はじめに「作品の難しさ」
『檸檬』は梶井基次郎の代表作であり、近代文学史上の傑作との呼び声が高い作品だ。
とはいえ、率直にいって、『檸檬』という作品は「分かりにくい」
主人公の不可解な内面、詩的な文体、象徴的な世界観……
例えば、多くの読者が、読後にこんな疑問を持ったに違いない。
――で、結局、檸檬ってなんだったの?
この記事では、そんな読者の疑問に答えるべく、作品について解説と考察をしてきたい。
すべて読み終えれば、
- 檸檬は何を象徴していたのか
- なぜ檸檬だったのか
- なぜ漢字表記たったのか
など、作品の謎については大方理解できるはず。
お時間のある方は、ぜひ最後までお付き合いください。
解説①「私の憂鬱の正体」
改めてになるが、『檸檬』という作品は「分かりにくい」
そのわかりにくさは、冒頭からして顕在だ。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた。
さて、この「不吉な塊」とはいったい何なのか。
その答えは、残念ながら作中には明示されてはいないし、語り手の説明も極めて曖昧である。
焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか。――酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる。それが来たのだ。
うーん、分かるようで分からない。
とはいえ、この私の感情は、乱暴に「憂鬱」と言い換えて良さそうではある。
では、私を憂鬱にしている原因は何か、というと、これまたはっきり書かれてはない。
「持病の結核のせいでもないし、神経衰弱のせいでもないし、借金のせいでもない」
こう私はいうワケだが、こんなん読めば、誰だってこう思ってしまうはず。
――いや、ギリギリだな、君の生活。
『檸檬』の舞台は大正時代、しかも、関東大震災直後と推測される。
時代の混乱の中で、不治の病の結核に冒され、今で言うところの鬱病の類いを煩い、挙げ句の果てに借金まみれ。
本人は「いや、別にそれらが原因じゃないっすから」とは言ったって、まったくの無関係だと言うことはできないだろう。
というか、無意識に気にしちゃっているからこそ「病気も借金も、関係ないからね」と、あえて書いてしまうわけだ。
ちなみに、作者の梶井基次郎も19歳で結核を患っていた。
人生これからってときに、絶望の淵にたたされた基次郎。
このころの彼の自棄っぷりはすさまじく、
「死ぬ前に童貞をすてさせろ!」
友人にそう怒鳴り散らして、遊郭で春を買ったというエピソードもあれば、
「ほーら、おいしそうなワインだろ?」
そういって、喀血した血をグラスに入れて友人に見せたなんてエピソードもある。
(詳しくはこちらから【 参考記事 解説「梶井基次郎」の人生・人物像のまとめ―早世した天才のやさぐれエピソード―】)
作中の私の「憂鬱」には、少なからずこうした作者の「憂鬱」が投影されていると見ていいだろう。
そして、その憂鬱の一端には、やっぱり病気があり借金があると言わざるをえない。
もっといえば人生への不安とか、この不条理な世界への恨みだってあっただろう。
主人公の私は行く当てもなく京都の町を放浪し、懸命に「現実逃避」を試みている。
私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。
第一に安静。がらんとした旅館の一室。( 中略 )そこでひと月ほど何も言わずに横になりたい。
私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
うん。やっぱり、この「私」はかなり追い込まれている。
以上のことから、私を抑えつける「不吉な塊」とは、
現実逃避したくなるほどの「生活への不安」や「世界への怨恨」などからくる「憂鬱な精神状態」
といって良いだろう。
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解説②「私と共鳴するモノ」
作品の冒頭で、私が「不吉な塊」という名の「憂鬱」を抱えていることが紹介される。
それに続き、そんな私を慰めてくれる「みすぼらしくて美しいもの」が紹介されていく。
それらを列挙していくと、こんな感じだ。
- 壊れかかった街
- 汚い洗濯物
- 転がっているガラクタ
- むさくるしい部屋
- 裏通り
- 安っぽい花火
これら「みすぼらしいもの」たちは、私の精神状態と共鳴するものとして描かれていて、それぞれの持つイメージは「私」の退廃した精神を読者に印象づける。
ちなみに、作中には「びいどろ」も登場し、これも私を慰めるものとして紹介されている。
ただし、この「びいどろ」は、上記の「みすぼらしいもの」とは明らかに異質であり、私にとって「びいどろ」を舐めることはなんともいえない享楽であるという。
そのことは作中で、こんな風に書かれている。
あのびいどろの味ほどかすかな涼しい味があるものか。私は幼いときそれを口に入れては父母に𠮟られたものだが、その幼児の甘い記憶が大きくなっておちぶれた私に蘇ってくる(以下省略)
ここで確認をしておきたいことは、次の2点。
- びいどろが、幼い頃の記憶につながっている点
- びいどろが、爽やかで涼しい味をしている点
つまり、私がびいどろに慰められるのは、びいどろを通して、幸せだった幼少期を回顧することで「現実逃避」しているからであり、また一方で、鬱屈した思いを晴らすような「涼しい味」にかすかながら「救い」を感じるからなのだろう。
なお、このびいどろの「涼しい味」というのは、後に登場する檸檬の「カーン」とした爽快感につながるものだ。
見落としがちだけど、ここは「檸檬爆弾」の伏線の一つと解釈していいだろう。
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解説③「私と反発するモノ」
極度の憂鬱状態にある私は、まるで闇に吸い寄せられるように、暗くみすぼらしい街を浮浪し続ける。
逆にいえば、私は「光り」や「華やかなもの」から遠ざかろうとしているワケだ。
では、この「光り」や「華やかなもの」とは具体的になんなのか。
例えば、作品の冒頭にはこんな記述がある。
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
以前の私は「美しい音楽」や「美しい詩」を愛好していたという。
ところが「不吉な塊」にやられて以来、私にとって、それらはかえって私を苦しめるものとなってしまった。
「光り」や「華やかなモノ」であるところの「音楽」や「詩」は、今や私にとって「辛抱ならない」ものなのであり、そうした「華やかなモノ」の最たるもの、それが丸善なのである。
丸善とは、大正当時、京都の三条通り(繁華街)にあった大型書店である。
洋書や医学書、芸術品、西洋雑貨などを中心に輸入販売をする丸善は、当時のインテリたちが集まる「知的文化空間」だった。
つまり、丸善は西洋とか近代とかを象徴する「華やかな空間」だったワケだ。
生活がむしばまれる以前の私は、丸善に通い「小一時間」ほど、さまざまな舶来品を飽かず眺めていたという。
ところが「不吉な塊」にやられている私にとっては、丸善はもはや重苦しい場所でしかない。
当然、私の足は丸善から遠のくわけだが、あるものがきっかけとなり
「そうだ、ひとつ丸善にいってみよう」
と思い立つことになる。
そのきっかけとなったもの、それが「檸檬」だった。
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解説④「私と檸檬」
ある朝のこと、いつものように裏通りを浮浪していた私は、とある果物屋に立ち寄る。
その果物屋というのも、例によって「闇」をまとったような店構えで、私はそこを大変好んでいた。
檸檬はそこに売られていた。
さて、なぜ私は檸檬を買ったのだろう。
その理由については、これまたハッキリとは明かされていない。
作品にはこう書かれているだけだ。
いったい私はあの檸檬が好きだ。(中略)――結局私はそれを一つだけ買うことにした。
私がどんな思いで檸檬を手にし、どんな思いで檸檬を買ったのかは分からない。
ただ、その檸檬が私の「不吉な塊」をいくぶんか和らげたことだけは確かなのである。
終始私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれ(檸檬)を握った瞬間からいくらか緩んできたと見えて、私は街の上で非常に幸福であった。
病気、貧困、生活苦――様々な要因によって私にもたらされた「憂鬱」
「あんなにしつこかった憂鬱」が、たかだか「檸檬一つ」で紛らされる。
その不条理や都合の良さを自覚しつつも、私は、
「心というやつはなんと不可思議なんだろう」
と思わずにはいられなかった。
こうして、檸檬によって束の間の「元気」と「興奮」を手にした私は、最終的にあの丸善にたどりつく。
「華やかできらびやかなもの」の象徴であり、平常あれほどまで避けていた、あの丸善である。
だけど、今の私はいつもの私ではない。
「今日は一つはいってみてやろう」
そう思った私は「ずかずか」と丸善に入っていく。
が、途端に、さきほどまで感じていた「幸福感」は、するすると私の内から逃げていってしまう。
そして再びやってくる「憂鬱」、「虚脱」、「疲労」・・・・・・
と、その時だった。
「あ、そうだそうだ。」
私が思い出したのは、さきほど果物屋で買った、あの檸檬――一握りで、私に幸福感をもたらした、あの檸檬である。
ふたたび私に訪れる、軽やかな興奮。
そして檸檬を手にした私は、再び快活さを取り戻し「軽く躍り上がる心」をなんとか押さえようとするほど。
そして、積み上げた洋書の頂に、その檸檬を据え付けるや、こんな夢想をする。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
有名な、いわゆる「檸檬爆弾」のシーンである。
そして、最後に私はこう続ける。
「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端微塵だろう」
そして、私は「京極」を下っていく。
まるで闇を求めるように「裏通り」ばかり選んでいたこれまでとは違い、私は賑やかに彩られた「繁華街」を進むことを選んだのだった。
これが、檸檬のラストシーンである。
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考察①「檸檬は何の象徴か」
以上、『檸檬』という作品の概要を解説した。
こうして眺めてみると、この『檸檬』のテーマは、
「憂鬱からの解放」
と言うことが出来そうだ。
いや、もっと言えば、
「幸福の発見」
「美への恍惚」
「神秘の体験」
ということになるのだろう。
――いや、それはちょっと大げさじゃない?
そう思われるかもしれないが、作中で私は檸檬についてこう述べている。
この(檸檬)の重さは全ての善いもの全ての美しいものを重量に換算してきた重さである
「善」と「美」
いうまでもなく、これらは古代ギリシア哲学以来、ずっと人間が追い求めてきた「真理」の別名だ。
私は名状しがたい閉塞状態の中で、檸檬を手にすることで、その「真理」に触れたのだといっても過言ではない。
そして、彼が幸福や神秘を体験したことも疑いようがない。
その感動は、
ずっと昔からこればかり探していたのだ
とか、
つまりはこの重さなんだな
とかいった、素朴かつ率直な言葉で表現されている。
小難しい理屈が語られないのは、それだけ「幸福」が、私に強烈に実感されたからなのだろう。
なお、この点については、詩人の萩原朔太郎も指摘するところで、朔太郎は『檸檬』という作品に「実在観念」を見てとっている。
「実在観念」というのは、分かりやすく言い換えれば「哲学的・宗教的真理」ということだ。
朔太郎は梶井基次郎について、
詩人の素質と、哲学者の素質を兼ね備えた、日本で数少ない文学者
と評している。
『檸檬』という小説は、閉塞状況にある人間が「真理」に触れ得た、その感動を描いた作品なのである。
「檸檬」が象徴するもの、それは、
- 幸福
- 美や善
- 真理
- 神秘体験
そういった、哲学、あるいは宗教的な体験のことだと結論できる。
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考察②「なぜ檸檬なのか」
檸檬は「宗教的・哲学的真理」を象徴していることを説明してきた。
そうすると、次のような疑問が湧いてくる。
――っていうか、なんで檸檬じゃなきゃいけなかったの?
そもそも「象徴」とはなんなのか。
たとえば、
平和の象徴は「鳩」だし、
愛の象徴は「ハート」だし、
死の象徴は「ドクロ」だし、
要するに、「抽象概念に形を与えること」それが象徴であり、そこには何かしらの必然性というのがある。
とすれば、「真理の象徴」=「檸檬」に一体どんな必然性があるというのか。
その結論を超シンプルに言うと、
檸檬は感覚に強く訴えかけるから
ということになる。
作中における檸檬の描写をピックアップすると、こんな感じだ。
- 絵の具みたいな単純な色
- 丈の詰まった紡錘形の格好
- 体に染み渡る快い冷たさ
- 鼻を打つ爽快な匂い
これらは全て、私の感覚に強く訴えかけてくる特徴だ。
檸檬を手にした時の私は、こう言っている。
あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだといいたくなったほど私にしっくりした
「真理」に到達した歴史的人物はみな、直感的で生々しい神秘体験をする。
イエス、ムハンマド、釈迦などなど。
彼らは皆、彼ら固有の「神秘体験」をした人々なのであるが、もしその実感や感動を一言で述べるとすれば、
「私はこれだけが欲しかったのだ」
「つまりはこういうことだったんだな」
となるだろう。
神秘を体験した彼らの口からもれる言葉というのは、他者に対する論理的な説明や説得ではない。
自らの主観的な感動を表現する、寡黙な言葉なのだ。
なぜなら、神秘体験というのは、原理的に「言語化できない」ものだからだ。
神秘体験というのは、その人の「感覚的」で「直感的」なものだからだ。
繰り返すが、檸檬というのは、そうした「直感に訴えかける特徴」を持った果物だ。
- 単調な色彩
- いびつな紡錘型
- 体に染みる冷たさ
- 鼻をつく爽快な匂い
その檸檬が放つ、ありありとした「実在感」は、作中で「カーン」と直感的に表現される。
檸檬が持つ「実在感」は、もはや私には「カーン」としか表現のしようがないのである。
丸善で積み上げられた「ゴチャゴチャした本」は、私のゴチャゴチャした心的状態を暗示している。
そのてっぺんで「カーン」と冴え渡る「檸檬」は、、私の憂うつを「カーン」と吹っ飛ばしてくれる体験を表現している。
そして「気詰まりな丸善」を木っ端微塵に吹っ飛ばしてくれる「檸檬爆弾」は、私の憂うつを木っ端微塵に粉砕してくれる「救世主への憧れ」を表現しているのだ。
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考察③「なぜ漢字なのか」
では、最後に、たぶん多くの読者が地味に気になっていること、
――なんで“レモン”じゃなくて“檸檬”なの?
の疑問について答えてみたい。
とはいえ、ここまで読んでくださったあなたは、うすうす勘づいているかもしれない。
結論を言えば、
レモンと書くより、檸檬と書いた方が、存在感が強くなるからだ。
このゴッツい漢字のほうが、私のありありとした「直感的な経験」や、檸檬の「実在感」なんかを表現することができるからだ。
この点については、作家の吉行淳之介も次のように指摘している。
「やはりあのまがまがしい字の形、これはやはりかなりのもんだっったんですね、ぼくにとっては。平仮名もしくは片仮名にすると、すがすがしくなっちゃう」
作者の梶井基次郎も「檸檬」という漢字の「まがまがしさ」を実感していただろう。
そして僕たちだって「檸檬」という漢字の持つインパクトは、感覚的に理解できる。
「レモン爆弾」では、私の感動を表現するのに相応しくない。
丸善を粉砕するのは、やっぱり「檸檬爆弾」でなければならないのだ。
檸檬が漢字で書かれなければならなかった理由、それは、
檸檬の「実在感」を効果的に表現するため
ということになる。
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おわりに「薄汚れた檸檬」
以上、『檸檬』という作品に関する解説と考察を終えたい。
記事では「檸檬 = 真理や神秘体験の象徴」といった点を強調してきた。
そして、「檸檬である必然性」についても、その「特徴」を元に考察してきた。
が、そもそも論として、この『檸檬』という作品が書かれたのには、この上ない大きな理由があった。
それは、「梶井基次郎にとって檸檬が特別な存在だったから」というものだ。
基次郎の友人に中谷孝雄という人物がいる。
彼は基次郎について回想し、「基次郎から手垢にまみれた檸檬をもらい不快になった」エピソードを語っている。
基次郎はいつも「檸檬」を大切に携えていたのだろう。
そしてそれは、彼自身が「檸檬体験」をしたことを僕たちに暗示する。
彼が若くして結核を患い、ズタボロの生活を送っていたことは、記事で説明をした。
そんな生活の中で、彼は「これだ!」という強烈な幸福を感じた一瞬があったのだ。
そしてその幸福を与えてくれたのは、比喩でも象徴でもなく、まさしく現実世界の「檸檬」だったのだ。
とすれば、この『檸檬』という作品は、別に象徴的な話ではないのかもしれない。
そして、僕たちが「真実」とか「実在」に触れ得るとすれば、それは何気ないモノを通してなのかもしれない。
つまり、僕たちにとっての「幸福」とか「救い」というのは、日常に潜んでいるのかもしれない。
そんな僕の予感を述べて、この『檸檬』の解説記事を締めくくりたい。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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