はじめに「太宰中期の作品」
『葉桜と魔笛』は、『走れメロス』と同時期に書かれた、太宰治中期の作品だ。
太宰文学といえば、誰もが『人間失格』みたいな破滅的な物語を想像すると思うのだが、本作『葉桜と魔笛』はそういう作品ではない。
どちらかといえば爽やかで、温かい雰囲気を持つ、とてもバランスの取れた作品となっている。
この記事では、そんな『葉桜と魔笛』に関する解説と考察を行っていく。
「作品を読んだけど、いまいちピンとこないんだよね」
「結局、口笛を吹いたのって誰なの?」
そんな引っ掛かりや疑問に答えられる内容となっているので、ぜひ最後まで読んでほしい。
また、記事の終わりに、近代文学や純文学を読むのにオススメのサービスを紹介しているので、そちらもぜひ参考にどうぞ。
それでは、最後までお付き合いください。
あらすじ
登場人物
老夫人(私)
……物語の語り手。現在55歳。35年前(20歳の時)に妹を亡くす。妹を不憫に思うあまり、M・Tにふんして妹に虚偽の手紙を送る。そして、妹とともに不思議な口笛を聞く。24歳で遅い結婚をしている。
妹
……私の妹。18歳の頃、結核で早世している。死が近づき「青春の大切さ」に気が付き、男性と恋愛をしてこなかった後悔から、「M・T」という男との文通を自作自演する。死の3日前に、姉(私)とともに不思議な口笛を聞く。
父
……私と妹の父。妻を早くになくし、私と妹と3人で暮らしている。中学校の校長を務めている。頑固一徹な性格で、娘たちの恋愛にも厳しい。娘(妹)が死に、その約20年後に自らも他界している。
M・T
……妹の自作自演の文通相手。その手紙は30通ほどに及ぶ。手紙の内容によれば、M・Tは妹と恋仲にあり、すでに肉体関係を結んでいる。だが、妹の病気を知るとともに、「もうお互い忘れてしまいましょう」と妹を捨てた。M・Tの手紙を読んだ私は、妹を不憫に思い、M・Tを名乗った虚偽の手紙を妹に送った。
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時系列を整理
『葉桜と魔笛』は やや時間軸が入り組んだ作品なので、「あらすじ」や「登場人物」を読んでも、いまいち内容が入ってこない! なんて人も多いと思う。
ということで、ここでは物語の出来事を時系列にして並べてみたい。
【過去の出来事】
・妹の結核が判明する
↓
・妹が自作自演でM・Tとの文通を始める
↓(約2年後)
・私がM・Tからの手紙を見つける
・M・T の無慈悲を知った私は手紙を焼き捨てる
↓(4、5日後)
・私がM・Tを名乗り、妹に虚偽の手紙を書き送る。
↓(翌日)
・妹の元にM・T(実は私)からの手紙が届く
↓
・妹が私に手紙を見せる。 ・私が手紙を音読する。 ・不思議な口笛が聞こえてくる。
↓(3日後)
・妹が死ぬ
・私は「すべては神のおぼしめしだ」と思う。
↓
【老夫人の現在】
・あの口笛は父の仕業ではなかったかと疑っている。
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テーマ①女性と恋愛
『葉桜と魔笛』を貫くテーマの1つに、「女性の生きづらさ」というものがあげられる。
まず、この物語の時代設定はいつごろかといえば、日露戦争の記述があることから1905年(明治38年)であると断定できる。
では、この頃の女性とは、どういった点で生きづらかったのだろう。
その1つが「自由に恋愛1つもできなかった」という点である。
というのも、明治時代から戦前にかけて、日本の家族は「家父長制度」というものを採用してきたからだ。
家父長制度というのは、要するに「家族にはそれぞれの役割がある」という厳格なルールのようなものだと考えてもらえればOKである。
たとえば「父は一家を経済的に支えなければならない」とか、「嫁は家事と育児に専念しなければならない」とか、「長男は家を継がなければならない」とか、「次男は家から出て行かなければならない」とか。
こんなふうに、家族一人一人には確固とした役割があって、それはいわば「世間の掟」のようなもので、父親は世間から後ろ指をさされないよう、家族に役割をまっとうさせる必要があったのだ。
そして、自らの役割を全うできない人間は「一家の恥さらし」となり、父親から勘当されることとなる。
では、そんな「家父長制度」において、若い娘に課された役割は何か。
それは「父の指示に従って結婚をすること」と「結婚初夜まで純潔を守ること」だった。
前者は要するに「見合い結婚」のことであり、後者は「貞操観念」のことである。
娘は父親の指示であれば、相手がどんな性格の男でも、どんな見た目の男でも、結婚を受け入れ、その家に入り、家事や育児に専念しなければならなかった。
そして、その結婚初夜に至る前に、決して他の男性と恋愛をしてはならなかったし、まして体の関係を持つことは許されなかった。
なお、僕たちにとって、もはや常識ともなった「恋愛結婚」というのは、もともと西洋から輸入した文化であり、日本において「恋愛結婚の数」が「見合い結婚の数」を上回ったのは、昭和40年過ぎのことと言われている。
さて、前置きが長くなったが、『葉桜と魔笛』登場する二人の娘が「自由に恋愛できなかった」のには、2つの要因がある。
【姉妹が恋愛をできなかった要因】
1、家父長制度という時代的な要因
2、厳格な父という個人的な要因
もっとも1と2は深い相関関係にあり、両者を別々に切り離して考えることはできない。
だけど、それでもやはり強調したいのは「厳格な父親による支配」があったことである。
そのことは、M・Tからの手紙を読んだ私の反応を見れば一目瞭然だ。
二人がすでに肉体関係にあると分かったとき「電撃に打たれた」ようになったのも、その後すぐに「手紙を焼き払った」のも、娘の「不純」が父や世間にばれることを恐れたからだ。
もしも、バレてしまえば妹は父に厳しく叱責されるだろうし、世間からは「汚れ者」として後ろ指を指されてしまう。
そんなことを思った私は父親に手紙が見つからないよう、そして妹が「きれいな少女のままで死んでゆける」ようにと、M・Tからの手紙を一通残らず焼き払ったのである。
この姉妹が置かれてきた抑圧状況が分からなければ、死の間際の妹の言葉の切実さは理解できない。
姉さん、ばかにしないでね。青春というのは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかってきたの。
こう言った後で、妹は、若い肉体を持ちながらも、男性を知らずに死んでゆく自らの運命を悟り、
ああ死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、かわいそう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。
といった悲痛な声を上げる。
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テーマ②私と共感性
作品を読んで印象的なのは、私の妹に対する「同情心」である。
妹が結核になり、医者から「100日ももたない」と告げられると、私はもう妹のことで頭がいっぱいになってしまう。
(妹がまもなく死んでしまうと思うと)胸がいっぱいになり、総身を縫い針で突き刺されるように苦しく、私は、気が狂うようになってしまいます。 ※( )内は引用者の補筆
これ位ならまだ私の心情も理解できるが、この後の「大砲の音」の下りにいたっては、さすがにやや病的で、度を超していると思えてくる。
私には、その恐ろしい物音が、何であるか、わからず、本当にもう自分が狂ってしまったのではないか、と思い、そのまま、体が凝血してたちすくみ、突然わあっ!と大声が出て、立っておられずぺたんと草原に座って、思い切って泣いてしまいました。
このあと私は、妹のことを思って泣き続けるのだが、なんとそのまま日が暮れてしまったという。
この場面の記述を見てみると、「新緑がまぶしい」時間から「夕暮れ」の時間までということが分かり、さらに葉桜の頃ということを加味すると、少なくとも3~4時間以上は泣き続けていたということになる。
とにかく私は、共感力と感受性が病的なまでに高い人物として描かれている。
もちろん、ここに、作者太宰治の人物像が投影されているとみてよいだろう。
太宰もまた共感力と感受性が病的なまでに高い人物だった。
( 参考記事 天才「太宰治」のまとめと解説―人生、人物、代表作について― )
それは、代表作『人間失格』などを読めば分かるのだが、彼はとにかく「人の感情」がグングン自分の中に入ってきてしまう類いの人間で、「人から嫌われてしまった!」と感じるや、簡単に自殺をしてしまう。(自殺行為は未遂を含めると通算で5回)
また、世間の評判というのも、太宰にとっては怖くて怖くてたまらない物であり、「自分の作品に対する批判が届いているのではないか」と考えると、自宅の郵便ポストの前で泣き出してしまうこともあったという。
だけど、そういう「弱い心」を持つがゆえの「優しさ」というものもある。
『葉桜と魔笛』を読むと、そんなことをつくづくと思わされる。
私がとにかく妹を不憫に思い、そしてM・Tを名乗った虚偽の手紙を書いたのも、すべては私の感受性の強さと、共感能力の高さに由来している。
さらに、そうした私の「弱さ」がなければ、物語のラストの奇跡は決して起こりえなかったといえる。
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テーマ③隠し事と奇跡
この作品の最後の奇跡、それは「葉桜の庭の奥から軍艦マーチの口笛」が聞こえてきたことである。
魔笛とは「不思議な口笛」くらいの意味であり、要するに、この物語の不可解な結末を指している。
そして、この魔笛があったからこそ、私は妹の死を受け入れることができたのだ。
物語を読めば分かるのだが、この魔笛という「奇跡」は登場人物たちの「隠し事」が複雑に交錯して生まれている。
それぞれの隠し事をまとめるとこうなる。
【それぞれの隠し事】
妹・・・M・Tとの自作自演の文通をしていた。
私・・・M・Tを名乗り、虚偽の手紙を妹に送った。
父・・・姉妹に隠れてこっそりと口笛を吹いた。
そもそも、妹がM・Tとの文通をねつ造しなければ、姉は虚偽の手紙なんて書いていない。
そして、姉が虚偽の手紙で「口笛を吹きます」だなんて書かなければ、(仮に犯人が父だとして)父はこっそりと口笛なんて吹いていない。
姉は妹を思い隠し事をし、父は姉妹を思って隠し事をした。
そう考えれば、この魔笛という奇跡には、家族一人一人の小さな隠し事が背景にあるということが分かる。
さて、ここで1つ問題提起をしてみたい。
そもそも、なぜ妹は自作自演などをしたのだろう。
もちろん、彼女の言い分を信じれば「死ぬ前に擬似的に恋愛をしてみたかった」ということになるのだが、果たして本当にそうなのだろうか。
というのも、妹の手紙が自作自演なのだがら、手紙を読んだ私が「妹の筆跡」だと分かったとしてもおかしくない。
あるいは、「妹の筆跡」と「M・Tの筆跡」が同じことに違和感を覚えたとしても不思議ではない。
おそらく、妹は巧妙に筆跡まで変えて、手紙を書き分けていたのだと推測できる。
では、一体、何のために妹はそこまでしたのだろうか。
それは、この文通が「本物」であることを、家族に思い込ませるためだろう。
妹が恋愛をできなかった背景に、厳格な父親の存在があったことは先に見たとおりだ。
妹は父親の厳しさや、世間の価値観によって、青春を台無しにされた犠牲者であるといえるだろう。
そんな自覚を妹自身も持っていたとすれば、この一連の自作自演の手紙は「父親への最後の抵抗」と解釈することができる。
つまり、妹が「露骨な恋文」をしたため、自らを「醜く」仕立て上げたのは、その一連の恋文を自分の死後に父に発見させるためだったのではないだろうか。
「妹の自作自演は、せめてもの父への抵抗である」
この説は文芸評論家の佐々木啓一の説であり、『太宰治 演技と空間』という書に詳しくのっている。
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テーマ④口笛とその犯人
では最後のテーマとして「口笛を吹いたのは結局だれなのか?」という問題について考えてみたい。
結論を言えば「それは誰にも分からない」ということになる。
というのも、この物語が「老夫人」による一人称の語りである以上、ここで書かれているのはあくまでも老夫人の「主観」でしかないからだ。
つまり、老夫人が嘘をつくこともあれば、勘違いすることも、記憶違いすることもあるわけだ。(一人称小説を解釈するとき、こうした疑いを持つのは文学の基本である)
とはいえ、そんなことを言い出したらにっちもさっちもいかないので、ここでは「口笛を吹いた可能性がある者」として、次の3つを上げたい。
【 口笛を吹いた可能性がある者 】
1、父親
2、神様
3、M・T
では、それぞれ詳しく説明しよう。
父親説
まず1の「父親」についてだが、これは現在の私(老夫人)が語っている通りである。
私が妹に促されるまま手紙を音読したとき、それを父がどこかで聞いていて、
「娘たちのために、一世一代のサービスだ!」
とばかりに、こっそり口笛を吹いてやったという解釈だ。
これについては、かなり現実的な解釈で、どうやら太宰自身も「口笛を父が吹いた」と考えていたようなのだ。
というのも、太宰は後に『葉桜と魔的』に手を加えており、初出時にはなかった次の一節を書き足している。
私は手紙をろくろく見ずに、声立てて読みました。
では、この一文を加えた太宰の意図は何かといえば、「父が手紙の内容を立ち聞きする可能性を担保すること」である。
つまり、この手紙には「口笛を吹く」というM・Tの約束が書かれているのであり、それを私が「黙読」したのでは、父が口笛を吹く可能性が失せてしまうというわけだ。
太宰はあえて私に音読させているのであり、こうした経緯を踏まえれば、「口笛を吹いたのは父親説」というのは、最も現実的なものに思われる。
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神様説
次に2の「神様」についてだが、これが最も救いのある説である。
というのも、「妹の早世」という悲しい出来事に、宗教的な意味や必然性を与えられるからだ。
世間や父親に抑圧され、自分自身を生きることもできず、後悔と悲しみの中で死んでいかねばならなかった妹……
「神様はそのすべてを知っていて、妹の運命はすべて“神さまのおぼしめし”であり、したがって、妹の悲しみには確かな意味があります」
そう考えることができれば、読者も、なによりも老夫人(私)も救われる。
これが逆に、
「口笛は父親のものです。神様とか関係ありません。妹の死にも特別な意味はありません」
こうなってしまうと、やはり老夫人にとって救いのない結末となってしまう。
実際、物語のラストの場面で、老夫人は「現実(父親説)」と「信仰(神様説)」のはざまをフラフラしていることが描かれている。
あの口笛も、ひょっとしたら、父の仕業ではなかったろうかと、なんだかそんな疑いを持つこともございます。
いや、やっぱり神様のお恵みでございましょう。私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年をとってくると、物欲が起こり、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。
妹の死の直後、私は確かに「神の存在」を信じることができた。
それが、加齢とともに信仰心が揺らいでしまい、今では「妹の死」の意味を問い直さざるをえなくなっているというワケだ。
ということで「口笛を吹いたのは神様説」が、最も救いのある解釈であるといえる。
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・
M・T説
最後に3の「M・T」についてだが、これはM・Tが実在していると考える説である。
こう聞くと、一瞬あたまの中が「?」になると思うのだが、これはとてもシンプルで「妹の自作自演」が嘘だったという説である。
妹は、本当にM・Tと文通をしていたのだ。
だけど、ある時、その文通の事実が、姉である私にバレてしまった。
「自分の“不純”が姉さんにバレてしまった。なんとかそれを誤魔化さなきゃ……」
そうした思いから、妹は次のような嘘をついたというワケだ。
姉さん、あのリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり寂しいから、おととしの秋から、一人であんな手紙書いて、あたしにあてて投函していたの。
さて、それではM・Tがどのように「口笛の約束」を知ったのだろう。
改めて確認すると、「口笛の約束」は、私が虚偽の手紙に書いた内容である。
ということは、私が手紙を音読していたとき、M・Tはそばでそれを聞いていたということになる。
おそらく、M・Tは、妹を捨てたことに対して罪悪感を持っていたのだろう。
そして、頻繁に妹の様子を見に来ていたのかもしれない。
そんなとき、偶然、私の虚偽の手紙の内容を聞いてしまった。
それでとっさに、その場で口笛を吹いたというわけだ。
と、こう聞くと気がつくと思うのだが、これは「口笛を吹いたのは父親説」と、状況がとてもよく似ている。
そして、ここで改めて思い出してほしいのが、太宰が「私に手紙を音読させていること」だ。
つまり、太宰の加筆を考慮すると、現実的な説は、
- 口笛を吹いたのは父親説
- 口笛を吹いたのはM・T説
のどちらかということになる。
ただ、僕はやはり「父親説」が一番現実的だと考えている。
なぜなら、妹の様子をみていると、嘘をついているとは思えないからだ。
仮に口笛を吹いたのがM・Tだったとして、そうすると妹が嘘をついているということになるのだが、それにしては妹の後悔、悲哀、苦悩を語る場面の説得力がありすぎる。
一人で、自分あての手紙なんか書いているなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、本当に男の方と、大胆に遊べばよかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。
これは、間違いなく深い後悔に沈む、若い娘の心からの叫びだと僕は思うのだが、あなたはどう思うだろう。
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まとめ
以上をまとめると、「誰か口笛を吹いたか」問題の解答としては、次の3つが想定される。
【 口笛を吹いたのは誰か 】
1、父親説・・・父親の一世一代のサービス
2、神様説・・・妹の死には意味がある
3、M・T説・・・妹がM・Tの存在を隠そうとした
このうち、「太宰の加筆」という事情を踏まえると、可能性が高いのは、
「父親説」と「M・T説」の2つということになり、妹が嘘をついている可能性が低いことを考えれば、やはり「父親説」がもっとも妥当だと思う。
でも、結論は「結局誰にも分からない」ということなので、この3つのうち、きちんと根拠があり、きちんと筋が通れば、それがあなたにとっての正解と言うことになるだろう。
以上、『葉桜と魔笛』についての解説と考察を終わります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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