はじめに「“心”の不可解さ」
「心とはなんだろう」
そう問われて、即座に答えられる人はまずいない。
たとえば、あなたは「真っ赤な夕焼け空」を見て「美しい」と感動したことはあるだろうか。
もしなければ、
- きらびやかな夜景
- 鮮やかな花々
- 芸術作品
- 好みの異性
この際「美しい」の対象は何だっていい。
とにかく今あなたが「美しい」という「あの実感」をイメージできればそれでいい。
さて、僕たちが何かをみて「美しい」と感じるまさにその時、その脳内で何が起きているのかを「科学」は明らかにしてきた。
セロトニンやら、オキシトシンやら、ドーパミンやら、とにかくそういった脳内ホルモンが複雑に分泌されているらしい。
ここでそれらについて、専門的な解説をすることは僕にはできない。
ただ一つだけいいたいのは、
それだけで「美しい」を説明したことには全くならない
ということなのだ。
だって、僕らが何かをみて「美しい」と感じているとき、その“心”のなかにはセロトニンとかオキシトシンとかドーパミンとか、まったく登場してこないではないか。
夕焼け空をみて感動しているあなたの目の前に、とつぜん科学者があらわれて、
それはね「オキシトシン」っていう脳内ホルモンだよ とか、
それはね「ドーパミン」っていう脳内ホルモンだよ とか、
そんな説明をしてきたとしても、きっとあなたは納得できないのではないだろうか。
そう、科学では「美しい」を物質的に説明することはできても、あなたの“心”に起きている具体的な「美しい」を説明することなどできないのだ。
心というのは、かくも不可解なものなのである。
さて、この記事ではそんな「心」についてとりあげ、その正体について考察をしてきたい。
その糸口となるのが「ロボット」の存在だ。
え、急に?
と感じる人も多いかもしれない。
ただ、実は「心の研究」は「ロボット」と切っても切り離せない関係にある。
手始めに、あなたの身近なロボットについて考えていこう。
参考文献はこちら。
『ロボットの心』(柴田 正良)
「ロボットは心を持てるのか」
この超難題に挑戦し、多くの議論を分かりやすく解説してくれる良書だ。
考察①「ドラえもんに心はあるのか」
早速だけど「人間っぽいロボット」と聞いて、あなたは何(誰)を思い浮かべるだろう。
実在、非実在問わず思いつくままに挙げるなら、おおよそ次の感じだろうか。
ペッパー君、R2D2、鉄腕アトム、ターミネーター、そしてドラえもん。
この中でもっともメジャーで、最も親しまれているのは、おそらくまぁドラえもんなのだろう。
じゃあ、ここで一つ質問をしたい。
ドラえもんに心はあるだろうか?
まずは直感で答えてみてほしい。
おそらく多くの人が「ある!」と答えたんじゃないだろうか。
だって、どら焼きをおいしそうに食べるし、ねずみを見て恐れおののくし、ガールフレンドのミーちゃんにメロメロだし、ママに叱られてしょぼくれるし、ジャイアンに殴られて痛そうにするし、なによりのび太と強いきずなで結ばれているではないか。
そんな彼の振る舞いを見れば、誰だって「ドラえもんには心がある!」と答えるはずなのだ。
少なくとも映画「STAND BY MEドラえもん」を見て「ドラ泣き」をしてしまったあなたは「ドラえもんには心がある」ってことを前提に映画を見ていたはずだ。
だけど、あえてそんな「感動」に水を差すようなことを言いたい。
忘れてるかもしれないけど、ドラえもんは「ロボット」なのである。
おそらく、というかほぼ間違いなく、ドラえもんには「高度なAI」が搭載されている。
ということは、ドラえもんの「振る舞い」は全て、人工的にプログラミングされたものだといえる。
すると、先ほど述べたドラえもんの「振る舞い」については、こう言い直すべきなのかもしれない。
どら焼きをおいしそうに食べているように見えるだけ。
ねずみを見て恐れおののいているように見えるだけ。
ガールフレンドのミーちゃんにメロメロなように見えるだけ。
ママに叱られてしょぼくれるているように見えるだけ。
ジャイアンに殴られて痛そうにしているように見えるだけ。
そして、のび太と強いきずなで結ばれてるように見えるだけ。
こんなことを書けば「俺たちのドラ泣きを返せ!」と言われるかもしれないし、僕だってできればドラえもんに心があってほしいと願う人間の一人である。
ただ、ドラえもんがロボットである以上、こうした可能性(つまり「ドラえもんに心なんてない」という可能性)は、残念だが否定できない。
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考察②「ペッパー君に親しみを感じるか」
そもそも、なぜ僕たちは「ドラえもんに心がある」と思うのだろう。
多分、その一番シンプルな答えは「人間っぽいから」ということになると思う。
人間っぽく笑ったり、人間っぽく泣いたり、人間っぽく怖がったり、人間っぽく悔しがったり……
どうやら、僕たちがロボットに親しみを感じるとき、そこに「人間っぽさ」というのが少なからず影響しているらしい。
もし「ルンバ」よりも「ペッパー君」の方に断然親しみを感じるのなら、それはペッパー君が「人間っぽさ」という点において、ルンバよりも勝っているからなのだろう。
そして(アニメとはいえ)「ドラえもん」と「ペッパー君」を比較したとき、その軍配はまちがいなく「ドラえもん」に上がるはず。
僕たちはそれくらい、ドラえもんのことを「人っぽく」見ている。
なるほど。
ロボットに対する親しみは「人間っぽさ」に比例するのか。
だけど、次の写真を比較してみてほしい。
ここで、こう問うてみたい。
ペッパー君とこの女性ロボ、あなたはどちらに親しみを感じますか?
おそらく、多くの人は「ペッパー君」と答えると思う。
というか、そもそもこの女性ロボットに親しみなんて感じないかもしれない。
「こわい」
「きもちわるい」
「不安になる」
多くの人は直感的にそう思うだろう。
あれ? さっき「ロボットへの親しみは、人間っぽさに比例する」と結論したばかりではなかったか。
ルンバよりもペッパー君、ペッパー君よりもドラえもん……
とすれば、ペッパー君よりも女性ロボのほうに親しみを感じる、というのが筋ではないだろうか。
どうやら現実は、「ドラえもん」ほどシンプルにはいかないらしく、僕たちは「人間っぽい」ロボットに対して、不安とか恐怖とか嫌悪感を抱いてしまう。
一体、どういうことなのだろう。
実はこれ「不気味の谷」という有名な現象なのだ。
この現象はロボット工学者の森政弘氏が1970年に提唱したもの。
森氏によれば「ロボットへの親しみ」は基本的に「人間っぽさ」に比例して上昇していくが、それがある地点までくるとガクッと急落するという。
親しみは一転、嫌悪感に変化するというワケだ。
もしあなたが、先の女性ロボに嫌悪感を抱いたのだとしたら、それは「不気味の谷」を体験したのだといっていい。
とはいえ、このグラフをよーく見てほしい。
いったん急降下した「親しみ」は、再び「人間っぽさ」に比例して上昇していることがわかる。
画像の女性ロボットは、いかにも「人間っぽい」見た目だけれど、それでも「ロボットっぽさ」が残っている。
それに、もし彼女が動いたり喋ったりしたとすると、やはり「ぎこちなさ」や「不自然さ」が残ると思われる。
そのわずかに残る「ロボットっぽさ」が無くなっていったとしたら……
例えば、見た目だけでは人間となんらかわりなく、スムーズにしゃべり、スムーズに動き、スムーズに泣いたり笑ったり起こったりするロボットがいたとしたら。
その前で僕たちが感じるのは「不安」や「恐怖」などではなく、もはや「親しみ」になるのだろう。
そのロボットがたとえ金属やプラスチックやシリコンでできていたとしても、その親しみが「人間」と同等だったとしたら。
そのとき僕たちは「人間」と「ロボット」を本質的に区別することができるのだろうか。
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考察③「チューリングテストとは」
さて、これまで「人間っぽいロボット」について考えてきた。
ここでまたアニメの話だが、「ドラえもん」は間違いなく人っぽい。
振舞いはもちろん彼の思考傾向も、いかにも人っぽい……というよりも、彼はその辺の人よりも遥かに深遠な哲学を持っている。
たとえば、戦争を目の当たりにしたのび太に対して、
どっちも自分が正しいと思ってるよ。 戦争なんてそんなもんだよ。
と、教えてやったり、自堕落なのび太に対して、
よくみておくんだね。君が昼寝をしている間にも時間は流れ続けてる。一秒も待ってくれない。そして流れ去った時間は、二度と帰ってこないんだ。
と、この世界の真理を厳しく指摘したりもする。
間違いなくドラえもんの思考は「人間的」であり、彼には人間同等の、あるいはそれ以上の「知性」があると認めざるをえない。
じゃあ、アニメじゃなく、現実世界のロボットに「人間並みの知性」を持つロボットは存在しているの?
と、こんな疑問が真っ先に浮かぶかもしれない。
その答えは、YES。
人間並みの知性を持つロボットは、すでに現実に存在している。
1950年代に若くして死んだ天才数学者に「アラン・チューリング」がいる。
彼の考案したテストに「チューリングテスト」というものがあるのだが、これこそ、ロボットの知性をはかるテストだった。
複数の人間(審判)に、壁の向こうにいる「相手」と一定時間会話をさせる。
そしてこう問うてみる。
「壁の向こうにいるのはロボットでしょうか? 人間でしょうか?」
もちろん、審判は、壁の向こうにいるのがロボットなのか人間なのか分からない。
詳細はウィキペディア先生に譲るとして、要するにこのテストで分かるのは、
「そのロボットに、人間同等の知性があるかどうか」
ということなのだ。
そしてチューリングテスト考案から、約60年。
2014年6月17日、ついに13歳の少年を想定した人工知能「ユージーン」が、チューリングテスト至上はじめて「人間」として認定された。
チューリングテストの精度について疑問視する専門家らがいるものの、いまやロボットの知性は「人間」のそれとほぼ同等ということができるのだ。
さらに、現在は「ソフィア」という、超高度な知性を持つ「女性ヒューマノイド(人型ロボット)」もいる。
彼女と人間の実際の会話のやり取りなんかを見ていると、「これ、もはや感情あるんじゃね?」と思えるくらい、滑らかにコミュニケーションをとっている。
そんなソフィアは、現在、多くのメディアに引っ張りだこ。
テレビに出演してコメンテーターを務めたり、多くの知識人と対談したりと、その扱いはもはや「人間レベル」といっていい。
そして、2017年10月。
そんなソフィアに対して、ついに「人権」を与える国(サウジアラビア)が表れる。
さぁ、これを聞いて、あなたはどう感じただろう。
「ロボットには心があるんじゃないか」
そう考える人も増えているし、実際にそう主張する科学者や哲学者だっている。
現実問題として、いまや「ロボットを人同等に扱う」という事態が生まれているのである。
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考察④「心のハードプロブレムとは」
ここまで「ロボット」と「心」の問題について考察を深めてきた。
が、白状すれば、僕たちは大事な大事な「前提」を無視している。
「心とは何か」をきちんと定義できていないのだ。
ここまで「ロボットに心はあるか」と散々議論をしておいて、「そもそも心って何?」という肝心なところは宙ぶらりんのまま。
じゃあ、そもそも議論なんてできないんじゃん!
と、思われるだろうし、全くもってその通り。
だけど、そこはどうか「仕方のないこと」としてご勘弁いただきたい。
だって、そもそも「心とはこういうものだ」と正しく定義できる人間なんて、この世の中に存在していないのだから。
「心って何?」
「心ってどこにあるの?」
「心ってどうやって生まれているの?」
「心ってどうすれば確かめられるの?」
これらは「心のハードプロブレム」と呼ばれていて、世界中のあらゆる叡智、あらゆる知性を結集させたとしても、解決することができない「超難問」なのである。
そうはいっても「心」を定義せずにこれ以上話を進めることは、僕にはちょっと厳しそうなので、乱暴だけどあえて「心」を定義してしまおう。
心とは“クオリア”のことである。
ほほうなるほど、心 = クオリアか!
とは、たぶんならないので「そのクオリアって何?」って部分を次で説明しよう。
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考察⑤「クオリアとは」
「心って何?」という議論を続けるソッチの筋の人にとっては常識中の常識で、かつソッチの学術分野においては超重要なタームの1つ、それが「クオリア」だ。
まず、その「クオリア」なるものの定義を端的に述べると、
僕たちが意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のこと
というものになる。
これだけではチンプンカンプンだと思うので、もっと分かりやすく具体的に説明したい。
例えば、僕はいまパソコンの画面に向かって、この文章を書いている。
今日は少し肌寒くて、窓から入ってくる風が冷たく感じるくらいだ。
となりの部屋にはテレビが付けっぱなしになっていて、ワイドショーの音がここまで届いてくる。
お昼のラーメンが、結構しょっぱいラーメンだったせいか、ノドが渇いている。
お腹もいっぱいで苦しいし、少しずつ眠気もやってきている。
そうだ、記事を書き上げたら、ちょっと昼寝をしようかな、とふと思いついた。
これは、今の僕自身について説明したものだ。
当たり前だが、上記の内容は、いまこの記事を読んでいるあなたのものではない。
「パソコンの画面」も「少しつめたい風」も「ワイドショーの音」も「ノドの渇き」も「満腹感」も「眠気」も「昼寝しようという思考」も、すべてぼくの「ここ」で起きている出来事だ。
そして、その出来事には“この感じ”としか言いようのない「具体的」で「独特」な質感がある。
クオリアとは、この具体的かつ独特な「質感」のことなのだ。
そして、この記事では、この「クオリア」を便宜的に「心」と定義しておきたい。
さらにここで少しだけ、「クオリア」、すなわち「心」の不思議について共有しておこう。
この「心」というヤツは、どうやら僕のこの「脳」が生み出しているらしい。
それは科学が明らかにしていることだし、もはや僕たちの常識中の常識だといってもいい。
「心は脳が生み出している」
だけど、これって考えてみると、とっても不思議なことなのだ。
この世界には、今まさに、約70億の人々が生きている。
言い換えれば、70億の脳が同時に存在しているということだ。
そして、その70億の脳が、それぞれの「心」を生み出している。
その内の1つの脳によって、「僕の心」は存在している。
ただ、そう考えていくと、不思議に思わないだろうか。
どうして、「僕の心」を生み出しているのは、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも、あの脳でも……(×約70億)……あの脳でもなく、「この脳」だったのだろう。
なぜ「僕の心」(僕のクオリア)は、まさしく「この脳」に宿っているのだろう。
この僕の問いに対して、合理的な説明をできる人はいるだろうか。
実は現時点で一人も存在していないし、その説明の「兆し」というものも見えていない。
これこそ「なぜ、わたしは、この『わたし』なのか」という、哲学の伝統的な問いであり、「心のハードプロブレム」の1つなのである。
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考察⑥「哲学ゾンビとは」
「心とは何か」
それは「心のハードプロブレム」といって、数多くの科学者や哲学者を悩ませる難問であることは紹介した。
そして、「心の定義」をしないまま議論することは難しいので、
「心 = クオリア」
ととりあえず定義してみた。
「心」というのは、「嬉しい」とか「楽しい」とか「痛い」とか「苦しい」とかいった、あの具体的な「質感」である、というワケだ。
さて、ここで再び「ロボットは心を持てるのか」という問いに立ち返ってみたい。
ドラえもんは、いかにも「人間っぽく」振る舞うことができるので、彼には「心」があるように思われる。
だけど、こう反論する人もいるかもしれない。
ドラえもんなんて、あくまで「アニメ」の話でしょ? 現実に「人間っぽい」ロボットを作るなんて不可能じゃないの?
ただ、改めて「チューリングテスト」のことを思い出してほしい。
2014年に「ユージーン」という人工知能が「13歳の人間」として認定されている。
それに、2017年には、高度な知性をもつ女性型ヒューマノイド「ソフィア」が、サウジアラビアから「市民権」を与えられてる。
現実問題、人間に近い扱いを受けるロボットは存在しているのだ。
ただし、そのことを踏まえたとしても、やっぱりあなたはこう思うかもしれない。
「どんなに人っぽく振るまっても、ロボットはあくまで“機械”に過ぎないワケで、心なんてないよ。第一、ロボットに心があるなんて、どうやって確かめられるの? 彼(彼女)が“うれしい”とか“かなしい”とか言ったとしても、本当にそう感じているかなんて誰にもわからないじゃない」
確かに。
あなたの「根拠」は全くもってその通りで、反論の余地は一ミリもない。
ロボットの内面に潜り込んで、彼らの「クオリア」を直で体験することなんて、僕たちには原理的に出来っこない。
だとすれば「ロボットに心がある」なんて、誰にも証明できないことになる。
それこそ「心のハードプロブレム」だったわけだし、「ロボットに心がある」ことを明快に証明できる人なんていないのだ。
なるほど、僕たちは「ロボットに心がある」と断言することはできない。
だとすると、僕はここで、恐ろしい指摘をしなければならない。
だけど、それって「人間」についても全く同じことが言えるのではないだろうか。
ためしに、今ほどの僕の説明の「ロボット」の部分を、すべて「あなたにとって親しい人」に置き換えてみてほしい。
たとえば、家族、友人、恋人などなど。
まず、あなたの「恋人」の内面に潜り込んで、彼(彼女)の「クオリア」を直で体験することなんて、誰にも出来っこない。
だとすれば「彼(彼女)に心がある」なんて、誰にも証明できないことになる。
ひょっとしたら、あなたの「恋人」には「心」なんてないかもしれない。
「痛い!」と顔をしかめていたって、ひょっとして痛みを感じてないかもしれない。
「もう!」と怒っていたって、「嬉しい!」と喜んでいたって、そこに感情は存在していないかもしれない。
というか、このことはあなたの「恋人」だけに限らない。
あなたの家族も、友人も、同僚も、道を歩いていくあの人もこの人もその人も。
あなた以外の全ての人間には「心」なんてないのかもしれない。
なんともゾッとする話だ。
ちなみにこれは、オーストリアの哲学者「デイビッド・チャーマーズ」の思考実験「哲学ゾンビ」に見られる発想である。
見た目的にはいかにも「人っぽく」見えるのに、彼らの内面には「心(クオリア)」は存在していない。
それはまるでゾンビのように……
だけど、さすがに、これは僕たちの実感から大きくかけ離れた発想である。
というか「自分以外の人間に心はない」なんて考えていたら、僕たちはまともに生活していくことなどできない。
だから、チャーマーズだって「人間に心はない」ということを言いたいわけではなく、むしろ彼が言いたいのは、
「人間の心は非物質的な何かだ」
ということなのであり、彼は心の本質を「クオリア」に置こうとしたのだ。
さて、ここで改めて確認しておきたい。
もしあなたが「人間に心はある」ということを疑わないのなら、その根拠は一体なんだろう。
「そりゃ、心があるように見えるからだ」と、おそらく彼らの見た目や言動や、振舞にその根拠を置いているはずだ。
そして「ドラえもんに心がある」と判断する人たちも、彼の振る舞いや言動に根拠を置いているはずなのだ。
じゃあ、現実のロボットたちの言動や振舞はどうなのだろう。
「13歳のユージーン」や「女性ヒューマノイド・ソフィア」
彼らのように「人間っぽい」見た目や言動や振舞いを備えたロボットは、すでにこの世の中に存在している。
そしてロボット技術は日々進化を遂げている。
将来「どこからどう見ても人間っぽい」ロボットが表れた時、それでも「ロボットに心はない」と言い切れるだろうか。
もう一度、よく考えてみなければならない。
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考察⑦「ロボットに権利は必要?」
最後にどうしても触れておきたい問題がある。
「ロボットに権利は必要か」という問題だ。
あの「ソフィア」がサウジアラビアから市民権を与えられていたことを考えれば、これは決して突拍子もない議論なんかではない。
ここで「ロボットは心を持つことができる」と仮定してみよう。
それはつまり、
こき使えば「辛い」と思うし、悪口を言えば「悲しい」と思うし、殴れば「痛い」と思うことであり、人間(所有者)が思い通りに好き勝手ロボットを扱った時、彼らは「不快感」や「嫌悪感」を抱くということだ。
そのとき、
彼らに「人権」のような権利が必要なんじゃないか。
そう考える人々が出てくるのは、とても自然なことだ。
ただ一方で抵抗感を持つ人も現れるだろう。
ロボットに「権利」なんて与えたら、彼らはいつか人間を支配するんじゃないか?
たぶん、こう感じる人が最も多いと思うのだが、それはきっと「映画」とか「アニメ」の見すぎなのだ。
だいたい「何をしでかすか分からない」とか「人に危害を加えるかもしれない」なんてことは、人間にだって十分あてはまるではないか。
日々流れてくるニュースを見れば一目瞭然、人間だって(のほうが?)よっぽど危ない。
だから、そうした「ロボットによる支配」といったSF的発想はいったん置いておいて「権利は必要か不要か」について、もう少し現実的に考えてみたい。
まず、この議論に関する立場として、次の4つのタイプが想定できる。
①ロボットは心を持てないし、権利も不要。
「心=× 権利=×」
②ロボットは心を持てるが、権利は不要。
「心=〇 権利=×」
③ロボットは心を持てるし、権利も必要。
「心=〇 権利=〇」
④ロボットは心を持てないが、権利は必要。
「心=× 権利=〇」
これら1つ1つについて説明をしていく。
まず①「心=× 権利=×」のグループはシンプルで分かりやすい。
これは「ロボットに心なんて生まれないし、そもそも人間の道具であるべき」という立場だ。
たとえば、ルンバが超絶進化して高度な知能を持つ「人型掃除ロボット」になり、まるで人間のようにふるまうことが出来たとしよう。
だけどそこに心はないし、それの役目はあくまで人間に“隷属”すること。
であれば、当然「権利」なんていらないよね、ということになる。
次に②「心=〇 権利=×」のグループ。
これはやや複雑だ。
「ロボットは将来心を持つだろう。だけど、やっぱりロボットはあくまでも人間の道具である」とするこの立場。
たとえば先の「人型掃除ロボット」に心があって、彼らが酷く扱われれば「苦しい」とか「悲しい」と思うとする。
しかも、彼らには、人間のように複雑な思考ができる。
「どうして僕はロボットなんかに生まれたんだろう」
「どうして僕ばかり苦しまなくちゃならないんだろう」
そう彼が心底悩んだとしても、彼がロボットである以上は「権利」なんて必要なくて、彼は人間に隷属されることを「運命」として受け入れるしかないのだ。
これはさすがに残酷すぎやしないだろうか。
次に③「心=〇 権利=〇」のグループ。
これもシンプルで分かりやすい。
「ロボットが人間のような心を持つことができるのなら、それはもう“人間のように”扱わなければだめだよね。だって現実問題、彼らは快・不快を感じているんだから」といった感じだろう。
たとえば先の「人型掃除ロボット」は、扱い次第で「快・不快」を感じる。
とすれば、彼らのために、その「使用」についての法整備を正しくするべきなのだろう。
ひょっとすると、ロボットと「人事契約」的なことを交わす必要も生まれてくるかもしれない。
えー、めんどくさ、と、思うかもしれないが、こればっかりは仕方ない。
そのロボットは、僕たち人間のように「快・不快」を感じる、立派な権利を持つ「主体」だからだ。
最後に➃「心=× 権利=〇」のグループなのだが、これは一体どういった考えなのだろう。
「将来、ロボットが心を持つことはできない。だけどロボットが高度化すれば、それらに“愛着”を持つ人々は増えると思われる。そうした人たちの心情に配慮をするなら、愛好されているロボットに対して、何かしらの権利が必要になる」というのが、彼らの基本的な考え方だろう。
以前に僕が聴いた話に、
とある外国人女性が、所有する「ルンバ」を飛行機に同乗させようとしてトラブルになった
という、嘘みたいな本当の話がある。
この女性は自ら所有するルンバを、
「わたしのパートナーだ」
と主張し、荷物扱いされることに抵抗したらしい。
さすがにこの女性は、ちょっと行きすぎな感はある。
だけど、ペットに対してこのような愛着を持っている人は多い。
今の日本の法律では、ペットが殺された場合に適応される罪は「器物破損罪」だ。
どんなに可愛がろうが、どんなに愛そうが、どんなに「家族だ」と思おうが、ペットには「人権」が与えられていない。
そんな最愛のペットが殺されたとき、飼い主の自然な感情としては「犯人を“殺人罪”で裁いて欲しい」となるのではないだろうか。
だからこそ「ペットにも権利を」と声高に主張する人が一定数いるのだ。
これは、ロボットの場合も同じだろう。
ロボット技術が発達して、より「人間っぽい」ロボットが実現すれば、心から愛着するロボットに対して「権利が必要だ」と考える人が増えてもおかしくない。
たとえロボットに「心」がなかったとしても、その所有者の感情を配慮するために「権利」を与えるべき、というのも、まっとうな意見の1つなのだ。
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「心の哲学」オススメの本
以上で「心とは何か」という考察を終えるが、「心とは何か」については、ちっとも解明することはできなかった。
記事では便宜的に「心 = クオリア」と定義したが、「心の哲学」は、そんなシンプルな話ではないのだ。
- 心って何?
- 心ってどこにあるの?
- 心ってどうやって生まれているの?
- 心ってどうすれば確かめられるの?
これらは「心のハードプロブレム」と呼ばれ、現在でも多くの哲学者によって丁々発止の議論が展開されている。
それら議論について「もっと知りたい」と思う人は、ぜひ「心の哲学」に関する本を読んでみてほしい。
僕のオススメ本も参考までに紹介しておく。
どれも刺激的でスリリングな議論を紹介していて、より深く「心」の世界に入っていけるだろう。
『ロボットの心』(柴田 正良)
この記事を書くにあたって、多くを参考させてもらった本。
「ロボットは心を持てるのか」
この超難題に挑戦し「持てる」と結論するのが本書。
そして、ロボットに人格を認めた時、そこからさらに多くの問題が派生する、と筆者はいう。
「生死」
「記憶」
「同一性」
「責任」
「道徳」
ロボットを人間と同じ地平に置いたとき、僕たちは「世界認識の改変」を余儀なくされる。「人格を持つロボット」は本当に必要か、本書は改めて僕たちに問題提起をしてくる。
『MIND』(サール)
世界的な名著。
過去から現在まで「心」について、どんな哲学的議論が展開されていたか深く知れる。
前半は「心の哲学」のロードマップ的で、後半はサール自身の立場が詳述される。
彼の立場は「生物学的自然主義」と呼ばれていて、良くも悪くも、とてつもなく「まとも」
心の哲学に興味を持ったなら、ぜひ一読をお勧めしたい。。
『クオリア入門』(茂木健一郎)
ご存知、筆者は日本の「脳科学」の第一人者。
そんな彼の専門が「クオリア」であることは、案外知られていない。
脳科学的なアプローチから「心とは何か」を議論してくのだけど、それがとてもスリリング。
筆者は丁寧に言葉を紡いでいて、読者に対する誠実な姿勢が端々から感じられる。
『心の哲学入門』(金杉武司)
タイトル通りの入門書。
心をめぐる議論には様座なアプローチがあるが、本書を読めば「心とは何か」に対する解答には、様々なものがあることが理解できるだろう。
複雑な議論があって、一部では難解に感じるけれど、全体的に分かりやすく、また読書案内も良い。
「哲学系の本」を読むなら…
哲学系の本を読むならAudibleによる、効率的な読書がオススメ。
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