言葉に表れた「人間観・世界観」
言葉には その言語圏の人々の人間観や世界観が現れている。
たとえば、
――友人に兄弟がいる――
その事実を知ったとき、多くの人はこう質問する。
「へー、それ弟? それとも兄ちゃん?」
僕たちは、友人の「兄弟」が自分より年下なのか年上なのかを妙に気にしてしまう。
実は、これ、極めて日本人的な傾向である。
逆に言えば、英語圏の人々は、友人の兄弟が「弟」なのか「兄」なのかはさほど気にしない。
では、なぜ日本人は、友人の「兄弟」が自分より年下か年上か気にするのだろうか。
考えられる理由は、「弟」には気を遣わずに済むけれど、「兄」には失礼のないように気を遣わなければならないからなのだろう。
それはつまるところ、「年功序列」という、日本特有の倫理観の表れだといっていい。
なお「年功序列」というのは、江戸時代に根強く定着した「儒教道徳」の1つである。
さて、そのことを踏まえて「日本語」と「英語」とを比較した時、そこに興味深い事実が浮かびあがってくる。
日本人にとって当たり前の「弟」や「兄」といった言葉だが、英語では両者を「brother」とひとくくりにしてしまうのだ。
つまり英語には、「弟」のみを表す単語も、「兄」のみを表す単語も存在していないのである。
実際に、僕の友人のアメリカ人(日本在住歴20年)に、
「友達の兄弟が年下か年上って気にならないもんなの?」
と率直に聞いたところ、
「ああ、別に。でも日本人って気にするでしょ?」
と、僕の期待通りの返答をしてくれた。
ちなみに彼らは、どうしても「弟」を示したいときには「younger brother」といい、「兄」を示したいときには「elder brother」というらしいが、それもあまり一般的ではないらしい
こんな風に、言語にはその言語圏の「文化」というのが色濃く表れている。
もっといえば、言語には、その言語圏の「人間観」や「世界観」が色濃く表れているのだ。
この記事では、日本語に見られる日本人の人間観・世界観について解説をしていきたい。
参考にした本はこちら。
『日本語文法の謎を解く』(金谷武洋)
副題は
―「ある」日本語と「する」英語―
である。
では、日本人はどのように「世界」を認識しているだろう。
「ある」言語とは、一体どのようなものなのだろう。
ぜひ、最後までお付き合いください。
日本語に「主語」はない?
ところで、あなたはこんな話を聞いたことがあるだろうか。
――日本語には主語がない――
「日本語学をかじったことがある」って人、あるいは、「人並み以上に日本語に興味がある」って人じゃない限り、おそらくは聞いたことはないかもしれない。
なぜなら、僕たちは、小学校や中学校の国語の時間で次のように教わるからだ。
「日本語には、主語と述語というものがあります。その他にも修飾語とか接続語とかがあって……」
そう、みんなが大嫌いな文法の授業である。
「その中でも、特に「主語」や「述語」が重要な働きをしています」
そう説明したあと、確か先生は次のように説明していたはずだ。
「そして、日本語の主語というものは、多くの場合省略されます」
確かに、日本語には「主語」がないものが多い。
「週末なにしてた?」
「一日中寝てたよ」
こんな会話は、日常の中でよく耳にするが、
「あなたは週末なにしてた?」
「私は一日中寝てたよ」
なんて会話は、耳にしない(文法書の中で目にするかもしれない)
確かに、日本語の主語というのは、多くの場合「省略される」のかもしれないが、それは一方でこんな風に考えることもできる。
そもそも、日本語に主語なんてないのではないだろうか。
こうした主張を「主語不要論」といい、そうしたことを主張する「主語不要論者」というのは、日本語学界隈に一定数いる。
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日本語は「行為者」不在の言語
「日本語に主語はいらない」と主張する人を、主語不要論者といった。
詳しくはこちらの記事【 日本語に主語はない?主語不要論を解説—総主論争、ウナギ文、こんにゃく文より— 】でまとめている。
『日本語文法の謎を解く』を著者の金谷氏もまた日本語不要論者の1人である。
彼は本書において、日本語と英語と徹底的に比較し、日本語にとっていかに「主語」という概念が不自然であるかを述べている。
たとえば、こんな場面を考えてみてほしい。
車の車窓から、下の図のような美しい富士山が見えたとしよう。
英語話者の場合、
「I see Mt FUJI!」
と、富士山を見た感動を表すだろう。
それに対して日本語話者の場合なんと言うだろう。
「わたしは富士山が見えます」
などと感動を表す日本人はまずいない。
おそらく多くの日本人であれば、
「富士山が見えた!」
というのが、一般的だろう。
いや、なんならそれさえも不自然に聞こえる。
このシチュエーションにおいて最も自然な日本語は、
「富士山だ!」
だと言っていいだろう。
さて、上記の英語「I see Mt FUJI!」と日本語の「富士山だ」とを比べたときに言えることとはなんだろう。
真っ先に言えるのは「主語の有無」だと思われるが、ここでは視点を少しだけ変えてこう言い直してみたい。
「英語には行為者(人)がいて、日本語には行為者(人)が不在である」
つまり、「「I see Mt FUJI!」という英語には、その行為者「I(私)」がいるのに対して、「富士山だ」という日本語にはその行為者がいない。
これは、上記の例文に限らない。
たとえば、中学校の英語の授業を思い出してみてほしい。
「I play tennis」を訳しなさい。
そう言われた僕たちは、「私はテニスをする」と訳してきたワケだが、よくよく考えてこれってとても不自然な日本語ではないだろうか。
そもそも、こうした不自然な日本語に出会うのは日常会話ではなく、決まって英語の授業中だった。
「私は日本人です」も
「私はペンを持っています」も
「私はピアノを弾きます」も
これらは「英語の和訳文」であるが、そのどれもが「主語“私”を入れた直訳文」であって、しかもそのどれもが日常生活では まず使うことのない不自然な表現ばかりである。
英語に必要な「行為者“I”」は、多くの場合日本語には不要なのである。
愛情表現を例に考えてみても分かりやすい。
英語話者は愛する人に「I love you」と言うが、日本人は大切な存在に対してどんな言葉を向けるだろう。
少なくとも「私はあなたを愛しています」ではない。
たぶん最もスタンダードな愛情表現は「大好きだよ」だと思うのだが、このとき、
「私はあなたが大好きだよ」
などといったら、なんとなく「AI(人工知能)」みたいに無機質な印象を相手に与え、伝わるモンも伝わらなくなってしまうだろう。
やはり、日本語には「私」という「主語」は、どうにもおさまりが悪いのである。
以上のように、日本語とは基本的に「主語」がしっくりこない「行為者不在の言語」だといえる。
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「ある」日本語と「する」英語
改めて本書の副題を確認したい。
ーー「ある」日本語と「する」英語ーー
である。
- 「ある」日本語
- 「する」英語
実はこの表現は、先ほど確認した
- 「行為者不在」の日本語
- 「行為者必要」の英語
といった点とキレイに対応している。
英語には、「行為者」つまり「主語」が欠かせない。
日本語は、「行為者」つまり「主語」を入れると、かえって不自然になってしまう。
それは先にふれた、「I see Mt FUJI!」と「わたしは富士山が見えます」を見ればわかる。
こういった事情を踏まえて、筆者はこう主張する。
・英語は、行為者(私)が「する」ということを前面に表現する言語である。 ・日本語は、そういう状況がそこに「ある」ことを表現する言語である。
・英語は、行為者である「主語」が不可欠な言語である。 ・日本語は、行為者である「主語」を極力表現しない言語である。
この特徴は、物事の成り行きに対する認識の違いとしてあらわれてくる。
たとえ話をしよう。
いま、あなたにはとっても大好きな恋人がいて、なんとしてもその人と結婚したいと思っていたとする。
だけど、あなたの両親は2人の結婚に猛反対。
「どうしても結婚するっていうんなら、今日かぎりで親子の縁を切る。おまえみたいなやつは、さっさとこの家から出ていけ!」
「おう、縁でも何でも切りやがれ! だれが何と言おうと、俺たちは結婚するんだ!」
そうやって家を飛び出たあなた、強い決意のもと遂に結婚を成し遂げる。
そんなあなただが、その晴れがましい披露宴の冒頭スピーチで、きっと次のようにいうだろう。
「このたび、わたしたち2人は結婚することとなりました」
……だから、なに? という感じだろうか。
では、もう少し。
まったく同じシチュエーションで、次のように言った場合どうだろう。
「このたび、わたしたち2人は結婚することにしました」
うん、確かに結婚に至るまでのプロセスを考えた場合、「結婚することにしました」といったほうがピッタリだ。
なのにこの表現は、どこかフォーマルに似つかわしくない、鼻につく響きがあるように思わないだろうか。
それは、結婚「する」という表現が、日本語には似つかわしくないからだ。
日本語にとっては、「結婚することとなりました」という表現のほうがふさわしい。
そして改めて意識してみると、この「~となりました」という表現は日本語にとても多い。
「1000円いただきましたので、おつりは500円となります」とか、
「きみたちのクラスの担任をすることとなりました、山田です」とか、
「今回のプロジェクトは、わたくしの案で進めることとなりました」とか。
これらの表現の背後にあるのは、
「ぼくの意志とは無関係に、自然のなりゆきでそうなったんだよ」
といった思いである。
日本語では、ある事態を説明する上で、
「ぼくがしたことじゃない」
ということを強調する。
そして、今の状況はあくまでも「自然の成り行き」であり、自分にはあずかり知らない不可思議な「自然の原理」や「自然のはたらき」によってもたらされたものだ、ということを確認しているのである。
ほら。
日本語はやっぱり徹底して「行為者」であるところの「私」を消そうとするのだ。
「私が~する」といった表現は、日本語的ではない。
徹底して「行為者」を明示しようとする英語と比べれば、その性格はまったく異なっているのである。
以上をまとめるとこうなる。
【日本語】
=行為者不在の言語
=出来事を「自然の成り行き」と捉える言語
=「ある言語」
【英語】
=行為者必要の言語
=出来事を「人間の行為の結果」と捉える言語
=「する」言語
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日本語に表れた「悲しみ」
このように日本人は、「自分自身のコントロールがおよばない自然の原理」についての意識がとても強い。
さらに、ものごとの成り行きは、その「自然の原理」にゆだねられているという発想が、日本語の根っこにある。
それは、つまるところ、「人間の無力感」や「あきらめの思い」や「いさぎよさ」へとつながっている。
こう聞くと、なんとなく「武士道とは死ぬことと見つけたり!」といった「葉隠」の有名なセリフを思い出しはしないだろうか。
また、桜が散ってしまうはかなさに、こころが動かされる日本人の感性と、どこか通じる部分があると思わないだろうか。
唐突だが、日本人が別れ際にいう挨拶「さようなら」
じつはこの「さようなら」も、「自然の原理に対するあきらめの思い」から発せられた言葉だと言われている。
「さようなら」の元のかたちは、「さようならば」、つまり「それならば」である。
「(分かれなくちゃいけない)そういう成り行きならば(それならば)、しかたないよね。ぼくたちにはどうすることもできないよね。ぼくたちはそれを受け入れなくちゃいけないね」
コントロールできない現実と、自らの無力さ、それらをかみしめつつ、ぐっとこらえて口からこぼれ出てきてしまう言葉。
それが「さようなら」だというのだ。
これは英語の「Good bye」や「See you」などと比較すると、その違いは明確だ。
「Good bye」は「God be with you」が縮まったもので「神のご加護があらんことを」的な意味を持ち、相手の前途を祝福する語である。
「See you」は「また会おうね」といった意味であり、相手との再会を前提とする語である。
要するに、どちらも「別れ」に対してポジティブなのだ。
それに対して日本語の「さようなら」の根底には「あきらめ」や「かなしみ」といった感情が底流している。
――自分にはどうしようもない自然のなりゆき——
自分たちはそれに従うしかないのだ、
自分たちはその悲しみを引き受けていくしかないのだ、
そうしたある種の「しめった感情」が日本語の「さようなら」に底流している。
ここにも、筆者の主張、すなわち、
日本語は「ある」言語、英語は「する」言語
という言語観が如実に表れていると言ってよいだろう。
なお、「日本人と悲しみ」については、以下の記事で詳しく考察しているので、気になる方はぜひ参考にしてほしい。
【 解説・考察『かなしみの哲学』ー悲しいとは何か、悲しみに意味はあるのかー 】
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日本語に関する”おすすめ本”
以上、日本語に表れた「自然観」や「世界観」について解説してきた。
改めて、参考にしたのは『日本語文法の謎を解く』(金谷武洋)だ。
だが、ここで紹介できたのは、その一部に過ぎない。
筆者の論が冴えわたるのは、このあと展開される「自動詞・他動詞」の話と「受身・使役」の話なのだが、気になる方はぜひ本書を手に取ってみてほしい。
また、「日本語の本質をもっと知りたい」という人のために、いくつかオススメしたい本がある。(ほら、「本をおすすめしたい」じゃなくて、「おすすめしたい本がある」のほうが、謙虚でしょ)
参考にしていただけると幸いです。
『日本語の教室』(大野晋)
こちらも日本語学の第一人者、大野晋の言語学エッセイ。
文法的に興味深いトピックが多く、身近な表現を例に日本語の本質へと迫っていく。
また、日本語と漢字の関係についての説明もとってもためになる。
主に、日本語の「起源」や「歴史」について興味がある人にオススメ。
本書を読めば、日本語の魅力について改めて知ることができると思う。
『日本語と外国語』(鈴木孝夫)
日本語学の権威ともいえる鈴木孝夫の代表作。
こちらも、外国語との比較を通して、「日本語とは何か」、「日本人とは何か」をあきらかにしていく。
こちらはエッセイなので、とってもよみやすく、かつ言語学のおもしろい部分をしっかりと味わえる。
日本語学を学びたい人なら、一度は読んでおきたい名著中の名著。
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一)
この人は言語学者ではなくて、倫理学者。
日本語や日本文学に見られる、ぼくたちの人間観や自然観、死生観について解説をしている。
記事の途中で紹介した「さよなら」の説明は、この本を参考にしている。
ぼくは新書で「泣く」なんてことはまずないのだが、この本は読んでいて、そのやさしさから自然と涙がこぼれた。
人間のはかなさと、そんな人間を包み込む、あたたかい存在。
そんなことを感じさせられたからだと思う。
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