解説・考察『こころ』ーKと先生の自殺の本当の理由とは?謎や主題を徹底解明!ー

文学
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「先生」はなぜ自殺したのか

夏目漱石の『こころ』は、日本近代文学における最高傑作だ。

――こころが人間を孤独にしている――

そのことを、ここまで鋭く描いてしまった作品を、僕は他に知らない。

ご存知の通り『こころ』は高校の授業でも扱われる作品だ。

いまや若者から大人まで、その大まかな内容を知っているといっていい(ですよね?)。

では、『こころ』の読者に対して、早速こう問うてみたい。

そもそも、どうして「先生」は自殺したんですか?

さて、この問いに答えられる読者は、果たしてどれだけいるだろう。

「改めてそう言われると……あれ、どうしてだっけ?」

という人が大半なのではないだろうか。

それも無理からぬこと。

実はこの『こころ』という作品の“深み”は計り知れなく、「先生の自殺」についても深く考えれば考えるほど、

「こりゃシンプルじゃねえぞ」

という思いが強くなっていくからだ。

ちなみに、僕は高校時代、現代文の先生から「先生の自殺の理由」について、こう説明された。

「彼の自殺の理由は、友人を裏切った罪悪感です」

人生経験の浅い当時の僕は「ほー、なるほどー」と、なんとなく理解した気になれた。

が、大人になって、改めてこの作品を読み直した僕は確信をもってこう思った。

いやいや、そんなシンプルなわけねえだろ!

漱石の『こころ』は、そんなテンプレ系の作品なんかじゃない。

さて、この記事では「先生の自殺」の真相について解説と考察をしていきたい。

そこで、早速、この記事の結論を述べておこう。

先生が自殺した理由は大きく次の2つだ。

  • 自分が「善人」でないことを悟ったから(存在への絶望)
  • 自分が誰とも繋がれないことを悟ったから(強烈な孤独)

以下、この結論にたどり着くため、まず「先生の過去」ついて解説したい。

トピックは次の4つ。

  • 「叔父」のエゴイズム
  • 「先生」のエゴイズム
  • 「先生」と「静」の関係
  • 「先生」の「青年」への語り

次に「先生の遺書」を頼りに、彼の「自殺の理由」について考察したい。

トピックは次の2つ。

  • 「乃木希典の殉死」は無関係か
  • 「先生」の「絶望と孤独」とは

最後は「先生の自殺」と「Kの自殺」、そこに見られる共通点を明らかにし、人間の「こころ」の真実に迫っていきたい。

それでは、ぜひ最後までお付き合いください。

 

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解説「叔父」のエゴイズム

先生の両親が死んだのは、彼が20歳にもならない時だった。

若くして天涯孤独となってしまった先生。

残ったのは、両親の莫大な財産だけだった。

悲しみに暮れる中で、ふと、母の生前の言葉を思い出す。

「いざとなったら、叔父さんを頼りなさい」

彼はその言いつけ通りに、叔父のもとを訪ねる。

「よろしい、なにも心配しなくていい」

叔父はすべて引き受けてくれた。

先生は感謝し、両親の財産を全て叔父に預けた。

叔父はその財産をもとに、先生の生活をバックアップ。

彼が東京へ進学できるように、万事取り計らってもくれた。

先生は心から叔父を信頼していた。

ところが、後に、先生は「ある真実」を知ってしまう。

叔父は先生に隠れて、彼の財産の使い込んでいたのだ。

愛人に貢いだり、自らの事業につぎ込んだり……

先生が気づいたときには、すでに多くの財産が失われていた。

――オレははずっと裏切られていたんだ――

全てを悟った先生。

訴訟を起こすか、泣き寝入りをするか。

さんざん悩んだ挙句、彼は後者を選ぶ。

裁判にかかずらうことで、学業に支障が出ると考えたからだった。

とにかく、先生は残された財産を手に故郷を捨てた

文字通り「たった一人」で生きていくことを決意したのである。

この時、先生の胸には、叔父への怒りと憎悪とともに、ある観念が刻み込まれた。

――どんなに立派に見える人間でも いざという時に悪人になるのだ――

後に先生は、「青年」に対して、こう言っている。

平生へいぜいはみな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。(先生と私 二十二)

叔父に裏切られた先生は、このとき強く誓った。

絶対にだれも信用しない。

絶対に誰にも騙されない。

信じられるのは、自分ただ一人だけだ。

やがて、先生は「お嬢さん」のいる下宿に住むこととなる。

天真爛漫なお嬢さんや、さっぱりした奥さんとの交際を通して、頑なな彼の心は次第にほぐれていった。

やがて彼は、お嬢さんに恋をする。

ただ、やはり彼の心にあったのは、「誰のことも信じちゃだめだ」という人間不信。

まだまだ彼は、人を信じることができないでいるのだった。

そんな中、彼らの生活に、もう1人の男が加わることとなる。

それが、先生の友人「K」だった。

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解説「先生」のエゴイズム①

「K」と「先生」の故郷は同じ。

2人は幼い頃からの友人同士だった。

強い理想と信念を持つ「K」もまた、家族問題でゴタゴタのさなかにあった。

先生はそんなKのために、一肌脱いでやろうと、こう考えた。

「おれもお嬢さんのおかげで心が慰められたのだ。Kもきっと同じだろう」

そして、Kに声をかけ、気の乗らない彼を無理やり下宿に招き入れるのだった。

実はそこには、先生の「打算」があった。

先生は「友人のために一肌脱いでやる、男気あるオレ」というのを、思いを寄せるお嬢さんと奥さんに、それとなくアピールをしようとしたのだった。

もちろん、先生の行動はKを思うからこそのものだったといえる。

ただ、彼の心の奥底には「Kを利用して、お嬢さんを手に入れる」という、否定しがたいエゴイズムが潜んでいた。

だからこそKと自分との間に「利害関係」が生じるや、先生の態度は豹変する。

Kから「お嬢さんへの恋」を告白された先生は、徹底的にKをやっつけようとした。

理想と現実のはざまで苦しむKは、先生に批評を求める。

「こんな弱いオレを、おまえ、どう思う?」

すると先生はここぞとばかりに、弱り切った友人に牙を向ける。

「道のためなら全てを犠牲にするって、普段あれほどいってたよね? それなのに、今の君はお嬢さんへの恋にうつつを抜かしてる。君の理想と現実はまったく矛盾しているじゃないか」

先生は、Kにとって最もつらい点を指摘した。

そして、ここに続くのが、有名すぎる「あの言葉」だ。

精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

この発言の意図について、先生は「遺書」でこう述べている。

私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。(先生と遺書 四十一)

Kを倒すため。

お嬢さんを手に入れるため。

「ここしかない」という絶妙なタイミングで、先生はKに言い放ったのだった

そして、同じこの言葉を、更に2度も繰り返す。

精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

「馬鹿だ」

Kは憔悴したようにつぶやく。

「僕は馬鹿だ」

完膚なきまでにKを叩きのめした先生。

その後も、Kを出し抜いて奥さんに直談判をする。

「奥さん、お嬢さんを私にください」

こうして、お嬢さんとの結婚を決めてしまった先生。

繰り返すが、その背後には先生の「エゴイズム」が否定しがたく存在している。

――どんなに立派に見える人間でも、いざという時に悪人になるのだ――

それは、叔父に裏切られた彼が、あれほど痛感した人間観だったはずだ。

「叔父」と「先生」。

この2人を冷静に見比べた時、はたして両者にどんな違いがあるだろうか。

しかし、この時の先生に その視点はない。

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解説「先生」のエゴイズム②

先生はKを下宿に招き入れたことにより、

「Kはお嬢さんへの恋に進むんじゃないか?」

「Kにお嬢さんをとられてしまうんじゃないか?」

という、猜疑心と劣等感に苦しめられてきた。

そして、Kを出し抜き、まんまとお嬢さんを手に入れた。

だけど、今度は、別の感情が先生を苦しめることになる。

「良心の呵責」だった。

先生の裏切りなど、何も知らないK。

そんな普段と変わらないKの姿を見た時、先生は激しい罪悪感に襲われる。

私はその刹那、彼の前に手を突いて、謝りたくなったのです。(先生と遺書四十六)

しかし、先生はKに謝ることも、すべてを打ち明けることもしなかった。

なぜなら、このとき下宿には、奥さんもお嬢さんもいたからだ。

「自分が今ここでKに全てを打ち明ければ、お嬢さんにも全てがバレてしまう。――友人を裏切った卑劣な男―― そんな風に、お嬢さんから幻滅されたくない」

とっさにそう思った先生。

結局、彼はKに謝罪することなく、その機会も永久に失われることとなった。

「良心の呵責」よりも「利己心」「自己保身」が勝ったのである。

しかし、先生の「エゴイズム」はこれにとどまらない。

それが最も露見するのは、まさにKが死んだ日の晩のことだった。

その晩のこと。

枕もとから吹き込む風で、先生は目を覚ました。

そして、Kの部屋の襖が少しだけ開いているのに気が付いた。

見ると、その向こうには、Kが布団の上で突っ伏している。

「おい」

そう声をかけるが、何の反応もない。

「おい、どうかしたのか」

それでもKの身体は動かない。

不審に思った先生は起き上がり、敷居際まで行った。

そして、それを目にしたとき、彼は戦慄した。

私はまたああ失策しまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがたと震えだしたのです。(先生と遺書 四十八)

先生の目に映ったのは、小さなナイフで頸動脈を切って倒れているKの姿だった。

しかし、ここで彼が真っ先に優先したのは「友人」ではなく「自分自身」だった

それでも私はついに私を忘れることが出来ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。(先生と遺書 四十八)

目の前で友人が倒れている。

だけど、まだ息はあるかもしれない。

今ならKを助けることができるかもしれない。

そんな視点だって、あったはずなのだ。

だけど、先生が向かったのはKではなく、「Kの遺書」だった。

それは予期通り私の名宛なあてになっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したようなことは何も書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き連ねてあるだろうと予期したのです。(先生と遺書 四十八)

先生が真っ先に「Kの遺書」に向かった理由。

それも先生の「自己保身」のためだった。

もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました。(先生と遺書 四十八)

このシーンは、何度読んでも「人間」という存在の不気味さや恐ろしさを感じさせられる。

頸動脈を切った友人が目の前に倒れている。

それにもかかわらず、真っ先に向かったのは友人ではなく、彼の遺書。

そして「自分にとって不都合なこと」が書かれてないことを確認するや、途端に安堵し、こう思うのだ。

――助かった――

人間というのは、結局「自分」に執着してしまう生き物なのだろうか。

いつだって優先するのは「私」自身なのだろうか。

人間の「エゴイズム」は、一体どれだけ根が深いのだろうか。

僕は『こころ』を読むとき、いつも「人間」の寂しさや不気味さや恐ろしさを感じてしまう。

 

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解説「先生」と「お嬢さん」の関係

Kの死から約半年後に、先生とお嬢さんは結婚する。

しかし、2人が「幸福」を手にすることはなかった。

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべき ”はず” です」(先生と私 十)

「自分たちは幸福であるはずだ」

先生がそう口にするのは、現実として2人が幸福とは程遠い生活を送っているからだ。

それはなぜなのだろう。

『こころ』の終盤では、愛するものとさえ繋がれない「先生の孤独」が描かれていく。

先生は妻に「Kとの顛末」の一切を打ち明けようとしない。

その理由はこうだ。

私はただ妻の記憶に暗黒な一点いんするに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一滴の印気でも容赦ようしゃなく振りかけるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈してください。(先生と遺書 五十二)

妻を悲しませたくない。

それは一見して、先生の優しさのように映るかもしれない。

だけど、本当にそれは「優しさ」なのだろうか

先生は「Kへの罪」を1人抱え込んでいるがゆえに、妻とも素直に関わることが出来ないでいる。

時にはきつく、時には冷たく、妻に対して非情に接することしかできない先生。

だけど当の妻には、先生の態度の「真の理由」など知る由もない。

だからこそ、彼女はいつも自分自身を責めるしかない

後に彼女は、「青年」にこう語っている。

「私はとうとう辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」(先生と私 十八)

ここまでして、妻に全てを打ち明けない先生。

その態度は「優しさ」なんかではなく、正真正銘の「エゴイズム」だと言わざるを得ない。

結局のところ、純白な妻のこころを汚したくないと思うのも、先生の「身勝手さ」であり「独りよがり」だといっていい。

要するに、妻に全てを打ち明けることに、彼自身が耐えられないのだ。

とはいえ、「妻に打ち明けられない現状」というのもまた、彼自身を苦しめ続ける

世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞せきばくでした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。(先生と遺書 五十三)

愛するものとさえ繋がれない孤独。

今の先生にとって、これほどの苦しみはない。

だけど、彼の「利己心」は愛するものさえも遠ざけてしまう。

叔父に裏切られ、Kを裏切り、「真実」は胸の奥にしまい込み、妻とも繋がれずにいる。

そんな「孤独」にさいなまれ続ける先生。

そんな彼が最後に信じようとした相手、それが「青年(私)」だった。

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解説「先生」の「青年」への言葉

さっそく、先生の「青年」に対する言葉を引用したい。

この言葉が、このときの先生の「孤独」を良く言い当てている。

やや長い箇所だが、一言一句、じっくりと味わってほしい。

「私は過去の因果で、人をうたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」(先生と私 三十一)

「真面目です」

そう答えた青年。

後に先生の「遺書」が青年に送られるのは、こうした会話があったからだ。

先生は青年に会ってから、彼に全てを告げたいと密かに思ってきたのだった。

だからこそ、「青年に向けた言葉」の端々には、先生の様々な思いが表れている。

そんな先生の言葉は、大きく2つの主旨に分けることができるだろう。

  • 自分は人間を信じることができない
  • 自分は誰とも繋がることができない

というものだ。

ここでは、そんな先生の言葉をいくつか引用したい。

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」 (先生と私 十四)

「恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解わかっていますか」(先生と私 十二)

「平生はみん善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(先生と私 二十二)

私は死ぬ前にたった一人で好いから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか」(先生と私 三十一)

これらは全て、「叔父に裏切られたこと」と「Kを裏切ったこと」といった、先生自身の過去に由来している。

この時の青年には先生の「真意」は分からなかった。

が、後に先生の「遺書」を読み、これらの言葉の重みに気が付くことになる。

「自分は誰も信じられない」

「自分は誰とも繋がれない。」

先生の言葉には、彼がずっと抱えてきた「諦念」「孤独」が色濃く表れているのだ。

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考察「乃木希典の死」は無関係か

さて、いよいよここからは「先生の自殺の理由」について考察をしていきたい。

改めて結論を言おう。

先生が自殺した理由は、大きく2つあった。

  • 自分が「善人」でないことを悟ったから(存在への絶望)
  • 自分が誰とも繋がれないことを悟ったから(強烈な孤独)

である。

以下では、「遺書」に書かれた具体的な言葉を頼りに「自殺の理由」について考えたい。

まず、さいしょに強調しておきたいことがある。

それは、

「乃木希典の殉死」は「先生の自殺」の直接の原因ではない

ということだ。

明治天皇が崩御し、その後を追うようにして乃木は殉死した。

乃木の死を知った時、先生は妻にこう言っている。

私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。(先生と遺書 五十六)

先生が自殺を決心するのは、この2、3日後とされている。

一見して、先生は本当に「明治時代」の終焉とともに自殺したかのように見える。

ただ、やっぱり、先生の自死には不可解な点が残る。

「先生は明治の精神に殉死したのだ」

その結論は、「先生の過去」を知れば知るほど突飛で不自然なものに映るからだ。

おそらく、多くの読者が、

「……で、結局、先生ってどうして自殺したの?」

と困惑してしまうのは、この「明治の精神に殉死する」という先生の言葉のせいなのだ。

この「乃木の殉死」と「先生の自殺」の関係について、僕たちは慎重になる必要がある。

まず、先生は「青年」にこんな断りを入れている。

「私に乃木さんの死んだ理由がよく解わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れません」(先生と遺書 五十六)

この時の先生は「明治の精神に殉死する」という「自殺の理由」の不合理について認めている。

彼の言葉の裏には「真の理由はもっと別にあるのだ」という意味が込められていると思われる。

では「乃木の殉死」とは、先生にとって一体なんだったのだろう。

ここで結論を言う。

「乃木の殉死」は、先生にとって「自殺の理由」ではなく、あくまでも「自殺のきっかけ」にすぎなかったのだ。

それはちょうど、「コップ」と「水」のたとえで説明できる。

Kが死んで以来、先生の孤独や絶望は、一滴一滴と彼のこころの「コップ」を満たしてきた。

そして、いよいよそのコップは溢れる寸前の状態にまでなってしまう。

つまり、自殺一歩手前ということだ。

そんな中で、先生は「最後の一滴」を、つまり「自殺するきっかけ」を探していたのだろう

それが「乃木の殉死」だったわけだ。

乃木希典は軍人で、西南戦争の頃にミスを犯してしまった。

その責任を取るべく、すぐに自死しようと思った乃木。

ところが、彼は明治天皇にたしなめられる。

「今は死ぬときじゃない。死ぬならオレが死んでからにしろ」

こうして乃木は、「罪の意識」をずっと引きずって生きてきた。

その期間は35年。

先生は、その乃木の「罪悪感」と「自死」を思い、こんなことを言っている。

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を探していたらしいのです。そういう人にとって、生きていた三十五年が苦しか、また刀を腹へ突き立てた一刹那せつなが苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。(先生と遺書 五十六)

ここで先生は、「乃木」と「自分」とを重ね合わせている

  • 西南戦争でミスをした「罪の意識」を引きずって生きてきた乃木。
  • Kを裏切った「罪の意識」を引きずって生きてきた自分自身。

「自分と同じような境遇で苦しんできた乃木が自殺した」

これ以上の「きっかけ」はないと、先生は思っただろう。

乃木の殉死……

それは、先生にとって最後の「一滴」に過ぎなかったのだ

多くの識者がしたり顔で解説する「明治」とか「歴史」とか「時代」とか「精神」とか。

そういった「大義名分」は、先生の自殺に介在してはいない。

あるのは、先生の実存的な「絶望」と「孤独」だけなのだ。

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考察「存在への絶望」について

では、その真の「自殺の理由」について考察を深めたい。

まず一つ目の「善人でないことを悟った」について。

先生にとって「善人」とか「悪人」とかいうのは、大きな問題だった。

彼にとって「悪人」とはもっとも憎むべき存在であり、それを代表するのが例の「叔父」だった。

ところが「Kへの裏切り」を経験したことで、先生は自分もまた「叔父」と変わらない存在であることにふと気が付く

叔父にあざむかれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、ひとを悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこのおれは立派な人間だという信念がどこかにあったのです。

それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。(先生と遺書 五十二)

かつて叔父からの裏切りで彼の内に生まれたのは「潔癖な倫理観」「注意深い猜疑心」だったといえる。

そして「絶対に誰にもだまされまい」と自分だけを頼みにしてきた先生。

自分だけは正しい人間だ。

自分の理性だけはあてになるんだ。

そんな「存在への信頼」というものが、ここにきて崩壊を迎えることになる。

――結局おれは、憎悪してきた あの叔父と何ら変わらない人間だったのだ――

「ふらふら」としたのも、「動けなくなった」のも、まさしくそんな先生の「絶望」があったからだろう。

悪人は絶対に許さない。

そんな「潔癖な倫理観」をもった先生だったが、今度はその倫理観が自らを鋭く裁いてくる。

それはちょうど、「K」が自らの信念によって「所詮、俺は弱い人間だったのだ」と苦悩したのと、構造は一緒だといっていい。

こうして先生の「自分だけは善人だ」という拠り所は、ガラガラと崩れ去ってしまったわけだ。

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考察「強烈な孤独」について

そして、もう一つが「先生の孤独」である。

「存在への絶望」というのも、結局はこの「孤独」へと繋がっていくのだし、これこそが真の「先生の自殺の理由」だといってもいい。

先生の遺書には、次のような言葉がある。

私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。

    (中略)

現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまたっとしたのです。私もKの歩いたみちを、Kと同じように辿たどっているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過よこぎり始めたからです。(先生と遺書 五十三)

要するに、この時の先生は「Kの自殺の理由」について、こう考えているわけだ。

「理想と現実のギャップだけじゃ説明できない。それよりも、強い孤独を感じたから、Kは自殺したんじゃないだろうか

この時先生は、自分自身の現状と「Kの自殺」を照らし合わせている。

Kもまた理想と現実のギャップに苦しんでいた。

  • 「道のために全てを犠牲にする」という理想
  • 「お嬢さんの恋に迷う」という自らの現実

この理想と現実のはざまで、Kは苦悩していた。

だけど、それだけでは不十分だと、先生は思い至る。

Kが死んだ最大の理由は、

「1人で淋しくて仕方がなかったからだ」と、結論をする。

そして、先生もまた、いまやKと同じ孤独を抱えている

先生の「孤独」というのは、これまで丁寧に確認をしてきたところだ。

自分は恋に勝つために、友人を裏切り、そして陥れた。

そうやって一緒になった妻とも、繋がることができない。

すべては彼の「利己心」=「エゴイズム」に由来するものだ。

――結局、自分だって独りぼっちだったのだ――

その強烈な実感と確信が、先生を「自死」に追いやった最大な理由だといっていい。

結論「先生の自殺の理由」は2つ

以上、Kの自殺の理由について考察してきた。

改めて、彼の「自殺の理由」を示すと、次の2つということになる。

  • 自分が「善人」でないことを悟ったから(存在への絶望)
  • 自分が誰とも繋がれないことを悟ったから(強烈な孤独)

叔父に裏切られ、「絶対に誰も信用しない」と生きてきた先生。

「人間なんてあてにならない」

「頼れるのは、他でもない自分だけ」

そう信じて生きてきたのに、彼自身が友人を裏切ってしまった。

――自分だって、所詮は叔父と同じ人間なのだ――

自分もまた、いざとなればどんな残酷なことでもしてしまう人間なのだ。

先生はそのことを強く悟った。

「存在への絶望」これが1つ目の理由だ。

そして、先生を「苦悩」させる、もっと大きなものがある。

Kをおとしいれてまで手に入れた、お嬢さんとの結婚生活。

だけど、それは「幸福」とはかけ離れたものになってしまう。

自分が犯した罪も、今の自分の苦悩も、彼は妻に告白することができない。

本当に愛すべき人間と、彼は決してつながることができないのだ。

――自分はだれとも繋がることはできないのだ――

「強烈な孤独」これが2つ目の理由だ。

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まとめ「漱石が伝えたかった事」

以上、「先生の自殺の理由」について解説と考察をしてきた。

  • 「存在への絶望」
  • 「強烈な孤独」

これが先生の自殺した理由なわけだが、記事でも軽く触れたが、実はこれ、Kが自殺した理由と全く同じなのだ

【 参考記事  考察『こころ』ーKの自殺の理由、襖が開いていた理由、Kのモデルも徹底解説ー 】

【 Kの自殺した理由 】

・「自分は強い人間になどなれない」と悟ったから(存在への絶望)

・「自分は誰ともつながれない」ことを悟ったから(強烈な孤独)
【 先生の自殺した理由 】

・「自分が善人でないこと」を悟ったから(存在への絶望)

・「自分は誰ともつながれない」ことを悟ったから(強烈な孤独)

2人の共通は、決して偶然ではない。

漱石は「K」と「先生」という人物を通して、ある人間の「真実」を描いているからだ。

その真実こそ、漱石がこの作品で伝えたかったこと、すなわち、こころが人間を孤独にしているということなのである。

  • 「強すぎる自我」に苦しみ孤独になったK
  • 「エゴイズム」の果てに孤独になった先生

2人は「自我」とか「エゴイズム」によって、自らを追い詰め、その果てに死んでいった。

そして、「自我」と「エゴイズム」には別名がある。

それが「こころ」だ。

作者「夏目漱石」もまた、自らの「こころ」に悩み苦しんだ人間だった。

『こころ』のクライマックス、先生がKの遺体を発見するシーンには、こんな表現がある。

私はついに ”私” を忘れることが出来ませんでした。(先生と遺書 四十八)

この「私」とはいったい何だろう。

それは「自我」であり、「利己心」であり、自らに執着する「こころ」であるといっていい。

人間というのは、孤独な存在だ。

悲しんだり、苦しんだり、傷ついたり、傷つけられたり。

いつだって他者を退けるし、そうして自分自身を損なっている。

それはなぜなのか。

漱石は、そこに一定の答えを出した。

人間には「こころ」があるから、である。

漱石の晩年の境地に、

「則天去私」

というものがある。

これを書き下すと、「天に則って、私を去る」になる。

この「私」とは、先生が言った「私」と全く同じももの。

つまり「自らに執着する“こころ”」のことである。

また、「天」というのは、あらゆる存在を包み込んでいる 大きな「原理」のこと。

それは、「自然」とか「運命」とか、いろんな言葉で言い換えることができるだろう。

つまり、漱石の「則天去私」という言葉には、

「自らへの執着を絶ち、自らを包み込む大いなる『原理』に身を委ねることができれば、人間は苦しみを乗り越えることができる」

という意味が込められている。

漱石の一生は、人間の「エゴ」を目の当たりにする人生だった。

【 参考記事 天才「夏目漱石」のまとめー人物と人生の解説・代表作の紹介ー

そんな彼だからこそ、人間の「こころ」が何であるのか、そのことがよく見えていたのだろう。

彼は『こころ』の広告文でこう書いている。

自己の心を捕へんとほっする人々に、人間の心を捕へたる此この作物をすすむ。

『こころ』が名作とされる理由は様々だろう。

その中でも僕は、『こころ』という作品の魅力と「漱石」の偉大さは、人間の「こころ」が生み出す普遍的な「孤独」を描き切った点にあると思っている。

以上、『こころ』の解説を終わります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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コメント

  1. しほ より:

    記事全部読みました。「私」が奥さんと結ばれているという視点になるほどと感じました。それを踏まえて、気付きがあったので共有したいと思います。
    「私」=「K」の生まれ変わり、という考察です。そうすれば、11頁11行目「どうもどこかで見たことのある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か想い出せずにしまった。」のも腑に落ちる気がします。きっとめったに人と関わらない「先生」は「私」が「K」だと気が付いたから「私」を受け入れたし、「私」に遺書として秘密を明かした。「私(K)」が表れたから奥さんを残して死ぬことに心配がなくなった。→自分の秘密を打ち明けて「私」と「奥さん」が結ばれるという考察に繋がると思います。他にも腑に落ちる部分があったのでそういう視点で再度読んでみてください

    • ken より:

      コメントありがとうございます。
      さっそく件の箇所を読んでみました。確かにそうした読みも可能ですね。僕はこれまで『こころ』を現実的な作品として読んできたのですが、しほさんの指摘を受けて「なるほど」とうならされました。そして、改めて『こころ』という作品の深みや可能性について考えさせられた次第です。「私=K」という視点に立ちつつ、改めて『こころ』を読んでみたいと思います。新たな視点をありがとうございます!

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