はじめに「作品の概要」
『ジャクソン一人』(安堂ホセ)は、2022年の文藝賞受賞作で、2023年上半期「芥川賞」候補作にもなった。
主人公が「ブラックミックス」(アフリカ人と日本人のミックス)で「ゲイ」ということで、本書のテーマとして「黒人差別」や「LGBTQ」あたりが挙げられるだろう
では、こうしたテーマが、どのような切り口で物語にされているのだろうか。
この記事では、本作『ジャクソンひとり』についてまとめていく。
まず「あらすじ」と「登場人物」を簡単にまとめ、その後に「作品の内容」について解説と考察をしていきたい。
ちなみに、記事では盛大なネタバレを含むので、作品を未読の方はくれぐれも気を付けてください。
それでは、お時間のある方は、ぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
主人公「ジャクソン」は、とあるスポーツジムで整体師をする男性だ。 彼には、こんな噂がある。 「アフリカのどこかと日本のハーフで、昔モデルをやって、ゲイらしい」 ある日、ジャクソンのTシャツから偶然QRコードが読み取られ、そこには“ブラックミックス”の男が裸で はりつけにされた姿が映し出された。 誰もが一目で男を「ジャクソンだ」と判断し、本人が否定しても信じてくれない。 仕方なく独自の調査を始めたジャクソンは、「動画の男は自分だ」と主張する3人の男に出会う。 そして、彼らとともに動画を拡散させている“犯人”捜しを行い、「入れ替わり作戦」という思いもよらない方法で“復讐劇”を展開していく。
登場人物
ジャクソン …スポーツジムで整体師をする男性。ブラックミックスでゲイ。ある日、QRコードがプリントされたロンティーが送られてくる。
ジェリン …ハイブランド店でドアボーイのバイトをする男性。ブラックミックスでゲイ。ジャクソン同様、ある日、QRコードがプリントされたロンティーが送られてくる。
イブキ …有料ファンサイトで、自らのポルノ動画を配信している男性。ブラックミックスでゲイ。ジェリンから件の動画について相談を受ける。
エックス …イブキの友人の男性。ブラックミックスでゲイ。件の動画ではりつけにされているのは、実は彼。
エイジ …ジャクソンの職場の上司。日本人。件の動画の行為に及んだ犯人。
マーフィー …この話の黒幕。件の動画のQRコードをジャクソンたちに送り付けた張本人。日本人だが黒人の格好をしている。
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解説①作品の「明るさ」や「面白み」
『ジャクソンひとり』のテーマについて解説をする前に、少しだけ日本の純文学と黒人の関係について述べておきたい。
日本の純文学において「黒人」が描かれ始めたのは、戦後から1980年代にかけてのこと。
『飼育』(大江健三郎)や、『限りなく透明なブルー』(限りなく透明に近いブルー)なんかが、その代表格といっていい。
さらに、1985年の文藝賞を受賞した『ベッドタイムアイズ』(山田詠美)も、「黒人」を描いた作品であり、言ってしまえば「文学と黒人」という関係は、現代においてそこまで珍しいものではない。
上記の作品を含め、これまでの「黒人」を扱った文学では、主に次のようなモチーフとセットで描かれることが多かった。
- 暴力
- 酒
- ドラッグ
- セックス
本書『ジャクソンひとり』も例外ではなく、上記のうち「暴力」や「ドラッグ」、「セックス」あたりはお約束通りに描かれている。
ただ、僕は、本書を読み終えてみて、これまでの作品とは少し性格が異なると感じている。
それは『ジャクソンひとり』には、これまでの作品のような「凄惨さ」や「陰鬱さ」が、それほど多くは描かれていない点だ。
それは、作者の安堂ホセが意識した点であることが、彼へのインタビューからうかがい知ることができる。
人種とセクシュアリティに関する差別や抑圧の構造のどちらにも共通するつらさや、楽しいこともある感じを、4人のざっくばらんなお喋りに書いてみたかった。差別はある。でも本人達は結構楽しく、ヘラヘラ生きてもいいんだよって。
『週刊ポスト』2022年12月16日号 より
たしかに、本書では、黒人に対する「差別」や「ステレオタイプ」が描かれているし、主人公たちの「葛藤」や「繊細な感情」も描かれている。
ただ一方で、4人の“あけすけ”と乾いた会話のやり取りが印象的に描かれ、どこか明るい感じを読者に与えている。
そして、なんといっても、本作に“明るさ”や“面白み”をもたらしている最大のモチーフは「入れ替え作戦」という、突拍子もない“復讐計画”だろう。
♪君の〇・〇・〇世から僕は~♪ の主題歌で有名な“あの映画”を散々ディスった挙句、
「俺たちも、入れ替わっちゃう~?」(単行本P63より)
というジャクソンの提案によって始まる「入れ替わり作戦」
この作戦が、作品中盤におけるコアとなっていて、読者に「え、そんなことができちゃうの?」といったワクワクを与えてくれる。
ただ僕は最初、この入れ替え作戦について、
「いやいやいや、さすがに入れ替えなんて無理でしょう!」
とニヤニヤしながら内心でツッコミをいれていた。
だけど、すぐにそうした感じを否定せざるをえなくなった。
作品を読み進めていくうちに、僕自身の内に潜む差別性が、徐々にえぐり出されていったからだ。
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解説②周囲の人々の「ステレオタイプ」
ジャクソンが思いついた「入れ替え作戦」というのは「4人が互いに服装を交換する」という、シンプルかつ大胆な作戦だ。
これは、周囲の人々が持っている「差別性」や「ステレオタイプ」を逆手にとった作戦なのだが、この作戦が4人の思惑通り、まんまと成功してしまう。
結局、周囲の人々は、彼らの微妙の違いに全く気が付かないのだ。
本書が一貫して批判しているものは、人々が持っている「マイノリティに対するステレオタイプ」だと言っていい。
ジャクソンたちは、常にこうした「ステレオタイプ」によって、個性や唯一性を奪われ続けている。
それが最初に描かれるのが、件の動画を見た同僚に「これ、きみじゃないの?」と疑われるシーンである。
「俺じゃない」と否定をしても、同僚は信じようとしない。
「ていうかさ、どうしてこれが俺だと思うの?」
「いや、似ているからでしょ」その言葉に笑いが起こる。
「どこが?」
「見た目が」
「見た目が、って具体的にどの部分がどう似てるの?」
黒い、肌、顔が、髪、お前しか、人種、こんな人間、こういうタイプ……(単行本P17より)
こうした「見た目」によって一緒くたにされる経験は、ジャクソンだけじゃなく、ジェリンもイブキもエックスも、皆が経験している。
だからこそ、「入れ替え作戦」というジャクソンの計画に、皆が賛成をするわけなのだ。
彼らは手始めに「ホテルのフロント」や「タクシー」で入れ替え作戦を試みると、案の定、周囲の人間は見事に欺かれていく。
ここはカナリ愉快で痛快なシーンなワケだが、だけど僕たちは呑気に笑っている場合ではない。
「じゃあ、お前は、彼らの違いに気付けるのか?」
そう問われたら、多くの人が自信を持てないと思うからだ。
少なくとも、僕は自問自答したとき、
「自分も気が付かない側の人間だろうな」
と思わずにいられなかった。
同じ日本人であれば、見た目の微妙な違いにはすぐに気が付く僕だが、おそらく「外国人」、もっといえば「黒人」となると、微妙な違いにはスグに気が付かないような気がする。
もちろん、「多様性を認める大切さ」は、僕なりに理解をしているし、自分自身の「差別性」とか「ステレオタイプ」といったものには、常に意識的でありたいと思っている。
だけど、ここにおいて、ジャクソンたちは、僕が持つこうした「自己欺瞞」を見事にえぐり出して、
「ほら、君だって、ステレオタイプ持ってるじゃん?」
と、僕の目の前に突き付けてきたのだ。
「入れ替え作戦」と聞いたとき、最初のうちは、
「いやいやいや、さすがに入れ替えなんて無理でしょう!」
と感じていた僕は、ジャクソンたちから、
「いや、実際、君も僕らの違いに気が付かないと思うよ」
と、ビシッと言われたような気がした、そんなシーンだった。
作中で、ジャクソンたちは、警察官から「職質」を度々受けている。
警察官の意識には「黒人=危ない」とか「黒人=怖い」といった価値観がぬぐい難く存在していて、それが「職質」という傲慢な在り方に表れている。
この「職質」のシーンで不快感を感じた読者も多いはずだ。
僕もまたそうした一人だった。
だけど、僕は本書「ジャクソンひとり」を読みながら、僕自身の内にある「ステレオタイプ」、もっといったら「差別性」と向き合わざるを得なかった。
「この警察官は、決して他人事じゃないぞ」
ジャクソンは、僕たち読者にそう訴えかけているのかもしれない。
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解説③ジャクソンたちの「差別意識」
『ジャクソンひとり』は、独特の「明るさ」や「面白み」を持ちつつも、読者の内に眠る「差別性」や「ステレオタイプ」をえぐり出す、そんな作品であることを見てきた。
人々の持つ差別性やステレオタイプは、意識的、あるいは無意識的にジャクソンらに向けられることになるわけだが、この問題が深刻なのは「ジャクソンらが、人々の差別意識を内面化してしまう」ところにあるといっていい。
つまり、人々が持つ「偏見」や「枠組み」に、ジャクソンたち自身が無意識のうちに合わせていくことこそ、差別問題を根深くしているのだ。
そうした様子は、作品の随所に描かれているが、それはたとえばジャクソンが「しかたないジャクソン」を演じたり、「けしからんジャクソン」を演じたりするシーンで印象的に描かれている。(単行本P22~24より)
そして、ジャクソンは自らをある種の「枠組み」に合わせていくことに自覚的なのだ。
忘れていた他人の目線がよみがえり始めていた。1人でいるときほど、彼らの態度をまねてしまうことがあった。(単行本P129より)
さらに、自分たちのファッションが、人々が作り上げた「黒人という枠組み」に収まっており、そのことに気が付いたジャクソンが自己嫌悪を催すシーンなんかも描かれる
自分だってそうだった。スポーツブランドのパーカー、エックスだって、真っ黒な古着、ラルフローレン。あのイブキだってそうだ。あれだけ稼いでも、そうなのだ。みんなだいたい同じような方向を向いて、競うように真似をする。あるいはもうどこにもいない誰かを大真面目にお手本にして、踊ってるふりをしている。最悪の気分だった。(単行本P134より)
これは「黒人差別」に限った話ではない。
あらゆる差別問題が本当の意味で深刻なのは、差別を受ける者が「周囲が持つ差別意識」を内面化し、自らを欺いていくからだと僕は考えている。
そうした問題は、まさに本書にも描かれていて、ジャクソンら「ブラックミックス」は、そうした差別の構造にも気が付いている。
ただ、繰り返しになるが、本書『ジャクソンひとり』には、独特の「明るさ」や「面白み」があって、ジャクソンたちが卑屈になったり、自分を卑下したりすることは基本的にない。
ときにマリファナによって自分たちの境遇を誤魔化したり、現実から逃避したいりすることはあるけれど、それでも彼らは単なる「被害者」にとどまることをしない。
だからこその「復讐劇」は可能なのであり、痛快な(といったら怒られるけれど)ラストのシーンへと繋がっていくのである。
解説④ジャクソンたちの「同胞意識」
『ジャクソンひとり』を読んでいて、ジャクソンたち「ブラックミックス」が1つに融合していくような感覚を抱いたのは、おそらく僕だけじゃないはず。
それは、「3人称」といった文体を用いつつ、主体を目まぐるしく変化させていく書き方も大きく影響していると考えられるワケだが、さらに登場人物たちに目を向けてみると気づくことがある。
物語において、ブラックミックスたちが互いに共感したり共鳴したりする場面が頻繁に描かれているのだ。
そもそも、件の動画を見たジャクソンが「これは俺だ」と錯覚するところからしてそうなのだが、それ以外にもイブキがジェリンに愛着を抱いたり(P34)、ジャクソンがイブキの手を「麻酔をかけられた自分の手」のように感じたりと(P39)、ブラックミックスたちが互いに「同胞意識」のようなものを持っていることが読み取れる。
もっとも印象的なのは、ジェリンに扮装したジャクソンが、警察官から理不尽な“職質”を受けるシーンだ。
この時のジェリンの言葉には「差別」を受けるものの切実な思いが表れている。
「俺の在留カードがなかったから、意地悪されたんだよね、ごめんね。ジャクソンのアンラッキーっていうより、俺の話だよね。俺がそうなってたかもしれないって話だよね。ひとごとみたいに寝ててごめん」(単行本P107より)
はじめのうちは、「ジェリンのせいで割を食った」と不平を抱いていたジャクソンだったが、彼はジェリンへの言いようもない憐憫を感じ、ジェリンにキスをする。
そして、ジェリンに共鳴し、ジェリンの中に自分を感じるのだ。
今度こそ本当に、麻酔をかけられた自分の手に振れているみたいだった。(単行本P108より)
こんな風に、物語に登場するブラックミックスたちは互いに共鳴しながら1つになり、そしてラストの復讐劇へと突き進んでいく。
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解説⑤ジャクソンたちの「暴力性」
『ジャクソンひとり』という作品は、「ブラックミックスたちによる復讐劇」を描いた作品だ。
それは、
「奪われる者たち」から「奪うもの」へ
「差別される者たち」から「差別するもの」へ
そんな性格を持つ復讐劇である。
そしてその復讐は、超シンプルに「暴力」という手段で成し遂げられる。
ここから分かることは、『ジャクソンひとり』という作品は、良くも悪くも、ジャクソンたち「ブラックミックス」を、決して「哀れな被害者」として描いていないということだ。
むしろ、ジャクソンたちを「被害性を持つ加害者」として、もっといえば「被害性を持った反逆者」として描いていくのだ。
それを暗示する場面がある。
それは、エックスが参加した「嘘とパイ投げ」のラストシーンである。
「エックス(実際はイブキが入れ替わっている) VS クリス」
の文字通りの“ディスリ合い”が展開された後、イブキはクリスにこう問う。
「暴言と嘘つき、どっちが憎い?」
クリスは質問に答えず、胸やけをなだめるような深呼吸をした。
「時間切れなんで、こっちで決めちゃいまーす」
イブキが顔ごとパイに飛び込んで食らいつく。(単行本P127より)
この時、イブキが出した答えを簡潔にいえば「暴言(暴力)の肯定」だといえる。
ここで『ジャクソンひとり』のラストについて言えば、真の黒幕である「マーフィー」の殺害である。
マーフィーはブラックミックスの少年たちを支配し、ブラックミックスたちを監視し、ジャクソンたちに「QRコード付きのTシャツ」を送り付け陥れようとした張本人である。
物語のラストでマーフィーは少年たちによって殺害されるのだが、このシーンはジャクソンら「ブラックミクス」たちの立場が暗示されているように思える。
ジャクソンたちは単なる「被害者」にとどまろうとはしない。
奪おうとする者たちには決然と立ち向かい、「奪う側」に回ることだって辞さない。
このラストシーンは、おそらく“賛否”が分かれるシーンなのかもしれない。
だけど僕は『ジャクソンひとり』が持つ“明るさ”や“面白み”、もっといえば“痛快さ”は、まさにここに起因していると思っている。
マーフィーが殺害された直後、ブラックミックスの少年たちのやり取りには、どこか飄々とあっけらかんとした雰囲気がある。
ねえどうなってんの。わかんない。誰がやってんの? 怖い。でも言いザマだよ。今なら何っても大丈夫だよ。誰にも何も見えてないから。そっか。ねえ、死んじゃったのかな。血がかかった。汚ねえ。え、さっき首に引っかかってたよね。あの糸みたいなやつ。首が裂けてるってこと? 最悪なんだけど。(単行本P148より)
この場面だけ切り取ると、およそ人が死んだと思えないような“呑気さ”と“軽さ”がある。
なんなら少年たちは、この状況を楽しんでいるようでさえある。
作者の安堂ホセは言っていた。
「差別や抑圧の構造両方に共通するつらさや楽しいこともある感じを書いてみたかった」
このシーンは、まさしく、そんな作者の思いにかなったラストだと言えるのではないだろうか。
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おわりに「ジャクソンひとり」の意味
以上、『ジャクソンひとり』の内容について解説と考察を行ってきた。
この作品は「差別」や「抑圧」をテーマにしながら、極めて明るく、そしてライトに描いた「復讐物語」であった。
では、そんな物語のタイトル「ジャクソンひとり」には、どんな意味が込められているのだろう。
それはやっぱり、
「人間誰しもが、何人にも奪うことのできない“尊厳性”を持っている」
ということになるのだろう。
「ステレオタイプ」とは、人間誰しもが持つ“尊厳性”を一方的に奪う言説であるし、そうした言説に根差す具体的な態度や言動を「差別」という。
そして、この世界に「ステレオタイプ」や「差別」は偏在している。
作中に「ジャクソンひとり」の意味について考えさせる、次のシーンがある。
- ジャクソンは頭の処理が追いつかない。二人目のジャクソンが現れたと思ったら、さらに二人追加で、ジャクソン四人。もう一人誘ってグループ組む?って冗談でも言おうと思ったけど、雰囲気からすると追加メンバーなのはむしろジャクソンらしかったし、黙っていた。(単行本P41より)
これが、往年の人気アイドル「ジャクソン5」を念頭に置いたシーンなのは一目瞭然なのだが、同時にここから「ジャクソン5」への批判精神が読み取れると思う。
「ジャクソン5」は見方によっては、個人の“個性”とか“唯一性”を奪い、個人を平板化・画一化して枠組みに押し込めた“フィクション”だということができるだろう。
「ジャクソンひとり」というタイトルからは、こうした人々が作り上げる“フィクション”に抵抗しようとする意志のようなものが感じられる。
それは同時に、
「現代において“個人”として生きることの難しさ」
も訴えているのだと言っていいだろう。
これは「ブラックミックス」だけに限った話ではないはずだ。
この世界で生きる全ての人間が、大なり小なりの「差別」とか「ステレオタイプ」にさらされて生きている。
「私が私であること」そんな当たり前のことが、世界の無関心、あるいは悪意によって奪われていくのが“現代”という時代だといっていいだろう。
だけど、僕たちの内には、誰からも侵されてはいけない“尊さ”がある。
誰しもが「既存の枠組み」や「誰かの解釈」、そうしたものに回収されない“尊厳性”を持っている。
僕たちは、誰とも交換できない、唯一無二の個性を持つ、そうした尊い「ひとり」なのだ。
「ジャクソンひとり」には、そうしたメッセージが込められているのだと、僕は考えている。
……と、ここまでいろいろと書いてきた。
もちろん、これは僕の読後の正直な実感だし、嘘偽りのない感想である。
だけど、作者の安堂ホセは、そんな切実なメッセージを、たぶんこのタイトルに込めてはいない。
いやいやいや、じゃあこれまでの話は、いったい何だったんだ!?
そんな読者の怒りの声が聞こえてきそうなので、ここで最後に、1人盛り上がっていた僕が読後に見つけてしまった安藤ホセのこんな言葉を紹介して、この記事を(逃げるように)おしまいにしたい。
遊びに見えるようにしたかったんです。だから設定も日本だけど片仮名の名前がたくさん出てきて、話のスピードもすごい速くて、コミカルな感じで読んでもらえたら。言い方は悪いんですが、舐めた態度で読んでもらえるようにしたかったんです。
『文藝2022年冬季号 』より
……マジかよ。感動を返せ、安堂ホセ。
どうやら僕はちょっと深刻に読みすぎていたので、次からあなたの作品を「舐めた態度」で読もうと思うよ、と、舐めた一言を述べたところで記事をおしまいにします。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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