はじめに「葬式仏教の不思議」
「葬式仏教」という言葉がある。
文字通り、「葬式を上げるためだけの仏教」という意味だ。
この言葉には、間違いなく、ある皮肉が込められている。
それは、
「いや、坊主はきちんと、仏教を説けよ!」
「葬式仏教なんていらない」
といった趣旨のものだ。
あらためて言うまでもなく、仏教は「宗教」である。
宗教である以上は、人々の不安や恐怖を和らげたり、「死の意味」や「死後の世界」について説かなければならない。
だけど、現代の寺院や僧侶たちは、そうした宗教の本質的な役割を担えているのだろうか。
おそらく、その結論は ”否” なのだろう。
そもそも、そうした現状が「葬式仏教」という言葉に現れているのだ。(ちなみに寺院や僧侶を揶揄する言葉には、その他にも「坊主丸儲け」とか「生臭坊主」なんてものもある)
「仏教が宗教としての役割を担いきれていない」
こうした背景には、寺院や僧侶の堕落もあると思う。
だけど、それよりも寺院や僧侶たちにも抗えない時代の波 ( 近代化や合理化 ) といったものの影響力ははかり知れず、そもそも世間の人々が宗教に対する懐疑心や嫌悪感といったものを強めているのだ。
そんな中で大切な人が亡くなれば、慣例にならって葬儀を仏式であげることとなり、そこにほとんど馴染みのない僧侶が登場し、意味不明なお経を唱え、大してありがたくもない法話を長々聞かされることとなる。
葬儀が終わったあとに残るのは、癒されない悲しみと、大切な人を失った空虚感だけ。
こうした状況で
「仏教ってなんなの?」
という根源的な問いを抱いた人々の口から飛び出る言葉、それが、
「葬式仏教」
という言葉なのである。
さて、こうして考えてみると、次の問いがムクムクと膨らんでこないだろうか。
「そもそも、どうして寺が葬式をあげるの?」
そうなのだ。
多くの人が慣例で仏式の葬式を上げていると思うのだが、その合理的な理由を考えたことがあるって人は、まちがいなくほとんどいないと思う。
だけど、あらためて考えてみると、これは不思議なことだ。
だって、もともとオリジナルのインド仏教では、
「大切なひとが死んだら、みんなで集まってお経を唱えましょうね」
なんて、一言もいっていないからだ。
さて、この記事は「葬式仏教の起源について」書いていこうと思う。
参考にした本はこちら。
『日本仏教史』(末木文美士 著)
日本仏教史界の第一人者の著書だ。
それでは、お時間のある方は最後までおつきあいください。
まずは結論から
詳しい解説に入るまえに、タイトルの問いに対する答えを単刀直入に述べておく。
Q、いつ葬式仏教が始まったのか
A、「江戸時代から」だが、その起源は古までさかのぼることができる。
Q、なぜ寺が葬式をあげるのか
A、「仏教には死に関する思想体系があったから」と「江戸時代に幕府によって制度化されたから」
Q、葬式仏教はおかしいのか
A1、江戸時代の権力者から見れば「合理的」なので「おかしくない」
A2、現代の庶民から見れば「宗教の本質を失ってしまっている」ので「おかしい」
それでは、以下くわしく解説をしていこう。
日本人の宗教事情
やや古いものなのだが、ある2つのデータを紹介したい。
それぞれ、文化庁とNHKによる調査結果である。
1つ目は、【日本人の信者人数】についてである。
やはり、神道と仏教とが大半を占めている。
が、よく見るとこのデータおかしくはないだろうか。
そう、すべての人数を足すと2億人。
つまり、日本の総人口を軽く超えてしまうのだ。
この原因はいろいろあるようなのだが、1つ言えるのは、
日本人の多くが「神道」と「仏教」とに、何らかの関わりを持っているということだ。
では、多くの日本人の宗教行事について改めて確認してみよう。
- 年末年始は主に神社へお参りに行き、受験合格や交通安全や無病息災を祈る。
- 8月になれば、お寺へお参りに行き、お経をあげて先祖を供養する。
- 12月になれば、家族でクリスマスを楽しむし、
- 結婚式はチャペルであげるかもしれない。
- そんな日本人の多くは、「宗教は何ですか?」と問われて、こう答える。
- 「無宗教です」
そこで、2つ目のデータ【あなたは信仰をもっているか】に対する日本人の回答を見てみよう。( 比較の対象として、アメリカの数字もあげておく )
やはり、「無宗教です」はデータにも表れている。
とはいえだ。
とはいえ、実態として日本人の多くは死んだら仏式で葬式をあげているわけで、そう考えれば、多くの日本人は仏教徒に近いといえそうだ。
では、いったいどれだけの人が、仏法を意識して葬式に臨むだろうか。
どれだけの人が、悟りとか救済とか、意識したことがあるだろうか。
そもそも仏教は外来の宗教だ。
【 インド → 中国 → 韓国 → 日本 】という風に、6世紀ごろ日本にやってきたとされている。
だけど、現代のぼくたちに身近な仏教というのは、インドで生まれた原始仏教とは全く別物なのだ。
お釈迦様は、
「お盆になったら先祖が帰ってくるから、お墓にお経を読んで供養しなさい」
だなんて、一言も言っていない。
鎌倉時代、民衆に仏教を広めた、日蓮、道元、法然、親鸞、ああいう人たちだって、
「大切な人が亡くなったら葬式をあげて、お墓を作ってお経を読みなさい」
だなんて、一言もいっていない。
じゃあ、一体いつから、日本人は「仏式」で死者を供養するようになったのか。
以下、それについて確認していきたい。
が、その前に念のため、「仏式の死者供養」の大まかな流れについて、簡単に振り返っておきたい。
それでは、以下くわしく解説をしていこう。
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仏式葬儀の大まかな流れ
以下、紹介するのは浄土真宗の葬式の流れである。
なお、本論からそれるのだが、誤解のないように初めに言っておきたいことがある。
「浄土真宗」における葬儀は、「死者を供養するため」に行うのではない。
が、おそらく多くの門徒達の意識は、「おじいちゃん、おばあちゃんを供養する」といった感じだろう。
こと浄土真宗について言えば、「法要の目的」と「門徒の意識」とに、大きなギャップがあると言わざるを得ない。
( 実は、そのギャップを掘り下げていくと、日本人にとって「宗教とは何か」が見えてくる)
では、以下おおまかな流れをまとめる。
以上が、おおまかな流れである。
というわけだ。
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仏式の葬儀はいつから?
さて、いよいよ本題に入ろう
「寺が葬式をあげなくちゃいけないのは、なんでなの?」
に答えるためには、まず、「日本人は、いつから仏式で葬式を行っていたのか」を明らかにしなければならない。
『日本仏教史』によると、「古くは飛鳥時代までさかのぼることができる」という。
それから現代までの間に、日本人が「仏式で死者を供養していた」ことが分かる文献は多数残っている。
たとえば、平安時代の文献『往生要集』には、死者の往生を願う人々の姿が描かれている。
死にゆく者の枕元に集まり大勢で念仏をとなえて、死者を送りだす様子や、
死後に念仏葬儀をおこない、墓を作る様子なんかが描かれている。
ちなみに、『往生要集』に描かれれている各種儀式には、死にゆく者の「恐怖」や「不安」を和らげる機能があったらしく、それは現代の「ホスピス」に通じるとも言われている。
そんな具合で、死者を供養する文化は、平安、鎌倉、室町と広く確認ができる。
そして、それがカンペキに固定化するのが江戸時代に確立した2つの制度によってである。
「本末制度」と「寺檀制度」である。
「本末制度」とは、かんたんに言えば、寺の序列を決める制度だ。
【本山 → 本寺 → 中本寺 → 末寺 → 孫寺】
といったピラミッド型のヒエラルキーを作り、中央が管理するというものだ。
現在、どこの寺も、本山に対して「ご依頼金」を払わなければならないのだが、その起源は江戸時代にある。
「寺檀制度」とは、かんたんに言えば、寺と檀家の結びつきを固定させる制度だ。
寺は檀家たちの戸籍を管理し、彼らの死後はその寺が葬式をあげる。
江戸幕府としては民衆を支配・管理できるし、寺としては仕事と収入が保証される。
言ってしまえば、幕府と寺のズブズブ、しめしめ、WIN―WINの政策である。
その取り決めの中に「死者に戒名を与えること、定期的に年忌を行うこと、盆や彼岸に法事を行うこと」といった、まさに現代の仏式行事と共通する記述があるのだ。
つまり、飛鳥時代からなんとなく始まっていた「仏式の死者供養」は、
- どんどん日本人へと広がっていき、
- 江戸時代にカンペキに制度化して、
- 明治時代に封建体制が解体したにもかかわらず、
- 依然としてぼくたちの生活に残り続けている、
というわけだ。
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日本人の死生観とは?
さて、仏式の死者供養は、「飛鳥時代」、つまり仏教伝来後まもなく行われていたことを確認した。
そこで気になるのは、
「仏教が伝来する以前、日本人と死者の関係ってどんなだったの?」
ということだろう。
それを解くヒントは、日本民俗学を確立した柳田國男の論考にある。
柳田によれば、日本人の死生観の特徴に「祖霊信仰」があるという。
祖霊信仰とは文字通り、「先祖の霊魂を信じ、それを祭りあげる」というものだ。
以下、それを簡単にまとめてみたい。
以上が、仏教伝来以前にみられる日本人の死生観であるという。
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葬式仏教の起源は日本なのか?
仏教伝来以前の日本人の死生観について確認をした。
どうやら、仏教伝来以前から、日本人は死者を供養していたらしい。
しかも、ここには興味深い2つの点がある。
- 死者を33年にわたって供養する点
- 祖先神はときおり村人の家へ帰ってくる点
この考え、日本のある行事を思い出させないだろうか。
それは、
- 1回忌 ~ 33回忌にわたって行われる仏式の法要
- お盆にご先祖様を供養するために行う墓参り
である。
お釈迦様も、鎌倉仏教の始祖たちも、
「定期的に法要をしようね」とか
「お盆はお墓参りに行こうね」とか、1言だって言ってはいない。
とすると、現代に残るこれらの行事の起源は、仏教にあるのではなく、土着的な日本の習俗にあると言えそうだ。
だが、『日本仏教史』の著者、末木文美士は、
「や、そんなシンプルには結論できないよ」
と、判断を保留している。
なぜなら、「盆」の起源を、中国の「盂蘭盆会」にも求めることができるからだ。
では、中国の「盂蘭盆会」の起源を簡単に確認しよう。
以来、中国では7月に死者を弔う「盂蘭盆会」が広がったという
日本に「盂蘭盆会」が伝わったのは、600年頃と言われている。
ここにも興味深い2つの点がある。
- もてなしたのが旧暦7月15日(現在の8月15日頃)である点
- 「盂蘭盆会」の名前に「盆」という言葉がふくまれている点
ここからも十分に「盆の墓参り」との共通点を認めることができる。
要するに、「盆の墓参りの起源」は日本か中国か、どちらか一方に求めることはできず、そのどちらもが複雑に影響しあって、現代の形にたどり着いたと言うわけだ。
というわけだ。
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まとめ
では、以上のことをまとめつつ、
「寺が葬式をあげなくちゃいけないのは、なんでなの?」
に対する答えを出したいと思う。
まず、大々々々々前提として、日本人は古来から死者を供養していた。
そこには、「死者の魂を鎮魂する」とか、「先祖の霊をもてなす」とか、現代の日本人の死生観と大きく共通する点があると言える。
そこに、仏教が参入してくる。
仏教は【 インド → 中国 → 韓国 】を経て、日本に伝来した。
そして、日本に伝来した仏教は、平安時代、鎌倉時代を経て大きく形を変えていった。
ここで特に重要なのは、「浄土系」の仏教だと考えられる。
なぜなら、修行して悟りを得ましょうという「悟り系仏教」とは異なり、修行をして極楽浄土へ往生しましょうという「浄土系仏教」は、死後の世界を前提としているからだ。
実際、『往生要集』で描かれている儀式は、どれも極楽往生を願って行われたものである。
しかも、「浄土系仏教」には優れて論理的に構築された「死」にまつわる思想体系がある。
「人間の苦しみはこれこれこうで、それを乗り越えるためにはこうしましょう」とか、
「人間の死とはこれこれこうで、人間は死後こうなってああなる、だから現世でこうしましょう」とか、
とにかく、「浄土系仏教」と「死」は親和性が強かった。
それは、土着の習俗や、神道にはない大きな特徴だったといえる。
かくして、仏教と死は、長い時間の中で手を携えていくことになる。
そうやって、定着してきた仏式死者供養という「習俗」に、「制度」という形を与えたのが、
江戸時代の2つの政策だった。
庶民にとってみれば、「仏式の葬式」は、別に昨日今日はじまった訳ではない。
すでに習俗と化していた儀式に、あらためて法の力が加わったわけだ。
江戸幕府が倒れ、明治時代になり、封建制度を解体し、近代化を果たしたところで、「仏式の葬式」がなくなるわけがない。
かくして、現在においても、肉親がなくなれば寺で葬式をあげ、定期的に法事を行い、盆になれば先祖供養のため墓参りをするように、死にまつわるあれこれを寺で行っているのわけだ。
ここで、まとめのまとめとして、以下のようにしるしておく。
以上を踏まえて、この記事のタイトルの疑問についての解答を整理しておく。
Q、いつ葬式仏教が始まったのか
A、「江戸時代から」だが、その起源は古までさかのぼることができる。
Q、なぜ寺が葬式をあげるのか
A、「仏教には死に関する思想体系があったから」と「江戸時代に幕府によって制度化されたから」
Q、葬式仏教はおかしいのか
A1、江戸時代の権力者から見れば「合理的」なので「おかしくない」
A2、現代の庶民から見れば「宗教の本質を失ってしまっている」ので「おかしい」
以上、「葬式仏教」についての解説記事を終えます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
それでは、以下くわしく解説をしていこう。
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おすすめの書籍
仏教を体系的に学ぶための3冊
今回の記事で、仏教について少しでも興味持った人が、体系的に勉強できるように3つの本を紹介したい。
次の3冊を読めば、
日本の仏教を学ぶ → 日本の宗教を学ぶ → 日本の思想を学ぶ
という風に、どんどんとマクロな視点を獲得できる。
もちろん、ベクトルを逆に向けて、
日本の思想を学ぶ → 日本の宗教を学ぶ → 日本の仏教を学ぶ
と、ミクロな視点へとスポットしていくのも良い。
『日本仏教史』(末木文美士)
この記事は、こちらの本を参考にして書いた。
それだけでなく、この1冊を読めば、日本の仏教についてかなり専門的なところまで理解ができる。
数多くある仏教の解説書の中で、もっとも信頼できる書だと思う。
1冊手元に置き、何度も何度も繰り返し読むことがオススメする。
『日本宗教史』(末木文美士)
日本の宗教の特徴は「シンクレティズム」の一言で片付けらてしまうことは多い。
「シンクレディズム」とは「習合」、ひらたく言えば「合体」ってなところか。
日本人の多くが「寺と神社の違い」を意外とわかっていない。
その理由は、この「シンクレティズム」にあるといっていい。
では、日本人にとって「宗教」とは一体何なのか。
本書を読めば、そのことが分かるだろう。
そして、こうも思う。
日本人は決して無宗教ではない。
『日本思想史』(末木文美士)
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