はじめに 「特殊」を意識する日本人
ドナルド・キーン(有名な日本文学者)のドキュメンタリー番組に、こんなシーンがあった。
キーン氏は、日本人から こんな質問を受けることがよくあったという。
日本人「外国の方ですね? 日本食ってクセあるでしょ? お刺身たべれますか?」
キーン「はい!」
日本人(む・・・・)「じゃあ、納豆は? 食べれないでしょう?」
キーン「大好きです!」
日本人(むむむ・・・・・・)「じゃ、じゃ、じゃあ、塩辛は? あれこそ生臭くって、食べれっこ・・・・・・」
キーン「大好きです! 大好物です!」
日本人(むむむむむ・・・・・・)
その後、キーン氏は、日本人についてこう説明していた。
「日本人は、自分たちの『特殊さ』を意識しすぎています」
たしかに! と、ぼくは思った。
だって、
「やっぱり、日本人って○○だよね」
という言説を、日本中いたる所で目にしたり、耳にしたりするからだ。
たとえば、本屋に足を運んでみれば、こんな本が山ほどある。
- 『日本人とは何か』
- 『日本人は○○だ』
- 『日本〇〇論』
ここから分かることは、「われわれ日本人ってのは こういう生き物だよね」っていう本が、日本人にウケているということだ。
この事情は、日本のテレビ番組においても同じだ。
次のような趣旨の番組を、誰もが一度は目にしたことがあると思う。
- 「日本にやってきた欧米人にスポットを当てる番組」(彼らは往々にして、大工などの伝統職に魅力を感じている)
- 「日本人の特徴を欧米人たちが議論しあう番組」(彼らは往々にして、日本人の曖昧さに困惑している)
- 「日本人が欧米人にマウントを取る番組」(彼らは往々にして、日本の寿司職人から カリフォルニアロールを批難される)
ぼくは特に、3つめの番組が好きで、良く見たりする(性格悪い)。
うん。
確かに、ドナルド・キーンが言うとおりなのだろう。
ぼくたちは「日本人は独特だ」と思っているふしがある。
もっといえば、「日本人は欧米人とは違うのだ」と思っているふしがある。
その根っこには、たぶん、屈折した「欧米人へのコンプレックス」があるような気がするのだが、まぁ、それは置いておこう。
いずれにしても、ぼくたち日本人は、やたら「日本人と欧米人」とを比較したがるのだ。
実際、上記の「日本人とは〇〇だ」や「日本〇〇論」を手に取って読んで見ると、「日本人と欧米人との比較」のコーナーが、ほぼ例外なくある。
今でこそ、当たり前となった「日本人と欧米人との比較」という試み。
じつは、戦後初めて、それを本格的に研究したのは、日本人ではない。
アメリカ人の女性だった。
彼女は外国人でありながら、「日本人とは何か」という問に立ち向かい、第一級の「日本人論」を後世に残した文化人類学者である。
そして、今回紹介するのがこれ
『菊と刀』(ルース・ベネティクト著)
いまの「日本人論」の源流となった、名著中の名著である。
作品と作者について
本書の執筆が開始されたのは、第二次大戦中。
日本人はアメリカがこれまで国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった。
これは、『菊と刀』の冒頭部分である。
日本人に関する描写は、さらに、こんな感じで続く。
彼らはときに忠実で、ときに不忠実である。
彼らはときに勇敢で、ときに臆病である。
彼らはときに従順で、ときに反抗的である。
それが、我々には不可解だった。
こんな風に、アメリカ人の目に映った日本人は、行動に一貫性のない、矛盾に満ちた存在だった。
そして、そんな日本人を研究することが、アメリカ人には、どうしても必要だったのだ。
それはなぜか。
アメリカ人の目的は大きく2つ。
- 戦争を、日本よりも有利に運ぶこと
- 戦後、日本をうまく統治すること
戦中・戦後と、日本人をうまくコントロールするために、どうしても「日本人研究」が必要だったわけだ。
そこで、白羽の矢がたったのが、ルース・ベネディクトだった。
彼女は文化人類学的な視点から、「日本人とは何か」という問いに立ち向かう。
が、時局的に、彼女の前には大きな大きな障害が立ちはだかる。
その障害とは、
日本への渡航ができないこと。
そりゃそうだ。
戦争中、日本に乗り込んでいくのは、誰がどう考えたって自殺行為だ。
よって、ベネディクトは、直接日本人を観察することなしに、「日本人とは何か」の問いに答えなければならなかった。
そうはいっても、文化人類学の生命線は「フィールドワーク」である。
現地の生活に身を置いて、それを内部から観察しなければ、生きた知識や論考を手に入れることはできない。
それなしに「日本人を明らかにしてくれ」とは、ベネディクトがいかに無理難題を要求されていたかがわかる。
では、ベネディクトは何を頼りに「日本人」について研究を進めたか。
それは以下の通り。
- 日本文学
- 日本の映画
- 日本の音楽
- 数名の在米日本人の話
- 限りある先行論文
これを頼りに、日本人の行動原理とか、日本人の社会規範とかを明らかにしなければならないわけだ。
当然、不十分な論考や、つめの甘い結論が見られてもおかしくない。
では、ベネディクトの論考は、日本人にどう評価されたのか。
それは、今も読み継がれていることを踏まえれば、言わずもがなである。
本書は「優れた日本人論」として日本人にも迎え入れられた。
や、もっといえば、現代の「日本人論」の基礎は、『菊と刀』が作り上げたといってもいい。
もちろん、本書の中に、「日本人への誤解」とか「すでに古くなった風習・文化」がないわけではない。
かなり厳しい制限下で行われた研究だったのだから、それも無理ないことだ。
ただ、それを差し引いたとしても、ここに書かれている「日本人論」は、今でも色あせることはない 「日本人の本質」をついたものだと思う。
それくらい、ベネディクトの洞察力や学問能力は、神がかっている。
では、彼女が看破した「日本人の本質」とは何か。
それを知る上で、彼女の、有名な言葉がある。
「日本は恥の文化である」
日本人の本質を理解するためには、この「恥」が重要なタームなのだ。
では、日本人にとって「恥」とは何なのか。
日本人の生活に「恥」はどう影響を与えているのか。
その点について、以下、くわしく見ていきたい。
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「恥」という言葉について
「恥ずかしい」と「恥」は、ちょっと違う。
日本人であれば、それを感覚的に理解できているのではないだろうか。
たとえば、あなたが大通りで派手にすっころんだとする。
そんなあなたの心の声は、次のうちどちらだろう。
「ああ、こんなところで転んでしまうなんて、恥だわ」
「ああ、こんなところで転んでしまうなんて、恥ずかしいわ」
おそらく、多くの人が、2番と答えると思う。
1番では、なんだか、この場にはふさわしくない仰々しさがある。
やはり「恥ずかしい」と「恥」は、どこか違う。
「恥」には、「恥ずかしい」にはない、重々しさがある感じがする。
では、その重々しさは、何に由来しているのだろう。
結論を言えば、
「恥」の重々しさは、「世間」とか「家」といった日本社会の特徴に由来している。
そんな「恥」という言葉、ぼくたちは どんな文脈で使用するだろう。
・・・・・・と、改めて考えてみると、案外 使う機会というのは、少ない気がしてくる。
強いて言えば、こんな感じだろうか。
「大変なことをしでかしてくれたな。お前は一家の恥さらしだ」
いや、なにこのセリフ! こんなん1度も言ったこと ありませんけど!
と、思った人は、やはり多いかもしれない。
とすると、現代の日本人は「恥」という言葉を使わなくなってきているのだろうか。
じゃあ、ぼくは上記のセリフをどこで聞いたのか、といえば、やっぱりちょっと古い(昭和系の)ドラマや映画かなんかのような気もする。
では、ベネディクトが指摘する、「恥」という概念は、今の世にあっては、全く古びたものなのだろうか。
確かに「恥」という言葉自体、使う人は少なくなったかもしれない。
だけど、「恥」という意識そのものは、ぼくたち日本人の生活に、ネットリとこびりついているといえる。(とくに、田舎のほうに行くと、ネットネトのネッバネバにこびりついている)
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身分不相応な人は「恥」だ
「封建制度」という身分制度
さて、この「恥」という意識。
江戸時代に完成した「封建制度」に由来していると、ベネディクトは考えている。
改めて「封建制度」とは何か。
それは、
「武士の息子は、武士!」
「農民の息子は、農民!」
という、固定的な身分制度のことをいう。
さらに、その固定的な身分制度は、「家族関係」にもあてはまる。
「父は、一家の大黒柱!」
「母は、子育てをする!」
「長男は、家を継ぎ、墓を守る!」
「娘は、よそに嫁ぎ、子どもを産む!」
要するに、封建制度というのは、
「その人の一生は、生まれながらに決定される」という身分制度なのだ。
その制度にあって、人々の大きな関心は、
その人の家柄、職業、性別、年齢、生まれた順番 ということになる。
「恥」と「身分」の関係
繰り返すが、ベネディクトは、この「身分制度」こそが、日本人の「恥」意識を生み出す根源だと考えている。
まず、かつての日本人にとって、次のような「身分不相応な人間」は批難の対象であった。
「武士なのに、臆病者」
「農民なのに、上昇志向が強い」
「父親なのに、収入がない」
「長男なのに、家を継がない」
「次男なのに、出しゃばりがち」
「女なのに、結婚しない」
「嫁なのに、子どもを産まない」
上記のような身内を持つ「家」は、世間から笑われることになる。
まさしく、彼らは「一家の恥」なのである。
だから、かつての日本人は、批難されないように、笑われないように、「恥」をかかないように、
「武士は武士らしく」
「農民は農民らしく」
「男は男らしく」
「女は女らしく」
と、「身分相応に」振る舞わなければならなかったというわけだ。
「恥」をかかないためには、自らの「身分」を意識し、それにふさわしい行動をとらなければならない。
これが「恥」と「身分」の関係である。
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現代人は「身分」を意識しているか
さて、こういった状況は、現代のぼくたちの目にどう映るだろう
「農家のせがれは、農家をやれ!」とか。
「女は働かずに、子育てをしろ!」とか。
とりあえず、なんかしらの「ハラスメント」にバッチリ該当する発言ではある。
そりゃそうだ。
今は江戸時代と違う。
男だとか、女だとか、生まれながらに その人の一生が決まるなんて、今の時代 バカげている。
ご存知のとおり、日本の「封建制度」は明治時代に廃止された。
明治になって近代化した日本は、欧米の「個人の自由」という概念を獲得した。
それにより、家とか身分とか性別とかの呪縛から( 理屈の上では )解き放たれたといっていい。
「あなたが『誰か』なんて、あなたが決めればいいんだよ」
「あなたは、あなたらしくいれば、それでいいんだよ」
そういう価値観が、明治時代から、日本に根づいていった。
だからこそ、現代にいたるまでに「封建社会」というのも、少しずつ解体されてきたってわけだ。
だから、きょうび、
「男は仕事! 女は家庭!」
なんて言っている人は、ほとんどいないし、
「オレがお前を養ってやる。その代わりにお前は毎日、オレの味噌汁を作ってくれ」
なんてプロボーズも、今の日本ではまず聞かない(昭和にはあったらしい)。
仮に、そんなプロポーズをしようものなら、
「あら、あなた、封建的ね」(←)
と、彼女からフラれてしまうのが関の山である。
ほら。
「男は仕事、女は子育て」といった価値観はすでに古くさいものになっている。
じゃあ、「恥」って感覚、令和のぼくたちには、無縁なの?
そう思った人も多いと思う。
結論をいえば、残念ながら、そんなことは全くない。
明治から100年以上たった今だって、ぼくたちは、身分とか、生まれとか、性別とか、年齢とかに縛られてしまっている。
たとえば、「女性の社会的地位」1つとってみても、それが良く分かる。
正規雇用の割合は、男性より女性の方が低いし、育児休暇をとるのもいつだって女性のほうだし、管理職や政治家だって女性の方が圧倒的に少ない。
「女性とはこうあるべき」とか、
逆に、
「男性とはこうあるべき」とか、
こういう価値観は、今もなお、日本人のうちに根深く残っている。
そして、こういう価値観をもっている人たちというのは、ときにこんな風に女性や男性を批難する。
「女は、きちんと子供を育てあげて一人前よ。夫に頼るなんて『恥ずかしい』わ」
「男は、ヨメをとって家庭をもって一人前だ。独身の男なんて『恥ずかしい』ぞ」
や、それって、オジサン、オバサン世代の言葉でしょ?
若い人たちはそんなこと言わないよ?
そう思った「若い人」のあなた。
では、あなたの周りにこういう人たちはいないだろうか。
「会計って、男が多くはらうべきだよね」
「荷物って、男が持つべきだよね」
ちなみに、ぼくが出会った女性のなかに「道を歩く際は、男が車道側を歩くべき」という価値観の持ち主がいた。
「死ぬのは、わたしたち女じゃない、おまえたち男のほうだ」
ということなのだろうか・・・・・・
こういう人たちの意識には、
「男が女を養うべき」とか、
「男が女を守るべき」とか、
そういう「封建的」な価値観がこびりついているのだと、ぼくは断言する。
だから、いまだに日本では 老若男女問わず、「性別」を意識している人ってのは、一定数存在している。
これは、性別だけに限った話しではない。
職業、つまり「身分」についても同じだ。
わかりやすい例をあげれば、
- 医者
- 弁護士
- 教師
- 僧侶
この人たちは、その職業人らしく振る舞うことを、常に求められている。
彼らは、いついかなるときも、医者らしく、弁護士らしく、教師らしく、僧侶らしく、立派に振る舞わなければならない。
もし、「らしく」振る舞うことができなければ、
「医者のくせには恥ずかしい」
「弁護士のくせに情けない」
「教師のくせにだらしない」
「僧侶のくせにみっともない」
と、人々から批難されることになる。
それが理由に、彼らが犯罪を起こそうものならば、メディアが放っておかないではないか。
さらに、「年齢」とか「生まれた順番」だって同様だ。
「年長者らしくふるまえ」
「先輩らしくふるまえ」
「長男らしくふるまえ」
と、こうくる。
では、彼らのいう「ふるまい」とは何だろうか。
それは性別や身分に則した「常識的行動」だったり、「正しい言葉づかい」だったり、そして、それらはざっくりと「礼儀」と言い換えられるものである。
そして、「○○らしく振る舞えない」とき、「〇〇としての常識を欠いた」とき、「〇〇としての礼儀を失した」とき、周囲はその人を笑いものにする。
しかも、極めつきに、彼らは口をそろえてこういうだろう。
「世間に笑われるよ!」
「世間は認めないよ!」
「世間から後ろ指をさされるよ!」
そうなのだ。
ベネディクトも指摘しているとおり、「恥」とは、世間から笑われることなのである。
そして、世間は「身分不相応な人」を見つけたとき、後ろ指を指して、
「ほら、あそこの家の、あの人、プププ・・・・・」
と、ヒソヒソ話で、コソコソと笑うのである。
そして、それこそが、日本人にとって「最も恐れるところ」であり、日本人は「恥を避けること」を第一に考えて行動を選び取るのだ、
ベネディクトは、そう指摘している。
本書は戦中、そして戦後に執筆された、それなりに古い書ではある。
だけど、ベネディクトの「恥」に関する考察は、現代のぼくたちにも十分当てはまると言って良いだろう。
いまも、80年前も、日本社会も、日本人も、本質的には何ら変わっていないというわけだ。
ここまでの【まとめ】
ということで、ここまでのベネディクトの主張をまとめるとこうなる。
江戸時代、日本に「封建制度」という身分制度が完成した。 その名残は、明治以降、現代にいたるまで様々な所でみられる。 「身分」や「性別」や「家柄」や「生まれた順番」など、人々は、それらを意識して、それにふさわしい行動をとらなければならない。 それができない「身分不相応な者」は「恥」であると、世間から非難されてしまう。 それこそが、日本人のもっとも恐れるところであり、「恥」を避けることが日本人の大きな行動原理になっている。
・
・
恩を忘れる人は「恥」だ
「恩は負債」というパワーワード
あなたには「恩人」と呼べる人はいるだろうか。
また、その「恩人」はあなたにとって、どんな立場にある人だろうか。
親、先生、先輩、友人、後輩、子ども・・・・・・
人によっては様々だろう。
では、さらに質問したい。
率直に聞こう。
あなたは、その恩人に対して、どう思っているだろうか。
「何寝ぼけたことを聞いてんだ! 恩人なんだから、感謝してんに決まってんだろ!」
と、言うのは、少し待ってほしい。
なぜなら、ベネディクトは「恩」について、こう説明しているからだ。
「恩は負債であって、返済しなければならない」
繰り返す。
「恩は負債」である
なんというパワーワードだろう。
「恩人」とは、あなたに「心理的な負担」を与え続ける存在だといっているのだ。
実際、ベネディクトは「恩」を「借金」のアナロジーで説明している。
その露骨な例え話に嫌悪感を催す日本人もいるかもしれない。
だけど、「恩」という感情をよーーーく観察してみると、やはり、そこには、後ろめたさとか、申し訳なさとか、居心地の悪さとか、なにかしらの心理的なビハインドが存在することが分かるだろう。
やはり、「恩」は「負債」なのかもしれない。
それは、「恩」を受けたとき、ぼくたちが必ずと言っていいほどよく言う、
「すみません」
ということばに、よく表れていると、ベネディクトはいう。
「すみません」と「かたじけない」
ベネディクトはこう説明している。
「すみません」とは、感謝の言葉ではなく、謝罪の言葉だ。ここに表れている日本人の意識は、「わたしは、あなたから恩を受けましたが、現時点であなたの恩に報いることはできません」という後ろめたいものだ。だからこそ、少しでも気持ちが楽になればと、感謝ではなく、謝罪の言葉を使っているのだ。
なるほど。
たしかに、ぼくたちは「恩」を受けたとき、「ありがとう」ではなく「すみません」と言いがちだ。
ちなみに、ぼくは、職場で「恩」を受けたとき、
「あー、すみません! ありがとうございます!」
もしくは、
「あー、ありがとうございます! すみません!」
と、両方を同時に使うことが多い。
本来、
「ありがとう」でいいところを、「すみません」と言わなければ、どことなく、居心地が悪いからだ。
それから、ベネディクトは、「かたじけない」という言葉も例にあげている。
これは、いまや死語になってしまったが、当時の日本人の意識を理解する上では有効だ。
この言葉にも、「恩」=「負債」という意識が表れていると彼女は指摘する。
「かたじけない」を漢字で書くと、「辱い」となる。これは、「侮辱」という意味をもつ漢字だ。「かたじけない」には「私は侮辱された」という意味がある。つまり、「恩」を受けるということは、「侮辱された」ということなのである。
や、それ、ちょっと言い過ぎ、
と思うのだけれど、
「恩を受けること」が、「負の感情」につながるとマイルドに言い直せば、彼女の指摘はあながち間違ってはいないように思われる。
やはり、日本人にとっては「恩」は、少なからず「負債」といった側面もあるのだろう。
返済しなければ 筋を通せない。
日本人にとって、それが「恩」というものなのだ。
そして、ベネディクトは、この「恩」もまた、日本人の「恥」意識を生み出す大きな原因だと考えいてる。
では、ベネディクトは「恩」と「恥」の関係について、どう考えているのか。
それは「見出し」の通りなのだが、きちんと結論を言おう。
「恩」を返済しようとしないもの = 「恥」
これが、ベネディクトの考えである。
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「恩」は2種類に分けられる
さて、「恩」と「恥」について、ベネディクトの考えをもう少し詳しく見ていきたい。
ベネディクトは「恩人」は2種類に分けられると考えている。それは、
「目上の恩人」と「目下の恩人」
である。
改めて、あなたに恩人がいれば、思い浮かべてみてほしい。
親、先生、先輩
という人がほとんどなのではないかと思う。
逆に、
後輩、子ども
という人は、多分、ほとんどいない。
それはなぜか。
ベネディクトは、そこに筋の通った説明を与えている。
その説明を端的に説明すれば、
- 「目上の恩人」は、ずっと「恩人」であり続けるから。
- 「目下の恩人」は、一時だけの「恩人」だから。
なぜ、そう言えるのか。
それは、
- 目上の人からの「恩」は、完済することが不可能だから。
- 目下の人からの「恩」は、完済することが可能だからだ。
つまり、「目上の恩人」に対しては、ずーーつと、「恩」を返し続けなければならない。
それは、返しても返しても、返しきることはできない。
「恩人」は、いつになっても「恩人」であり続けるというわけだ。
逆に、「目下の人からの恩」は、返済しきることができる。
「目下の恩人」に対しては、さくっと「恩」を返せれば、それでおしまい。
だから、「目下の人」が「恩人」であり続ける、ということは基本的にない。
ちなみに、ベネディクトは「恩の返済」について、次のように分けて 定義している。
- 目上の人の恩を返済すること = 「義務」を果たすこと
- 目下の人の恩を返済すること = 「義理」を果たすこと
それを踏まえて、以下「目下の人からの恩」と「目上の人からの恩」について、それぞれ分けて説明したい。
目下の人からの「恩」について
「目下の人」というのは、後輩とか、子どもとか、ざっくり「年下の人」と考えればいい。
さて、いまほど
目下の人の恩を返済すること = 「義理」を果たすこと
と、紹介した。
ベネディクトは「義理」について、さらにこう説明を加えている。
【 義理 】 1、不本意なもの 2、限りあるもの
1について詳しく説明すれば、日本人は基本的に「目下の人から恩を受けること」を不本意なことだと思っている。
もっといえば、「目下の人から恩を受けること」は、好ましくないことであり、その「恩」はさっさと返済してしまいたいと思っている。
なぜなら、「恩」を返済しないことは「恥」であり、世間から「恩知らず」と非難されてしまうからだ。
2について詳しく説明すれば、「目下の人からの恩」というのは、それと同等のものを返せば、それで相殺できるという。
これはぼくたちの実感と、とてもよく合っている。
義理チョコとか、旅行先のお土産とかがこれにあたるだろう。
それから、結婚祝いのお返しとか、出産祝いのお返しとか、香典返しとか、これらは大体もらったものに対して相場が決まっているので、これも仲間だと考えていい。
もっとも、義理チョコとかお土産とか結婚祝いとかは「目下の人」に限らず、「同輩」からも「先輩」からももらうものだ。
だから、この辺りはベネディクトの主張に反してる。
「恩」とは、「目下」と「目上」と、きっちり二元化できるものではない。
とはいえ、「恩を相殺する」という発想は、ぼくたちの実感によく当てはまる。
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・
目上の人からの「恩」について
「目上の人」というのは、単純に「年上の人」と、片付けることが難しい。
親、先生、先輩なんかを考えれば、単純な「年上の人」以上の重みがあるように思うからだ。
この辺は「目下の人」とは、事情がちがう。
ちなみに、ベネティクトは、「目上の人」の典型例として「親」をあげている。
だから、ここでは、ぼくたちも
「目上の人」=「親」
と考えてみればOKだ。
さきほど、
目上の人の恩を返済すること = 「義務」を果たすこと
と、紹介した。
ベネディクトは「義務」について、さらにこう説明を加えている。
【 義務 】 1、不本意とはいえないもの 2、無限に続くもの
要するに、目下に対する「義理」と、ちょうど真逆のものだと思えばいい。
1について説明をすれば、「親」からの「恩」というのは、決して不本意なものではない。
そもそも、「親からの恩」とは具体的に何だろうか。
それは、
「この世に産み落としてくれたこと」
「ここまで育ててくれたこと」
この2つだ。
これは、その人の存在そのものに関わる、とてつもなく大きい「恩」だし、この「恩」がなければ、そもそもその人は存在していない。
つまり、「不本意」とか言ってる場合じゃない、そういう運命的な「恩」なのである。
だから、「義理」のように、「不本意だからはやく返済してしまおう」というものとは、根本的に異なるものなのだ、とベネディクトはいう。
2についていえば、1と大きく関わっているといえるだろう。
「この世に産んでもらったこと」も「育ててもらったこと」も、はかりしれない「恩」であり、その「恩」はとうてい返済しきることなどできない、というワケだ。
なるほど、たしかに、そうかもしれない。
ただ、現代の日本では、そうとは言い切れない現状がある。
「生まれたくなかった」と思う人たちや、「親の愛をしらない」という人たちがいるからだ。
彼らの中には、「産んだ親を憎む人」や、「愛情をくれなかった親を恨む人」もいるだろう。
だから、「親」=「恩人」といえるほど、現代の日本はシンプルではないのだろう。
それでも、「親」=「恩人」という価値観は、まだまだ残っていると、ぼくは思っている。
「生んでくれたことに、感謝をしなくてはいけない」とか、
「育ててくれた親を、大切にしなくてはいけない」とか、
それは、多くの人が疑うことのない考えだからだ。
だからこそ、ぼくたちは「親孝行」をしなくちゃいけないし、「親孝行」は、日本人にとっては立派な美徳なのだ。
だけど、その「美徳」と「自分の思い」と、そのギャップに悩む人もいる。
たとえば、どんなに親子関係が悪くて、どんなに親を憎んでいて、頭では「あんな親とは絶交してしまいたい」と思っても、思い切ることができない。
後ろめたさや、割り切れなさから、やはり親を見捨てることができない。
そういう感じは、ひょっとして、
「親に恩返しをするという美徳」とか
「返済しきれない親の恩」とか、
そうというところからくる感情なのかもしれない。
だから、同じ家族であっても、「親」と「兄弟」とは、根本的に違う。
ベネディクトの説を借りれば、
- 兄弟の恩は、完済が可能。
- 親の恩は、完済が不可能。
兄弟との関係は、解消できるが、親との関係は、解消できない。
そんなにシンプルではないのだろうけど、やはり、「生みの親」とか「育ての親」というのは、まちがいなく特別な存在であって、「親子」というのも簡単に割り切ることのできない関係であるといえる。
ここまでの【まとめ】
ということで、ここまでのベネディクトの主張をまとめるとこうなる。
「恩」には「負債」としての側面が少なからずある。 受けた「恩」はしっかりと返済しなければならない。 ところが、「目下の恩人」と「目上の恩人」とでは、事情が違う。 「目下からの恩」は完済が可能だ。 「目上からの恩」は完済が不可能だ。 とくに、「親の恩」に関しては、生涯をかけてそれに報いなければならない。 「恩」を返そうとしないことや、「恩」を忘れるということは、「恥」である。 そういう「薄情者」「親不孝者」は、「恥」であると世間から非難される。 それこそが、日本人のもっとも恐れるところであり、「恥」を避けることが日本人の大きな行動原理になっている。
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結論 「恥の文化」と「罪の文化」
以上のように、日本人にとって「恥」が、大きな行動原理になっていることを見てきた。
「恥」をかかないように、身分相応な振る舞いを心がけるし、
「恥」をかかないように、受けた「恩」をきちんと返す。
ベネディクトは、そういう日本人のあり方を看破して、
「日本は恥の文化である」
と結論した。
それと比較して、欧米人の文化はこう説明されている。
「欧米は罪の文化である」
この「恥の文化」と「罪の文化」2つの違いについて、ベネディクトはこう説明を加えている。
真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。
要するに、日本人が行動をつつしむのは「世間から笑われたくないから」であり、
それに対して、欧米人が行動をつつしむのは、「心の内に罪悪感があるから」だというのだ。
それから、ベネディクトはこうも言っている。
この(日本人の)煩悶は、時に非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように懺悔や贖罪によって軽減することができない。罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。
つまり、これは欧米人の「キリスト教」について言っている。
キリスト教には「コンヒサン」(罪責告白)という救いの形がある。
「神様、どうか聞いてください。わたしは、人のお金をこっそりと盗んでしまった罪深い人間です。そんな私の罪を、どうかお許しください」
といった風に、自らの罪を告白し、その「罪悪感」を和らげるというものだ。
ところが、ベネディクトは、この「コンヒサン」は、「恥」の文化では成り立たないという。
なぜなら、「恥」の文化では、自分の恥ずかしい行動を告白するということは愚の骨頂だからだ。
告白というのは、世間に自分の「恥」を発表するも同じで、むしろ自分の苦しみを増長させることにつながるのだという。
恥の文化には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。
どうだろう。
この辺りの彼女の論理を、身もフタもなく要約すれば、ぼくたち日本人の行動基準はこういうことになる。
バレなきゃOK。でもバレると悪いから行動をつつしもう。
そして、一方の欧米人たちは、こういうことになる。
バレるバレないは関係ない。自分の良心が許さないから行動をつつしむのだ。
こう並べてみると
「はあ?」
という反発心がムクムクと湧いてくる。
ちょっと、自分らのことだけ格好よく言いすぎじゃねえの、と ぼくなんか鼻白んでしまうのだが、あなたはどうだろう。
ぼくら日本人にだって、「良心の呵責」というものはある。
ここで、惜しげもなく言うがぼくだってそれなりに「親不孝」な人間だ。
だからこそ、言いたい。
「親不行」の代償としての「わりきれなさ」とか「後ろめたさ」
ぼくの場合、それは「世間」がどうのこうのという類いの感情ではない。
だから、「恥」という言葉は、ぼくの実感とは大きくかけ離れている。
むしろ、父と母に対する「罪悪感」という言葉のほうがピッタリだといってもいい。
それから、ぼくが進んで人を傷つけようとしないのだって、
「人に批難されたくないから」ではなく、
「人を傷つける必要を感じないから」とか、
「人を傷つけるのが気持ち悪いから」である。
言い換えれば、それはきっと「ぼくの内にある道徳心」つまり「良心の呵責」ということになるのだろう。
だいたい、アメリカ人だって、「誰も見ていなければ」赤信号を渡るじゃないか!
有事になったとたん、暴動をおこしたり、略奪をしたりするのは、どこの誰だ!
そんなふうに、なかば感情的に反発したくもなる。
だから、日本は「恥」、アメリカは「罪」と、キレイに二元化することは絶対にできないと、ぼくは思う。
とはいえ、だ。
とはいえ、ベネディクトの言うとおり、日本人は アメリカ人以上に、「世間」とか「家」とか「身分」というものを意識しすぎている。
ぼくの知り合いのアメリカ人(20年日本在住)は、ぼくにこう言ったことがある。
「きみたち日本人は自分たちの職業を意識しすぎているよ。日本人は、職業によって、その人を評価しようとするでしょ? 『医者だから立派』『弁護士だから偉い』とか。アメリカ人は職業によって、人を評価したりしないよ。『この人は、なにができるのか』『この人に、どんな能力があるのか』 それによって人を評価する。だから『自分は医者だから、医者らしく振る舞おう』とか、アメリカ人は考えないんだよ」
この発言は、ベネディクトの指摘と、まったくもって同じ論理である。
日本人だって「罪悪感」とか「良心の呵責」によって、行動を選択する部分はあるにしても、やはり『恥』という意識は、欧米人のそれよりも、あきらかに強い。
だからこそ、ベネティクとの指摘する「恥」の概念は、やはり、現代においても 日本人の本質をついていると、ぼくは思うのだ。
ベネディクトの誤解とか、つめの甘さとか、アメリカ人であることの自己愛とか、本書にはそういうものが所々に垣間見える。
そして、そういう点において、ベネディクトの論考を批判する人もまた多い。
だけど、まだまだ、日本でなくならない身分や性別にまつわる差別に目を向ければ、日本人の不合理はいったいどこに根ざしているのだろうと、きっと誰しもが思うはずだ。
本書『菊と刀』は、その疑問に、間違いなく 大きな示唆を与えてくれるはず。
アメリカ人による本格的な「日本人論」……
日本人であれば、ぜったいに読むべきである(あら、そういうあなたの発言が、封建的なのよ)
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