はじめに「言語とは何か」
言語とは何か
この問いは、言語学を学ぶ人であれば、決して避けては通れない本質的な問いだ。
ただ、一般的な人にとって言語とは、
「コミュニケーションの手段でしょ?」
くらいのものだと思う。
実際に「言語」を広辞苑で引いてみると、次のような説明が出てくる。
人間が音声または文字を用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系
『広辞苑』より
若干、小難しい表現ではあるが、やっぱりここでも「思想・感情・意志の伝達」(要するにコミュニケーション)というワードが記されている。
こう聞くと、
「ほら、やっぱり言語はコミュニケーションの手段なんだよ! はい、終了!」
と、話を終わらせたくなるだろうが、もう少し落ち着いて考えてみてほしい。
たとえば、こんな反論についてはどう答えられるだろうか。
「コミュニケーションなら犬だってとれるよね? だとすれば“ワンワン”っていう鳴き声も、言語ってこと?」
むむむむむ、である。
たしかに、犬は“わんわん”と鳴いて犬同士コミュニケーションをとっているっぽいし、飼い主ともコミュニケーションをとっているように思われる。(人間は犬の“ワンワン! ヘッヘッヘ”で、喜んでいることを知ることができる)
だけど、言語学を学ぶ人であれば、ぜひこう答えたい。
「犬の鳴き声は、決して“言語”ではない」
さて、その根拠は何なのか。
この記事では「言語とは何か」また「言語が言語たりえる条件とは何か」について、解りやすく簡単に解説をしたい。
お時間のある方は、ぜひお付き合いください。
「言語の十大原則」とは
言語とは何か、言語の条件とは何か。
これについては、言語学においてもはや常識というか、だれもが共通して持っている認識というものがある。
「言語の十大原則」と呼ばれるものだ。
これは20世紀のアメリカの言語学者「チャールズ・F・ホケット」という偉大な人が提唱した言語観であるが、「言語とは何かを」超分かりやすく定義している。
結論を言うと、次の通りである。
こう見てみても、多分、多くの人がチンプンカンプンだと思う。
ただ、一つ言えることは、
「コミュニケーション機能だけでは、言語ということはできない」
ということなのだ。
それでは、コミュニケーション機能以外に、どのような条件がそろった時、ある「音声」が「言語」の称号を得ることができるのだろう。
以下、一つ一つ、解りやすくシンプルに解説をしていく。
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条件①コミュニケーション機能がある
1つ目は「コミュニケーション機能」である。
言語の条件として「コミュニケーション機能」が、最も人々に認知されているものだ。
「コミュニケーション機能がある」を、もう少しかみ砕いて言うと、
「相手に意図を伝えることができる」
ということになる。
そう考えれば、犬の鳴き声というのは、「コミュニケーション機能」があると言えるかもしれない。
彼らは「エサが欲しい」という思いや、「飼い主が帰って来て嬉しい」という思いを、鳴き声で伝えているように思われるからだ。
では、逆に、コミュニケーション機能を持ち合わせていない音声とは、どんなものが想定されるか。
たとえば、咳払いや口笛などが挙げられるだろう。
これらは、基本的に、他者へ「自分の意図」を伝えることを目的としない音声であることから、「言語」ではないと考えることができる。
ただし、「基本的に」という但し書きをしたのは、咳払いにも口笛にも、まれにコミュニケーション機能が宿ることがあるからだ。
たとえば、電車内でマナーの悪い客に向けた咳払いや、通りすがりのかわいい女性に向けた「フュ~♪」という口笛などである。
とはいえ、通常、咳払いや口笛はコミュニケーションを意図していない音声なので、「非言語的」であるといっていい。
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条件②意味性がある
2つ目は「意味性」である。
これは「特定の音声が特定の意味に結びつく」というものだ。
たとえば日本語で「いぬ」という音声は、「四つ足で尻尾があって、ワンワン鳴く、例のあの生き物」といった概念と結びついている。
「うつくしい」という音声は、「たとえば夕焼けを見た時の、胸の底に生まれるほの温かく切なく、しみじみとした情感」といった概念と結びついている。
こうした「音声」と「意味」の結びつき、これが言語の条件なのだ。
この観点で先ほどの「咳払い」や「口笛」を考えた時、これらは非言語であると言えるだろう。
たしかに「咳払い」=「不快感」という結びつきはあるかもしれない。
とはいえ「オホン = 煙草を消せ」や、「ゴッホン = 電話をやめろ」といった具合に、特定の音声が、常に特定の概念や意味と結びついているわけではない。
同様に、犬の鳴き声も、非言語的であると言えるだろう。
たしかに「ワンワン = うれしい」や、「クーンクーン = さみしい」や、「うー = 怒り」といった具合に、音声と意味が結びついていると考えられなくもない。
ただ、
「ワンワン」=「えさ」
「ウオンウオン」=「散歩」
「ゴッフゴッフ」=「排泄」
といった具合に、特定の鳴き声で特定の概念を指し示すことはできない。
ということで、
「音声と意味の結びつきがあるか否か」
ここに言語と非言語の違いがある。
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条件③超越性がある
3つ目は「超越性」である。
この辺りから、馴染みのない言葉が続くので若干ストレスだとは思うが、そこまで難しくはないので、どうかご安心を。
超越性というのは、
「イマ、ココにないものについて示せること」
である。
たとえば、あなたはイマ、ココ、日本にいる。
それでいて、「10億年前の宇宙」について話題にしたり、そうした話を理解したりできるのは、言語に「超越性」があるからだ。
要するに、言語というのは時空を超えることができるのである。
では犬の鳴き声はどうなのだろう。
たとえば、「ワンワン」という鳴き声で、彼らの「うれしい」という感情を伝えることができるかもしれない。
だけど、「ワンワン」という鳴き声では、「昨日うれしかったこと」や「明日うれしくなる可能性」について、彼らは表現することはできないと思われる。
つまり、犬の鳴き声というのは、いつだって「イマ・ココ」の域を出ることはできないのだ。
また、咳払いや口笛についても同様だ。
「イマ自分は不快だから、タバコをやめてくれ」とか、
「イマ見ている女の子は、とってもかわいい子だ」とか、
そうしたことは、咳払いや口笛で表現できるかもしれない。
だけど、
「一昨日の電車の中で喫煙者がいて不快だった」とか、
「一昨日出会った女の子は、とってもかわいかった」とか、
そうしたことは、咳払いや口笛で表現することはできない。
以上のように、「犬の鳴き声」や「咳払い」や「口笛」は、超越性を持たないため「言語」ではない、ということができる。
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条件④継承性がある
4つ目は「継承性」である。
これは要するに、
「教えられることで、習得できる」
ということだ。
たとえば、日本ではほぼ例外なく親は子に「犬」という言葉とその意味を教える。
それが英語になれば「dog」(ドッグ)、フランス語になれば「chien」(シアン)、ドイツ語になれば「hund」(フント)、中国語になれば「狗」(コウ)といった具合に、それぞれの文化や伝統に応じて、言葉と意味が次世代に継承されていく。
ホケットはこれを「伝統的伝達」あるいは「文化的伝達」と呼び、言語にはこうした「継承性」があるとした。
では、咳払いや口笛はどうか。
たとえば「咳払いには、不快感を示す意味があるのよ」と、例外なく親から子へ継承されていくというのは、僕たちの常識から大きくずれている。
また「口笛っていうのは、こうやって吹くのよ」といって、自らの使命として積極的に教える親というのもいないと思う。
そもそも、口笛なんて吹けない人もカナリいることを考えれば、日本語の「犬」や「猫」といった語の持つ継承性とは比べ物にはならない。
また、犬の鳴き声についても、彼らが「ワンワン=うれしい」とか、「クーンクーン=さみしい」といった意味を、親から子へ教えているとは、ちょっと考えられない。(まぁ、実際どうなのか知らんけど)
ということで「言語」とは親から子へ、何世代にもわたって「継承」されていくものだということができる。
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条件⑤習得可能性がある
5つ目は「習得可能性」である。
これはつまり
「教えられれば、それを理解し、使用することができる」
という性質であり、先ほどの「継承性」とも大きく関わってくるものである。
この「習得可能性」をイメージするには、外国語の学習を考えると分かりやすい。
多くの日本人は、小学校や中学校で「英語」を学ぶことになるのだが、当然、初めは単語や文法といった「英語のルール」については無知な状態である。
それが、時間をかけて学び続ければ、英語を理解することができるし、自由に運用することもできるようになる。
これは英語が「習得可能性」を持っているからである。
もちろん日本語にもフランス語にもドイツ語にも、言語と呼ばれる全てのものは、この性質を持っている。
では犬の鳴き声はどうかといえば、これはもうどう考えたって僕たちには「習得不可能」である。
いや、中には「自分は犬語がわかりますし、犬語でコミュニケーションが取れます」という偉大な人もいるかもしれないが、おそらく、そんな人は日本の人口の1パーセントもいないのではないだろうか。
ということで、この「言語習得可能性」というところを見てみても、犬の鳴き声は「非言語」であると言える。
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条件⑥生産性がある
6つ目は「生産性」である。
これは
「あたらしい表現を無限に生み出すことができる」
という性質だ。
この世界には様々なイノベーションがあり、社会も文化も経済もめまぐるしく変化をしている。
その中で、当然、これまでなかった単語や表現というものが生まれていく。
たとえば、ずっと昔には「インターネット」なんてものはなかったし、「スマートフォン」なんてものもなかった。
だから、100年前の日本語に、
「スマホでWi-Fiを使ってネットにつなぐ」
といった表現はなかったワケだ。
それが、現代の僕たちには何の違和感もなく、こうした表現を理解できるのは、言語があたらしい表現を無限に生み出すことができるからに他ならない。
こうした言語の性質を「生産性」と呼ぶ。
では、口笛や咳払い、犬の鳴き声はどうだろう。
たとえば「オッホン=不快」、「オッホンオッホン=怒り」、「オッホンオッホンオッホン=悲しみ」といった具合に、「オッホン」を増やしていくことで、表現を無限に増やしていくことは理屈の上ではできそうである。
が、これが万人に理解でき、万人が使用できるかといえば、絶対に100%不可能である。
同様のことは、口笛にも犬の鳴き声にもあてはまる。
ということで、無限に新たな表現を生み出せる「生産性」というのも、言語の条件の一つである。
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条件⑦経済性がある
7つ目は「経済性」である。
この辺りから、やや小難しくなっていくので、できる限り分かりやすく簡単に解説をしたい。
この経済性をシンプルに言うと、
「言語は合理的に変化していく」
ということになる。
要するに「コスパ」の良さを求めるのである。
それは、例えば単語の省略などに見てとれる。
- ミスタードーナツ・・・ミスド
- スターバックス・・・スタバ
- ケンタッキー・・・ケンタ
- サイゼリヤ・・・サイゼ
- ファミリーマート・・・ファミマ
- ユニバーサルスタジオジャパン・・・ユニバ
ってな具合に、とにかく、言語は冗長な表現を嫌う傾向にある。
(ちなみに、日本語は三拍と四拍の語を好むと言われているが、今見たとおり省略語は三拍になることが多い)
それから、いわゆる音便なんていうのも、日本語の経済性の表れだといえる。
- 飛ぶ+て → 「飛びて」が言いにくいから「飛んで」に変化。
- 買う+て → 「買いて」が言いにくいから「買って」に変化。
さらに、言葉の歴史を見てみても、こうした「経済性」は顕著にあらわれている。
たとえば「僕は太郎だ」とか「明日は学校だ」の「だ」という助動詞は、以下のように成立した言葉である。
- 「にてある」→「である」→「る」が脱落→「であ」→「じゃ」→「だ」
こんな風に、言語というのはとにかく「コスパ」を重視する。
「できるかぎり少ない音声で、発音しやすい音声で、多くの情報を伝えようとする性質」
これが言語の持つ「経済性」である。
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条件⑧離散性がある
8つ目は「離散性」である。
これも一見してピンとこない語だと思うが、シンプルに言えば、
「混沌とした世界に境界を与える性質」
ということができる。
あるいは、
「連続した世界を断ち切る性質」
といってもいい。
たとえば、虹が持つグラデーションを想像してみてほしい。
虹の色には明確かつ客観的な境界などなく、全てはグラデーションで連続している。
それを僕たちが「7色」と認識することができるのは、その連続した色に「赤・橙・黃・緑・青・藍 ・紫」といった語を与えているからに他ならない。
実際に、他の言語を見てみると、虹に与える色というのは実に様々だ。
日本(7色) ・・・「赤・橙・黃・緑・青・藍 ・紫」 アメリカ(6色) ・・・「赤・橙・黃・緑・青・紫」 ドイツ(5色) ・・・「赤・橙・黃・緑・青」 インドネシア(4色) ・・・「赤・黃・緑・青」 南アジア(2語) ・・・「赤・黒」
こんな風に、どの言語もそれぞれの仕方で、連続するグラデーションを断ち切り、そこに境界を与えていることが分かる。
このことは何も虹に限った話ではない。
そもそもこの世界は、混沌としていて、秩序や境界のない世界だ。
その中にあって僕たちが「これは椅子」とか「これは机」といった具合に事物を認識できるのは、とりもなおさず「言語」のおかげだといっていい。
それはちょうど「満点の星空」に「星座」という名前を与えることで秩序を与えることに似ている。
この秩序を与える性質、これが言語の「離散性」である。
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条件⑨恣意性がある
9つ目は「恣意性」である。
そもそも「恣意」という言葉が難しいと思うのだが、これは「勝手気ままなさま」をあらわす言葉である。
そして言語の「恣意性」というのは、
「音声と意味の結びつきに、まったく必然性がない」
という性質のことだ。
再び「イヌ」の例をあげて説明しよう。
この「四つ足で尻尾があって、ワンワン鳴く、例のあの生き物」は、日本語で「イヌ」と呼ばれているが、これが「イヌ」という音声で表現される必然性はどこにもない。
極端な話「アヌ」でも「ウヌ」でも「エヌ」でも「オヌ」でも、なんでもよかったワケだ。
実際に、他の言語を見てると、この日本語で「イヌ」と呼ばれる生き物は、全く異なる音声で表現されていることが分かる。
- 英語・・・「dog」(ドッグ)
- フランス語・・・「chien」(シアン)
- ドイツ語・・・「hund」(フント)
- 中国語・・・「狗」(コウ)
ってな具合だ。
こんな具合に、音声と意味の結びつきが、各言語でてんでバラバラであるのは、言語に「恣意性」という性質があるからだ。
さて、こうした文脈で必ずといっていいほど議論されるのが「オノマトペ」である。
つまり「オノマトペには恣意性があるか?」といった議論であり、それは詰まるところ、
「オノマトペは言語なのか?」
といった議論である。
オノマトペというのは、「ワンワン」といった犬の鳴き声を表したり、「くねくね」といった身体の動きを表したりする、「擬音語」や「擬態語」と呼ばれるものの総称だ。
特に「擬音語」について言えば、多くの言語間で一定の共通点が認められることが多い。
たとえば、犬の鳴き声で言えば、
- 日本語・・・ワンワン
- 中国語・・・ワンワン
- 英語・・・バウワウ
- イタリア語・・・バウバウ
- ベトナム語・・・ガウガウ
といった具合に、かなりの類似点が認められる。
ただ一方で、日本人にはやや理解しづらい例もあって、
- 韓国語・・・モンモン
- フランス語・・・ワフワフ
- ドイツ語・・・ワウワウ
- トルコ語・・・ハオハオ
といったものもある。
なるほど、こう見てみると、確かにオノマトペには必然性があるようにも見えるし、内容にも見える。
こうした状況なので言語学者の中にも、
「オノマトペには恣意性がない(つまり、言語ではない)」
と主張する人がいる一方で、
「オノマトペには恣意性がある(つまり、言語である)」
と主張する人もいるワケだ。
なお、「オノマトペは言語か」の議論については、以下の書籍で分かりやすく、かつ、面白く考察しているので、興味のある方はぜひ参考にしてみてほしい。
条件⑩二重性がある
最後は「二重性」である。
これは
「音と意味の二つの側面がある」
という性質であるが、ここでも「イヌ」という例で説明をしてみよう。
まず、イヌには当然「音声」としての側面があるわけだが、これを分解すると、
「i」、「n」、「u」に分けることができる。
この「i」や「n」や「u」のように、これ以上分解できない音の最小単位を言語学では「音素」と呼ぶ。
一方で、こうした音素が一つに連なってできた「inu」のように、これ以上分解できない意味の最小単位を言語学では「形態素」と呼ぶ。
こんな感じで、
「言語は音素のレベルと形態素のレベルに分けられる」
これが、言語の「二面性」と呼ばれるものだ。
そして、「音素」には意味が備わっていないが、「形態素」には意味が備わっている。
つまり、言語には、
- 音声としての側面(意味以前の側面)
- 意味としての側面(意味の側面)
の二つがある、と言い換えることができる。
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この記事のまとめ
以上のように「言語の十大原則」について解説をしてきた。
改めて、言語の十大原則を示す。
ここで冒頭にも少し触れた、
「なぜイヌの鳴き声は言語ではないか」
について、以下の表で検討してみる。
一般言語 | 犬の鳴き声 | |
コミュ性 | 〇 | 〇 |
意味性 | 〇 | △ |
超越性 | 〇 | × |
継承性 | 〇 | × |
習得性 | 〇 | × |
生産性 | 〇 | × |
経済性 | 〇 | × |
離散性 | 〇 | × |
恣意性 | 〇 | × |
二重性 | 〇 | × |
こんな具合に、仮にイヌが「ワンワン」泣いて、飼い主に「嬉しい」を伝えてきていたとしても、「十大原則」の多くの条件を満たしていないため、残念ながらイヌの鳴き声を「言語」として認定することができない。
また、記事でも触れた「咳払い」や「口笛」、あるいは「赤ちゃんの泣き声」といった音声も、同様の基準で「非言語である」と判断することができるだろう。
こんな風に「言語とは何か」を考える上でホケットの「言語の十大原則」は、言語学では一つの物差しとして機能しているのだ。
以上で「言語の条件とは何か」の解説記事を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
以下では、言語学を学ぶ上でオススメの書籍やサービスについて紹介しているので、ぜひ参考にして見てください。
言語学の本 オススメ3選
はじめての言語学 (講談社現代新書)
本書は、タイトルの通り初心者向けの親切な入門書だ。
「言語学」について、かなり網羅的にまとめていて、言語学の基礎知識がなくても十分理解を深めることができる。
これから言語学を学びたい人、言語学を学び始めた人、基礎的な内容を振り返りたい人……
そうした人たちにオススメの1冊。
言語とは何か(ちくま学芸文庫)
本書も「言語とは何か」を学ぶ上で、重要な視点を与えてくれる良書。
言語学を学ぶ上で絶対に避けては通れないのが「ソシュール」という言語学者の知見だが、本書はソシュールの第一人者である丸山圭三郎による解説書。
言語学を学びたいと思うなら、絶対に外せない1冊だといっていい。
この記事でも触れた「言語の十大原則」と大きく関わる内容が取り上げられているので、興味を持った人は、ぜひ読んでみてほしい。
言語の本質(中公新書)
なぜ人だけが言語を持つのか。
どのように人は言語を身に着けていくのか。
そもそも、言語とは何なのか。
こうした問いに立ち向かい、「言語の本質」を明らかにしていくスリリングな1冊。
この記事でも取り上げた「言語の十大原則」の説明の多くは、本書をたよりにしている。
なんといっても「オノマトペ」にスポットをあててくれるのが、言語学を学んだ身としては、とても嬉しい。
初級者から中級者向けの内容となっているので、踏み込んだ議論に触れたい人にオススメ。
“耳読書”「Audible」で日本語を学ぶ
今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。【 Audible(オーディブル)HP 】
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