『こころ』は謎が多い作品
高校生のとき、国語の時間で勉強した夏目漱石の『こころ』
「男女の三角関係」や「裏切り」、果ては「友人の自殺」などなど、そこそこセンセーショナルな内容に衝撃を受けたって人も多いだろう。
『こころ』を読み終えた後、こんな疑問を抱いたのではないだろうか。
「青年のお父さんはどうなっちゃうの?」
「先生の遺書を読んだ後、青年はどうするの?」
「先生が死んだ後、奥さんはどうなってしまうの?」
『こころ』には、解決されないままの多くの謎がある。
ここで忘れてはいけないのは『こころ』は「上 先生と私」と「中 両親と私」の2部があって、その後で「下 先生と遺書」が続くという、3部構成になっていることだ。
何を今さら! と思われるかもしれない。
だけど、高校時代の教科書に載っていたのは、たぶん「下 先生と遺書」だけであり、もっと言えば「先生の裏切り」のシーンであり、「Kの自殺」のシーンだったはず。
だから、多くの人は『こころ』と聞くと、真っ先に「先生の遺書」を思い出すし、「男女の三角関係」や「人間のエゴイズム」というテーマを連想しがちだ。
だけど、それって、ただしい『こころ』の読み方なのだろうか。
『こころ』には、そうしたテーマや「下」の内容だけでは回収しきれない、もっと別の可能性が潜んでいるのではないだろうか。
実際『こころ』の「上」と「中」には、読み落としてはいけない重要な記述が沢山合って、しかも、その点をきちんと読み解くことで、驚きの事実が浮かび上がってくる。
その中には、先の疑問に対応しているものもあるし、「青年(私)と奥さん(静)」のその後を暗示するものもある。
この記事では、あらためて『こころ』という作品の全貌を見渡すことで、作品の可能性について考えてみたい。
とりわけ「私(青年)と奥さんの、その後の関係」にスポットをあてて解説をしていく。
それでは、最後までお付き合いください。
作品に見られる「矛盾点」とは
多くの評論家も指摘していることだが『こころ』には、いくつかの矛盾点がある。
それらについて、
「へー、あの文豪『夏目漱石』も、凡ミスとかしちゃうんだね」
と、呑気に考えてはいけない。
矛盾の中には、漱石も抗えなかった「大人の事情」によるものもあるからだ。
また、それらの矛盾を考察することで、『こころ』という作品の可能性がグッと広がりもする。
『こころ』に見られる矛盾には、「漱石もミスするのね、あははは」ですまされない深い意味が隠されているのだ。
さて、作品に見られる矛盾のうち、もっとも重大かつ分かりやすいものがある。それが、
「先生の遺書」の分量である。
次に引くのは、作品のちょうど真ん中辺り「中 両親と私」の一節。
父の臨終を看取るために郷里に帰った「青年(私)」のもとに、先生から「遺書」が送られてくる場面である。
私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿用のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折りに畳まれてあった。(両親と私十七)
なんてことないシーンなので、これのどこが矛盾してるの? と感じる読者も多いと思う。
まず分かることは、先生の遺書が「原稿用紙」のようなものに書かれていることだ
さらに、それが「包み紙」に入れられて送られてきたことを考えれば、それが「400字詰め原稿用紙」だろうことも、まぁ推測できる。
ただ、僕たち読者は、先生の遺書がどれほどの分量だったかを知っている。
ためしにここで、僕の手元にある「岩波文庫」版の『こころ』で、「先生の遺書」のページ数を数えてみる。
すると、実に130ページを越える分量で、これを原稿用紙換算すれば、およそ300枚近くになる。
さて、このことを踏まえて、改めて考えてほしいことがある。
この300という膨大な枚数の原稿用紙……
はたして「四つ折り」にたたむことが出来るのだろうか。
この遺書に関する疑問点は、次の場面でも同様に見られる。
私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。(両親と私 十八)
青年はここで「四つ」に折りたたまれた原稿用紙を「袂」の中へ「投げ込ん」でいるというのだが、考えてみれば、この記述もちょっと変じゃないだろうか。
遺書はかなりの厚みがあったはずで、それを「袂」に入れるのも不自然だし、「投げ込む」という表現もやはり似つかわしくない。
さて、これは一体どういうことなのか、その結論を言ってしまおう。
そもそも先生の「遺書」は、そこまで長くはなかったのだ。
いや、厳密に言えば、そこまで長くなる「予定」ではなかったのだ。
実際には、「四つ折り」にして「袂」に「投げ込め」るくらいの分量を、漱石は想定していたのだと思われる。
とすると、すぐに、こんな質問が生まれる。
じゃあ、この矛盾の原因は何なの?
その答えは、『こころ』の「創作事情」にある。
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作品の「創作秘話」とは
ここで改めて、夏目漱石の『こころ』の創作事情について紹介しよう。
『こころ』は大正3年4月28日から、同年8月31日までの、約4ヶ月に渡って「朝日新聞」に連載された作品である。
作品が連載される前、漱石は「朝日新聞」の紙面にこんな「予告文」を書いている。
心 漱石
「……今度は短編をいくつか書いてみたいと思ひます、其一つ一つには違った名をつけて行く積もりですが予告の必要上 全体の題が御入用かと存じます故それを「心」と致して置きます……」
もともと『こころ』という作品は「短編」として書かれたものだった。
しかも、そのタイトルは「こころ」ではなく「先生の遺書」というものだった
漱石はその「先生の遺書」を含むいくつかの短編を書きあげて、それら全体のタイトルを『心』にしようと考えていたというのだ。
なのに、結果的には、その他の短編も書かれなかったし、『心』という短編集も完成しなかった。
それはなぜか。
その最大の理由は、あの「志賀直哉」にあった。
事情はこうだ。
朝日新聞に「先生の遺書」を連載していた漱石。
作品もいよいよ終盤。
そんな時、漱石は新聞社からこんな依頼をされる。
「つぎに連載予定の志賀直哉さんね、ここにきて連載NGなんだそうです。申し訳ないですが、次の候補が見つかるまで、今連載中のヤツもう少し引っ張れませんか?」
小説の神様による“わがまま”に巻きこまれた漱石。
個人的にこんな依頼を漱石が飲んだこと自体、にわかに信じられないのだけど、漱石は「先生の遺書」を引き延ばすことを許諾したらしい。
結果的に漱石は「先生の遺書」を引き延ばし、百回まで書いて連載をやめた。
出鼻をくじかれた格好の漱石は、当初計画していた『心』という短編集の創作もやめる。
こうして、「先生の遺書」のみが作品として残ることとなった。
その後「先生の遺書」は、岩波書店から出版されることが決定する。
この時、漱石はほとんど加筆修正を行わなかった。
当然、「遺書の分量」における矛盾もそのまま。
ただ、作品の体裁には手が加えられ、全体が3部に分けられた。
- 上「先生と私」
- 中「両親と私」
- 下「先生と遺書」
の3部である。
ただ、当初の漱石の構想とは全く異なる展開になってしまった、この作品。
そこには新しいタイトルが必要となる。
そのタイトルが『こころ』だったというわけだ
さて、以上が『こころ』にまつわる「創作秘話」である。
ここまで聞くと、次の疑問がムクムクと湧いてこないだろうか。
「じゃあ、漱石はもともと、どんな展開を考えていたの?」
「『先生の遺書』の他に、どんな短編を書こうとしていたの?」
「書かれるはずだった『心』って、どんな短編集だったの?」
そう、そこ、まさに、そこなのだ。
それを想像して『こころ』という作品に秘められた可能性に思いを馳せることこそ、僕はこの作品を最大限に味わう営みだと考えている。
それに、あなたも『こころ』を読み終えたとき、こんな疑問を持ったのではないだろうか。
これから、この青年はどうなるの?
残された奥さんは、どうなるの?
そう、この作品には、回収しきれなかった数々の「謎」があるのだ。
そして、この作品には、もっと別の「展開」や「結末」があったと考えられるのだ。
では、僕たちに、その謎を解く手がかりはないのだろうか。
もちろんある。
その謎を解こうというのが、この記事の目的だ。
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作品の「冒頭」が暗示すること
作品の「謎」に迫るため、とっかかりになる箇所がある。
それが冒頭の記述である。
しかも、この記述は、
「この小説の主眼は“先生の遺書”だけじゃない」
ということを如実に物語っている。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持ちは同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。(先生と私 一)
この箇所から分かること、それは、
私が誰かに向けて「先生について」語り始めていること
である。
もう少し説明を加えれば、
私は「現在」の視点から、先生にまつわる「過去」を誰かに向けて書いている
ということになる。
『こころ』といえば、「下 先生と遺書」のインパクトが大きすぎて、そこだけにスポットが当たりがちなのだが、この作品が多層的に構築されていることを忘れてはいけない。
その時間軸を一応整理しておくと、次のようになっている。
現在 ……手記を書いている“今” 過去 ……私と先生の交流 大過去 ……先生とKの出来事
繰り返すが、この『こころ』に書かれた物語は、現在の私の視点から語られたものだ。( 先生の「遺書」を引用しているのも私 )
その前提に立って『こころ』をもう一度注意深く読んでみると、現在の「私」の状況をほのめかす記述が少なくないことが分かる。
そして、それらの記述を総合して見ると、ある1つの仮説が浮かび上がってくる。それが、
現在、私と奥さんは結ばれている
というものだ。
実際、この仮説を支持する評論家もいるし、僕自身もかなり信憑性のある説だと思っている。
そして、漱石は幻の短編集『心』において、このような展開を描こうと考えていたのではないかとも思っている。
それでは以下で、「青年と奥さん結ばれている説」(語呂わるい)の妥当性について検証していきたい。
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考察「私と奥さん」の関係に迫る
文学において、「語り手が誰であるか」や「語り手はどこから語っているか」というのは重要なファクターである。
誰が、どの位置から、何を語るのか。
その点に注意を払って読むことで、より深い作品理解が可能となるからだ。
今回「私と奥さんが結ばれている説」を検証する上で、手がかりとなるのは、主に「上 先生と私」における記述だ。
改めて強調をしておきたいのは、ここでの「奥さんに関する記述」というのは、「現在の私」が「過去を回想して」書いているものだという点だ。
つまり、「奥さんに関する記述」というのは、
- 「私の記憶に印象深く刻まれたもの」であり、
- 「私によって、あえて語られたもの」でもあり、
- 「語られるべき必然性を持つもの」でもある。
ここから先は、ぜひそのことを念頭に読んでいただきたい。
登場人物たちの「年齢」は?
そもそも、登場人物の年の差はどうなっているのだろうか。
「私と奥さんは結ばれています!」と言われたって、彼らの年の差が分からなければ具体的にイメージも出来ないだろう。
ということで、登場人物の年齢について、こんな説があるので紹介しておく。
先生が自殺した年齢……37歳 その時の奥さんの年齢……29歳 その時の私の年齢……26歳
これは、国文学者の石原千秋 著『こころで読み直す漱石文学』にある説だ。
まず、自殺した時の先生の年齢については、当時の学制、乃木の殉死、明治の終わりなど、作品に書かれた時代背景をもとに推定されている。
また、奥さんの年齢については「女学校を卒業した年」などをもとに、私の年齢については「大学を卒業した年」などをもとに断定できるらしい。
ということで、私と奥さんの年の差はわずか3歳。
当時の婚姻関係において、男性が年下という例は少数だっただろうが、それでも夫婦としては全く違和感のない年の差である。
現在の「私」は結婚している
次に、「私は結婚をしている」ことを暗示する箇所をいくつか引用したい。
そもそも、この手記を書いている「私」は、いったい何歳なのだろうか。
はっきりとは分からないが、作中に「私は若かった(先生と私 四)」とあるように、先生の死後かなりの月日が経っていることが推測される。
僕は少なくとも、5年から10年くらいは経過していると思っている。
その根拠について、「私」の記述を頼りに説明したい。
まず、こんな記述がある。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過してきた境遇からいって、私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事はなかった。(先生と私 八)
ここで彼は、
「当時の私は、まだ若くて、女性と付き合ったことがなかった」
と言っているワケだ。
これは裏を返せば、
「今の私は、それなりの年齢で、女性と付き合ったこともある」
ということになる。
先生が自殺してまもなく私は大学を卒業するが、その時の年齢は26歳。( ※当時の卒業時の平均年齢が26歳 )
私はそれ以降に女性と交際するらしいのだが、さらに驚きの事実を暗示する、こんな記述がある。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何ら同情も起こらなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。(先生と私 八)
これも先ほどと同様、
「当時の私に、子供はいなかった」
と言っているということは、裏を返せば、
「今の私に、子供がいる」
ということになる。
どうやら私は「女性と交際したことがある」どころか、すでに「子供がいる」らしいのだ。
当然すぐに、
「それは一体だれとの子供なのか」
という疑問が生まれるが、
「それは奥さんとの子供だ」
というのが、この記事における結論である。
ちなみに、この場面において確認しておきたいことはもう一つある。
それは「奥さんの視線」である。
先の箇所をもう一度引用したい。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何ら同情も起こらなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。(先生と私 八)
この時、場にいたのは先生、私、奥さんの3人だ。
先生は私と酒を飲み、珍しく上機嫌だった。
そんな彼を見て奥さんは、
「お酒を飲むと上機嫌になるし、寂しくなくていいわね」
なんて趣旨のことを先生に言う。
その上で、
「子供でもあると好いんですがね」
と続けるのだが、このときの奥さんの視線は、先生ではなく私に向けられている。
さらに、この場面はこう続く。
「一人貰って遣ろうか」と先生が言った。
「貰いっ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。(先生と私 八)
ここでも、奥さんの視線は私の方に向けられている。
さて、僕はここで、
「この時すでに、奥さんは私に気があったのだ」
などと言いたいわけではない。
むしろその逆で、そんな思いなど奥さんには微塵もなかったと思っている。
奥さんが私を見たことに、大した意味なんてなかったのだろう。
ただ、ここで強調しておきたいのは、この記述が「現在の私」によるものだということだ。
私の記憶にはこのときの「奥さんの視線」が残っていて、「現在の私」はあえてそれを手記に書き込んでいるのだ。
このことは、「子供」という文脈の中で自分に向けられた「奥さんの視線」に、「現在の私」が何かしらの「意味」を与えていることを意味している。
とすると、こんな仮説は成り立たないだろうか。
「私と奥さんにはすでに子供がいて、私は当時のこのやりとりを、印象深く思い出している」
ただし、これ以上は残念ながら推測の域をでない。
とはいえ、ここ以外にも、私は奥さんに関するこんな記述を繰り返している。
私は女というものに深い交際をした経験のない迂闊な青年であった(先生と私 十八)
奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。(先生と私 十八)
私は奥さんの女であるという事を忘れた。(先生と私 十八)
もっともその時の私には奥さんをそれほど批判的に見る気は起こらなかった。(先生と私 二十)
現在の私が、ここまで執拗に「当時の奥さんに対する印象」を振り返るのはなぜなのだろう。
「自分はまだまだ若かった」とか
「かつては女性を知らなかった」とか
「子供を持たなかった」とか
まるで「今は、女性を知っているし、子供もいる」とでも言いたげな記述を、あえて繰り返すのはなぜだろう。
「今現在、私と奥さんは結ばれている」
この仮説は、その疑問に対する1つの解答になると思うのだが、皆さんはどうだろう。
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過去の「私と奥さん」のやりとり
『こころ』における矛盾点として「先生の遺書の分量」について紹介した。
そのほかにも、評論家たちを悩ませる矛盾点があるらしい。それが、
「私が受け取った手紙の数」である。
私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない。(先生と私 二十二)
その一つは帰省中に受け取った先生からの手紙、そしてもう一つは「遺書」であるという。
ところが、作中において私はそれ以外にも「日光からの手紙」を受け取ってもいる。
先生は時々奥さんをつれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根からもらった絵葉書をまだ持っている。日光へ行ったときは紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便ももらった。(先生と私 九)
この日光からの手紙を含めると、先生からもらった手紙の通算は3枚ということになり、先の記述と明らかに矛盾をしてしまう。
これについて、国文学者の石原千秋氏は
「日光からの手紙は、奥さんからの手紙だったのではないか」
という説を支持している。
なるほど、そう思って、くだんの箇所を読んでみると「手紙は先生から送られてきた」と明確に書いているわけでもないし、奥さんから送られてきたと読むことも十分可能である。
いや、むしろ「現在の私は奥さんと結ばれいている」という前提に立ってみれば、ここの場面は「奥さんからからの手紙」と解釈したほうがよっぽど自然だし、なによりも「手紙の数」の矛盾も解消される。
実際、私と奥さんの仲が次第に深まっていく様子は「先生と私」にはしっかりと描かれている。
私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまた出来るだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。(先生と私 二十)
この問題というのは「冷淡な先生の態度」に関する問題だ。
『こころ』の読者は、この先生の態度の原因が過去の「Kへの裏切り」にあることはすでに知っているのだが、このときの奥さんと私は一切知らない。
「先生」という問題を介して、私と奥さんの信頼関係というのは確実に深まっていくのだ。
その結果、奥さんの「先生の呼び方」にも、次第に変化が生まれていくのは、国文学者の小森陽一氏も指摘しているところだ(『構造としての語り』より)
はじめは夫を「あの人」と読んでいた奥さんだが、次第に「先生」と呼ぶようになる。
しかもそれは「夫不在」の時のみならず、私の卒賀会では夫の目の前でも「先生」と三人称化している。
この呼び方の変化は、奥さんの私に対する親密度の変化と対応しているといっていいだろう。
このときの奥さんは、明らかに私と同じ地平から先生を見ているのだ。
こんな風に「上 先生と私」には、私と奥さんの精神的な距離が縮まっていく様子が描かれている。
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・
考察「私と奥さん」が結ばれる必然性
ここまで「私と奥さん」の関係について考えてきた。
- 私と奥さんの年齢差
- 私と奥さんの信頼関係
- 手記の“含み”ある記述
以上についての考察は、作品に書かれた内容を根拠にしている。
ここからの考察は、おもに「作品外の部分」を根拠にしている。
作品には書き込まれてはいないけれど、
「人間って、こういうとき、こうなるもんだよね」
という、ある種の「一般的な人間理解」から、私と奥さんの関係について考察してみたい。
「私と奥さんが結ばれる説」の根拠として、僕は次の3つをあげたい。
- 遺書を読んだ私の“苦悩と孤独”
- “共通の悲しみ”が生み出す連帯
- 私が持つであろう“使命感”
私の“苦悩と孤独”
まず、一つ目の「私の苦悩と孤独」について。
ご存じの通り、私は先生から遺書を受け取り、先生の人生と秘密を知った。
その遺書の最後には、こう記されていた。
私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられたわたしの秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。(先生と遺書 五十六)
遺書に書いてあったのは、
「Kの自殺にまつわる真実」と「先生の自殺にまつわる真実」である。
そしてそのどちらも、奥さんが深く関わってしまっている。
先生は、奥さんの記憶を「純白に保存して置いてやりたい」という希望のもと、私に口止めをしているわけだ。
だけど、考えてみてほしいのは、
「これほど重大な秘密を、果たして私は、たった一人で背負うことができるのか」
という点についてである。
おそらく、遺書を全て読み、東京についた私は、列車から降りるや急いで先生宅に向かっただろう。
そこには、夫の亡骸を前に泣き崩れる奥さんの姿があったかもしれない。
彼女には夫が自殺をした真相など、知るよしもない。
ただ「わたしが悪いのだ」と、自分自身を責め続けていただろう。
そんな奥さんを見た私の胸の内を想像してみてほしい。
託された秘密が重ければ重いほど、その苦悩はそれだけ大きくなる。
「2人の人間が命を絶った」その真実をたった一人で背負う苦悩と孤独に、20代の青年が果たして耐えられるのだろうか、
とてもじゃないけど無理なんじゃないか、と僕には思えてならない。
もし、その苦悩と孤独を少しでも和らげる術があるとすれば。
私に取ってそれは「奥さんとともに生きる」ことだったのではないだろうか。
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“悲しみ”という連帯
次に2つ目「共通の悲しみが生み出す連帯」について。
先生は遺書に、こう書いている。
私だけがいなくなった後の妻を想像してみると如何にも不憫でした。母の死んだとき、これから世の中で頼りにするものは私より他になくなったといった彼女の述懐を、私は腸にしみこむように記憶させられていたのです。(先生と遺書 五十五)
こうある通り、先生が死んでしまった今、奥さんは天涯孤独となってしまった。
そして奥さんには、愛する夫を失ったという計り知れない苦悩と孤独にさいなまれるという未来が待っている。
しかも、その自殺の原因は、自分にあるのではないかという疑念とともに、一生生きていかねばならないのだ。
私は、奥さんの置かれた状況がどんなに過酷なものか、誰よりも理解している唯一の人間だ。
しかも、「敬愛する先生を失った」という点においては、私だって同じ。
「先生を失った悲しみ」それを共有できるのは、互いにとって、この世でたった一人しかいない。
そうした「共通の悲しみ」は互いの「連帯」を生み出し、2人が「共に生きよう」という結論にたどりつくことは、決して不自然なことではない。
というより、むしろ、限りなく自然なことなのではないだろうか。
私の“使命感”
そして最後3つ目「私の使命感」について。
これはほとんど、2つ目に近い。
すべての真実を知り、奥さんの孤独と悲しみを誰よりも理解しているのは私だけだ。
そして私は、間違いなくそのことを自負している。
先生は遺書でこう書いている。
私は妻を残していきます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合わせです。(先生と遺書 五十六)
先生はこう言ってはいるものの、衣食住さえ整えば奥さんは報われるなんて、そんなバカな話はない。
先生は「物質面」での心配はするくせに、奥さんの「心」の問題には全くの無頓着なのか。
目の前で悲しみに暮れる奥さんの姿を見た私は、
「今、奥さんにとって一番必要なのは、その孤独と悲しみに寄り添ってくれる存在だ」
と、間違いなくそう思っただろう。
そして、彼はきっとこう決意するはずなのだ。
「俺はこの人とともに生きていく」
「俺はこの人のことを絶対守ってみせる」
さぁ、どうだろう。
確かに、これらのことが明確に『こころ』で描かれているワケではない。
どこまでも推測の域を出るものでもない。
だけど、自然な「人間理解」にたってみれば、私と奥さんが結ばれるのに、十分な必然性があると僕は思っている。
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・
結論「私と奥さんは結ばれている」
ここまで「私と奥さん結ばれている説」に関する考察をしてきた。
作品から読み取れる根拠についてまとめると、以下のようになる。
根拠① 私と奥さんの年齢差は3つほどである点 根拠② 私の手記に「結婚」を暗示する記述がある点 根拠③ 私と奥さんの信頼が厚かった点
そこに加えて、物語のその後を想像すると、次のように推測できる。
推測① 私は「真実」の重みに耐えられなかったのではないか。 推測② 私と奥さんは「同じ悲しみ」によって連帯を強めたのではないか。 推測③ 私は「奥さんを守ろう」という使命感を強めたのではないか。
以上、これらのことを総合して、
私と奥さんは、現在において婚姻関係を結んでいる(しかも子供もいる)
という仮説は、それなりに信憑性がある、と結論したい。
まとめ『こころ』最大の謎とは
さて、『こころ』という作品は、その創作事情によって、当初の構想とは異なる作品となってしまった。
もともと漱石は、いくつかの短編を書き上げ、それらをまとめて『心』という短編集を完成させようとしていたワケだが、ムリヤリ連載を引き延ばされたことで、不本意な形で筆を置く羽目になった。
先生の「遺書」の不自然な分量は、そのことを物語っている。
また、『こころ』を読み終えた読者の、
私のその後はどうなるの?
奥さんのその後はどうなるの?
という疑問も、とても真っ当な疑問だといえる。
おそらく、漱石は『心』という短編集で、その辺りのことをきちんと書こうと考えていたのだろう。
その中には、この記事でも紹介した、「私と奥さんの未来」に関する物語もあったはずだ。
この記事ではその辺りに目を向けて、「私と奥さんが結ばれている」説について考察をした。
が、この『こころ』という作品の最大の謎は、他にある。
ここで、もう一度、作品の冒頭を引用したい。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。(先生と私 一)
この箇所から、私が「先生にまつわる過去」を告白しようとしていることが分かるのだが、僕たちはすぐに次の疑問にぶち当たる。
私は一体誰に告白をしようとしているのだろう。
そうなのだ。
思い返してみれば、私は先生からこう念を押されていたではないか。
私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられたわたしの秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。(先生と遺書 五十六)
私は、この先生の言いつけをどのように考えているのだろう。
まてよ、ひょっとして、奥さんはすでに亡くなっているんじゃないか?
鋭い人は、そう考えるかもしれない。
だけど、奥さんは今も生きていて、まちがいなく私の傍にいる。
先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。
(中略)
奥さんは今でもそれを知らずにいる。(先生と私 十二)
奥さんは生きているし、依然として「先生とK」に関する真実を知らされていないことが、ここにはっきりと記されているのだ。
先生の言いつけを守るなら、私はまだ真実を打ち明けるべきではない。
あらためて繰り返す。
私は一体だれにこの秘密を告白しようとしてるのだろう。
そして、一体なんのために告白しようとしているのだろう。
それは依然として謎のままだ。
『こころ』という作品は、「下 先生と遺書」にのみスポットがあてられ、「先生とKの物語」として読まれることが多い作品だ。
だけど、この作品の「構成」、「語り手」、「創作事情」など、さまざまなファクターに目を向けたとき、はじめて「私(青年)の物語」や「静(奥さん)の物語」が立ち上がってくる。
『こころ』の可能性は、僕たちが考えている以上に広く、そして深い!
そのことを最後にめいっぱい強調して、この記事を締めくくりたい。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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