はじめに「哲学」って何?
「哲学」と聞いて、あなたはどんな印象を持つだろう。
たぶん多くの人は、高校時代に勉強した「倫理」を連想したり、ソクラテスだのプラトンだのアリストテレスだのといった有名な哲学者を思い浮かべたりするかもしれない。
あるいは「無知の知」とか、「三角形のイデア」とか、例の哲学用語を思いだ出したり、『純粋理性批判』とか『精神現象学』とかいった有名な書物を思い出したりするかもしれない。
すると、人々の感情として、
「哲学=なんだか小難しいもの」とか
「哲学=自分とは無縁なもの」とか
とにかく、哲学に対する「あまりよくない印象」を持つにいたってしまう。
だから、急いで強調しておきたいことがある。
それらを全部「哲学」ではない。
あえて言えば、それらは全部「哲学史」なのである。
「ソクラテス」とか「イデア論」とか「純粋理性批判」とかを覚えることは、言うまでもなく哲学の本質なんかじゃない。
「哲学」というのは、本来もっとおもしろくて、スリリングで、ちょっと恐ろしいもので、つまるところ、ずっとずっと魅力的なものなのだ。
この記事では、そんな哲学の主要テーマについて紹介したい。
今回扱うテーマをざっくりと言えば、
「他人の心の中って、一体どうなってるの?」
といった問いである。
「心」は哲学における主要なテーマであり、頻繁に議論される問題でもある。
その議論の内容と、問題の所在について分かりやすく解説をしていきたい。
では、最後までお付き合いください。
あなたの「赤」と他人の「赤」
唐突だが、あなたに質問。
こちらの●が何色か答えて欲しい。
正解はもちろん「赤」である。
こんなあたりまえの質問をしたのは、ここからは、この「赤」について考えてみたいからだ。
あなたはこれまでに次のような疑いを持ったことはあるだろうか。
――自分に見えている「赤」と他人に見えている「赤」って、ひょっとしたら違うんじゃないか――
こう聞くと、真っ先にこんなことを思う人がいる。
基本は同じだけど、違う場合もあるんじゃない? たとえば、色盲とか色弱とか・・・・・・
うん。確かに、色盲や色弱の人の「赤」は、そうでない人の「赤」とは違うだろう。
色盲というのは、通常見えるはずの「赤」が見えない。
だから、場合によっては生活における困難や、コミュニケーションのズレが表面化することになる。
だけど、ここで僕が問題にしているのは、そういうことではない。
ここで想定している「他人」というのは、赤いものを「赤」といい、青いものを「青」といい、それ以外の色についてもあなたと共有でき、コミュニケーションのズレも生じない、そういう「他人」である。
たとえば、あなたはその人(彼)と一緒に夕焼け空を眺めていたとしよう。
あなたは彼にこういう。
「ほら見て、真っ赤な夕焼け空! キレイだね~」
それに対して彼は、
「本当だ、燃えるような赤だね。キレイだな~」
ここで改めて問題提起をしたい。
この時、あなたが見ている「赤」と彼が見ている「赤」とは、本当に同じなのだろうか。
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「逆転スペクトル」とは
同じ夕焼けを見て、
「赤いね~」
「赤いな~」
というあなたと彼。
2人の目には、果たして同じ「赤」が映っているのだろうか。
とりあえず傍から見れば、コミュニケーションのズレも齟齬も生じていないし、「そりゃ同じ赤でしょう」と思われるかも知れない。
ただ、残念ながらそう言い切ることはできない。
ひょっとして、彼は赤い夕焼け空に「青」を見ているかもしれないのだ。
「燃えるような赤だね」なんて言った彼の目には、あなたが「青」と呼んでいるその色が見えているかもしれないし、逆にあなたが「青」と呼んでいる色(たとえば「海」の色なんか)は、彼の目には「赤く」映るかもしれない。
つまり、ここで僕が何を言いたいのかというと、
「あなたと彼とで、見ている色が完全に逆転している可能性がある」
ということなのだ。
これを「逆転スペクトル」と呼ぶ。
ただ、この「逆転スペクトル」という発想は、なかなかにやっかいなのだ。
たとえば、あなたが「青」と「黄色」を混ぜて彼に見せ、
「この色は何色でしょうか?」
と尋ねたとしよう。
実際に彼の眼に映っているのは、あなたにとっての「オレンジ色」だったとする。
にもかかわらず、彼はその「オレンジ色」をみながら、問題なく「緑」と答えることができてしまうのだ。
つまり何が言いたいかと言うと、たとえあなたと彼との間に「逆転スペクトル」が生じていたとしても、実際の生活やコミュニケーションの中でそれを確かめることは原理的にできない、ということなのだ。
だけど一方でそれは、「両者のスペクトルは逆転している」と断言することもできないということでもある。
これはあくまでも「違うかもしれない」という話なのだ。(まぁ、そもそも哲学っていうのは、そういうところを徹底的に疑う営みなのだが・・・・・・)
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「クオリア」とは
さて「逆転スペクトル」は、視覚以外にも人間のあらゆる知覚について起こりうる。
すなわち聴覚、触覚、味覚、嗅覚のいずれにおいても、あなたと他人の「経験」は異なるかもしれないのだ。
たとえば、あなたの「美しい音楽」は、他人の「不快な音楽」かもしれないし、あたなの「おいしいラーメン」は、他人の「まずいラーメン」かもしれない。
これを触覚で考えると いっそう奇妙で、あなたの「痛み」は、他人にとっての「かゆみ」かもしれない。
どうして、こんな奇妙な世界観があり得るかというと、結局のところ、個人の「私的体験」がどこまでも不可知で不可解なものだからだ。
哲学では、「美しい」とか「おいしい」とか「いたい」とか、こうした具体的な質感を持つ私的な体験のことを「クオリア」と呼んでいる。
クオリアが何か分からなければ、この●を見てほしい。
今、あなたの意識に生じている「赤」としかいいようのないソレ。
ソレが「赤のクオリア」である。
ちなみにこのクオリアは、現代哲学における最大の難問「心」と、切っても切り離せない重要な概念だ。
「心とは何か」を扱う哲学は「心の哲学」と呼ばれ、現代哲学の大きな潮流の1つになっている。
【参考記事 考察・解説『ロボットの心』―【心の哲学】を分かりやすく説明ー 】
ここでは、その「心の哲学」における議論の、ほんの一部を紹介してみたい。
まず大前提として、あなたには「クオリア」がある。
そして、その「クオリア」は、どうやら あなたの「脳」が生み出しているらしい。
それは科学が明らかにしていることだし、もはや僕たちの常識中の常識だといってもいい。
――クオリアは脳が生み出している――
だけど、これって考えてみると、とっても不思議なことなのだ。
この世界には、今まさに、約70億の人々が生きている。
言い換えれば、70億の脳が同時に存在しているということだ。
そして、その70億の脳が、それぞれの「クオリア」を生み出している。
その内の1つの脳によって、「あなたのクオリア」は存在している。
ただ、そう考えていくと、不思議に思わないだろうか。
どうして、「あなたのクオリア」を生み出しているのは、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも……(×約70億)……あの脳でもなく、あなたの「その脳」だったのだろう。
なぜ「あなたのクオリア」は、まさしく「その脳」に宿っているのだろう。
この問いに対して、合理的な説明をできる人はいるだろうか。
実は現時点で一人も存在していないし、その説明の「兆し」というものも見えていない。
これこそ「なぜ、わたしは、この『わたし』なのか」という、哲学の伝統的な問いであり、「心のハードプロブレム」と呼ばれる最大の難問である。
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「哲学ゾンビ」とは
あなたが見ている「赤」と、他人が見ている「赤」は違うかもしれない。
これを言い換えれば、「あなたと彼の“クオリア”は違うかもしれない」ということになる。
だけどそれが、あくまで「違うかもしれない」といった可能性の域を出ないのは、「クオリア」がどこまでも主観的で私秘的(その人にしか分からない)なものだからだといって良い。
僕たちは、他人の「クオリア」を絶対に経験することはできないのだ。
と、ここまで「クオリア」の不可知さ、不可解さについて説明をしてきたわけだが、そろそろ勘の良い人は、ある「恐るべきこと」に気が付いているかもしれない。
しつこいようだが、僕たちは「他人のクオリア」を確かめることができない。
だからこそ、「他人の“赤”がどんな色なのか分からない」という問題に直面したわけだ。
そうだとすれば、僕たちは次のように言うことも出来てしまう。
「そもそも他人にクオリアがあるのか、僕たちにはそれさえ分からない」
たとえば、あなたの家族、友人、恋人などを思い浮かべてみて欲しい。
まず大前提として、あなたが「恋人」の内面に潜り込んで、彼(彼女)の「クオリア」を直で体験することは不可能だ。
だとすれば「彼(彼女)にクオリアがある」ということを、あなたは証明できないことになる。
「痛い!」と顔をしかめていたって、彼(彼女)はひょっとして痛みを感じてないかもしれない。
「もう!」と怒っていたって、「嬉しい!」と喜んでいたって、彼(彼女)に感情は存在していないかもしれない。
このことはなにもあなたの「恋人」だけに限った話ではない。
あなたの家族も、友人も、同僚も、道を歩いていくあの人もこの人もその人も。
あなた以外の全ての人間に、そもそも「クオリア」なんてないのかもしれない。
なんともゾッとする話だ。
ちなみにこれは、オーストリアの哲学者「デイビッド・チャーマーズ」の思考実験「哲学ゾンビ」に見られる発想である。
見た目的にはいかにも「人っぽく」見えるのに、そして不都合なくあなたとコミュニケーションがとれているのに、彼らの内面には「クオリア」が存在していない。
それはまるでゾンビのように……
とはいえだ。
とはいえ、この「哲学ゾンビ」という発想は、僕たちの実感から大きくかけ離れている。
というか「自分以外の人間にクオリアはない」なんて考えていたら、僕たちはまともに生活していくことなどできない。
だから、チャーマーズだって「人間にクオリアはない」ということを言いたかったわけではないのだ。
むしろ、彼が言いたかったのは、
「人間のクオリアは非物質的な何かだ」
ということなのであり、彼は「心」の本質を「クオリア」に置こうとしたのだった。
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「私的体験」は語り得ない
「他人の私的体験」、言い換えれば「他人のクオリア」を確認することは、僕たちにできない。
その事実を、少し視点を変えて言い直せば、
「私的体験は、ぜったいに言語化することはできない」
ということになる。
これは今さら言うまでもないことで、僕たちがあたりまえに持つ生活実感でさえある。
たとえば、あなたは猛烈に腹がいたくて、その痛みから逃れたくて医者に駆け込んだとする。
その時、あなたのその「腹の痛み」を、どう表現すれば100%医者に伝えられるだろう。
たとえば、医者はこう聞いてくるかもしれない。
「どう痛みますか? チクチク? シクシク? ズキズキ?」
仮に、その中で「ズキズキ」が1番しっくりきたとしても、それだけでは、あなたの具体的で秘私的な「ズキズキ」を表現し尽くしたことにはならない。
私的体験は、つまりクオリアは、どんな言葉にもできないし、どんな数字でも表せないし、どんな記号にも置き換えられないのだ。
確かに科学は、あたなの「腹の痛み」を正しく言葉で説明できているように思われる。
いわく、
「あなたの腹の痛みは、細菌による刺激を末梢神経が感知し、それが脊髄を経由して大脳へ伝わり、“痛み”を生み出すニューロンが発火していることで生まれているんですよ」と。
ただ、それは「痛み」のメカニズムの丁寧な説明であって、あなたの私的な「ズキズキ」とは全くの別物だ。
その「大脳の状態」が、なぜあなたの具体的な「ズキズキ」を生み出しているのか、なぜその具体的な質感を持ってあなたに経験されるのか。
科学はその問いに答えられているわけではない。
あなたのクオリアは、もっといえば、あなたの心はどんなに頑張っても、言葉で語り尽くすことができないのである。
「クオリア」とは、「心」とは、もっといえばあなたという「存在」は、それほど不可知で神秘的で豊かな「何か」なのである。
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おわりに「哲学」は“薬”にならない
以上、哲学のテーマ「クオリア」をとりあげ、その主な議論や問題の所在について解説をしてきた。
「あなた以外の人は、心を持たないゾンビかもしれない」
突然そんなことを言われても、正直、僕たちの生活実感から大きくかけ離れているし、にわかには信じられない主張である。
もちろん、いちいちそんなこと考える必要はないし、信じる必要だってない。
ただ「心」というのは、僕たちが思っている以上に不可解で、考えれば考えるほどグロテスクなものなのだ。
どうだろう。
今まで当たり前だと思ってきたこの世界が、途端によそよそしく感じられてこないだろうか。
こんな風に、「哲学」というのは本来、スリリングで、不気味で、怖ろしいものなのである。
さて、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
記事を読み終えたあたなは、ひょっとしてこんな風に感じたかもしれない。
いや、こんな問題、そもそも答えなんてでないし考えるだけ時間の無駄でしょ
はい、まったくもってその通り。
哲学なんてやったって、時間の無駄なのだ。
病気が治るわけでもないし、出世するわけでもない。
名声が手に入るわけでもないし、お金持ちになれるわけでもない。
いや、なんならこんなメンドクサイことを考えていたら 友だちが減るかもしれないし、彼女にフラれるかもしれないし、社会的な信用を失ってしまうかもしれないのだ。
哲学は「毒」にこそなれ、「薬」になることはない。
だけど、哲学することは、上記の通りとってもスリリングであるし、おもしろいと僕は思う。
というより僕自身、やっぱり不思議でならないのだ。この「世界」ってやつが。
「世界って本当は存在していないんじゃないの?」とか
「時間が“流れる”っていうけど、一体何が流れてるの?」とか
「僕が死んだら、僕は、この世界はどうなるの?」とか
少しでもそうした問いにとらわれてしまったことがある人にとって、哲学はとっても親和性のある世界だ。
この記事を読んで共感していただいた方は、ぜひブログ内の【哲学】の記事を参考にしていただきたい。
あなたの“ワクワク”や“ゾクゾク”のお供になれたなら、とても嬉しく思う。
オススメの「哲学」本
『MIND』(サール)
世界的な名著。
過去から現在まで「心」について、どんな哲学的議論が展開されていたか深く知れる。
前半は「心の哲学」のロードマップ的で、後半はサール自身の立場が詳述される。
彼の立場は「生物学的自然主義」と呼ばれていて、良くも悪くも、とてつもなく「まとも」
心の哲学に興味を持ったなら、ぜひ一読をお勧めしたい。。
『クオリア入門』(茂木健一郎)
ご存知、筆者は日本の「脳科学」の第一人者。
そんな彼の専門が「クオリア」であることは、案外知られていない。
脳科学的なアプローチから「心とは何か」を議論してくのだけど、それがとてもスリリング。
筆者は丁寧に言葉を紡いでいて、読者に対する誠実な姿勢が端々から感じられる。
『心の哲学入門』(金杉武司)
タイトル通りの入門書。
心をめぐる議論には様座なアプローチがあるが、本書を読めば「心とは何か」に対する解答には、様々なものがあることが理解できるだろう。
複雑な議論があって、一部では難解に感じるけれど、全体的に分かりやすく、また読書案内も良い。
「哲学」をするなら……
耳読書「Audible」がオススメ
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