はじめに「不条理の文学」
文学の2大テーマというものがある。
愛 と 死 である。
古今東西あまねく存在する文学の9割が、愛か死のいずれか、あるいはそのどちらもをテーマにしていると言っていい。
が、ここにもう1つ、僕は文学における大きなテーマとして「不条理」を加えたい。
いや、本好きのぼくだけど、そんな話、読んだことありませんけど
そんな声が聞こえてきそうだが、20代~40代くらいの人であれば、みんなが知っている有名な作品がある。
高校生のころ、国語の時間にやった『山月記』だ。
タイトルでピンとこないなら、こう紹介し直してみよう。
「プライドの高い自意識過剰の男が、なんやかんやあって虎になる話」である。
あれこそ、ぼくは日本で一番有名な不条理文学だと思っている。
そう、『山月記』の主題はまさしく「不条理」なのだ。
あらすじ
主人公は、詩人を志す男、李徴。
プライドが高く、他人を小バカにしている。
他人を小バカにしているので、友人がいない。
友人がいないので、切磋琢磨とかない。
切磋琢磨とかないので、詩人として成長しない。
成長しないので、結果が出ない。
結果が出ないので、プライドが傷つく。
プライドが傷つくので、チャレンジしない。
チャレンジしないので、結果も出ない。
結果も出ないので、チャレンジしない。
チャレンジしないので……(以下、エンドレス)
言ってしまえば、「ぼくはやればできる子なんだ。ただやらないだけ」といって、逃げ続けるっていう良くあるパターンだ。
そんな李徴を待っていた運命、それが、
発狂 からの 虎に変身 なのである。
では、この物語のどのあたりが「不条理」なのか。
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作品の「テーマ」について
さて、この記事の最大の目的は、作品に貫かれたメッセージ
「“不条理”って人生の本質だよね」
という点について解説、考察をすることである。
ただ、『山月記』にはそれ以外にも「人間の本質」をえぐり出すような、深く鋭いテーマが描かれている。
それらのテーマを紹介すると以下の通りになる。
「“自意識”って本当に根深いよね」
「“自嘲”って究極の自己弁護だよね」
「“物語”って人生を生き抜くために必要だよね」
これらのテーマを合わせて理解することで、作者「中島敦」が描きたかったことや伝えたったことを網羅的に理解することができる。
考察①「自意識」について
「“自意識”って本当に根深いよね」
まずはこれについて解説をしてきたい。
虎になった当の李徴だが、彼はその理由を考え続ける。
その結果、
「自分の醜い内面のせいで、醜い虎になったのではないか」
とぼんやり考え始める。
彼は友人である袁傪にこう語る。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
さて、ここで李徴は自らの内面について「尊大な羞恥心」と語っている。
李徴は自らの性格について、こうも説明している。
人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
つまり、李徴が他人を避けたり、他人を小バカにしたり「尊大な態度」を取っていたのは、じつは彼が「臆病だったから」ということになる。
さらに、李徴はこう続ける。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
もしも「詩人」として成功したいなら、ライバルと競ったり、先人に師事したりして自らを磨かなければならない。
李徴も、そのことを重々承知している。
だけど一方で、彼は、自分以外の他人たちをバカにしてもいる。
いや、正確に言えば、「バカにすることで、必死に自己肯定感を守っている」のだ。
他人と競いあえば、時に自分自身の「負け」や「欠点」を認めなければならないだろう。
李徴はそれを心底おそれている。
「どうせあいつらは俺とは比べ物にならん、つまらん人間だ」
そういって尊大な態度をとる李徴には、
「馬鹿にしているあいつらに、もし負けてしまったらどうしよう」
という、ネガティブな思いが巣くっている。
これが李徴の「尊大な羞恥心」の正体なのである。
ちなみにこれは、作中において「臆病な自尊心」とセットで語られるものだ。
この「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」というのは、ほぼ同義語と考えて言い。
それはちょうど、コインの裏表の関係に近い。
それぞれをまとめると、こんな感じ。
尊大な態度をとるのは、根本的に羞恥心があるから =「尊大な羞恥心」
人付き合いに臆病なのは、自尊心が損なわれるのが怖いから。 =「臆病な自尊心」
要するに、李徴は本質的には「臆病で弱い人間」なのだ。
だけど「僕は弱い人間だ」と認めることができない。
なぜなら、強烈な彼の「自意識」がそれを許さないからだ。
この「自意識」もまた、近代文学で扱われる究極のテーマであり、
夏目漱石が『こころ』で描いたのも……
芥川龍之介が『羅生門』で描いたのも……
太宰治が『人間失格』で描いたのも……
そして、中島敦が『山月記』で描いたのも……
全ては人間の「自意識」の問題だったといっていい。
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考察②「自嘲」について
「“自嘲”って究極の自己弁護だよね」
次にこれについて解説をしていきたい。
これは先の「自意識」の延長にある問題だ。
李徴には、青年時代から「自嘲癖」がある。
「自嘲」とは、
「どうせ俺なんて、ダメなやつさ」
そう卑屈になって、自分自身をあざ笑うことである。
作中で李徴が「自嘲」しながら自らの境遇を語る場面は大きく2つ。
- 詩人への夢を捨てきれない自分をあざ笑うシーン
- 妻子よりも詩を優先させた自分をあざ笑うシーン
1は、袁傪に「俺の詩を世間に発表してくれ」と頼んだあとで、
「虎になった今でも、詩人になる夢を捨てきれないんだ。全く、自分が嫌になっちゃうよ」
的なことをグチグチと袁傪にいって「自嘲」をする場面である。
2は、袁傪と分かれる最後の最後で「俺の妻子の面倒を見てくれ」と袁傪にお願いしたあとで、
「本当は真っ先にお前にお願いすべきは、『詩』のことじゃなくて、『妻子』のことだったんだ。全く、自分が嫌になっちゃうよ」
的なことをグチグチと袁傪にいって「自嘲」する場面である。
この「自嘲癖」というのは、「自意識」の強い人間特有の癖だといっていい。
言い換えれば、「自嘲」というのは「自尊心を守る究極的な手段」なのだ。
たとえば、あなたがテストの点数で「0点」を取ってしまったとしよう。
その事実が、周囲に知られるところとなってしまい、あなたはとっさにこう言って「自嘲」したとする。
「俺ってホント頭わりいんだよな。全く、自分が嫌になっちゃうよ」
こんな感じの「自嘲」をしたことがあるって人は、結構いると思う。
「俺ってホント女癖わりぃんだよな」
「私ってホントわがままなんだよね」
そういって自嘲する人たちに対して、たとえば先制パンチでこう言ったとしたら、彼らは何というだろう。
「お前ってホント頭わりいよな」
「お前ってホント女癖わりいよな」
「お前ってホントわがままだよな」
たぶん、彼らは鬼の形相で、こういうのではないだろうか。
「は? そんなことお前に言われたくねえし」
きっと自嘲している人というのは、人から非難される前に、ある種の「予防線」を貼っているのだ。
それはとりもなおさず、自分自身の「自尊心」を守るために他ならない。
つまり、
「俺は、自分のダメなところをきちんと理解している」
そういう態度を周囲にアピールすることで、他者からの批難を封じ、結果的に自分を守ろうとすることが「自嘲」の本質なのである。
さらに「自嘲」をじっくりと分析してみると、次のような構造が見えてくる。
その構造とは、
「間違っている自分」を糾弾することで、「正しい自分」を担保する
という構造だ。
「俺って女癖わりいんだよな」と自嘲するときは、そう自嘲している「俺」は「正しい場所」に安住することができる。
つまり、仮にどんな失敗をしたとしても「自嘲」をする限り、自分は常に「正しい存在」であり続けることができる。
李徴も同じなのだ。
「詩の執着を捨てられず、詩のことばっかり考えてる俺は、なんてダメなやつなんだ」
そういって自嘲するのは、袁傪からの非難を避けるためであり、何よりも「正しい自分」を確保するためであり、李徴は自分で自分をあざ笑うことで、自分自身のプライドを守ろうとしているのである。
パッと見で謙虚に映る「自嘲」という行為も、よくよく観察してみると、そこには根強い「自意識」と「我執」を見つけることができる。
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考察③「不条理」について
虎になった本当の理由?
ここからはいよいよ
「“不条理”って人生の本質だよね」
というテーマについて説明をしていきたい。
虎になった李徴は、その理由について
「自分の醜い内面のせいで、醜い虎になったのではないか」
とぼんやり考え始める。
だけど、ここで注意してほしいのは、李徴の考えた理由は、あくまで彼が自分を納得させようとひねり出した理由であって、彼が虎になった理由は、実は作中のどこにも明かされていない、ということだ。
つまり、李徴が虎になった「本当に理由」なんてものは、李徴自身はもちろん、作者にも読者にも、全くの謎なのである。
実はここ、作者の中島敦がこだわったポイントの1つだ。
作品の原典である『人虎伝』という古い中国のお話には、李徴が虎になった理由について次のように記されている。
直だ行ひ神祇に負むけるを以て、一旦化して異獣と為り、人に恥づる有り。
つまり『人虎伝』の李徴は、自分が虎になった理由については「自分自身の行いが神様にそむいたため」と言っているのだ。
では、その神を怒らせる李徴の「行い」とは何だったのかといえば、かなり残虐非道で「不倫相手の家に火を放ち、一家全員を殺害した」というものだった。
『人虎伝』における李徴は、「ここまでの残虐行為をしたんだから、神様もそりゃ怒るよね」ってな具合で、自らの変身に対して、そこまで戸惑ってはいない。(もちろん悲しんではいる)
――ある日突然、異類になってしまう――
こういう物語は、古くから「変身譚」と呼ばれ、古今東西の文学で扱われてきた。
近代以前の変身譚の多くは「変身してしまったのは、神様に背いたから」とするものが多く、変身してしまった当人たちも、「なんで俺、変身しちまったんだよ」と、その理由を問うて苦悩することは少ない。
「神様を怒らせたんだから仕方ない」
そんな「諦観」が彼らにはあって、自らの運命を割とすんなり受け入れるのである。
ところが、近代以降になると状況が変わり、「神様」の効力や権威性が薄れてくる。
その結果、「変身」について、その答えや必然性を与えてくれる「絶対者」が登場しなくなるのだ。
『山月記』において、李徴が虎になった「本当の理由」として、神様が持ち出されることは決してない。
その理由については、李徴自身が考えなければならないわけだ。
そうした意味でも、『山月記』はまさしく「不条理」に直面した人間の苦悩を描いた、本格的な「近代小説」だといえる。
そして、苦悩の果てに李徴が導き出した結論、それが
「自分の醜い内面のせいで、醜い虎になったのだ」
というものだった。
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李徴の罪? 袁傪の罪?
ここで、そもそものところを考えてみたい。
「李徴ってそこまでひどい男か?」
そりゃ『人虎伝』の李徴みたいに「放火殺人」とかしたんなら「虎になるのも仕方なし」とは思うけれど、『山月記』の李徴は果たして虎になってしまうような男なのだろうか。
確かに彼には、エリートの道を捨て詩人となり、妻子の生活を苦しくしたという落ち度がある。
尊大な態度をとって、周囲の人たちを不快にしたという点だって否めない。
だけど、彼はきちんと妻子のことを考えて再就職しているし、尊大な態度だって彼の「弱い心」が働いていたからではないか。
別に李徴に限らず、大なり小なり、こういうのって誰にでもあるんじゃないだろうか。
というか、それを言うんだったら、袁傪はどうなのだろう。
李徴は「俗悪な大官」にペコペコするくらいなら、いっそ詩人になった方がいいと考えて官吏の道を捨てたわけなのだが、一方の袁傪は「俗悪な大官」にペコペコしながら、エリートとしてズンズンのし上がってきた男だ。
そんな袁傪の出世の裏で、涙を流した官吏たちは、きっと沢山いるだろう。
そう考えると、ある種の「倫理的な潔癖さ」があった李徴とは対照的に、袁傪からはエリート特有の「したたかさ」とか「自己欺瞞」とかが透けて見えてこないか。
断っておくが、ここで僕は「袁傪こそ極悪非道な男だ」なんてことを言いたいわけではない。
ただ、李徴が虎になるんだったら、袁傪だって虎になる可能性は十分あったんじゃないだろうか、という素朴な疑問を読者に投げかけたいのだ。
どうして李徴だけが虎になってしまったのだろう……
それについては、大事なことなので、あえてここでもう一度繰り返す。
李徴が虎になった理由なんて、本当のところ、誰にも分からない。
李徴だって、そのことを薄々理解している。
李徴はこう語る。
しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
この「理由も分からずに押し付けれたもの」こそが「不条理」と呼ばれるもので、『山月記』を始め、多くの「近代文学」のテーマの1つなのである。
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・
考察➃「物語」について
『山月記』のテーマは「不条理」なのだが、その「不条理」に直面した時、人はどのようにそれを受け入れようとするのだろう。
ここで注目したいのが、
「“物語”って人生を生き抜くために必要だよね」
というテーマについてである。
あらためて、「不条理」に直面した李徴の「思考プロセス」はこちら。
なぜ虎になったのだろう
↓
考えても分からない
↓
だけど絶対に理由はあるはず
↓
そういえば、ぼくの内面は醜い
↓
だから、内面相応に醜い虎になったんだ!
そうやって、李徴は自分自身を納得させようとしている。
さて、これを読んで、あなたも彼の思考プロセスに共感しないだろうか。
たとえば、あなたは何かの外れクジを引いて、自分だけ不利益を被ったとしよう。
そんなとき、「きっとこれは、(神様が)もっと苦労しなさいって言ってるんだね」なんて、自分の不運を正当化した経験はないだろうか。
深刻な例をあげれば、あなたが不治の病にかかったとしよう。
「なぜ、ぼくが?」
「どうして、あいつじゃないの?」
そんなことを考え続けていれば、当然、あなたはどんどん苦しくなっていく。
ところが、これを、
「これには何か理由があるんんだ」
「神様がぼくに与えた試練なんだ」
と、考えれば、苦しみに少しだけ意味も生まれるだろう。
とすると、人が理不尽・不条理な出来事を受け入れるために、そこに意味とか物語が必要だということになる。
だけど、そうやって意味を与えてみても、やはり、ふとした時にこう考えてしまうものだ。
「ほんとうにこれは、神様が与えた試練なのだろうか?」
「ほんとうは、ぼくが病気になったことに意味なんてないんじゃないか?」
『山月記』で扱われるテーマは、まさにここなのだ。
――「不条理」と「物語」の相克――
『山月記』という作品は、もっといえば李徴という男の苦悩は、僕たちが人生を生ききるために大切なことを教えているように思う。
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おわりに「不条理を生き抜くために」
以上、『山月記』で描かれたテーマとして、
- 自意識
- 自嘲
- 不条理
- 物語
について解説・考察を行ってきた。
最後に少し、個人的なお話をしたい。
僕はこれまで、家族の問題で何度も「悲しみ」や「困難」に直面してきた。
そんなとき、いつも李徴と同じようなことを考えてきた。
「どうして、僕はこの家に生まれてきたんだろう」
「どうして、僕たちは傷つけあってばかりなんだろう」
考えても、考えても、自分が納得できる答えはなかった。
だから、僕は李徴を否定しない。
人生とは結局は不条理の連続で、僕たちはそこに自分なりの意味を作っていかなければならないからだ。
自分の人生の意味を作れないとき、自分の人生は無意味だと結論したとき、僕たちに待っているのは、たった1つの結末しかない。
李徴は言った。
自分は直ぐに死を想うた。
だけど僕はそんな結末、断じて絶対に、なにがなんだってゴメンである。
「僕があの家に、あの家族の元に、こうして生まれてきたのには絶対に意味がある」
僕は、そう信じている。
僕の家族からしてみれば「被害者ぶるのも大概にせえよ」ってところだろう
だけど、僕には僕の人生があるし、僕の人生に僕なりの意味をつくっていくのは家族じゃない。
他でもない、僕自身なのだ。
だから、僕のように生まれた意味を問わずにはいられない「生きづらい人たち」に伝えたい。
あなたの生まれた意味は、あなた次第だ。
人生の不条理に悩み、苦しむこともあるだろう。
「どうして自分だけ?」
「どうしてアイツじゃないの?」
そうやって、自分の人生や境遇を呪うことだって、きっとある。
まずは、それでいい。
だけど、その時、あなたが「人生は無意味だ」と決めつければ、本当にあなたの人生は全くの無意味となってしまう。
逆に、あなたが「人生には意味がある」と信じることができれば、本当にあなたの人生には立派な意味が生まれる。
人生に意味を与えることは、あなたにしかできない。
人生を生きるのは他人ではなく、他でもないあなた自身なのだから。
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