はじめに「作品の概要」
『人間失格』は1948年、太宰治39歳の頃に発表された作品だ。
別に文学好きじゃなくても、
「太宰文学」=『人間失格』
といった認識を持っている人は割と多く、近代文学としての認知度は「夏目漱石」の『こころ』や「芥川龍之介」の「羅生門」なんかと肩を並べるほど。
また、戦後の日本文学者「ドナルド・キーン」に翻訳されたことで、欧米諸国での認知度も高く、『人間失格』は文字通り「日本近代文学の代表作」といっていい。
さて、その内容なのだが、シンプルにいって「ジメジメと陰鬱な内容」である。
というのも、『人間失格』は、太宰治が自死する1カ月前に発表された作品であり、彼の当時の心理状況が色濃く表れているからだ。
しかも、描かれるのは「破滅の王様」太宰自身の実体験を題材にしたものばかり。
作品の冒頭にあるのは、
恥の多い生涯を送ってきました
といった有名すぎるフレーズなのだが、僕たちはこれを「太宰治による最期の告白」ととっていい。
したがって、『人間失格』を読めば太宰に関する様々なことが見えてくるわけだ。
たとえば、
――太宰はどんな思いで人生を送って来たのか――
――どんな思いで自ら命を絶っていったのか――
『人間失格』は“人間”「太宰治」の主観的真実が描かれた、精神的自伝だといっていい。
この記事では、そんな『人間失格』と、「太宰治の生涯」の関連について徹底的に解説をしていく。
作品を読んだ人にとっても、これから読みたいという人にとっても興味を持てる内容となっているので、お時間のあるかたはぜひ最後までお付き合いください。
登場人物
大庭葉蔵 主人公。東北地方の富豪の末っ子。幼少から気が弱く、人を極度に恐れており、その本心を悟られまいと道化を演じる。成績は優秀。中学卒業後は、高等学校進学のために上京する。自然と女性が寄ってくるほどの美男子であり、とある女性と心中事件を起こす。その後は、高校を中退し漫画家となるが、薬物中毒を患い精神病棟に入院させられる。
竹一 葉蔵の中学の同級生。葉蔵の「道化」を見抜き、葉蔵を震撼させる。葉蔵に対し2つの予言(「女に惚れられる」と「偉い絵画きになる」)をした人物。
堀木正雄
葉蔵が上京後に通った画塾の生徒。葉蔵より6つ年上で、葉蔵に「酒」「煙草」「淫売婦」「質屋」「左翼運動」などさまざまなことを教える。薬物中毒となった葉蔵を見かねて精神病棟に入院させる。
ヒラメ(渋田)
古物商。眼つきが魚のヒラメに似ている。葉蔵の父親から葉蔵の身元保証人を頼まれ、自堕落な葉蔵に干渉をする。薬物中毒となった葉蔵を見かねて精神病棟に入院させる。40代。
ツネ子
銀座にあるカフェの女給。葉蔵と入水心中して死亡する。22歳。
シヅ子
雑誌の記者。葉蔵に漫画の寄稿を勧める。1人娘を持つ未亡人。高円寺のアパートで葉蔵と同棲する。28歳。
シゲ子
シヅ子の娘。葉蔵を「お父ちゃん」と呼び、葉蔵に懐く。5歳。
京橋のマダム
バアの女主人。シヅ子の家を出てきた葉蔵を自宅に迎え入れる。後になって葉蔵から手記と写真が送られてくる。
ヨシ子
バーの向かいの煙草屋の看板娘。処女で、疑いを知らない純粋な心の持ち主。人を信頼しすぎたため葉蔵の知り合いの男に強姦される。登場時18歳くらい。
「私」
作家の男。本作における「はしがき」と「あとがき」の書き手。葉蔵との直接の関係はない。京橋のスタンドバーのマダムと知り合い。マダムから、小説のネタとして手記と3枚の写真を提供される。
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あらすじ
作品の構成
『人間失格』は全5章で構成されている。
- はしがき(書き手=私)
- 第一の手記(書き手=葉蔵)
- 第二の手記(書き手=葉蔵)
- 第三の手記(書き手=葉蔵)
- あとがき(書き手=私)
「はしがき」と「あとがき」は、本編の後日譚のような趣であり、とある作家「私」の手によって書かれている。
また、作品のメインとなるのが、主人公「大庭葉蔵」による3つの手記(第一の手記、第二の手記、第三の手記)であり、それぞれ次のように整理できる。
- 第一の手記……幼少期について(~10歳頃まで)
- 第二の手記……中学から心中事件まで(14歳~20歳)
- 第三の手記……心中事件後から精神病棟入院まで(20歳~27歳)
なお、これら3つの手記は、それぞれ3枚の写真とバッチリ対応している。
- 1枚目の写真 = 10歳ころの写真(第一の手記)
- 2枚目の写真 = 中学か高校のころの写真(第二の手記)
- 3枚目の写真 = 精神病院入院前後の写真(第三の手記)
つぎに各章のあらすじを紹介する。
「はしがき」
「私」は、その男(葉蔵)の写真を3枚見たことがあるという。
1枚目は10歳前後の頃の写真。
少年は首を左に傾け、猿のように醜く笑っている。
2枚目は学生時代の写真。
青年はおそろしく美貌だが、その笑顔からは生きている人間の感じがしない。
3枚目の写真はいつのものか分からない。
年齢が特定できないほどに老け込んだ彼の頭は白髪で、表情がなければ、いかなる印象もない。
3枚目の写真は、とにかく、見るものをぞっとさせ、嫌な気持ちにさせる写真だった。
「第一の手記」
葉蔵は裕福な家の末っ子に生まれた。
はたから見れば幸福な生活も、当の本人にとってはそうではない。
人間を極度に恐れる葉蔵にとって、家族もまた「幸福な場」ではなかった。
それでも、人間をどうしても思いきれない葉蔵。
そんな彼が身に着けた術が「道化」だった。
おどけたり、ふざけたり、周囲の人たちを笑わせる日々。
周囲の葉蔵への評価は上がっていくが、葉蔵の心には、
「自分の道化は、いつか誰かに見破られるんじゃないか」
という思いが強くなっていく。
こうして葉蔵は「決して自分の本心を語らない子」となった。
「第二の手記」
成績優秀な葉蔵は、ロクに勉強もせずとも中学校へ進学できた。
相変わらず人間を恐怖する葉蔵は、ここでも「道化」を演じ続けていた。
そんなあるとき、級友の竹一に自らの「道化」が見破られてしまう。
「言いふらされてはたまらない」という思いから竹一と友達になる葉蔵。
竹一は葉蔵に「女に惚れられる」と「偉い絵描きになる」という2つの予言をする。
その後、高等学校進学のため上京した葉蔵は、堀木正雄といった悪友を得る。
堀木は葉蔵に「酒」と「煙草」と「淫売婦」と「左翼思想」を教えていく。
人間に対する恐怖から逃れる手段として、それらにおぼれていく葉蔵。
そして高等学校2年のとき、銀座のカフェの女給「ツネ子」と情死事件を起こす。
ツネ子は死んだが、葉蔵は生き残った。
自殺ほう助罪に問われたが、結局は起訴猶予となった。
「第三の手記」
心中事件をきっかけに、葉蔵は高等学校を退学し、生家からも義絶される。
漫画家として、なんとか苦しい生活をつなぐ葉蔵は、あるとき「シヅ子」という編集者に出会い、高円寺にある彼女のアパートで同棲を始める。
だが、相変わらず酒に溺れる日々。
シヅ子の一人娘「シゲ子」は、そんな葉蔵を「お父ちゃん」と慕ってくれるが、極度の「人間不信」と「自己嫌悪」から、葉蔵はシヅ子のアパート捨てる。
そのまま「京橋のマダム」に泣きつき、店の2階に寝泊まりするようになる。
バアに入り浸り、増え続ける酒の量。
そんな中、葉蔵に「酒を止めて」と訴える少女がいた。
バアの向かいのタバコ屋にいる18歳ほどの処女「ヨシ子」だ。
ヨシ子は無垢な心を持ち、人を疑うことを知らない。
やがて、葉蔵とヨシ子は結婚し一時の幸福を得るが、そんな矢先にヨシ子が事件に巻き込まれる。
葉蔵が堀木と自宅屋上で談笑中、出入りの商人にヨシ子が強姦されてしまったのだ。
すぐに階下へ向かう葉蔵は、犯されるヨシ子を見つける。
すさまじい恐怖から足を止め、ヨシ子を助けることもできない葉蔵は「これもまた人間の姿だ」と心で繰り返すことしかできなかった。
以来、ヨシ子は人を信じられなくなり、葉蔵に対して恐怖するようになる。
葉蔵の生活はいよいよ退廃し、酒や薬に溺れ、いつしか頭髪も白くなる。
ついに睡眠薬を致死量摂取した葉蔵は、三日三晩死んだように眠る。
そして、見るに見かねた堀木やヒラメに説得され、精神病棟に入院する。
――人間、失格――
もはや自分は人間ではなく「狂人」になったのだ、と葉蔵は思うのだった。
「あとがき」
作家の「私」はとある喫茶店にたちより、あの「京橋のマダム」に出会う。
「あなたは葉ちゃんをしっていたかしら?」
マダムからそう問われて、葉蔵が写った「3枚の写真」(はしがきで紹介されたもの)と、3冊の手記(作品の本編)を差し出される。
あいにく「私」は葉蔵を知らなかったが、葉蔵の手記をよみふける。
翌日「私」はマダムを訪ね、葉蔵の安否を聞くと「不明」であると告げられる。
そして、マダムは「お父さんが悪い」と言い、葉蔵のことを「神様みたいないい子」と語るところで、小説は唐突に幕を閉じる。
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「第一の手記」を考察
不可解で恐ろしい他者
葉蔵の「恥の多い生涯」を語る上で、絶対に外せない要因が2つある。
それは、「裕福な家庭に生まれたこと」と「兄弟の末っ子として生まれたこと」だ。
前者は、葉蔵に「僕はその辺の子たちとは違う」という“特権者意識”を与えたし、後者は「自分は兄ちゃんたちほど期待されていない」という“余計者意識”を生み出した。
そんな葉蔵の心境をザックリと言葉にするならば、
「ちゃんとしなければ、人から見捨てられてしまうぞ」
といったものであり、それはある種の脅迫観念となって葉蔵を苦しめていく。
そこに加えて、葉蔵には「極端に人間を恐怖する心」がある。
葉蔵は、そんな自らの「心の弱さ」について、手記の冒頭で次のように書いている。
自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その一個だけでも十分に隣人の生命取りになるのではあるまいか、と思ったことさえありました。(文庫版P12より)
ここでいう「禍いのかたまり」とは、葉蔵が日常的に抱える「不安感」や「焦燥感」だといっていい。
他の人であれば、到底耐えられなさそうな「厄介な心」を抱える葉蔵。
そんな葉蔵にとって、生きること、生活することは「地獄」さながらであり、そこを平然とわたり歩いている周囲の人々は、葉蔵に理解できない存在だった。
わからない、しかし、それにしても、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活の戦いを続けていける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、一度も自分を疑ったことがないんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、(P12より)
葉蔵にとって、この世界は「地獄」であるにもかかわらず、そこを平然と生きている家族も、女中も、友人も、すべて理解不可能な恐ろしい存在だった。
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求愛行動としての道化
周囲の人たちは、みんな不可解で恐ろしい存在だ。
そんな意識で生活を送る葉蔵は、自然と一人取り残されていくこととなる。
だけど幼い葉蔵は、そんな孤独に耐えることができなかった。
そこで考えだした「生きるすべ」、それが道化だった。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事ができたのでした。(P13より)
不可解な他者を恐怖しつつ、その一方で「人から見捨てられること」を極端に恐れる。
そうした矛盾を解決する術が「道化」つまり、ふざけたり、おどけたりすることで、周囲とのつながりを保つことだった。
傍からみればひょうきんで、阿呆らしくて、愛着のわく、そんな無邪気な子どもを演じる葉蔵。
その外見とは裏腹に、彼の内面は決して穏やかではない。
おもてでは、絶えず笑顔を作りながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき、危機一髪の脂汗流してのサーヴィスでした。(p13より)
こうして葉蔵は切実な処世術として、自分自身を偽る「道化」を身につけた。
その結果がこうである。
自分は、いつのまにやら、一言も本当のことを言わない子になっていった。(P13より)
親に対して口答えをしたこともない、自己弁護もいいわけもしたことがない、どんなに辛くて悲しくても、つねにヘラヘラとおどけているだけ。
作品の「はしがき」に登場した「首を三十度ほど左に傾け、見にくく笑っている写真」とは、人から見捨てられまいと自らを偽って不自然に笑う幼い葉蔵の写真だったのだ。
以上を踏まえて、第一の手記に記された葉蔵の内面を整理すると次の通り。
- 人々が平然と生きていることへの戸惑い
- 他人から見捨てられることへの恐怖
- 最後の求愛行動としての道化
- 自らの本心に蓋をする自己欺瞞
こうした幼い頃の人格形成が、葉蔵の「恥の多い生涯」の根っこにあると見ていい。
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太宰治との関係①
葉蔵の幼少期と太宰自身の幼少期との間には多くの共通点がある
葉蔵と同じように、太宰もまた「裕福な家庭」に生まれたし、「兄弟の末っ子」として生まれている。
太宰が生まれた同時の田舎では、いわゆる「家父長制」が根強かった。
「長男」は大いに期待されるが、「末っ子」にはたいした期待は向けられない。
必然的に、父や母からの愛情も太宰に向けられることが少なく、実際、彼は叔母や女中によって育てられた。
次の写真を見てほしい。
中央が幼い太宰なのだが、彼が寄り添っているのは実の母ではなく、叔母の「きゑ」である。
母は太宰の左に座っている女性だ。
この写真を見れば、太宰が伯母を実母のように慕っていたことが良く分かるが、それは裏を返せば、太宰は実の母からの愛情を知らないということだ。
こうして、太宰にも「見捨てられることへの極度な不安」が芽生え、彼は自らの存在を「道化」によって示していた。
「周囲の気を引かなければ、みんなを笑わせなければ、自分はきっと見捨てられてしまう」
幼い太宰もまた、こうした強迫観念にとらわれていたといっていい。
これは後年、作家「太宰治」のサーヴィス精神にも通じていく。
代表作『斜陽』で、太宰は読者や周囲に対するリップサービスに腐心する自分自身を「MC」(マイコメディアン)と揶揄し、坂口安吾も『不良少年とキリスト』というエッセイの中で、
「太宰のダメなところは、M・C(マイ・コメディアン)を自称し、コメディアンとして優れた作品を残したけれど、結局のところコメディアンになりきれなかったところだ」
といった趣旨の批判をしている。
作家「太宰治」の読者サービス精神も、その背後には
「つまらない話を書いたら、自分は読者から見捨てられる」
といった脅迫観念が巣くっていたワケだ。
こうした太宰の「弱い心」は、幼少期の経験が少なからず影響を与えているといっていい。
『人間失格』に記された幼い葉蔵の姿には、幼い太宰自身の姿が色濃く投影されている。
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「第二の手記」を考察
竹一との出会い
中学校に進学しても「道化」を演じていた葉蔵は、まんまとクラスの人気を集めていた。
「チョロいもんだぜ」
そんな風に得意の葉蔵だったが、ある日事件が起きる
それは体操の時間だった。
いつもの道化の1つとして「鉄棒から派手に転落してテヘへへ~」というのをやり、見事周囲の爆笑をさらい、内心「しめしめ」の葉蔵。
そこに、忍び寄る一人の同級生。
それが竹一だった。
彼は葉蔵の背中をツンツンやり、低い声でこうささやいた。
「ワザ。ワザ」
これを「ワザとやってんだろ?」といた意味で解釈した葉蔵はとたんに震えあがった。
自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けないことをした。自分は、世界が一周にして地獄の業火に包まれて燃え上がるのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。(P26より)
竹一に「道化」を言いふらされたらたまらない。
ということで、葉蔵は竹一に媚びへつらうことで、なんとか友だち関係を築くことになる。
とはいえ、この竹一の友情が、葉蔵に一筋の光明を与えてもくれた。
それが「芸術」との出会いだった。
ある日、葉蔵の家に遊びにきた竹一は、1枚のゴッホの自画像を葉蔵に見せてこういった。
「お化けの絵だよ」
それが葉蔵と「芸術」との出会いだった。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定されたように、後年になって。そんな気がしてなりません。(P34より)
これこそ、俺が生きていく道なんだ。
そう確信した葉蔵は、興奮の涙を流し、
「僕も描くよ。お化けの絵を描くよ」
と竹一に宣言する。
「お化けの絵」というのは、見た目の美しさや虚飾を捨て、「化け物」としての人間をリアルに描いた絵のことだ。
「生活」において本心を表に出せない葉蔵は、「芸術」において「人間の真実」を描こうと誓ったのだった。
「お前は偉い絵描きになる」
竹一から、そんな嬉しい予言をもらい、やがて葉蔵は上京することになる。
だが、「恥の多い生涯」はここからが本番で、結果的に葉蔵は「芸術」とは程遠い「しがない漫画家」として破滅的な生活を送ることになる。
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酒に逃げる葉蔵の心理
高校進学のため上京してきた葉蔵に、1人の「悪友」ができる。
それが6つ年上の画塾生「堀木」だった。
堀木は田舎から出てき来たばかりの葉蔵にアンダーグラウンドな世界をほとんど全て紹介する。
そして、葉蔵は自らの「恐怖」をごまかすため、そのアングラな世界にどんどんのめり込んで行ってしまう。
酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。(P43より)
現代においても「お酒を飲まないと上手にコミュニケーションがとれない人」というのが世の中に一定数いる。
実は、僕自身もそっち側の人間なのだが、人と向かい合って会話すること極端に緊張したり、不安になったりしてしまうことが多々ある。
「自分の言葉で相手は不快に思わなかっただろうか」
「自分の態度で相手から嫌われてしまわないだろうか」
基本的に、そういう思考から、僕自身「人間を怖い」と思ってしまうことも多い。
だけど、酒によってあらゆる感覚や感情が麻痺すると「恐怖感」がやわらいで、人とうまくコミュニケーションをとることができるようになる。
お酒で「恐怖」はごまかすことができるのである。
葉蔵は、そうした人間の「究極系」といっていいかもしれない。
彼は人とのコミュニケーションにおいて「沈黙」を極度におそれている。
堀木と付き合うことができるのも、彼が「おしゃべり」であるからだという。
人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途と必死のお道化を言ってきたものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化をみずからすすんでいてくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。(P42より)
酒を飲めば、自然と沈黙も減るし、沈黙の「恐怖」も和らげることができる。
葉蔵が酒に溺れたり、薬に溺れたりするのは、自らの「弱い心」を鈍磨させるためだった訳だ。
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太宰治との関係②
アンダーグラウンドの世界に溺れた葉蔵の姿は、第一高等学校在学中の太宰の姿だといっていい。
太宰もまた、生活の不安や恐怖から逃げるために、酒や女に溺れた。
酒が「恐怖から逃れる手段」だったことは、太宰の作品からも見て取れる。
たとえば『斜陽』で、太宰は「上原」という作家にこういわしている。
「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。(『斜陽』より)
太宰は多いときには一日に2升の日本酒を飲み、それを連日続けたといわれている。
太宰は酔っぱらい続けることで、崩壊寸前の自らの内面をなんとか保っていたのだ。
また、葉蔵とツネ子の「心中事件」も太宰治の体験が元になっている。
当時の太宰は、芸者との恋愛を理由に青森の生家から義絶されていた。
自暴自棄になった太宰は、例によって酒を求め銀座のバーに入り浸っていた。
バーの名前は「ホリウッド」
そこに務めていた女給、それがツネ子のモデルとなった「田辺あつみ」である。
ちなみにこれが田辺あつみなのだが、お世辞抜きでとってもかわいい。
そんなあつみと太宰はやがて男女の仲に。
そして2人で鎌倉へと赴くと、海岸でカルモチンを大量に飲んで 心中を図った。
結果、あつみは絶命。
太宰だけが生き残ってしまう。
そして、自殺ほう助罪で警察の取り調べを受けてしまう。
が、太宰には権力者「津島家」がバックについている。
体裁を守ろうとした実家の奔走と金と力によって、太宰は起訴猶予となる。
とりあえず、まぁ、一安心の段。
とはいえ、あつみとの一件により、やはり太宰の心を「死」という観念が大きく占めることとなった。
そして、あつみとの情死事件は『人間失格』をはじめ、『狂言の神』、『道化の華』、『東京八景』など、多くの作品で取り上げられている。
【 参考記事 天才「太宰治」のまとめと解説―人生、人物、代表作について― 】
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「第三の手記」を考察
世間とは個人に過ぎない
鎌倉での「情死事件」の影響で、葉蔵は高等学校を追放された。
また、生家からも義絶され、仕送りの金もかなり減額された。(仕送りはなくならんのかい)
このころから葉蔵は、無名の漫画家としての活動をすることになるが、それは「芸術」とは程遠く、また十分な収入もなく、葉蔵を満足させるものではなかった。
漫画での稼ぎと、実家からの少額の仕送りは、相変わらず葉蔵の酒で消えていく。
そんな退廃的な生活の中で、葉蔵は新たな女性と関係を持つ。
それが「シヅ子」だった。
彼女は28歳の女性編集者で、5歳の娘シゲ子と暮らしていた。
葉蔵は彼女たちのアパートに転がり込み、ヒモのような生活を送るが、相変わらず酒を飲んでは外泊する日々は変わらない。
だけど、この辺りで葉蔵はあることに気が付き、少しだけ図太くなる。
そのあることとは、
「世間なんて、結局、特定の個人にすぎない」
ということだった。
これまで葉蔵が最も恐れてきたもの、それが「世間」という不特定多数の存在だった。
もっといえば、不特定多数の「目」だといっていいだろう。
その眼はつねに葉蔵を非難してくる冷徹な「目」である。
だけど、葉蔵はある日、世間の虚構性に気が付く。
(それは世間が、ゆるさない。)
(世間ぢやない。あなたが、ゆるさないのでせう。)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢ふぞ)
(世間ぢやない。あなたでせう?)
(いまに世間から葬られる。)
(世間ぢやない。葬るのは、あなたでせう?)
このことに気が付いた葉蔵は、以前よりも少しだけ図太くなる。
世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動くことが出来るようになりました。(P91より)
これは「道化」ばかりで生きてきた葉蔵を考えれば、とてつもなく大きな成長だといっていい。
だけど、再び葉蔵を恐怖の底へ突き落とし、極度な人間不信を与える、『人間失格』上で最大の事件が起きてしまう。
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・
人間失格の烙印
相変わらず酒まみれの生活を送る葉蔵に対して、
「お酒をやめて」
と忠告する少女がいた。
それが「ヨシ子」である。
18歳くらいの彼女は、純粋な心をもち、人を疑うことを知らなかった。
そんなヨシ子の「純潔」を、葉蔵は尊く感じる。
やがて2人は結婚し、葉蔵はささやかではあるが幸福な生活を手に入れた。
ただ、その幸福をはるかに上回るほどの苦悩が2人に訪れる。
ヨシ子が出入りの商人に犯されてしまったのだ。
ヨシ子を助けることもできず、ただ目の前の出来事をぼんやり見つめるだけの葉蔵。
そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄まじい恐怖でした。(P116)
「世間は個人じゃないか」と、少しだけ図太くなった葉蔵。
そして無垢な「ヨシ子」の存在に、少しだけ「人間への信頼」を取り戻しつつあった葉蔵。
だが、目の前の出来事は、そんな葉蔵を、もう一度地獄の底へ突き落すものだった。
「人間はやはりおぞましい生き物なのだ」
そんな思いが改めて葉蔵の腹の底から湧き上がり、葉蔵は眩暈がするほどに恐怖する。
自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事はない、など激しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ち尽くしていました。(P116より)
ヨシ子は、極度の人間不信な葉蔵にとって、たった一つの小さな光だった。
ヨシ子の「純潔」は、人間を嫌悪する葉蔵にとって、最後の隣人だった。
だが、ヨシ子は目の前で犯されてしまった。
全てはヨシ子が「人を疑わなかった」からであり、「純真な心」を持っていたからである。
神に問う。信頼は罪なりや。(P117)
葉蔵は、繰り返し、この不条理な世界を呪い、神を責める。
そして、何もかも信じられなくなった葉蔵に残された最後のもの、それが酒だった。
唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。(P119より)
こうして「人間への恐怖」、「自らの罪意識」、つまるところ「存在することへ苦しみ」から、葉蔵は酒におぼれた果てに睡眠薬(ジアール)や麻酔(モルヒネ)に手を出すことに。
ここにきて、ついに、あのタイトルコールである。
人間、失格
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。(P132より)
葉蔵はまだ27歳。
このときに撮影されたのが、「はしがき」に登場する写真だと思われる。
白髪頭で40歳以上に見られる葉蔵の表情には、いかなる感情も、いかなる印象もない。
ただただ見るものをぞっとさせ、嫌な気持ちにさせる写真だということだ。
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太宰治との関係➂
ヨシ子の強姦事件にも、元となった太宰の経験がある。
それは、初めての妻「初代」が起こした姦通事件である。
姦通事件が起きたのは、ちょうど、太宰がアルコール中毒と薬物中毒で入院をしていたころにあたる。
太宰はこのとき、葉蔵と同じ27歳だった。
初代は太宰の義弟で画学生の青年と関係を持ち、翌年にそのことを太宰に告白する。
太宰は当然おおきな衝撃を受け、その年に初代と薬物心中未遂を起こした。
このとき、太宰の初世への信頼は大きく損なわれたといっていい。
神に問う。信頼は罪なりや。(P117)
作中で何度も繰り返されるこの言葉は、実は、太宰自身が持っていた「信頼」に向けられたものだったのだろう。
幼少から極度な「人間不信」だった太宰だが、妻を得たことで少しずつ人間らしい感情を回復していったはずだ。
「人間って、悪くないかもなあ」
メチャクチャな生活の中でも、そうした「人間への求愛」という灯が、太宰の内にほのかにあったはずなのだ。
その信頼が、結果的に太宰を苦しめる結果となった。
「信頼は罪なのか?」
この言葉は、太宰が終生、自らに問い続けたものだったのだろう。
ちなみに「信頼」と聞いて、太宰の代表作『走れメロス』を思い浮かべる人は多いだろう。
『はしれメロス』が書かれたのは、この姦通事件の約3年後のこと。
果たして太宰は「信頼はすばらしい」とか「信頼は尊い」とか、そんなことを言いたかったのだろうか。
もちろん、全くそんなことはない。
その辺りの考察は、こちらの記事で詳しくしているので、お時間のあるかたは参考にしてほしい。
【 参考記事 考察・解説『走れメロス』―太宰に騙されるな!本当に伝えたいことと真の主題― 】
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・
おわりに「太宰が道化を捨てた時」
以上、『人間失格』の解説と考察を終える。
葉蔵はとにかく、生涯をかけて「道化」を生きてきた。
本心にフタをして、自らを偽り、他者との軋轢が生まれることを心底恐れていた。
そんな葉蔵は、太宰治の分身だといっていい。
太宰もまた、この地獄のような世間を生きるために、自らを偽り続けてきた。
それは作家業においても変わらない。
太宰治といえば、読者へのサービス精神旺盛の作家として、当時から有名だった。
そのサービス精神をめぐり、当時の文壇の重鎮たちとドンパチと口喧嘩をしていたことは有名な話である。
ただ、そんな太宰が、読者へのサービスをすべて捨て、本心に忠実に描いた作品がある。
それこそが、何を隠そう『人間失格』なのである。
文芸評論家に奥野健男がいる。
「太宰を論じたら右に出るものはいない」といえる彼は、太宰の研究者の第一人者である。
そんな彼は、『人間失格』の解説において次のように言っている。
『人間失格』は常に読者への奉仕、読者を喜ばせ、たのしまそうとつとめてきた太宰治が、はじめて自分のためにだけ書いた作品であり、内面的真実の精神的自伝である。(『人間失格』解説より)
太宰は『人間失格』を通して、生まれて初めて、自分の本音を語ることができたのかもしれない。
「お化けの絵を描きたい」
そういったのは、葉蔵だったが、これは「本当の自分を表現したい」という思いの表れだった。
太宰が文学という生き方を選んだのも、まさに「本当の自分を生きたい」と強く願ったからだった。
そして太宰は40歳を目前に、ついに『人間失格』を書きあげた。
それは、彼が玉川に身を投げる、わずか1カ月まえのことだった。
それを考えると、僕は、途方もなく、やるせない気持ちになる。
だけど、それが「太宰治」という作家の宿命だったのだろう。
奥野建男は、『人間失格』の解説文で次のようにも述べている。
「太宰治は、人間失格をかくために生まれてきた」
僕もそれに強く同意する。
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