はじめに
第165回芥川賞が、2021年7月14日に発表された。
受賞作は2作品、そのうちの1つがこれ。
『彼岸花が咲く島』(李琴峰)
記事では本書の、「登場人物」と「あらすじ」「作品の特徴」をまとめ、作品の世界観について丁寧に解説したい。
なお、歴代 芥川賞受賞作品のオススメについても紹介しているので、興味のある方はぜひのぞいてみて欲しい。
【 歴代芥川賞受賞作品はこちら 】
主要な登場人物
宇実(うみ) 主人公。〈島〉に漂着した少女。体中が傷だらけの状態で倒れていたところ、「游娜」に助けられる。自らの過去については、ぼんやりとした記憶しかなく、ほとんどすべてを忘れてしまっている。「宇実」という名前は游娜がつけたもの。〈島〉に残るために、「ノロ」になることを決意する。
游娜(ゆな)
〈島〉に住む15歳の少女。「彼岸花」を取りに浜へ行ったところ、倒れている「宇実」を発見した。「ノロ」になりたいと思っているのに、そのために必要な「女語」に難があるため、友人の「拓慈」から呆れられている。宇実を島に住ませようと「大ノロ」に懇願した。宇実と一緒に「ノロ」になることを目指す。
拓慈(たつ) 〈島〉に住む15歳の少年。屠畜者になる訓練を受けている。男ながら、「ノロ」になって、自らのルーツや〈島〉の歴史を知りたいという本心がある。そんな思いから、男は学ぶことが禁じられている「女語」をひそかに習得し、その力量は誰よりも優れている。「ノロは女しかなれない」というルールに疑問を持っている。
晴嵐(せら) 游娜の〈オヤ〉だが、游娜と血のつながりはない。カジキ漁をなりわいにしている。倒れていた宇実の手当てをして以降、宇実を自宅に住ませ、「ノロ」になろうとする宇実と游娜を支える。
大ノロ
女性最高指導者で、祭事や死者供養など〈島〉のすべての宗教儀礼を統率している。「大ノロ」の務めを果たすにはあまりに高齢で、自らの生い先が短いことを悟っている。態度こそ厳しいものの、宇実には期待を寄せている。
あらすじ
- 舞台は彼岸花が咲き乱れる、とある〈島〉
- その浜辺に、記憶を無くしたある少女(宇実)が漂着する。
- そんな彼女を最初に見つけたのは、「游娜」だった。
- 游娜は少女を手当てしてやるが、少女は自分の名前も分からないという。
- そこで游娜は少女に「宇実」という名前をつけてあげた。
- 自分がどこから来たのかも覚えていない宇実は、そのまま〈島〉で生活することになる。
- そして、宇実は〈島〉の実態について知っていく。
- 〈島〉では、男女が異なる言葉を学ばされるらしい
- 〈島〉では、「ニライカナイ」という楽園を信仰しているらしい
- 〈島〉では、「ノロ」と呼ばれる女たちが、共同体を統率しているらしい
- 游娜は宇実に「大ノロ」という最高権力者に会うことを提案する。
- 「大ノロ」なら、宇実の故郷の手がかりを知っていると思ったからだ。
- そして、宇実は「大ノロ」に謁見する。
- ところが、宇実が外部の人間だと知った大ノロは、彼女に島を出ていくように命令する。
- 「そんなこと言っても宇実には帰る場所がない」と、訴える游娜。
- その訴えが届き、「言葉を習得し、ノロとして〈島〉の歴史を担うこと」を条件に、宇実は〈島〉に住むことを許される。
- こうして、宇実はノロになるために、「女語」と呼ばれる言葉の習得をめざしていくのだが、宇実の疑問は膨らんでいく。
- なぜ〈島〉では、男女が違う言葉を学ぶのか。
- なぜノロは、女性だけしかなれないのか。
- その答えは驚くべきものだった……
作品の特徴
物語で描かれているのは、宇実が漂着した日からの、約1年間の出来事だ。
宇実や游娜が次第に1人前のノロになっていく「成長物語」ともいえるし、〈島〉の実態が徐々に明らかになっていく「ミステリー」要素を持つ物語ともいえる。
舞台の〈島〉が架空の島であるため、「ファンタジー小説」とみることもできるだろう。
ちなみに、登場する〈二ホン〉や〈チュウゴク〉や〈タイワン〉といった国々もまた、架空の国々であり、これらは実在する「日本」や「中国」や「台湾」とは異なっている。
とはいえ、実際には、それぞれ双方に大きな共通点が見られる。
あくまでも「架空の世界」の話ではあるけれど、この作品は、現実のぼくたちの社会を風刺し、言語について大きな問題提起を投げかけている。
文体はとても読みやすく、この点は、同時受賞した『貝に続く場所にて』とは大きく異なっている。
それから、ストーリーラインもシンプルだし、登場人物の造形にも、良くも悪くも複雑な点は見られない。
総じて、世間でいうところの「純文学」っぽくない作品だと、ぼくは思う。
「表現の美しさ」とか「芸術としての完成度」とか、そういうものを志向した作品ではない。
要するに「テーマ型」の小説なのだ。
では、そのテーマとは何か。それは、
「言語」「宗教」「文化」「社会」
である。
この記事では、その中から、とくに「言語」に絞って考察をしていきたい。
この物語には3つの言語が登場する。
「ニホン語」
「ひのもとご」
「女語」
である。
これらについて、1つ1つ、以下で考察していきたい。
ニホン語について
言葉の特徴
現地の住人たちの共通語。
男女問わず、日常会話で用いる。
当然、〈島〉の住人である游娜も拓慈も話すことができる。
このニホン語を初めて聞いた実宇は、何がなにやら分からず困惑してしまう。
たとえば2人の出会いはこんな感じだった。
「わたし、なんでここにいるの?……わたしはだれ?」
「リー、海の向こうより来したダー!」
少し会話すると、2人が使っている言葉は似てはいるが微妙に異なっているということに、游娜も少女も気づいた。
「なにいっているかわからないよ」少女は混乱しているようで、両手で頭を抱えた。(P8より)
それから、現地人の游娜と拓慈の会話はこんな感じ。
「リー、何故ここに在するアー?」
「東集落に用事有したアー。ノロたち馬上回来するゆえ、刀磨くために去した。」
(中略)
拓慈はそれから地べたに座ったままの宇実に視線を向けた。
「ター、誰ア? 見た顔に非ず」
「ター……説明するば長い」
「長いでも没関係(メガンシ)ラ!」
これ、もし全て音声で聞いたら、ぼくたちは全くもって理解できないだろう。
彼らの会話を耳にした宇実の困惑がよく分かるシーンだ。
特に「没関係ラ」とかいて
「メガンシラ」
これには、なんというか、笑うしかない。
この「メガンシラ」
作中において、もう1、2回登場するのだけど、ぼくはこの言葉が一番のお気に入りだ。(怪獣みたいでかわいい)
さて、この〈ニホン語〉、分解するとこうなる。
- 日本の古語
- 日本の現代語
- 中国語
まず、日本の古語については、いわゆる「和漢混合文」だ。
「来した」とか「見た顔に非ず」とか「何故」あたりが、これにあたる。
それから、日本の現代語については、「ノロたち」とか「磨くために」あたりが、これにあたる。
最後に、中国語( 作中で台湾語と明かされる )については、「ター」とか「リー」は、「彼女」とか「あなた」という中国語の人称代名詞だ。
そして「没関係ラ(メガンシラ)」もまた、調べてみると中国語だということが分かった。
よりリアルな発音は「メイグワンシー」という。
そこに微妙なニュアンスを付け加える接尾語の「ラー」がくっついている。
こんなふうに、〈ニホン語〉とは、日本語と中国語のハイブリット言語ということができる。
ピジン・クレオール言語
ここでは、〈ニホン語〉のモデルになったと思われる、ある特殊言語について紹介したい。それは、
ピジン・クレオール言語 というものだ。
ちなみに「ピジン」と「クレオール」は別物だ。
「ピジン」というのは、異なる言語圏の人たちが交易するために、互いの言語を混ぜ込んで生み出した混成語のことを言う。
その「ピジン」が土着のものとなって、2世、3世と、後世に受け継がれていき、特定の人たちにとっての母語となっていく。
「クレオール」というのは、この母語となった混成語のことをいう。
ピジン・クレオール言語には、様々な種類のものがある。
基本的には、欧米諸国が、アジア圏へ交易に行き、そこで「欧米語+アジア語」のピジンが生まれるわけなので、英語由来のもの、フランス語由来のもの、ポルトガル由来のものなど、多くのピジン・クレオールが存在している。
そして、実はなんと、
「日本語」由来のクレオール言語というものが存在している。
それが、
「宜蘭(ぎらん)クレオール」
まさに、「日本語+台湾語」のクレオール言語なのである。
〈ニホン語〉は、この「宜蘭(ぎらん)クレオール」をモデルにしている。
作者の李琴峰は、言語学を専攻していた経験があるそうで、宜蘭クレオールについても知っていたとインタビューで語っている。
こういう「クレオールを話す人々」という設定は、かなり斬新でおもしろく、ぼくの知る限り、文学史上では初めてなんじゃないだろうか。
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ひのもとごについて
言葉の特徴
宇実が話す言語であり、「ひのもとぐに」で話されている言語でもある。
「ひのもとぐに」とは、宇実が生まれ育った国であり、まあ、いってしまえば「現代の日本」的な国なワケだが、実在の「日本語」とは、かなり異なった言語である。
異なるところは以下の2点
- 漢字(主に熟語)が排除されている点
- 漢字の代わりに英語が採用されている点
たとえば宇実は、こんな風に話す。
「游娜、あなたは、まことに、〈ニライカナイ〉があると、ビリーブしているの?」
「ビリーブ?」游娜は目をしばたきながら訊き返した。
「つまり、〈ニライカナイ〉があると、まことに、おもってるの?」(P83より)
「ひのもとぐに」には
「本当」も、
「信仰」も、
つまり漢字由来の言葉がない。
だからこそ、
「本当に」→「まことに」と表現するのだし、
「信じる」→「ビリーブ」と英語を代用しなければならない。
また、宇実が大ノロと話す場面も印象的だ。
「あなたには、シンパシーが、ないんですか?」
と、宇実は思わず激昂し、そう訴えた。
「わたしは、メモリーを、うしなって――」
「やかましいな」
またもや大ノロが宇実の話を遮り、目もくれず言い捨てた。
「しかも何言っているのかよう分からん。まともに会話できないんなら、話はここまでにしよう」(P65より)
こんな風に、
「共感能力」も
「記憶」も
「ひのもとご」には存在していない。
それはどちらも、漢字に依存する熟語だからだ。
だからこそ、
「共感能力」→「シンパシー」
「記憶」→「メモリー」
と英語を代用しなければならない。
こんなふうに、「ひのもとご」は、どう考えても奇怪かつ不便な言葉なのだ。
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漢字を失うということ
では、なぜこんな奇怪かつ不便な言葉がうまれたのか。
その原因は、国による言語統制、である。
「うつくしい、ひのもとことばをとりもどすめたの おきて」
というものが、作中で、見開き2ページにわたって書かれている。
それによれば、
「うつくしいことば」とは「やまとことば」であり、
「シナのことば」が入ってきたことで大いに乱れた、
ということだ。
そういった発想から、「シナのことば」〈要するに漢字〉を排除することになる。
だけど、それによる弊害は、とてつもなく大きい。
上で見た通り、「本当」も「信仰」も「記憶」も「共感」も、すべて「やまとことば」では言い換えられない言葉だ。
たとえば、いま、ぼくたちの「日本語」から、突然「漢字」が奪われてしまったと想像してみてほしい。
べつに平仮名で書けばいいだけだし、たいして問題なくね?
むしろ、まどろっこしい漢字を覚えなくていいし、かえって楽じゃね?
と、思う人もいるかもしれない。
だけど、ことはそんなに単純で生易しいものではない。
なぜなら、漢字を排除するということは、日本語上にある、多くの重要な抽象概念を失うということだからだ。
「意味」も
「論理」も
「概念」も
「定義」も、
すべてが漢字でしか表せないものであり、それを失くすということは、それらもぼくたちの「思考」からなくなるということなのだ。
しかも、それだけではない。
事情は、ぼくたちの具体的な生活においても同様なのだ。
いま改めて、あなたの周囲を見回してみてほしい。
そして、目に付いた「熟語」を、「訓読み」の「やまとことば」に直してみてほしい。
それがとても難しいことに気が付くと思う。
どうだろう。
思った以上に、ぼくたちの暮らしというのは「漢字」に依存してはいないだろうか。
もしもそれを失ってしまったとしたら、これまでのようなコミュニケーションも、複雑な思考も、ぜんぶ不可能になってしまうことは、火を見るよりも明らかだ。
そして、それは「ひのもとぐに」も同様だったのだ。
「漢字」を無くすというのは、「ひのもとぐに」にとっても、上記のとおり致命的問題だった。
その致命的問題を解決するための苦肉の策が、「漢字」の代わりに、「英語」を代用するというものなわけだ。
では、果たしてそれが、美しい言葉なのか。
そうではないだろう。
まさしく、本末転倒。
こんな愚かな話はない。
ま、フィクションだしね、おもしろい思考実験だよね
と、呑気に思っているそこのあなた。
残念ながらこれ、まったくの他人ごとなんかではない。
なんなら、作者はぼくたちの「日本語の歴史」を風刺している と思われるのだ。
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日本語と漢字の歴史
ここで改めて、日本語と漢字の歴史について、簡単に振り返りたい。
当たり前だけど、漢字は中国からやってきた。
それは、今から約2000年ほど前、紀元後1世紀ころと言われている。
そもそも、当時の日本人には「文字」がない。
だから、これが、初めての「文字」との出会いでもあった。
その後も「渡来人(中国や朝鮮からやって来た人々)」が、バンバン「漢字」を持ち込むことになる。
そして、6世紀から7世紀になると、日本は「中国」を模範とした国家づくりをしようと決断する。
言い換えればこれは、「漢字」を大々的に使っていこうということでもある。
繰り返すが、当時の日本人にとって、文字とよべるものは「漢字」しかない。
国を作るうえでの「法律」も「社会制度」もすべて「漢字」で記さなければならないわけだ。
さらに、日本は国家づくりに「仏教」を利用した。
すると、仏教経典もどんどん日本にやってくることになる。
当然そこに見られる「難解な概念」や「複雑な思想体系」は、すべて漢字で記されている。
極めつけに、日本初の歴史書「古事記」や初の和歌集「万葉集」が誕生するのだが、これもすべて「漢字」で記された。
こうして、漢字は、その後も「カタカナ」や「ひらがな」と姿を変えて、貴族から庶民まで徐々に浸透していくことになる。
平安時代の文学には「唐言葉」と「やまとことば」が入り乱れているし、鎌倉時代の文学には「和漢混合文」といって、漢語がかなりの割合で入っている。
しかも、しかも、明治時代になると「漢字」は八面六臂の大活躍を見せる。
ご存じのとおり、日本は「明治時代」に近代化しはじめる。
その過程で西洋の様々な「概念」を吸収する必要がった。
「society」も
「freedom」も
「right」も
「culture」も
「civilization」も
「philosophy」も
なんなら「love」だって、
ぜんぶが欧米からやってきた概念であり価値観だ。
これらを吸収するうえで「やまとことば」では、うまくいかない。
そこで大活躍したのが「漢字」というわけだ。
漢字には「やまとことば」にはない、論理性や抽象性があったからだ。
そして、上記の全ては漢字によって以下の通り翻訳された。
「社会」
「自由」
「権利」
「文化」
「文明」
「哲学」
そして「恋愛」
どうだろう。
日本の近代化は、もっといえば、今の日本があるのは、間違いなく漢字のおかげだと分かるだろう。
そして、これがまぎれもない ぼくらの「日本語」のルーツなのである。
要するに、中国から「漢字」がやってきたことで、「法律」も「社会制度」も「宗教」も「文学」も「近代化」も可能となったというわけだ。
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日本語と言語統制
奈良時代までさかのぼれば、「日本語」に政治的な介入があって、それが「日本語」の将来を決定づけたということがわかる。
では、この歴史の いったいどこが「愚か」だというのだろう。
ぼくは、ここに関しては「愚か」だなんて1ミリも思っていない。
むしろ、漢字がやってきたことで、「日本語」も「日本人の思考」もかなりの水準までアップデートされたわけで、日本人にとっては喜ばしい出来事だったと思える。(ただし、この点においては様々な意見があるだろう)
そろそろ、誤解がないように付け加えておかなくてはいけない。
なにも、ぼくは「やまとことばって全然ダメね」と言いたいわけではない。
やまとことばには「漢字」にはない、多義性とか抒情性とか、なんというか、言葉の「ゆたかさ」とか「みずみずしさ」があると、ぼくは思っている。
だから、「やまとことば」は「やまとことば」で美しい言葉だと思うし、日本語にとっては必要不可欠のものだと思っている。
それは漢字だって同様で、要するに、すみわけが大切なのだ。
「漢字」には「漢字」の向き不向きがあるし、
「やまとことば」には「やまとことば」の向き不向きがある。
それなのに、「漢字」を排除するのが、「うつくしいにほんごだ!」とか。
偉い人たちは、マジでそんなこと考えてるの? ってなモンなのだ。
さて、ようやく本題に入れる。
〈ひのもとご〉が風刺しているのは、実際に戦後に起きた「漢字廃止運動」だと思われる。
ことの経緯はこんな感じだ。
1945年、日本が敗戦。
アメリカ側GHQは、日本を統治するうえで考えた。
「しかし、どうして日本人ってのは、負けが決まってるのに、ああまでして負けを認めなかったんだろう……」
アメリカ人にとって、「日本人」は不可解な存在であり、その本質を明らかにしなければ彼らをコントロールできないと思っていたようだ。
そんな中で、誰かがこういったらしい。
「わかった! 漢字が難しすぎて、みんな正しく情報を理解できなかったんだ!」
いや、バカにすんな! と思うかもしれないけれど、実際はそうならなかった。
なるほどー、じゃあ漢字をなくしちゃおう!
ということで、ほんとうに漢字をなくしていこうという計画が進んでいく。
じつは、戦前から、「漢字なんていらないよ」と考える人たちというのは一定数存在していて、彼らはすでに それなりに「漢字廃止運動」もしていた。
たとえば、
「カナモジカイ」と呼ばれる団体がいた。
彼らは文字通り「漢字をすべて撤廃して、かなもじだけにしよう」という理念のもと、日本語改革運動をおこした団体だ。
「ROMAJIKAI(ローマ字会)」と呼ばれる団体もいた。
彼らも文字通り「日本語はすべてローマ字で表記するべきだ」という理念のもと、日本語改革運動をおこした団体だ。
あとは、新聞社も、いちいち漢字を打刻するのが面倒だったみたいで、「漢字なくしましょうよー」という意見を持っていたといわれている。
ちなみに、日本語のプロである「作家」の中にも、日本語への不満を感じる人たちがいた。
山本有三は「カナモジカイ」に属していて、彼の作品を読むと、まあ平仮名ばっかりだし、「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉なんて、日本語は欠点だらけだからと考え、「フランス語を『国語』にすべきだ」とさえ言っている。
こんな風に、戦前から戦後にかけて「漢字廃止論」に賛成する人というのは、実際に存在していた。
だけど、実際には漢字は廃止されなかった。
それはなぜか。
当時、GHQは日本人に向けて、「情報リテラシー」テストを実施した。
「ほら、全然情報を理解できない。やっぱり漢字が諸悪の根源なんだよ」
ということを証明したかったのだ。
ところが、その結果はなんと、日本人は「情報をあやまって理解する」どころか高いリテラシー力をGHQ側に見せつけたのだ。
皮肉なことに、その大きな要因こそが、戦前にガッツリ行われていた「漢字教育」だったわけだ。
こうして「漢字廃止運動」は頓挫。
日本では今でもきちんと漢字教育が行われている。
いや、ほんとうによかった。
漢字があるからこそ、いまでも日本人は豊かな言語活動ができるのだ。
ちなみに、おとなりの韓国では、1970年に「漢字廃止宣言」を行い、彼らのボキャブラリーの6~7割ほどを占めていたという漢字を排除してしまったのだ。
その政策の賛否は今でも議論されているわけだが、「韓国語にとってのデメリット」を主張する声も多い。
「うつくしい母国語」を求めること自体、とても素晴らしいことだけど、行き過ぎた排他主義やナショナリズムの果てに「不自然に使いにく言葉」を作り出すことはおかしいと、ぼくは思う。
「政治」が言葉に介入することには、多くの問題をはらんでいる。
作中の〈ひのもとご〉は、そんな政治と言葉の関係を風刺しているのだろう。
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女語について
言葉の特徴
〈島〉の全ての女が10歳になると学ぶ言語。
男は学ぶことを許されていない。
それどころか、女たちは女語を男の前で喋ってはいけないと強く禁止されている。
当然、〈島〉の男たちは、女語をしゃべることができない。
が、唯一例外的に拓慈がしゃべれるのは、ひそかに游娜から教えてもらったからだった。
そして、拓慈はだれよりも上手に女語を操ることができる。
拓慈には、女語を覚えて、いつかノロになりたいという夢がある。
その理由を彼はこう言っている。
「私は生まれてから、ずっとこの海を見ながら生きてきた。〈島〉を出たことがないんだ」
少し間を置いてから、拓慈はつづけた。
「でもある日突然、海の向こうがどんな感じなのか、気になったんだ……(P95より)
拓慈は、
「自分がなぜ〈島〉に生まれたのか」
「〈島〉の人々はどこから来たのか」
「海の向こうには、本当に〈ニライカナイ〉があるのか」
という、至極まっとうな疑問を抱いている。
ちなみに、拓慈の一人称が「私」であることに気が付くだろうか。
これは〈女語〉が、女だけの言葉であることから、そもそも一人称に「ぼく」も「おれ」も持ち合わせていないということなのだろう。
この辺りの整合性もきちんととれていて面白い。
女語にまつわる謎
では、この〈女語〉の正体は一体何なのか。
未読の読者も想定して記事を書いているので、大きなネタバレを避けつつ定義を説明すれば、
〈ひのもとご〉以前の〈ニホン語〉
ということらしい。
つまり、いくぶんか「古い」言語ということになる。
ではここで、〈女語〉のテキストを引用してみたい。
名前のない不安な身体の奥底に押し込め、私は実桜に向かって手を振ってみた。すると彼女は白い歯を見せて笑い、手を振り返しながら歩を進めた。その笑顔は五年の歳月が生み出したはずの距離をそっと包み込んで、それを見ただけで絡み合う不安が少し溶けたような気がした。
これは、間違いなく、現代の「小説」か何かである。
これのどの辺が、「古い」というのか。
なんなら、女語よりも起源が新しいという〈ニホンゴ〉のほうが、よっぽど古く聞こえるではないか。
この矛盾は一体……
しかも、こんなにも抒情的な現代小説をテキストにする一方で、〈女語〉には英語由来の「外来語」が存在していない。
「女語」をしゃべる〈島〉の女たちには、「シンパシー」も「メモリー」も「ビリーブ」も理解することができなかったことは、すでに確認した通りだ。
さて、この辺の整合性をどうつければよいのだろうか。
これについては、ぼくなりに推測(妄想)してみた。
おそらく、島の〈ノロ〉は、「タイワン」だけでなく、〈ひのもとぐに〉以前の〈二ホン〉とも、何らかの方法でコンタクトを取っていたのではないだろうか。
その「コンタクト」とは、ひょっとして極めて実益的なこと、すなわち「交易」だったもかもしれない。
〈島〉のノロたちは「タイワン」以外にも、「二ホン」とも交易をしていたワケだ。
だからこそ、〈ニホンゴ〉についての旬な情報が必要で、女語をその都度その都度アップデートしなければならなかったのだろう。
そして、英語由来の「外来語」に関しては、意図的に排除した。
というのも、〈島〉の人が話す〈ニホン語〉には、そもそも「外来語」は存在していない。
〈島〉の女たちが、より効率的に女語を習得するためには、そのノイズとなる要素は全て切り捨てていったのだと思われる。
……ということを考えてみたのだけど、どうだろう。
女語の担い手ノロ
さて、最後に「ノロ」についてまとめてみたい。
〈島〉の指導者である「ノロ」は、琉球神道の「ノロ」が間違いなくモデルとなっている。
琉球神道では「ノロ」という女性指導者が、祭事や死者供養などを担っていた。
つまり宗教儀式はすべて「ノロ」によって行われるのだが、その信仰対象もまた「ニライカナイ」だった。
ちなみに、「ニ」とは始原の意、「ラ」は彼方の意、「カナイ」は繰り返しの意。
つまり、「ニライカナイ」とは、あらゆる生命の始原であり、海の彼方にある場所であり、生前の住み家であり、死後に帰っていく場でもある。
死者はみな、海の彼方にある「生命の故郷」に帰っていくのだと、琉球では信じられていた。
これは作中の「ニライカナイ」と、おおむね同じである、
ちなみに、作中では「ニライカナイ」について象徴的に表した言葉が登場する。
「過去(グエキ)する」
これは「死ぬ」という意味でつかわれているのだが、感覚的には「故郷に帰る」という意味でつかわれていると思われる。
それから、『彼岸花が咲く島』ということで、舞台は島であるわけだが、このモデルとなっている島は、たぶん「久高島」だろう。
久高島とは、沖縄県の東の海に浮かぶ、小さな島だ。
ここでは、古くから「ノロ」と「ニライカナイ」を中心とした宗教儀礼が行われ、それはつい最近まで脈々と続いてきていた。
「イザイホー」という儀礼を聞いたことがあるだろうか。
これは、久高島に生まれ育った30歳以上の既婚女性が「ノロ」になるための儀式だ。
600年前から、12年に一度行われてきたこの儀式。
日本の近代化を免れて、その宗教的な生命を絶やさずにやってきた。
が、1978年を最後に、イザイホーは行われていない。
島の過疎化が進み、後継者となる女性がいなくなったからだ。
2002年も、2014年も、残念ながら行われていない。
儀式の詳細を知る「ノロ」の逝去により、おそらく、イザイホーの存続は厳しいだろう。
きたる2026年、イザイホーは行われるのだろうか。
また、行うにしても、どんなふうに行えるのだろうか。
いずれにしても、古代人たちが温めてきた、「人間の故郷」というものは現代において、確実に失われていっている。
近代化の波は、人々を物質的に豊かにしたけれど、一方で 人々の精神から大切なものをどんどん奪っているような気がしてはらない。
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終わりに 「〈島〉を存続させていくために」
さて、最後に『彼岸花が咲く島』を読んで、ぼんやり考えたことについて記して、この記事を終えたい。
以下は、ややネタバレになる。
〈島〉が存続しているのは、まちがいなく その閉鎖性にあると、ぼくは思う。
〈島〉の人々が、「ニライカナイ」を信じているのは、当然〈島〉の外を知らないからだ。
〈島〉の外には、〈タイワン〉があり、〈チュウゴク〉があり、〈ひのもとぐに〉があることは、「ノロ」たちにしか知られていない。
「ノロ」には〈島〉を守っていく使命がある。
その使命を果たすために歴代の「ノロ」たちは、〈島〉の歴史について、かたく口を閉ざしてきた。
もしも、〈島〉の歴史について漏らしてしまえば、「ニライカナイ信仰」を中心とした〈島〉の社会システムが瓦解してしまうからだ。
じつは、〈島〉の外には強大な文明が存在していて、そこには、人々が生きていくために「〈島〉では作れないもの」が沢山ある。
それを〈島〉の人々が知ったとき、〈島〉の人口の流出も きっと急激に進んでいくだろう。
〈島〉が近代化を免れて、「ノロ」と「ニライカナイ」を中心に、人々が自足した生活を営めるのも、〈島〉の歴史が漏洩しなかったからこそだと、ぼくは思う。
きっと歴代のノロたちは、そのことも知っていたからこそ、〈島〉の歴史を守り続けてきたのだと思う。
だから、もし、「ノロ」として〈島〉を守りたいのであれば、宇実よ游娜よ
〈島〉のルールをかえてはいけない
どんなに不合理にみえるルールであっても、共同体のルールというものには、長い時間をかけて築き上げられた強烈な合理性が働いているのだ。
それは、これまで様々な文化人類学者が明らかにしてきたところだ。
そういうルールを変えることには、間違いなく大きな代償を伴う。
その代償を背負い、〈島〉の未来を守っていける自信と覚悟があるのなら、〈島〉のルールは変えたっていい。
だけどそうした場合、おそらく〈島〉に待っている未来は、久高島の現状と同じだと、ぼくは思う。
いや、久高島の過疎化自体、ぼくは悪いことだとは思っていない。
そういう時代なのだから、しかたがないのだ。
でも、宇実や游娜が「ノロ」として、その未来を選ぶことが、ただしいことなのかと言えば、それは正しいことだとは言い切れない。
むしろ、「ノロ」としては間違っていると思う。
作品自体は、けっこう前向きな感じで、さわやかな感動とともにに終わっているのだけど、よくよく考えてみると、
それだけはやめとけ! 宇実! 游娜!
と、思ってしまうぼくがいる。
以上で記事は終わりです。最後まで読んでくださりありがとうございました。
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以前、紹介したソシュールの言語学にも通じるもので、なかなかスリリングな1冊だ。
こちらはエッセイなので、とってもよみやすく、かつ言語学のおもしろい部分をしっかりと味わえる。
『日本語の教室』(大野晋 著)
こちらも日本語学の第一人者、大野晋の言語学エッセイ。
この記事でも紹介した「漢字排斥運動」についても書かれている。
それ以外にも興味深いトピックが多く、身近な表現を例に日本語の本質へと迫っていく。
日本語と漢字の関係についての説明は、とってもためになる。
日本語について理解を深めたいという人におすすめ。
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