。
その答えは、否、である。
なぜなら、国が個人に特定の「信仰」を押しつけているわけではないからだ。
人々が何を信じようが、国は干渉しない。
ただ、「神道」を使って、みんなの意識をまとめようっていう国の政策なんだ、という見解。
ちなみに、学校で、特定の宗教を推しちゃいけなくなるのは、「日本国憲法」が発布された戦後のことである。
日本国憲法には、「政教分離」の原理が明記されているからだ。
「政教分離」と「信教の自由」は、分けて考えなくてはいけない。
だから、
「戦時中の国家神道は、憲法的にはまったく問題なし」
ということになるという。
とはいえ、「国家神道」の定義をめぐっては、専門家の間でも、まだまだ議論されているらしい。
素人のぼくが、
「宗教とはこれこれこういうもので、国家神道とはこれこれこういうものだ!」
と、断定することなど、できない。
ただ、戦時中における「神道」の扱いを見れば、ぼくなりに思うところはある。
天皇を中心とする「神道」が、人々のナショナリズムを熱狂的に高め、『古事記』が歴史だと本気で信じた人たちが、「神風」となって死んでいった。
あれをみんなはどう思うのだろう。
ぼくは、
「権力が、人々の宗教心を利用して、人を殺し 殺させた例」
だと思っている。
宗教心は、だれもがもっているものだ。
宗教心は、「幸せになりたい」に、近い感情かも知れない。
古今東西、老若男女、世界中の誰もが、「幸せになりたい」と願っている。
そして、その願いは、人それぞれ、いろんな対象に向けられている。
人によっては家族かも知れないし、お金かも知れないし、健康かも知れないし、自分自身かもしれない。
だけど、それはまだまだ「宗教」と呼べるレベルにない。
その「幸せになりたい」という気持ちが、ある一つの神話と結びついたとき、はじめてそれは「宗教」と呼ばれるものになる。
そんな、だれもが持っている宗教心が神話と結びついて、戦時中に利用されたわけだ。
「宗教のために死んでこい」がまかり通る、恐ろしい精神世界がつくりあげられたわけだ。
「幸せになりたい」という誰もが持っている心に介入して、神話や、死後の世界を説いて、幼く純粋な子どもたちのマインドをコントロールしたのが歴史だとすれば、
「信教の自由には抵触してません」
といわれても、ぼくとしては、
「はい、その通りですね」
などと、納得することはできない。
やっぱり、どんな理由があっても、権力と宗教は結びついてはいけないと思うし、そもそも宗教は本質的に、権力と無関係なところになくちゃいけないとさえ思う。
常識とか、社会通念とか、権力とか、みんなが信じて疑わない枠組みの中で苦しんでいる人たちを救ってくれるのが宗教でなくちゃいけないと思うからだ。
皆さんはどう思うだろうか。
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ピンチを乗り切った理由②「仏教がもつ深遠な思想体系」
キリスト教に対抗できる思想は?
明治という時代は、欧米の文化がどんどん日本に入ってきた時代だ。
そのおかげで、今を生きるぼくたちは、洋服を着て、ネクタイを締めて、オシャレヘアで生活をしている。
風邪になったら、速やかに抗生物質を飲むのであって、加持祈祷や、気功や、正しい呼吸法などに頼るってことは、基本的に、まあ、ない。
それは、明治以降にどんどん入ってきた西欧の文化や科学の影響がとても強いからだ。
近代の価値観とは、それだけ強力だったのだ。
そして、もう一つ、明治時代に西欧から押し寄せてきたものがあった。。
それが、キリスト教である。
もっとも、キリスト教は1549年に伝来されたわけなので、明治が初ってわけじゃない。
が、ご存知の通り、江戸時代にあっては激しく弾圧され、息も絶え絶えだった。
それが、開国後に息を吹き返し、明治時代でどんどん勢力を強めていった。
そんな中にあって、日本の思想家たちは危機感を強めていく。
「このままだと、われわれの思想は、キリスト教に侵されてしまう」
そこで、手持ちのカードで、キリスト教に対抗できそうな思想を検討してみた。
手持ちのカードは次の3つ。
- 神道
- 儒教
- 仏教
この中で、1番強いカードは何だろうか。
それを考える上で、宗教の本質について、考えてみたい。
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・
宗教の本質ってなんだろう
唐突だが、かつて聖徳太子はこういった。
「あつく三宝をうやまえ!」
この三宝とは「仏・法・僧」のことである。
では仏・法・僧とは何か。
それを以下の通りまとめてみた。
- 仏……信仰する対象(キリスト教でいう「神」がこれにあたる)
- 法……思想体系(キリスト教でいう「聖書」がこれにあたる)
- 僧……行動様式(キリスト教でいう「祈り」がこれにあたる)
さて、宗教の本質を語る上で、この3つの視点は欠かせない。
ちなみに、キリスト教は、この3つすべてそろえていることが、上記からも分かる。
では、この視点から、神道、儒教、仏教を比べてみたとき、どんな結果が得られるのだろう。
順番に確認してみたい。
【神道の場合】
- 仏……◎ アマテラス大御神
- 法……× 基本的にない
- 僧……× 基本的にない
一言コメントすれば、江戸時代の神道には「法」も「僧」もあるっちゃあるのだが、どちらも「仏教」や「儒教」から借用したものなので、神道オリジナルとしては×となる。
【儒教の場合】
- 仏……× 基本的にない
- 法……◎ 四書五経(有名どころの『論語』を含めた教科書)
- 僧……◎ 居敬窮理(身も心も正して、真理を求めること)
一言コメントすれば、儒教にも「天」という万物の原理にあたるものがあるっちゃあるのだが、儒教の1番の関心は、「この世間」にあるわけなので、「天」には「信仰対象」というほどの強さはない。
【仏教の場合】
- 仏……◎ 仏さま
- 法……◎ お経
- 僧……◎ 修行
一言コメントすれば、日本の仏教はあまりにも多岐にわたりすぎていて、キリスト教ほどシンプルではないのだが、どの宗派にも三宝はあると考えていい。
以上の通り、キリスト教の対抗馬として抜擢されたのが、仏教だった。
廃仏毀釈によって、息も絶え絶えだった仏教だが、ここで改めて宗教としての実力を買われるのである。
だけど、こう考える人が現れる。
「キリスト教に対抗するためには、今のままの仏教では不足だ」
ここから、仏教のアップデートが始まっていく。
ここではその立役者、井上円了を紹介しようと思う。
彼は仏教の現状をながめてこう考えた。
「たしかに、仏教はすぐれた宗教体系なんだけど、奈良仏教とか、平安仏教とか、浄土仏教とか、禅仏教とか、みんながバラバラなんだよなあ」
たしかに彼の言うとおりだ。
「仏教」と一口に言ってみても、もはやこれらは、もはや別物と言っていいほど、それぞれ独自の世界観を構築している。
いつものように、乱暴にまとめればこんな感じになる
- 奈良仏教……「空」・「唯識」など、世界の真理を追究する
- 平安仏教……「天台」・「密教」など、仏との一体化を目指す
- 浄土仏教……一神教宗教に近く、阿弥陀如来の救済を信じる
- 禅仏教……座禅を組んで、無我の境地にいたろうとする
「これらの仏教を1つに統合する方法はないものか」
井上は考えた。
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ピンチを乗り切った理由③「仏教と哲学の融合」
ちょうどその頃、日本にも西洋の哲学が流入し始めていた。
そこに目をつけた井上。
「そうだ、仏教の理論と、西洋哲学の理論を統合すれば、よりカンペキな宗教が完成するんじゃないか?」
もともと、哲学を学んでいた彼は、仏教と西洋哲学の共通点にも気が付いていた。
その共通点とは何か。
哲学には「認識論」とよばれる分野がある。
それは、文字通り、
「人間は、どのようにこの世界を認識しているのだろうか」
と議論する哲学である。
ぼくたち人間は「目・鼻・耳・口・肌」の五感で世界を感じている。
たとえば、今、あなたの身に起こっていることを観察してみてほしい。
スマホの画面が「見える」し、
朝ごはんのいい「匂いがしている」し、
ニュースの音が「聞こえてくる」し、
おいしいパンを「味わってる」し、
ちょっと肌寒さを「感じてる」だろう。
こんな風に、ぼくたちは5つの感覚器官を介して、この世界と関係しているわけだ。
だけど、他の動物は全く違う。
たとえば、コウモリ。
彼らは、目が見えていない。
彼らは超音波を飛ばし、反射してくるそれをキャッチして、世界を認識しているというのだ。
では、その超音波をもとに、どんな風に彼らは、この世界を経験しているのだろうか。
「見て」いる感じ?
「聞いて」いる感じ?
「味わって」いる感じ?
はたまた、そのどれでもない感じ?
たとえば、ダニ。
彼らは、目も耳もない。
代わりに、嗅覚や触覚を使って、この空間を経験しているという。
それって、どんな感じなのだろうか。
「見て」いる感じ?
「聞いて」いる感じ?
「味わって」いる感じ?
はたまた、そのどれでもない感じ?
こんな風に考えれば、この世界には沢山の動物がいて、それぞれの仕方でこの世界を認識しているわけだ。
そう考えると、ぼくたちが認識している世界は、その本当の姿ではないことが分かってくる。
そもそも、ぼくたちの視覚の方法も、考えてみたら不思議な話だ。
たとえば、「リンゴ」は「赤く」見えるのだが、それはなぜか。
それは「リンゴ」が「赤い光」だけ反射する物質で、そこから反射された「赤」の波長を持つ光だけが、ぼくたちの網膜に届くからだ。
だから、ぼくたちの目に映っているのは「リンゴ」の本当の姿ではなく、あくまでも「リンゴ」から反射してきた光にすぎない。
ぼくたちは、当たり前のように、「見えているリンゴ」の確かさを信じて疑わないが、ちょっと立ち止まってみれば、リンゴの本当の姿を、ぼくたちは一度も見たことなんてない。
すると、こう疑問に思わないだろうか。
「この世界の、本当の姿って、どうなっているのだろう」
「この世界の、本当の姿って、人間は認識できるのだろうか」
まさしく、そこ、そう考えたのが、ドイツの哲学者カントだ。
そして、彼こそ、哲学に「認識論」というムーブメントを巻き起こした張本人だ。
カントはいう。
「あなたが経験するすべての現象は、世界の本当の姿ではない」
カントは、人間が認識している世界を「現象界」とよび、客観的に実在している「物自体の世界」と区別をした。
この「物自体」とは、あらゆる生物のあらゆる認識以前の、純粋な姿である。
この世界の「本当の姿」といってもいいだろう。
そして、この「物自体」とは、要するに仏教が目指した「言語以前の世界」の別名である。
さらにさらに、全ての仏教は この「言語以前の世界」を体験することを目指している。
南都北嶺の仏教だって、鎌倉新仏教だって、それは同じ。
仏教の根底には、「物自体」や「言語以前の世界」と一体化しようという意思がある。
だから、西洋哲学と仏教の世界認識とは、その根っこの部分でつながっているといっていい。
しかもしかも、明治時代に日本に入ってきた哲学というのが、カント周辺の哲学だったのだ。
井上円了は、そこに目をつけ、仏教と西洋哲学との融合を図ったというわけだ。
井上はいう。
「宗教も哲学も向かっているベクトルおんなじだ、
どちらも『認識不可能な、本当の世界』を目指している。
だけど、その姿勢はちょっと違う。
哲学は、その世界を知得することを目指しているが、宗教は、その世界を体得することを目指している。
『物自体』の世界を理解するのが哲学だとすれば、『物自体』の世界を体験するのが宗教だといえる」
この井上の言葉を、もっと分かりやすく言い換えれば、
真実を明らかにするのが哲学
真実を生きようとするのが宗教
ということだろう。
さらに、井上は、哲学と宗教を比べて、こうも言っている。
哲学は、疑いを本領としている。
宗教は、信を本領としている。
つまり、哲学にはゴールはない。
ひたすらこの世界を疑い続ける営みといえる。
だけど、一方の宗教は、疑ってばかりではいけない。
どこかで「信じてみよう」という飛躍が必要となる。
疑って疑って疑って疑った先に見えた風景、
それを「私にとって真実である」と、その人自身が信じること。
これこそが宗教なのだと、井上円了は言っている。
こうして、明治時代に仏教は西洋哲学の認識論などを吸収し、より論理的に強力な体系へとバージョンアップし、より普遍的な宗教として生まれ変わっていこうとした。
仏教は再び宗教としての生命力を取り戻していく。
そして次回、仏教がその宗教性を回復していくところを具体的に見ていこうと思う。
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それ以降はこちら
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