解説・考察『海と毒薬』ー日本人とは何か?タイトルの意味は?ー

文学
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「遠藤周作」について

日本の敗戦後に生まれた文学を「戦後文学」と呼んでいる。

戦後文学には、おもに作家自身の「戦争体験」をモチーフにした作品が多い。

そんな中で、主に作家自身の「日常」とか「生活」をモチーフにした、「私小説」的な内容を書く人たちが現れた。

彼らはまとめて「第三の新人」と呼ばれている。

遠藤周作というのは、その「第三の新人」の代表格だ。

以下、簡単に略歴を示そう。

  •  3歳・・・父の転勤により、満州「大連」での生活を始める
  •  9歳・・・父の不倫などが原因で両親が不仲になる。
  • 10歳・・・両親が離婚。母に連れられ帰国。兵庫県へ移り住む。
  • 12歳・・・母がキリスト教に入信。それに伴い、遠藤周作もキリスト教徒になる
  • 19歳・・・学業不振で浪人。母に経済的な負担をかけまいと上京。すでに帰国していた父を訪ね 再び生活を共にする。
  • 20歳・・・慶應義塾大学文学部に入学。(それが原因で父から勘当)
  • 30歳・・・母が急死。
  • 31歳・・・本格的に作家活動を始める。
  • 32歳・・・芥川賞受賞。
  • 34歳・・・代表作『海と毒薬』を発表
  • 43歳・・・代表作『沈黙』を発表

と、とりあえず、ここまで書けば、今回は十分。

さて、ここで、強調しておきた点がある。

それは、

彼がキリスト教徒になったのは、母の影響だった

と言う点である。

つまり、遠藤周作にとってキリスト教というのは、「彼自身が選んだもの」ではなく、「押しつけられたもの」だったわけだ。

「遠藤文学」のテーマ

だが、その「押しつけられたもの」こそが、彼にとっては創作する原動力であり、創作する目的でもあった。

後に遠藤周作は、こうも言っている。

「小説を書くということは、着せられたタブタブの洋服を着こなすために、和風に仕立て直す作業だった」

ここで「和風に仕立て直す」とは、「日本人としての自分自身と折り合いをつける」くらいの意味だろう。

遠藤周作にとって、キリスト教とは、どうしても納得のいかない不可解な世界だった。

そして、押しつけられたキリスト教と、押しつけられた信仰によって、彼はずっと居心地の悪さを感じていた。

彼の作家人生は、「日本人にとってキリスト教ってなんだろう?」という自問自答の連続だったわけだ。

そして、この問題意識こそが遠藤文学のテーマの根幹にある。

そのテーマは、大きく次のように分解することができる。

  • 日本人とは何か
  • キリスト教とは何か

そして、主に1「日本人とは何か」を問うた彼の代表作こそ、今回紹介する『海と毒薬』である。

この記事の大きな目的は、

  1. 『海と毒薬』のタイトルの意味を明らかにすること
  2. 『海と毒薬』で描かれた「日本人の姿」を明らかにすること

以上2点である。

それを明らかにできれば、他の「遠藤文学」に対する理解もいっそう深まると思う。

作品の概要

作者遠藤周作
発行年1957年(昭和32年)
発行形態書下ろし
発行元新潮社
ジャンル中編小説
テーマ神なき日本人の罪意識

なお『海と毒薬』には続編がある

『悲しみの歌』

ここでは、人体実験に参加した勝呂のその後が描かれている。

遠藤周作の人間観宗教観が色濃く描かれた、知る人ぞ知る佳作といえる。

『海と毒薬』を読み終えた方は、ぜひこちらも手に取ってみてほしい。

作品のあらすじ

本作は、戦時中に日本で起きた実際の事件「九州大学生解剖事件」をモデルにしている

時は、戦争末期。

舞台は、F市( モデルは福岡市 )の大学病院の医学部。

そこでは、教授達が次期学部長のポストを巡って権力争いをしていた。

そんな思惑の中、「アメリカ人捕虜への生体実験」を行うことが決定。

主人公の勝呂を含め、7人の医師・看護師が「実験」に参加する。
  • 解剖に参加した彼らは、単なる異常者だったのか?
  • どんな心理的なプロセスを経て、この残虐行為にいたったのか?
  • いったい、われわれ「日本人」というのは、どんな人間なのか?

これらが、本作のテーマだ。

登場人物

ここでは、生体実験に関わった7人についてのみ紹介する。

勝呂
F市の大学病院の研究生。助かる見込みのない患者を救おうとするほど、憐れみ深い男で、同僚の戸田から「甘い」と非難されている。
戸田
勝呂と同じ研究生。勝呂とは対照的で、他者に対する共感能力がない。その「他者の痛み」に無関心だった過去について、自らの手記で告白をしている。
上田看護婦
夫に裏切られ、身ごもった赤ん坊を堕胎し、子宮を摘出した過去を持っている。橋本教授の妻「ヒルダ」の聖女のような振る舞いに反発する。
橋本教授
勝呂・戸田の上司。妻はドイツ人女性「ヒルダ」。前医学部長が死に、そのポストをめぐって、病院内での権力争いに腐心する。
柴田助教授
勝呂・戸田の上司。自らの出世のため、女性患者を実験台に手術しようとする。
浅井助手
勝呂・戸田の上司。病院内での地位を固めようと、橋本教授に取り入ろうとしている。看護婦の上田と男女関を持つ。
大場看護婦長
上田看護婦の上司。普段から「能面」のような表情で感情も読めない。橋本教授へ恋情を抱いていると思われる。

それでは、以下でこの7人が「生体実験」に至るまでを考察してみたい。

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「生体実験」に至るまで

勝呂の場合

作品の冒頭で、「事件後」の勝呂が描かれている。

彼は、まったくの無気力・無感情であり、結核を患っている語り手の「私」に対する治療も、どこか機械的だ。

そんな勝呂に対して、「私」は直感的な恐怖感を抱いてさえいる。

冒頭における勝呂というのは、いかにも「非情」で「冷徹」な人間のように描かれていて、それはまるで生体実験を行うのも「さもありなん」の趣である。

しかし、実は勝呂は生来の「やさしさ」や「憐れみ」を持っている、人間味にあふれた人物なのだ

それは、大学病院時代、助かる見込みのない患者「おばはん」に見せた態度からも明らかである。

ただし、その態度について、同僚の戸田はこう非難している

「甘いねえ、お前。いつまでそんな女子学生みたいなことを考えているのや」

一方の勝呂は それに対し 内心でこう思う

俺は、あの患者が俺の最初の患者やと思うとるのや。

勝呂はどんな患者であろうと 常に「たった1人の尊い患者」という姿勢で、治療を行っているのである。

また、彼は共感能力も高く、患者の苦しみを まるで自分のものとして苦しみさえする

そんな勝呂が、なぜ「生体実験」といった、非人道的な行為に手をかけたか。

その理由を端的に3つ述べるとすれば、

  • 無力感
  • 空虚感
  • 自暴自棄

ということになるだろう。

さらに、それを勝呂の言葉の声として表現するとすれば、こんな感じだ。

(俺1人が抵抗したところで、どうにもできないのだ)

(患者を平気で見殺しにする。医者の仕事とは 一体なんなのだろう)

(どうせみんな死んでしまう時代なのだから、もうどうでもいい)

そして、最終的に、彼は感情も思考も停止させ、そのまま「生体実験」へ参加してしまう。

では、一体何が 彼にそんなネガティブな思考を植えつけたのだろうか。

そのきっかけについてまとめれば、こうなる。

  1. 「おばはん」が柴田助教授の「実験台」に選ばれたこと
  2. 日々、多くの人々が空襲で死んでしまっていること
  3. 患者の死」を隠蔽する、教授らの姿を目の当たりにしたこと

柴田助教授は、自らの出世のために、助かる見込みのない「おばはん」をつかって、実験手術を行おうとしていた。

その手術で、10中8、9 「おばはん」が死んでしまうことくらい、勝呂にも明白だった。

が、部下である勝呂には、柴田助教授の手術をとめることなどできない。

そこには、戸田の言葉も大きく影響をしていた。

今は街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬぐらい驚かんのや。おばはんなんぞ、空襲でなくなるより、病院で殺された方が意味があるやないか」

そもそも、「おばはん」は助かる見込みのない患者であり、しかも時代柄、たとえ助かったとしても、空襲で焼け死んでしまう可能性だって高い。

であれば、そんな「無意味な死」を迎えるよりは、医療の未来のためになる「意味のある死」を迎えた方が、「おばはん」の為でもあるんじゃないか?

戸田は、勝呂にそう言っているのだ。

そして、勝呂は、戸田のその論理に強く反論することができない。

極めつけは、教授らによる「田部夫人」の手術死の隠蔽だった。

前学部長の親族である「田部夫人」を利用して、権力争いを有利に進めようとした橋本教授らだったが、その思惑通りにはいかず、田部婦人は手術中に死なせてしまう。

そして教授らは、自らの保身のために、組織的にその死を隠蔽する。

病院の隠蔽体質は、もはや日常化していて、それは一介の研修医である自分が、どうこうできるレベルにはない。

これが医者というもんじゃろうか。これが医者というもんじゃろうか。

そう自問自答する勝呂だったが、次第に無力感・空虚感・そして自棄と諦念を強めていく

何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代なんや。

そして最後は、

「もうどうでもいい」

と、彼は思考を停止してしまったのだった。

ただし、それは勝呂に「やさしさ」や「共感能力」があるからこそのことだろう。

理不尽な患者の死や、病院の隠蔽体質を直視することは、彼にはできなかった。

こんな状況下にあって、自分の心を守るための手段は1つしかない。

それは感情を無化することだ。

こうして、感情と思考にフタをした勝呂は、運命に流されるように「生体実験」へ参加することになる。

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戸田の場合

彼の生来の性質を一言で説明すると、

他者への共感能力の欠如

である。

そして、それこそが、彼が「生体実験」に参加した大きな要因だった。

彼の性質については、作中の第2章「裁かれる人々」における彼の「手記」に詳しい。

少年時代の窃盗、いとことの姦通、女中の妊娠と堕胎

そのどの過去をとっても、戸田の良心が苛まれることは一切なかったし、罪悪感を抱くことも一切なかった。

しかも、戸田の計算もあってか、それらの「罪」が世間や社会に露見するということもなく、よって、戸田が周囲から責められるということもなかった。

戸田は手記で、自分の「良心」と「罰」についてこう述べている。

良心の呵責とは今まで書いたとおり、子どもの時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったのである

    (中略)

偶然の結果かも知れないがぼくがやった事はいつも罰を受けることはなく、社会の非難をあびることはなかった。

こんな風に生きてきた戸田は、人生で自らの「良心」というものも「罰」というものも、自覚したことはなかった。

戸田が手記を書き出したのは、「良心の呵責」を感じない自分自身への不気味さらだった。

だが、無感動・無感情な自分を不気味に思いこそしても、そんな自分の心をどうしてみることもできない。

そんな戸田に舞い込んできた「生体実験」への参加の依頼。

彼の反応はこうだった。

「ええ」とぼくは答えた。答えたいうよりは呟いた。

そこには、戸田のいかなる感情もない

こうして戸田は拒絶感どころか、一切の抵抗感もなく、ただ流れに身を任せるように「生体実験」に参加する。

上田看護婦の場合

彼女の場合は、「自暴自棄」が大きな理由だといっていい。

彼女についても、第2章の「手記」に詳しい。

そこでは、彼女の悲惨な過去が告白されている。

  • 夫と結婚し大連へといったっこと
  • そこで夫との子を身ごもったこと
  • だがそれは死産となり子宮も一緒に摘出したこと
  • 愛人を作った夫に棄てられたこと
  • そして大連から再び日本に帰ってきたこと

手記は読んでいて胸が痛む記述の連続で、上田の「悲しみ」や「孤独」が際立っている。

大連から帰ってきた上田は、古巣である「大学病院」に再び務めるのだが、そこである出来事を経験する。

それは「田部夫人」の手術中に起こった。

教授らが権力争いのために「田部夫人」の死を隠蔽したことは、すでに述べたが、その隠蔽の最中に、時を同じくして苦しみだした患者がいた。

上田はその場に立ち会い、教授達を探すが、彼らはみな「田部夫人」の手術に立ち会っているため、不在。

そこで、上田が手術室に電話をかけると、浅井助手は、上田にこう吐き捨てた。

「何なの、君」 (中略)

大部屋の前橋トキが自然気胸を起こしたんですけれど

「そんなの、知らんよ。忙しいんだぜ、こちらは。ほっときなさいよ」

「でも、ひどく苦しんでいますけれど」

「どうせ助からん患者だろ。麻酔薬をうって・・・・・・」

あとが聞き取れぬうちに、浅井さんが受話器をガチャッと切ってしまいました。

途方に暮れる上田。

だが、医者の指示に背くわけにもいかない。

上田はその指示通り「麻酔薬」を、その患者に打とうとする

そこを、橋本教授の妻、ドイツ人の「ヒルダ」に制止され、こう難詰される

死なそうとしたのですね。わかってますよ」

上田はこう弁解する。

「どうせ近いうちに死ぬ患者だったんです。安楽死させてやった方が、どれだけ、人助けか、わかりゃしない

「自然気胸」というのは、呼吸困難な状況で、放っておけば窒息死してしまう。

もはや自分になすすべがないのであれば、医師の指示にしたがって、苦しみを和らげて死なせてやろうというのが、上田の考えだったろう。

ところが、それをヒルダは「キリスト教的倫理観」で、こう糾弾する

「死ぬことがきまっても、殺す権利は誰にもありませんよ。神様が怖くないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか

そして、ヒルダは、上田の行為を病院に訴える。

指示を出した浅井助手にも「はしご」をはずされ、上田は出勤停止になる。

もう、どうにでもなれ。

彼女はそんな自暴自棄に陥る。

赤ん坊を堕胎し、二度と子どもを産めない体になり、夫には棄てられ、そしていまや仕事も失おうとしている。

浅井から「生体実験」参加の依頼を受けたのは、そんな状況の中でだった。

どうでもいい。

上田の脳裏に、ふたたびこの言葉がよぎる。

そして、その晩、上田は浅井に抱かれながら、自分を連れ去っていく「運命」というものについてぼんやりと考える。

わたしはもし、自分があの大連で赤ん坊を産んでいたならば、夫とも別れなかったろうし、自分の人生もこれおとは違ったことになっただろうと、ぼんやり考えたのです。

個人的に、ここが『海と毒薬』の中で もっとも哀切なシーンだと思う。

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教授らの場合

その他に「生体実験」に参加したのは以下の4名、

  • 橋本教授
  • 柴田助教授
  • 浅井助手
  • 大場看護婦長

である。

橋本、柴田、浅井の3名に関しては、三者三様の「利権追求」「自己保身」がある。

  • 橋本は、学部長のポストを狙っているし、
  • 柴田は、医学に貢献して出世を狙っているし、
  • 浅井は、橋本教授に取り入り、安定した地位を狙っている。

アメリカ人捕虜の「生体実験」における3人の目的は、

  • 橋本にとっては、軍部と癒着して、学部長選を有利に進めることであり、
  • 柴田にとっては、危険な手術でなければ得られない研究成果をあげることであり、
  • 浅井にとっては、上司のご機嫌をとることであった。

つまり、3人は「私利私欲」を満たすために行動している点、同じ穴のムジナである。

大場看護婦長については、あまり情報がない。

普段から感情を押し殺した「能面」の彼女は、ある意味で「勝呂」のような無力感や諦観に苛まれているともいえるだろう。

ただ、上田看護婦は「生体実験」後に、

「この石みたいな女、橋本先生に惚れとったんだわ」

と、大場看護婦長の参加目的を「橋本教授のご機嫌取り」にあると察知している。

とすると、彼女の参加理由もまた、浅井助手に近いものだと思われる。

とはいて、彼女の参加理由はあいまいで良く分からないままだ。(し、おそらくそこまで重要でもない)

まとめ

さて、7人が「生体実験」に至った大きな要因をとめると、こういうふうになる。

勝呂
無力感や空虚感の果てに、思考と感情を無化したこと。

戸田
生来から「共感能力の欠如」があったこと。

上田看護婦
たび重なる不幸な事件で自暴自棄になったこと教授ら
私利私欲にまみれ「自分の利益」のみを求めたこと大場看護婦長
感情を無化したことと、教授の気を引こうとしたこと

こうしてまとめてみると、彼らは大きく2つに分けることができる。

それは、

  • 進んで「生体実験」に参加した人々
  • 流されるままに「生体実験」に参加した人々

である。

当然、

  • 前者 = 教授連中
  • 後者 = 勝呂・戸田・上田

である。(大場看護婦は、保留とする)

もっと突っ込んでみれば

  • 命令する者
  • 命令される者

という構造が、ここに見て取れる。

そして、両者のうち、遠藤周作の分析眼は、後者「命令される者」に注がれていることは言うまでもないだろう。

命令されるものが、どんな心理的プロセスを経て「生体実験」に参加したかについては、上記でおおまかに確認をしてきたところだ。

それらを踏まえて、以下、タイトル『海と毒薬』の意味するところについて考えてみたい。

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考察①タイトル『海と毒薬』の意味

「毒薬」について。

後述する「海」とは違い、「毒薬」が象徴的、暗示的に記述されている箇所は特にない。

「毒薬」は文字通り解釈すれば、それは「エーテル」である

エーテルとは麻酔で、手術直前に投与するものだ。

作中では、

「それはエーテルだな?」

と警戒心を示すアメリカ人捕虜に対して、

「これは、お前の治療に使うのだ」

となだめすかし、ムリヤリ昏睡させるシーンがある。

結果的に、捕虜はそのまま殺されるわけで、とすると エーテルはその殺人の引き金であるわけで、よってそこに「毒薬」というまがまがしい名付けがされているというわけだ。

ただ、おそらく、「毒薬」にはそれ以上の意味が含まれていると思われる。

つまり、こういうことだ。

「毒薬」=「麻酔」=「感覚を麻痺させるもの」

感覚とは「感情」とか「思考」とか「理性」と言い換えても言い。

主人公の勝呂や上田が、自らの感情や思考を抑圧して「生体実験」に向かったのは、上述したとおりだ。

「毒薬」とは、勝呂を初めとする登場人物達の「感覚を麻痺させる状況」というのをシンボリックに表現したものだと考えられる。

「海」について

一方の「海」は、小説内において何度も何度も繰り返し登場する。

しかもそれは、極めて象徴的、暗示的に描かれている

勝呂は乳色の靄のずっと向こうに黒い海を見た。海は医学部からほど遠くないのである。

舞台となった大学病院のすぐ近く、「海」は黒く陰鬱な影を浮かべている。

その寄せては返す波の音、それが勝呂たちの耳に、不気味に響く。

特に、上田看護婦の手記で その音は印象的に描かれている。、

夜、眼を覚ました時に聞こえる海の音がこの頃、なんだが、大きくなっていくような気がします。

    (中略)

あの太鼓のような暗い音が少しずつ大きくなり高くなるにつれ、日本も負け、わたしたちもどこかにひきずりこまれていくかもしれないと思いました。

注目したいのは、上田が「海」について「自分をひきずりこむもの」と認識している点だ。

小説内で「海」が描かれるとき、それは勝呂や上田たちを「押し流すもの」「ひきずりこむもの」として描かれていく。

考えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。おれ1人ではどうにもならぬ世の中なのだ。

    (中略)

夢の中で彼(勝呂)は黒い海に破片のように押し流される自分の姿をみた。

どうせ何をしたってあの暗い海の中に誰もがひきずりこまれる時代だという諦めがわたしの心を支配していたのかもしれません。

こんな風に「海」は、抗いがたく「生体実験」へと向かう勝呂や上田の眼前に広がり、その不気味なさざめきを響かせている。

そして、彼らに戦争という「時代」を感じさせ、彼らのうちに「諦め」の気持ちを植えつけていく。

戦争という「時代」についていえば、戸田が勝呂にいった言葉が全てだ。

何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代なんや。

それが、『海と毒薬』で描かれている「時代」なのだ。

自分たちがどれだけ患者を救おうとしても、その努力もむなしく、結局彼らは死んでいってしまう。

ならば、病気で死ぬことと、爆撃で死ぬことと、生体実験で死ぬことと、そこにどんな違いがあるというのか

どんなにあがいても、どうせ自分たちは「時代」に流されていくほかない。

どうにでもなれ。

無力感、空虚感、諦観、自暴自棄・・・・・・

そういった負の感情はすべて、自分には抗うことができない この「海」のごとき大きな「流れ」に根ざしている

その大きな「流れ」に名前をつけるとすれば、それは何か。

「運命」である。

小説のクライマックス。

捕虜にエーテルを投与して「いよいよ」という土壇場で、勝呂は実験を断ろうとする。

戸田はそのとき、そんな彼を睨みつけてこういった。

「断るんやったら昨日も今朝も充分、時間があったやないか。今、ここまで来た以上、もうお前は半分は通り過ぎたんやで

「半分? 何の半分をオレが通り過ぎたんや」

俺たちと同じ運命をや

「海」とは、勝呂たちを押し流し、引きずり込み、飲み込んでいく、そういう抗うことのできない「運命」をシンボリックに表現したものなのだ。

遠藤周作の代表作も対象!!

—KindleアンリミテッドHP—

考察② 「日本人」とは何か

宗教的な倫理観を持たない者

では、遠藤周作は『海と毒薬』において、「日本人」をどのような存在として捉えているのだろう。

まず1つ目は、見出しの通りなのだが「宗教的な倫理観を持たないもの」である。

「宗教的倫理」を、分かりやすく「神の戒律」と具体化しておく。

まず、『海と毒薬』において、はじめて「神」が登場するのは、勝呂と戸田の会話シーンだ。

(勝呂)「神というものはあるのかなあ

(戸田)「神?」

「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押し流すものから――運命というんやろうが、どうしても逃れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神と呼ぶならばや」

「さあ、俺にはわからん」火口の消えた煙草を机の上にのせて勝呂は答えた。

俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや

言うまでもないが、勝呂にも、戸田にも、「神への信仰」もそれに基づく「倫理観」も「罪の意識」も皆無である

キリスト教的倫理観においては、人間を殺すことは神の戒めに背くことであって、それは「罪」であり「悪」である。

そういったキリスト的倫理観について端的に述べた言葉がある。

患者を安楽死させようとした上田に対し、ドイツ人の「ヒルダ」が言った あの言葉だ

「死ぬことがきまっても、殺す権利は誰にもありませんよ。神様が怖くないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか

その言葉を聞いた上田だが、

「あいにく、日本人にはそういう倫理観を理解することなどできないのだ」

と感じる。( ちなみにそれは西洋の「石けん」の匂いでもって、暗示的に語れている)

「いままでも、これまでも、日本人は神の観念を持ったことは、一度もない」

これは、遠藤周作の代表作『沈黙』で書かれた言葉である。

『沈黙』から遡ること、約10年。

「神なき日本人」の姿は、すでに『海と毒薬』について描かれていたのだ。

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世間や社会を恐怖する者

「ヒルダ」の言葉から分かるのは、西洋人である彼女にとって「罪」とか「罰」といったものは、キリスト教の文脈で感じられるものだということだ。

それでは、日本人には「罪」や「罰」といった観念は存在しないのだろうか

そんなことはない。

日本人は、西洋人とは違った基準で「罪と罰」について感じるのだ

そのことをを良く表しているのが、「良心」の呵責を持たない戸田とうい存在である。

戸田は、手記において 自らの「良心」と「罰」についてこう述べている。

良心の呵責とは今まで書いたとおり、子どもの時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったのである

戸田はその上、「生体実験」を行った教授らもまた、自分と同じなのだろうと考える。

この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼らの恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ

つまり、戸田や教授らは恐れているのは、自分たちの罪が「世間」や「社会」に露見することであって、彼らにとって「罰」とは「世間」や「社会」から非難されることだというのだ。

では、一方の西洋人はどうなのかといえば、彼らは「神」による罰を恐れている。

たとえ、自らの罪をどんなに隠蔽しようとしても、神には全てお見通し、つまり隠しきれないのである。

そういった「キリスト教的倫理観」を内面化している彼らにとって、「罪と罰」の問題は、いつでも内面的な問題なのだ。

日本人にとって重大な「世間」や「社会」といったものは、西洋人にとっては関心の外にあるわけだ。

ここに、西洋人と日本人の興味深い対照が、はっきりと見て取れる。

  • 西洋人の「罪」の意識 = 内的なもの
  • 日本人の「罪」の意識 = 外的なもの

というものである。

つまり、「罪」について身も蓋もなく言ってしまえば、

  • 西洋人は 自分の「良心」が許さない
  • 日本人は「世間」にバレなきゃオッケー

ということになる。

だからこそ、教授達は「患者の死」や「捕虜への実験」を必至に隠蔽してかかるわけだ。

アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトは、戦時中の日本人を見て、不可解の念を押さえられなかったという。

ときに従順に見える日本人が、突然、凶暴で残酷になってしまうのはなぜだろう。

彼女はその疑問に答えるべく、主著『菊と刀』において、日本人について考察をした。

そして、こう結論づけた。。

  • 日本は「恥」の文化
  • 西洋は「罪」の文化

彼女のいう「恥」こそ、日本人が「世間」に対して感じるものであり、日本人はとにかくその「恥」を恐れるというのだ。

「世間」に露見する心配がなければ、たとえソレがどんなに残酷であっても、日本人はその行為に及びうる、と。

遠藤周作が『菊と刀』を読んだのか、それは分からない。

ただ、『海と毒薬』に描かれた日本人の姿と、ベネディクトが考察した日本人の姿とは、ほとんど同じだと言って良い

ただ、このベネディクトの考察には、反論したいこともある。

彼女の説の妥当性に関しては、以下の記事で書いている。

【 参考 分かりやすく解説『菊と刀』ー「恥の文化」と「罪の文化」とはー

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運命に「あきらめ」を持つ者

最後に、日本人の「あきらめ」について考察をする。

ところで、「あきらめる」という言葉の語義を、あなたは知っているだろうか。

辞書を引くと、こうある。

1、とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。

2、事情や理由を明らかにする。はっきりさせる。

とうぜん、ぼくたちの多くは「1」の意味で使ってるわけだが、じつは「あきらめる」の元の語義は「2」である

漢字を当てると「明らめる」

つまり、「明らかにする」ということだ。

では何を「明らか」にするかというと、それは「物事の成り行き」であり、ひらたく言って「現実」とか「運命」といったものである。

たとえば、あなたは高校球児で

「なんとか甲子園に出場したい!」

という夢を持っているとする。

ところが、引退試合の前日に、あなたは大怪我を負ってしまい、試合に出場することができなくなってしまう。

もどかしい思いで、スタンドからチームの勝利を願うあなた。

しかし、健闘むなしく、あなたのチームは負けてしまう。

その時あなたは、突きつけられた「現実」や「運命」を受け入れなければならない。

あなたがこれまで重ねてきて努力、絶対に甲子園に行きたいという熱量、だけど怪我を負ってしまった不運、チームの敗北という結果・・・・・・

どうやら、そういった全ての「成り行き」を、自分ははっきりと理解し、受け止めなければならない。

この「現実」を心から理解し、受け入れることが「明らめる」ということであり、その次にくるやってくる覚悟というものが「諦める」ということなのである。

ぼくたち日本人というのは、古くから、「現実」や「運命」を受け入れることを「美徳」としてきた。

逆に、「運命」を受け入れずに、じたばたとあがくことは、日本人にとってみっともないことであり、恥ずかしいことでもあった。

だからこそ、武士道では「きっぱりと死ぬ」ことが美徳とされているのだし、死ぬ運命になんとか逆らおうとすることは「往生際が悪い」として批判されるのだ。

日本語の「さようなら」にも、この「運命を受け入れる」という態度が良く表れている。

「さようなら」とは別れの言葉である。

「どんなに惜しくても、どんなに後ろ髪をひかれても、ぼくたちは別れなくてはならな。どうやら、ぼくたちはそういう運命にあるようだ」

そのことをはっきりと悟り、受け入れることができたとき、口をついて出てくる言葉。

それが、

「さようなら」

であるという。

「さようなら(ば)」 = 「それならば(しかたない)」

である。

「じゃあね」 = 「(それ)じゃあ(しかたない)ね」

も、理屈としては同じだ。

さて、説明が長くなったが、ここで『海と毒薬』に戻りたい。

「運命」に逆らえず、流されるまま「生体実験」に参加した勝呂。

その彼の行動の背後には、

「運命を受け入れることが、日本人にとって美徳である」という価値基準が働いていたと思われる。

たとえ、「おかしい」と思っても、「自分は参加したくない」と思っても、結局彼は、自らにふりかかった運命を受け入れて「諦める」ことを選んだ。

そこには、少なからず「日本人的なもの」があると、ぼくは思う。

クライマックスで、勝呂は手術の土壇場で怖じ気づくのだが、そんな勝呂を詰問するように見つめる1人の将校が描かれている。

彼の目には

「それでも貴様、日本の青年と言えるか」

という彼の思いが表れている。

この「日本の青年」

読み進めてみると、文脈上なんとなく場違いで、どこか唐突な印象を受ける。

だが、ここに「運命を受け入れろ!」という日本人の道徳観が描かれていると考えてみれば、なんら不自然なことではない。

『海と毒薬』には「運命に流される」ものが描かれているが、そこには運命を受け入れることを良しとする、日本人の「美学」が表れているともいえる。

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感想 「勝呂と同じ立場だったなら」

以上で、『海と毒薬』は終わりだが、最後に 1つの問いに答えておきたい。

その問いは、

「解剖に参加した彼らは、単なる異常者だったのか?」

という問いである。

結論をいえば、それは「否」である。

小説の冒頭、「事件後」の勝呂は、事件を振り返ってこう言っている

「あの時だって仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・・・・・・」

もし、戦争末期の あの大学病院で、勝呂とまったく同じ立場におかれたとしたして、「絶対に自分は生体実験になど参加しない」と胸をはって言える日本人は、いったいどれだけいるだろう。

少なくても、ぼくは全くといっていいほど、自信がない。

たとえいま、犯罪とほど遠いところで平凡な生活を送っていたとしても、勝呂と同じような条件がそろってしまったとき、ぼくもきっと同じ行為をしてしまうような気がするのだ。

浄土真宗の開祖、親鸞は、そういう頼りない人間存在について、こう述べている。

さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし

「そうなるべき立場にたたされたとき、どんな怖ろしい行為でもしてしまうのが、私という人間なのです」

ぼくたちは、根っからの「善人」だから人を殺さないのではない。

逆に、勝呂達は、根っからの「悪人」だったから人を殺したのでもない。

「そうなるべき立場」に立たされてしまったから、人を殺してしまったのである。

戦争とは、そういう行為に人々を押し流してしまう「海」なのである。

戦争とは、そういう人々の感覚を麻痺させる「毒薬」なのである。

それは、きっと「日本人」だろうが「西洋人」だろうが、変わらない。

たしかに遠藤周作は「海と毒薬」において、「日本人とは何か」を鋭く描いた。

だけど、それをさらに突き抜けた問いが、この作品にはある。

それは、

「人間とは何か」

という、普遍的な問いである。

そして、遠藤周作はそこに一定の解答を提示し、平凡と安逸にあぐらをかいているぼくたちを強烈に揺さぶってくる。

勝呂は、他人事なんかじゃないぞ!

その声を、ぼくたちは真摯に受け止める必要があるだろう。

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「遠藤文学」のおすすめ

『沈黙』

遠藤周作の「母性的キリスト観」が描かれた問題作。

「さばく神」ではなく、「ゆるす神」の存在が、描かれている。

日本人にとって「キリスト教」とは何か、「救い」とは何かを問うた、宗教文学の最高峰。

なお、『沈黙』についてはこちらで考察をしているので、ぜひ参考にしてみてほしい。

【 参考 考察・解説・あらすじ『沈黙』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とはー

『影に対して』

表題作は、2020年2月に発見された「未発表短編小説」

遠藤周作の私小説であり、「母」について書かれている。

「母」が、遠藤文学において重要なテーマであることは、記事で述べて通り。

なお、こちらの記事で考察しているので、参考にしてみてほしい。

【 参考 考察・感想『影に対して』(遠藤周作) ― 「母なるもの」について ―

『深い河』

遠藤周作の晩年の作品にして、遠藤文学の集大成とも言える傑作。

「すべてを包み込む大いなる生命」という彼の宗教観が描かれている作品。

日本を代表する、第一級の宗教文学と言える。

考察記事はこちら。

【 参考 考察・解説・あらすじ『深い河』(遠藤周作)ー宗教・信仰・人生ー

【 参考 感想・考察・書評『日本人にとってキリスト教とは何か』(若松英輔)―『深い河』より―

『侍』

藩主の命令でローマへ行き、洗礼を受けキリシタンになった「侍」

彼が故国へ帰ったとき、日本ではキリシタン禁制をとり、鎖国となったていた。

そして、「侍」に待っていたのは、あまりに理不尽な結末だった。

「人生の同伴者」としてのキリストを描いた作品。

最後のシーンがとても印象的。

『イエスの生涯』

『キリストの誕生』

そもそも、イエスってどんな人?

キリストって、イエスと違うの?

聖書には何がかいてあるの?

という、キリスト教の大事な部分がよくわからないという人に超おすすめ。

聖書を読むのは正直とても大変なのだが、こちらの2冊は文学的なアプローチで基本的なところが理解できる。

なにより、遠藤周作のキリスト教理解がよくわかる作品だ。

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