はじめに「生きよ堕ちよ」
敗戦後、混迷する日本人の前に現れた『堕落論』
これまでの「道徳観」を批判し、自明視されていた「制度」を解体し、日本人に「堕落」する必要性を説いた本書は、多くの日本人を奮い立たせたといわれている。
なぜ『堕落論』は日本人の心に刺さったのか。
『堕落論』に託されたメッセージとは何なのか。
坂口安吾の言葉にはどんな魅力があるのか。
この記事では戦後文学を代表する評論文『堕落論』について徹底解説をしていきたい。
ぜひ、お時間のあるかたは最後までお付き合いください。
解説①日本人の“美徳”を批判
そもそも“日本人の美徳”とは
さっそくだが、日本人にとって「美徳」とはなんだろう。
ちまたには「日本人とは何か」を説く、たくさんの“日本人論”であふれていて、その主張も様々なので「これが日本人の美徳だ!」と断言することは正直いって難しい。
ただ、それらの「日本人論」からザックリとした共通項を抽出し、あえて「日本人にとって美徳とは何か」について答えようとするならば、およそ次のようになる。
「いつも感謝の気持ちを忘れないこと」
「分をわきまえてでしゃばらないこと」
「他人や世間に迷惑をかけないこと」
さて、こう聞いて、きっとあなたは息苦しい思いをしたのではないだろうか。
僕たちは生きていれば、「感謝の気持ちを忘れる」こともあれば、「分をわすれて羽目をはずす」こともあるし、「人に迷惑をかける」ことなんてザラだからだ。
だけど古くから日本人というのは、そうした“美徳”を重んじてきた。
いや、安吾流に言うならそうした美徳に「しばられてきた」のだといっていい。
安吾は本書『堕落論』において、
「おまえたちが縛られてきた“美徳”なんてものは、幻想にすぎない」
と看破し、敗戦後の混乱期にあった日本人たちに対して、
「そんなくだらんモン、さっっさと捨てちまえ」
と、言い放っている。
では、『堕落論』において痛烈に批判された「日本人の美徳」とは、具体的になんなのだろう。
それは、
- 戦争未亡人にとっての美徳
- 武士・軍人にとっての美徳
である。
安吾はこれらの美徳を爽快に蹴散らしていく。
以下、安吾のロジックを簡単にまとめておこう。
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“戦争未亡人の美徳”とは
さっそく「未亡人の美徳」とは何かといえば、
「亡夫への思いを持ち続けること」
であり、
「他の男性と結ばれないこと」
である。
要するに、「女の操(もはや死語!)を生涯守り続けろ」ということである。
ところが『堕落論』の冒頭で、安吾はこう言っている。※( )内は僕の加筆。
けなげな心情で男を(戦場に)送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。
『堕落論』の冒頭から、安吾はその“リアリストっぷり”を存分に発揮する
「“美徳”だ“女の操”だっていうけどさ、人間の心なんてすぐに変わっちゃうモンでしょ?」
ってなわけだ。
これを読んだ当時の“古くさい”人々は、たぶんこう思ったはず。
「いや、それは日本人本来の姿じゃない。もし仮に人々の心が変わってしまうとしたら、それは敗戦という混乱のせいだ。混乱が人間を変えてしまったんだ」
ふむ。そんなもんだろうか。
しかし、それに対して安吾は言う。
人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。
「人間はいつの世にあっても、自分に正直に生きようとする生き物なのだ」
安吾はそう言っている。
むかしから日本には
「女はこうあるべき」
「男はこうあるべき」
「日本人はこうあるべき」
と、そういう旧弊な“美徳”にしがみつく連中が一定数いたわけで、しかも残念ながら現代の日本においてもそういう連中は少なくない。
だけど、安吾に言わせれば、「美徳にしばられる生き方」なんてのは、人間の「本来」の姿ではない。
「未亡人だろうがなんだろうが、好きな人の1人や2人できちゃうでしょ? それが人間ってもんでしょ?」
こうした人間観を持つ安吾は『堕落論』の冒頭から「未亡人の倫理」を軽く吹っ飛ばしにかかる。
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“武士・軍人の美徳”とは
次に「武士・軍人の美徳」とは何かと言えば、
「主人に対して忠実であるべき」
というものであり、
「恥をかくくらいなら死ぬべき」
というものである。
前者はたとえば「侍による命がけの敵討ち」だったり「太平洋戦争の特攻隊」だったり、つまり、主人や天皇や国のために命をかけて「忠義をつくすこと」であった。
後者はたとえば「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった『葉隠』的な潔さであったり、「生きて捕虜となるべからず」といった日本軍の掟であったり、つまり、自分の命よりも“世間体”や“外聞”を重んじる「倒錯した倫理観」だった。
ところが『堕落論』において、安吾はこう言う。
武士は仇討ちのために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡をおいつめた忠臣孝子があったであろうか。
ここでも“リアリスト”坂口安吾は健在である。
「主人への忠誠とか、潔く死ねとか。実際のところ、本気でそんなこと思ってた奴なんていないでしょ」
と、安吾は「武士や軍人の美徳もまた幻想だ」と言い放っている。
これを読んだ当時の“古いくさい”人々は、たぶんこう思ったはず。
「いや、昔の武士や軍人たちの美徳は本物だったはずだ。そもそも“捕虜になるくらいなら死ね”というルールは、そうした強い倫理観の現れなんだ」
だが、それに対して安吾は言う。
生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、(中略)自らの また部下たちの弱点を抑える必要があった。
要するに安吾が言いたいのは、
「みんな誰だって死にたくなんかないでしょ? みんなそのことを良く分かってたから、“忠義”とか“恥”とか無理やり持ち出して、自分自身を戦闘に駆り立てていたんだよ」
ということなのだ。
ここにも「人間の心なんてコロコロ変わる」とか「人間は本来、自分に正直に生きるもの」といった安吾の人間観が表れていて、それは先の「未亡人の美徳」を吹っ飛ばした際のロジックと全く同じである。
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ここまでのまとめ
どんなに美徳だなんだといったって、人間の心なんてのはあてにならない。
安吾によれば、日本人はそのことをよく知っていたからこそ、
「未亡人たるもの、女の操を守らなくちゃならん」とか、
「武士だるもの、主君の忠義に殉死しなくちゃならん」とか、
そういう「美徳」がもてはやされたのだという。
だけどその美徳は「人間の本心」と対極あるものなのだ。
――人間、恋をするときは恋をする。
――死にたくないもんは死にたくない。
こうした本心を持つのが「人間」というものだからだ。
安吾の人間観は、良くも悪くもシンプルかつクールなのである。
ただし、安吾は卑屈な姿勢をみじんも見せない。
むしろ安吾は「人間」というものを、どこまでも肯定的にとらえる。
『堕落論』にはそうした安吾の「人間賛歌」の趣があり、つまるところ本書を貫くメッセージというのは、
「人間は、自らの内なる声に耳を傾け、自分に正直に生きるべきだ」
ということになるのだが、これについては後述する。
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解説➁“天皇制”を相対化
天皇とアイデンティティ
改めて言うまでもないが、太平洋戦争中、天皇の権威は絶対だった。
「天皇」の名のもと、「国家のために」のスローガンのもと、多くの国民の命が奪われていった。
安吾の『堕落論』は敗戦後まもなく発表されたわけだが、その中で安吾は、戦時中に絶対視されていた「天皇制」を相対化していく。
安吾は言う。
「天皇制は、政治家たちに利用された虚構である」
ちなみに、ここでの「政治家」は、平安時代の貴族や鎌倉時代の武士たちまでさかのぼる。
『堕落論』には、こんな一節がある、
少なくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。
(中略)
天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、また、みずからの威厳を感じる手段でもあったのである。
天皇を擁立し、天皇を崇め、天皇の権威を認めることによって、「自らのアイデンティティ」を確かめていたのが日本の政治家だったという。
今ほどの一節に続き、安吾は「天皇制自体は真理ではなく、自然でもない」ともいっている。
その真理でもければ絶対でもない「天皇制」というフィクションのもとで、戦争へ突き進み、命を絶っていったのが、我々「日本人」だったというワケだ。
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“馬鹿げたもの”を拝む日本人
「天皇というフィクションによって、自らのアイデンティティを確かめる」とか、
「天皇というフィクションに、自らの存在をゆだねる」とか、
これを聞いて、あなたはどう感じただろう。
きっと「なんて不合理な!」とか「なんて馬鹿げたこと!」とか驚いたかもしれない。
だけど、現代の僕たちだって、大なり小なり、かつての「日本の政治家」たちと同じことをやっている。
安吾は『堕落論』において、そのことをこう指摘する。
我々は自発的にずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。
(中略)
そのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。
たとえば、現代には“推し”という文化というか習慣というかムーブメントというかがあって、若者たちは特定の対象を崇拝している。
それは「アイドル」や「アーティスト」や、果ては「アニメのキャラクター」に至るまで幅が広い。
若者たちに崇拝されるそんな「推し」たちは、いうまでもないことだが正真正銘の「虚構」である。
だけど若者たちは、それらが「虚構」であることを知りながらも、自らの存在を委ね、崇拝している。
彼らは、推しを推すことによって「自分のアイデンティティ」を感じ、「自分が何者であるか」を再確認しているというわけだ。
これは、「天皇制」というフィクションに身を委ね、自らの威厳を保っていたという「日本の政治家」たちと、なんら変わらない。
戦後の混乱期にありながら、安吾はそのことを『堕落論』において鋭く言い当てている。
もしも安吾が生きていて、現代の日本人たちを見たとしたら、きっとこう言うだろう。
「君たちも進んで“馬鹿げたもの”を拝んでいるけど、そうすることによってしか自分を感じることができないんだよね? ぷぷぷぷ」と。
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・
ここまでのまとめ
以上、安吾は『堕落論』において「天皇制」の虚構性を言い当てている。
「天皇制なんて作り物だよ! そんなものにとらわれてどうする!? もっと自分の本当の声に耳を傾けろ!」
敗戦直後の混沌とした社会にあって、安吾はそう日本人に訴えかけているのである。
安吾は『堕落論』の前半部において、日本人を縛り付けてきた「美徳」とか「制度」というものをことごとく解体し、相対化してきた。
安吾にとっては「道徳」も「制度」も、なんら絶対的なものではなかったのだ。
安吾は、それらに縛られて生きている日本人に対して「目を覚ませ」と声を上げる。
そしてこの後、つまり『堕落論』の後半において、安吾は自らの「人間論」を展開していく。
ここからは、そんな安吾の「人間論」についての解説をしていきたい。
解説③安吾の「人間観」とは
人間はシンプルじゃない
『堕落論』では、安吾の「姪」について紹介されている。
安吾の姪は、二十一歳の若さで自死したらしい。
その死に際して安吾は、
「彼女が美しいうちに死んで、良かった」
と、思ったという。
この時の安吾は「潔い死」という“日本の美徳”にとらわれてしまっている。
『堕落論』で彼自身が否定した“日本の美徳”というものに、実は安吾自身もとらわれてしまっていたのだ。
ただ、『堕落論』では、「姪」と対置するように「60歳過ぎの戦犯」について記されている。
生き恥をさらしつつも“生”に執着してしまう彼らに、安吾は自分自身を重ね合わせる。
六十すぎた将軍たちがなお生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目わからず、しかしおそらく私自身も、もしも私が六十の将軍であったならやはり生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。
「生には奇怪な力がある」
安吾がそう感じてしまうのは、戦時中あれほど“日本人の美徳”を説いてきた連中でさえ、いざとなったら“生”に執着してしまうことを知っているからだ。
美しいまま自ら命を絶った「姪」と、みっともなくても生に執着する「将軍」……
この両者の狭間で、安吾は思う。
「生きるとは、わけのわからぬものだ」と。
そう、人間はシンプルじゃないのだ。
「道徳」や「制度」によって自ら命を絶ちもするし、逆に「道徳」や「制度」を捨てて、みっともなくても「生きたい」と願ったりもする。
もちろん、どちらも人間の「ありのまま」の姿だとは思うのだが、安吾は特に後者を「人間本来の姿」だとみている。
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素直に泥臭く生きろ
『堕落論』を貫くメッセージをざっくりと言えば、
「みっともない姿を見せても生きたいと願う。それが人間ってもんだろう」
ということになる、
そして彼は敗戦の混迷した社会に向けて、
「本心に素直になれ。泥臭く生きろ」
と訴えたのだった。
安吾が「道徳」とか「制度」とか、既存の価値観を解体し、相対化したことはすでに述べたとおり。
それは『堕落論』の後半にかけても基本的に変わらない。
「人間というのは本来、道徳とか制度からはみ出してしまうものなのだ」
と、安吾は繰り返し述べていく。
軍人たちが「潔く死のう」としたのも、未亡人たちが「女の操を守ろう」としたのも、安吾に言わせれば「そんなのは、本来の人間の姿じゃない」ということになる。
特攻隊の勇士はただ幻想であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。
「美徳を捨てろ。泥臭く生きろ。人間の歴史はそこから始まる」
こう述べて、安吾はついに「堕落」について言及する。
生きるということは実に唯一の不思議である。六十七十の将軍たちが切腹もせず轡を並べて法的にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって初めて人間が誕生したのだ。生きよ落ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか。
「生きよ堕ちよ」
『堕落論』における最も有名で、もっともキャッチーなこのフレーズ。
では安吾の言う「堕ちる」とは、いったいどういう意味なのだろうか。
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解説④安吾の言う「堕落」とは
“虚飾”を捨てて生きること
「道徳」や「制度」に迎合することを、日本人は“美徳”と考えてきた。
「潔く死ね」
「女の操を守れ」
「天皇を崇拝せよ」
そうした態度は一見して「美しく」移るかもしれない。
ただ、安吾によればそれはある種の「思考停止」であるし、「虚しい美しさ」なのである。
安吾は「虚しい美しさ」について批判し、人間の「真実の美しさ」について述べる。
では安吾にとって「真実の美しさ」とは何か。
それは、「道徳」や「制度」から脱却することであり、虚飾を捨て、素直に、ありのままに生きていくことである
そして、それこそが安吾のいう「堕落」だった。
「堕落」とは「道徳」とか「制度」とか「権威」とか 人々が妄信してきた「幻想」からの解放を意味する。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
安吾は言う。
「人間だったら“堕落”するのは当たり前だ」
それなのに、これまで人々は旧弊な「道徳」や「制度」にがんじがらめにされてきた。
「堕落」することを極端に避けてきた。
だけどこれからは違う。
敗戦によって、人々は変わりつつある。
いまこそ人間は「本来の姿」へと「堕落」しなければならない。
これが『堕落論』の主題である。
戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
安吾はここで「堕落」と「救済」の関係について触れている。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
堕落することで人間は救われる。
『堕落論』の末尾で、安吾は繰り返しそう述べる。
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。(中略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
では最後に、この「堕落と救済」について考えてみたい。
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“堕落”は“救済”に至る道
「人間の堕落」を肯定的に論じる『堕落論』は、次の一節で結ばれる。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
こんな風に「堕落」と「救済」について言及する安吾だが、しかし『堕落論』は「救済」について詳述することなく終わっている。
だけど、実は『堕落論』には続編があって、それが『続堕落論』という“まんま”のタイトルなのだが、実はこっちの方が『堕落論』よりもストレートに安吾の思想が書かれている。(この記事の多くも『続堕落論』を参考にしている)
その『続堕落論』において、安吾は「救済」について詳しく述べている。
さて、安吾にとって「救済」とは何か。
さっそくその結論を言えば、
「自分自身を縛り付けるものからの脱却」
である。
つまるところ「自由」といっていいかもしれない。
「自分を縛るもの」とは、具体的には「道徳」であり「制度」であり「権力」である。
『続堕落論』では、『堕落論』よりもストレートな言葉で、こう述べられいてる。
道義退廃、混乱せよ、血を流し、毒にまみれよ。まず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。
「救済は地獄の先にある」
実はこの論理というか発想というのは、ある種、宗教の本質とも言うべきもので、例えば「キリスト教」なんかでも「人間の罪」が「神の愛」と結びついていくし、日本仏教の中の「浄土真宗」なんかでも「悪人こそが救われる」といった悪人正機説が教義の中心にある。
安吾にとっても「救済」とは地獄の先、つまり「堕落の先」にあるものなのである。
ただ、安吾は宗教家ではない。
「宗教」と「安吾の思想」の間には、決定的な違いがある。
宗教では「救済」は「神や仏」によってもたらされるものだが、「安吾の思想」では「救済」をもたらすのは他でもない「自分自身」である。
堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大な人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見捨てられ、父母にまで見捨てられ、ただみずからに頼る以外にすべのない宿命を帯びている。
最後に頼れるのは、他でもい「自分自身」だ。
ここに安吾の「人間への信頼」が現れており、こここそが「宗教家」と安吾との決定的な違いだといっていい。
坂口安吾は本質的にヒューマニストなのである。
彼はどこまでも「人間」を肯定的に捉えている。
安吾は言う。
――どんなに惨めでも、汚くても、みっともなくてもいい。
世間体なんて気にするな。
見栄や虚飾など捨ててしまえ。
皆にあきれられ、一人孤独に陥ってもいい。
それが人間の本来の姿なのだ。
むしろ、そうやって生きていくことこそ、人間の「真実の美しさ」なのである。
人間だから堕ち、堕ちるから人間なのだ。
その自覚の中に、人間にとっての「救済」はある――
以上が安吾の「人間肯定」の思想である。
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おわりに「色あせない安吾の言葉」
以上、『堕落論』に見られる安吾の思想について解説をしてきた。
改めて振り返ってみると、安吾の「人間肯定」は、どこまでも力強い。
昔から日本人の多くは、世間体を守り、他人の顔をうかがい、長いものに巻かれ、自分の本心に蓋をしてきた。
それはきっと今も変わらない。
「いつも感謝の気持ちを忘れるな」
「分をわきまえろ、でしゃばるな」
「他人や世間に迷惑をかけるな」
そうした“美徳”に生きづらい思いをしている日本人は、きっと多い。
そんな日本人の胸に、安吾の言葉はきっと刺さる。
安吾の言葉には人々を奮い立たせ、人々の劣等感まるごと肯定する熱量がある。
安吾の言葉は現代においても、まったく色あせていないのだ。
劣等感に悩み、くよくよしながら生きているすべての人へ。
――生きよ、堕ちよ――
「坂口安吾」を読むなら
『白痴』
『堕落論』で安吾が述べた「人間観」を小説化した作品。
白痴の女を通して「むき出しの生」を描くことで、人間の「真実の美しさ」描いている。
安吾文学の中でも傑作の呼び声が高い作品。
『堕落論』を読んだ後に読んでみたい1冊。
『桜の下の満開の下』
坂口の代表作の1つで、傑作と称されることの多いこの作品。
ある峠の山賊と、妖しく美しい残酷な女との幻想的な怪奇物語。
内容はうすら怖く、不気味な雰囲気をまとう物語なのだけど、 脳裏に浮かぶ風景はなんだか儚く、とても綺麗。
普段は豪快で力強い言葉を吐く安吾だが、ここに紡がれる言葉は繊細で美しい。
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