はじめに「数年に一度の傑作」
『ハンチバック』は、第128回文學界新人賞受賞作にして、第169回芥川賞受賞作だ。
芥川賞作品を含め、多くの純文学作品を読んできた僕だが、
「久々にすげえのが出てきたぞ」
と、そんな風に思える、個人的に数年に一度の傑作だと思う。
主人公は先天性ミオパチーという難病指定されている筋疾患を患った女性であるが、作者の市川沙央自身も同疾患を患っている。
作中の随所に描かれる「身体的な苦痛」や「身体のままならなさ」、「世間からの疎外感」、「自己否定や自暴自棄」……そうした細部には、ありありとしたリアリティと切実さとがあって、それも本作の魅力の1つだと思う。
とはいえ、本書が持つ強烈な「熱量」を説明するには、それだけでは全然足りない。
そこで、この記事では本書『ハンチバック』について、僕なりに解説と考察をしていきたい。
お時間のあるかたは、ぜひ最後までお付き合いください。
ちなみに大々的なネタバレを含んでいるので、未読の方は注意をしてほしい。
登場人物
伊沢釈華 …ミオチュブラー・ミオバチーという筋疾患を患う女性(43歳)。病のため背骨が右肺を押しつぶす形で極度に湾曲している。自らを「ハンチバック(せむし)の怪物」と呼ぶ彼女は、グループホームの一室から、「子どもを宿して中絶するのが私の夢」とツイートする。
田中 …釈華が入居するグループホームで働く男性ヘルパー(34歳)。釈華のTwitterのアカウントを知っている。「1億5500万円と引き換えに性行をしないか」という釈華の提案に乗る。
山下 …釈華が入居するグループホームのマネージャー(44歳)。釈華に対して親身なケアをする。
須崎 …釈華が入居するグループホームの女性ヘルパー。
浅川 …釈華が入居するグループホームの女性ヘルパー。
山之内 …釈華と同じグループホームに入居する男性(50代)。脊椎を損傷している。
あらすじ
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考察①「ハンチバック」とは
「せむし」と聞いて、すぐにピンと来る人は、そう多くはないと思う。
というのも、現代の日本において「せむし」というのは差別用語と考えられていて、基本的に日常で使用されない言葉だからだ。
まして、その英訳である「ハンチバック」なんて、普通に生活していれば、まず耳にしない単語だといっていいだろう。
「ハンチバック(せむし)」とは、背骨がかがまって弓なりに曲がる病気や、または、その病気の人を指す言葉だ。
そして、本作のタイトル「ハンチバック」は、ミオパチー患者である主人公「伊沢釈華」を指している。
それが作中で最初に明かされるのは、次の場面である。
せむしの怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。(単行本P21より)
こんなふうに、釈華は自らの姿形を「せむしの怪物」と呼ぶ。
「せむし」という差別用語に「怪物」という言葉までくっつける釈華、その背後にはいったいどんな思いがあるのか。
まさに、それを読み解くことが本書「ハンチバック」を読み解くことなのだが、ここでは敢えて、ある一つの感情について考えてみたい。
それは「ルサンチマン」である。
ルサンチマンの意味を簡単に説明すると、次の通り。
「せむしの怪物」と自称する釈華の内面には、「自分は弱者である」という拭い去りがたい自己否定の感情がある。
「せむし」という言葉には、文字通り釈華の「身体的な特徴」が露骨に表現されているワケだが、その身体の「ままならなさ」はもちろんのこと、ミオパチーによる具体的な「痛み」や「苦しさ」なんかも表現されているだろうし、そこに加えて「真っ当な人生を送れない者」という意味も込められている。
改めて先ほどの引用をもう一度見てみると、
「背骨が曲がったねじくれた自分」と「背骨が真っ直ぐな真っ当な人々」といった対照を見て取ることができる。
「自分は健常者のように真っ当な人生を送ることができない」
世間からの疎外感、ままならない身体、そして具体的な痛みや苦しみ…・…
こうしたものから来る自己否定の感情が「せむしの怪物」という言葉の背後にある。
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考察②「涅槃」とは
とはいえ、本書「ハンチバック」は、ただの「ミオバチー患者のルサンチマンをぶちまけただけの物語」なんかじゃない。
とにかく僕はこの記事で、その点について強調しておきたいと思っているので、早々に僕の結論を言っておこうと思う。
本作『ハンチバック』は、「ミオバチー患者の釈華が、病からくる割り切れなさを抱えながらも、自らの尊厳を守り抜こうとする物語」である。
そのことを象徴するものが作中に何度も登場する「涅槃」という言葉だろう。
作中で最初に涅槃が登場するのは、次のシーンだ。
私は29年前から涅槃に生きている。(P8より)
さて、この「涅槃」という言葉を、当の釈華はどのような意味で使っているのだろう。
それは大きく次の2つだ。
- 座りっぱなしの現状
- 俗世間から離れた生活
そもそも「涅槃」というのは、仏教で「悟りの境地」を表す言葉である。
そこから「極楽浄土」を意味したり、さらにそこから派生して「この世とは別の世界」を意味したりする言葉である。
また、お釈迦様といえば、座って悟りの境地に至ったことは有名で、「お釈迦様=座っている」という一般的な認識も下敷きになっているといっていい。
ということで、釈華は29年前から、
「座りっぱなしの、俗世からかけ離れた引きこもり生活をしている」
ということになる。
と、こう書くと、
「やっぱりここでも自己否定かよ! ルサンチマンかよ!」
そう思う人も多いかもしれない。
ただ、改めて思い出してほしいのは、「涅槃」という意味の持つポジティブな意味合いである。
繰り返すが「涅槃」というのは本来「悟りの境地」とか「救済」を意味する言葉である。
とすると、「私は29年前から涅槃に生きている」という釈華の言葉には、(本人は意識をしていないにしても)、次のような意味が暗示されていることがわかる。
それは、
「私は29年前から救われている」
という意味だ。
と、こう書くと、なんだか薄ら寒い“きれい事”“に聞こえるかもしれない。
だけど、繰り返すが、僕はこの「涅槃」という言葉こそ本書を読み解く重要なキーワードであり、この言葉があるからこそ、『ハンチバック』がただの「ルサンチマン垂れ流し物語」と一線を画しているのだと考えている。
さて、話を戻すが、「ミオパチーを患う釈華がすでに救われている」とは一体どういうことなのか。
それを理解する上で、ぜひ引用しておきたい箇所がある。
ちょっと長い箇所だが、大事なところなので、ぜひお付き合いいただきたい。
壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンのあたりで控えているヘルパーを手を叩いて読んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまでたどり着けない。(P80より)
これは、物語のほとんど最後の方で記される「釈華の独白」である。
読んでもらえれば一目瞭然で、僕がさきほど言ったこと、つまり「釈華はすでに涅槃にいる」といったことを、釈華自身が語っているのである。
だけどその後すぐに、「自分はまだそこまでたどり着けない」と続けられるように、釈華自身は、そのことを 実感として理解できていない。
――生きているだけでも尊い。
――救いは、今、ここにある。
こうしたことを、実は釈華は知っている。
だけど、そのことを、自らの実感として、人生の手応えとして理解しているわけではない。
むしろ、釈華の自意識を巣くっているのは、自己卑下や、自己否定、そして自暴自棄の感情である。
だけど、本書を読めば誰でもわかる。
釈華はそうした、自分自身に対する割り切れなさを抱えつつも、それでも自らの尊厳を取り戻そうとしているのだ。
その具体的な行動の一つ、それが、“紗花”による一連のツイートなのである。
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考察③「ツイートの真意」とは
釈華には零細アカウント(誰からも見られていないアカウント)があり、そこでは紗花という名前で、自らのルサンチマンをぶちまけている。
つまり、弱者の憤り、恨み、憎しみ、妬みといった「負の感情」を、人知れずTwitterで発信しているのだ。
〈マックのバイトがしてみたかった〉
〈高校生活がしてみたかった〉
こうしたものに始まり、
〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉
と、こう来て、ついに、
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉(P17より)
である。
この釈華の屈折した心理を説明することは、とても難しい。
釈華の心理について軽々しく言葉にするべきじゃないのだろうし、そもそも釈華自身も、自分の堕胎願望の正体がなんなのかわかっていないのかもしれない。
だけど、次の釈華自身の言葉には、彼女の心理を読み解く重大なヒントがあると思う。
Buddhaと紗花は下品で幼稚な妄言を憚りなく公開しつづけられた。蓮のまわりの泥みたいな、ぐちゃぐちゃでびちゃびちゃの糸を引く沼から生まれる言葉ども。だけど泥がなければ蓮は生きられない。(P52より)
蓮というのは、もちろん釈華のことである。
そのことは、釈華( = 涅槃の華 )という名前にもしっかりと現れている。
蓮の花が、きたない泥がなければ生きていけないように、自分自身も泥のようにぐちゃぐちゃになった汚い言葉を( だけど、自分の本当の言葉 )を吐き出さなければ、生きてはいけない。
釈華は、自分の一連のツイートについて、そう告白をしているのである。
――自分が生きていくために、言葉が必要。
それがたとえ、どんなに汚くても、どんなに倫理や道徳に反したものだとしても、釈華には世間に発信することが必要だった。
それは、「自分が人間であること」や「自分が社会に存在していること」を自らに言い聞かせることでもあった。
「妊娠して堕胎すること」について、釈華は次のように述べている。
私はあの子たち(健常者)の背中に追いつきたかった。産むことはできずとも、下ろすところまでは追いつきたかった。(P28より)※( )内は引用者補足
自分には健常者のような人生を送れなかった。
きっと、これからも送れないだろう。
そうした思いはルサンチマンとなって、釈華の心を満たしていく。
そのルサンチマンを、世間に吐き出さなければ、自分は生きてはいけない。
そんな社会的な弱者の「実存的な叫び」が、紗花のツイートの本質なのであり、「妊娠して堕胎したい」という言葉の真意なのだ。
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考察④「赤いスプレー」とは
釈華のルサンチマンは「赤いスプレー」のくだりにも良く現れている。
本書では、次のように記される。
米津知子はポリオの後遺症で装具をつけた右足を引き摺っていたリブ活動家だ。重なり得ないと嘯きつつも、東京国立博物館にやってきたモナ・リザに赤いスプレーを引っかけようとした彼女には、少なからず共感する。(P44より)
この米津知子という女性は、実在している。
1974年に東京国立博物館で開催された「モナ・リザ展」で、モナ・リザの絵に赤いスプレーを噴射して、逮捕・起訴された女性、それが米津知子である。
釈華は、そんな米津に共感をしているという。
では、米津の心理とは、いったいどういうものだったのだろう。
おそらくこれも、米津の「ルサンチマン」が大きく絡んでいると考えられる。
米津もまた、自らを弱者とみなし、その憤りや憎しみを心の内に満たしていったのだろう。
そして彼女のルサンチマンは、「モナ・リザを汚す」という形で噴出する。
「モナ・リザ」とは、「自分にはないものの象徴」である (それは美であったり、富であったり、権力であったりしたかもしれない)。
もっと分かりやすく言えば、「モナ・リザ」は、米津にとっての「憧れの象徴」だったのだ。
ということは、「赤いスプレー」とは、「憧れを汚すもの」と考えて良い。
では、釈華にとって「憧れ」とは何だったか。
それは、自分が送れなかった「普通の生活」であり「普通の人生」である。
そうした「普通の人生」への憎しみ、「普通の人生」を台無しにする行為、それが「妊娠からの堕胎」だとすれば、まさに釈華の一連のツイートは、彼女にとっての「赤いスプレー」だったのだ。
「赤いスプレー」を噴射する、その行為は「対象への憧れと憎しみ」の現れである。
そのことを踏まえると、釈華の田中に対する次の言葉の意味が見えてくる。
最初から何もなかったことにだけはしないでほしい。
田中さんにはもっと邪悪でいてほしい。
『私のことは憎んでくれていいから』
TLというより、BLみたいな台詞だ。(P76より)
このとき、釈華は、田中に対して「自分のことを憎んで欲しい」と思っているのだが、それは「憎しみの中には憧れが潜んでいる」ことを、釈華自身が知っているからだ。
つまり、たとえそれが「憎しみ」という負の感情であったとしても、それを通して「自分の存在」を認めて貰いたい、釈華はそう願っているのである。
だからこそ、田中が約束の1億5500万円に手をつけずに姿を消したことに、釈華はいいようもない悲しみを感じているのだ。
それは田中の釈華に対する「憐れみ」(同情・憐愍)の表れだからだ。
そうした田中(健常者からの)憐れみを改めて感じた釈華はこういう。
そう。その憐れみこそが正しい距離感。
私はモナ・リザにはなれない。
私はせむしの怪物だから。(P81より)
モナ・リザというのは、いうまでもなく「憧れと嫌悪の対象」である。
自分は誰かから憧れられるような存在にはなりえなかった。
たとえそれは、「憎しみ」を通したとしてもだ。
むしろ自分は、誰からも同情される存在だったのだ。
そのことを痛感し、「私はせむしの怪物だから」と結論する釈華。
このシーンの悲壮感というか哀愁というかは、作中でもっとも読者の胸に刺さるシーンだと断言できる。
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・
考察⑤「ラストシーン」の解釈
なのに、である。
なのに、作品はここでは終わらない。
率直に言って、僕は『ハンチバック』の読後、
「なぜここで終わらなかった?」
という疑問を禁じえなかった。
というのは、「私はせむしの怪物なのだから」で終わるかに見えた物語は、この後、不可解な聖書の引用があり、さらに別の語り手による記述が数ページ続くのである。
調べてみると、どうやら文學界新人賞の選考においても、このラストをめぐって議論がなされ、選考委員の中でも賛否が分かれたらしい。
うーん、やっぱり。
特に、最後の語り、これは一体だれによるものなのだろう。
ここに関して、困惑した読者もきっと多いはず。
これについて、僕は「釈華が描いた物語」だと解釈している。
つまり、本編の出来事があったその後日、釈華が「紗花」名義で小説投稿サイトか何かに乗せた、いわゆる「作中作」というワケだ。
そう判断するのは、なんといっても、この「作中作」の主人公の名前が紗花であり、あのコタツ記事よろしく「風俗嬢」だからである。
とすると、釈華がこの物語を紡いだ意図とは、一体なんなのだろう。
それは、一連のツイートと考え方は同じであり、この物語もまた、釈華の「実存的な叫び」であり「生きるために必要な物語」だということになる。
実際に、この作中作の中には、釈華本人が登場する。
しかしなんと、彼女はグループホームのヘルパーに殺されているのである。
しかも、釈華を殺したのは、主人公「紗花」の兄、という設定だ。
兄が殺した女の人の少し変わった名前と少し変わった病名を、私は今でも覚えていた。(P92より)
「変わった名前」というのは「釈華」であり、「変わった病名」というのは「ミオパチー」であり、これは間違いなく『ハンチバック』の主人公「釈華」である。
そして、作中作では、次のように語られる。
彼女(釈華)が紡ぐ物語が、この社会に彼女を存在せる術である(略)。(P93より)※( )内は引用者補足
ここで、この記事でも考察をしてきた、
「釈華は、生きていくために言葉を紡いでいたのだ」
ということが、改めて明らかにされる。
そして、「妊娠からの堕胎」を望んだ釈華の思いも次のように明かされる。
釈華が人間であるために殺したがった子を、いつか/いますぐ私は孕むだろう。(P93より)
ここでも、釈華の「妊娠して中絶するのが夢」というツイートの目的が、「人間であるため」、「生きるため」であったことが語られている。
やはり、この「作中作」は、釈華が書かねばならなかった物語であることは明白で、ここには、釈華の「自分の尊厳を守る言葉」の数々が紡がれているのである。
そう考えた時に、やはり次の一文が、もっとも重要で、もっとも象徴的である。
私は光を見つめる。光の向こうに蓮の花が咲く。泥の上に咲く涅槃の華だ。(P92より)
「涅槃の花」というのは、「釈華」を表していることは、この記事でも述べた通り。
「泥」というのは、汚くてぐちゃぐちゃな、だけど生きていくために必要な釈華がつむぐ「言葉」の数々であることも、この記事で述べた通り。
そうしたことを踏まえて、この謎の「作中作」を読んでみる。
すると、
「釈華が自分の尊厳を守ろうとして紡いだ、泥のようにぐちゃぐちゃな物語」
のように、僕には見えるのだ。
このラストシーンには、一般読者からも、きっと多くの賛否が寄せられるだろう。
僕は正直、このシーンはなくてもいいかなと思ったクチである。
だけど、このラストシーンの端々に、釈華の「実存的な叫び」が現れているのだとすれば、それはやはり、釈華にとって「書かねばならない物語」だったのだろう。
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おわりに「ルサンチマンの別名」
以上、『ハンチバック』について、僕なりの考察と解説を行ってきた。
この作品を読んで改めて思うこと、それは、
「小説(=文学)ってルサンチマンの別名だよな」
ということである。
僕は、自分の人生の中で、様々な「生きづらさ」を感じてきたし、自分の「弱さ」や「ままならさ」を感じてきた。
もちろん、その「生きづらさ」というのは、釈華の比ではないだろうし、同じ性質のものではないので、同列に語ろうなどとは微塵も思わない。
だけど、
「生きるためには、たとえグチャグチャであっても言葉が必要だ」
という、釈華の言葉には、激しく共感するのである。
僕は小説に出会って、大げさではなく救われた。
いろんな苦しみがあったからこそ、僕は小説に出会えたのだ。
それって実は、幸せなことなんじゃないだろうか?
だけど、一方で、こうも思ってしまうのだ。
「小説なんかとは無縁のまま、呑気に笑っている奴らのほうが、実は全然幸せなんじゃないか?」
そう思う時、僕は「結局、小説なんてルサンチマンの別名なのかな」などと考える。
要するに「弱者の言い訳」みたいなもの、それが「小説」の正体なんじゃないかと思うのである。
だって、そもそも「小説」って言葉が「小人の説」ではないか。
「世間から疎外されて生きづらさを感じる小さな個人」
その憤りだったり、憎しみだったり、怒りだったり、悲しみだったり、妬みだったり……
そうしたものが「小説」であるとすれば、それはやっぱり「ルサンチマン」なのである。
だけど、弱者には、それが生きていくために必要なものなのだ。
強者はきっという。
「はいはい、弱者の負け惜しみね」
負け惜しみがなんぼのもんじゃい!
僕はこの『ハンチバック』を読んで再認した、確信した。
小説って、弱者の負け惜しみの言葉の集積なのだ。
だけど、それは「尊い言葉の集積」だ。
そんなことを改めて教えてくれた『ハンチバック』に僕は感謝している。
そして、生きづらさを感じる全ての人に届くべく、この作品は世に出るべき運命にあったんだろうなあと、そんなことを思いつつ、『ハンチバック』の解説記事を締めくくりたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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コメント
考察面白かったです、読んでいて分からなかった点を質問したいのですが
1.47ページの巨乳を抱きにくいと思ったのは母親がそうだったからだの部分
2.76ページの「お大事に」の意味
3.48ページの性的な〜の部分
となります。読解力がなくてすみません…
コメントありがとうございます。質問いただいた箇所について答えてみます。
>47ページの巨乳を抱きにくいと思ったのは母親がそうだったから
この箇所の主語は、冒頭のコタツ記事の書き手である「ミキオ」となっています。P6に「実は巨乳が苦手なミキオ」と書かれていますが、間違いなくそれを踏まえた描写です。では、なぜミキオは巨乳が苦手なのか。それは、自分の母親が巨乳だったらです。巨乳の女性を抱くたびに、自分の母親を思い出してしまうということなのでしょう。そして、このミキオには、当然、主人公の釈迦が投影されています。それはつまり、何を隠そう、釈迦の母もまた巨乳だったという事です。ここに「巨乳の母親」と「いびつな胸を持つ娘」というコントラストが生まれます。つまり、この箇所は、釈迦の卑屈な自意識を表した箇所だということができます。(巨乳巨乳連呼して失礼いたしました)
>76ページの「お大事に」の意味
奇遇ですね。僕もこの箇所は、ずっと不可解で、どう解釈したらよいものか悩んでいます。田中がどういう意図で「お大事に」といったのかは、結局のところ誰にもわかりません。ただ、釈迦は、特定の意味で田中の言葉を受け止めたことが「もちろんそれくらいの読解は、私にもできた」という個所から読み取れます。では、釈迦は田中のことばをどう受け止めたのか。「(iPhone)を大切にしろよ」でも「(病気の身体を)大切にしろよ」でもないことは明らかです。では、残るものは一体何か。おそらく、釈迦は「(自分自身の尊厳を)大切にしろ」と受け止めたのではないでしょうか。死にかけるくらいに自分の体を酷使し、堕胎するために田中と性行為しようとする。それは、とりもなおさず、自らの尊厳を破壊する行為とも言えます。そのことを、釈迦自身、理解していたからこそ、田中の「お大事に」という言葉に特別な意味を見出したのかもしれません。(ただ、繰り返しになりますが、田中がそこまでの意味を込めてたのかは誰にも分かりません)
>48ページの性的な〜の部分
この箇所は字面通り「障碍者は性的な対象として見られない」という意味で理解してよいと思います。釈迦はここで「障碍者は性的な対象に見られない」という価値観が、あたかも社会通念であるかのように言っていますが、ここには釈迦自身の「自己否定」の感情が現れているといっていいでしょう。つまり、釈迦自身が「自分は男性から性的な目で見られない存在である」という自意識を持っており、そうした意識から発した言葉が、件の箇所なのだと思います。
以上、質問に答えてみました。甩さんがコレで納得してくださるかは分かりませんが、おそらく、こんなところなのではないかと思います。基本的に『ハンチバック』という作品には、釈迦自身が持つ自己否定の感情が強く表れています。上記の三か所も、そんな釈迦の自己否定の感情が表出した箇所である点で共通していると思います。
では。また、時間のある時に、ブログに遊びに来てくださいね!
詳細にかつ分かりやすくありがとございました!他の記事も読んでみようと思います!(夜分にすみません)