考察・解説『走れメロス』―太宰に騙されるな!本当に伝えたいことと真の主題―

文学
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始めに「太宰に騙されるな」

中学時代、国語の授業で『走れメロス』をやった人は多いと思う。

それは、たぶん、道徳的な教材として扱いやすいからなのだろう。

じっさい、ぼくも、当時の国語の先生からこう言われた。

「友情って素晴らしいんだよ」

「信じるって美しいんだよ」

この記事を書くに当たって、ためしに「 走れメロス  解説 」と検索をかけて解説記事を眺めてみた。

すると、まぁ、多いこと多いこと。

「太宰治が伝えたかったことは、友情の美しさである」

「走れメロスの主題は、信じることの尊さである」

え、それ、マジで言ってんの?

と、ぼくはとても信じられない気持ちになった。

ちょっとでも太宰文学を読んで、彼の「人間観」を知っている人であれば、ぼくと同じような思いになるのではないだろうか。

だって、あの「人間不信が服着て歩いています」みたいな、猜疑心の王様「太宰治」だよ?(なれなれしくてすみません)

幼い頃から道化を演じて、友人を家族をも恐れ、他人の評価にビクビクし、人から見捨てられることが不安でたまらなく、酒と薬と女に溺れて、最後は愛人と入水自殺した・・・・・・

それが、『走れメロス』の作者、太宰治なのである。

そのことを踏まえれば、

「太宰は、互いに信じ合うことの美しさと、人間愛を見事に描いたのである」

なんて、果たして言えるだろうか。

少なくとも、ぼくは言えない。

そして、きちんと作品を読んでみれば、

「信じる尊さ」

「友情の美しさ」

「人間愛」

太宰治はこれっぽっちも書いていないことが分かる。

むしろ、太宰が書いたのは、その逆なのである。

「信じる尊さ」

「友情の美しさ」

「人間愛」

それらに対して、

「フンっ、なーにが人間愛だ」と、太宰はニヒルに、シニカルに、ちょっと控えめに、嘲笑をして皮肉っているのである。

だから、読者のみなさん、太宰に騙されてはいけない

『走れメロス』においても太宰は、ちゃんと太宰なのである。

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本作『走れメロス』のあらすじ

まずは、上記の相関関係をもとに、『走れメロス』のあらすじを確認してほしい。

走れメロス』のあらすじ 】

純朴な青年メロスはシラクスの村に訪れた際、暴君ディオニスの悪政により、村全体が落ち込んでいることを知り激怒する。

王の殺害を決めたメロスは、そのまま城に侵入しようと試みるが、すぐさま衛兵に捕縛され、処刑を言い渡される。

メロスは親友のセリヌンティウスを人質として残すかわりに、妹の結婚式に出席するための猶予を求める。

その求めを受け入れられたメロスは、急いで妹の結婚式に出席。

その後、城で自分を待っているセリヌンティウスの元へと走る。

しかし、川の氾濫、橋の流失、山賊の襲撃など、度重なる困難にみまわれる。

それらの困難を乗り越えたメロスだったが、疲労困憊して倒れ込み、王のもとに戻ることをあきらめかける。

しかし、近くに湧き出てきた清水を飲むことで、メロスの体力は回復。

忘れかけていた義務遂行の意志を取り戻し、再び走り出す。

刻限のぎりぎりに城にたどり着いたメロスは、セリヌンティウスに「一度だけ裏切ろうとしたこと」を告白し謝罪する。

一方のセリヌンティウスもメロスに「一度だけメロスを疑ったこと」を告白し謝罪する。

そして熱く抱擁し、涙を流しあう2人。

そんな真の友情に感動した王ディオニスは「わしも仲間に加えてはくれまいか」と自らの改心を告げ、国民たちは「万歳。王様万歳」と歓喜した。

原作『人質』のあらすじ

太宰が「本当に伝えたかったこと」を知る上で、原作との比較が重要だ。

そもそも『走れメロス』には原作があることを、あなたは知っているだろうか。

原作はドイツの詩人「シラー」『人質』という作品だ。

以下、簡単にあらすじを紹介しよう。

【 原作『人質』のあらすじ 】

メロスは短剣を懐に、暴君ディオニスのもとに忍び寄るが、警吏に捕縛されてしまう。

処刑されるに決まったメロスは、友人を人質にするのを条件に、3日間の猶予をもらって、妹の結婚式のために帰郷する。

無事 結婚式に参加したメロスは、急いで友人のもとへと急ぐのだが、その途中で川の氾濫や盗賊の妨害のため疲労困憊となり、ついには倒れてしまう。

しかし、なんとか元気を取り戻したメロスは、再び走り出し、なんとか刻限に間に合い友人を救出する。

抱き合う2人の姿に感動した王は「信実とは決して空虚な妄想ではなかった」と理解し、メロスに「仲間に入れて欲しい」と乞う。

こんな感じの作品で、大まかなストーリーラインも『走れメロス』となんら変わらない。

『人質』と比較する意義

ただ大きく違っているのはその分量だ。

『人質』が、原稿用紙5枚くらいの短い譚詩であるのに対して、『走れメロス』は30枚弱の短編小説である。

つまり、太宰は『人質』に、原稿用紙20枚以上の内容を書き加えているのだ。

そして、その書き加えられた箇所を考察することで、太宰が「本当に伝えたかったこと」が見えてくる。

手始めに、太宰が書き加えた一番象徴的な場面について紹介しよう。

それは、『走れメロス』のラストシーン。

「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい」

からの、

勇者は、ひどく赤面した。

の場面である。

つまり、太宰は最後の最後で、あえてメロスを全裸にしているのだ

とすると、すぐに疑問に思うだろう。

太宰は、なぜ、この信実と愛の勇者を全裸にしたのだろうか。

そんなの、とってもシンプルで分かりやすい。

太宰は信実と愛の勇者「メロス」をバカにしているからである。

そして、『走れメロス』において、太宰は一貫してメロスをバカにしたり、いじったりと、結構やりたい放題なのである。

 

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考察①「王とのやりとり」の場面

『人質』の冒頭、こう始まる。

暴君ティオニスのところに

メロスは短剣をふところに忍び寄った

警吏は彼を捕縛した

「この短剣でなにをするつもりか? 言え」

邪険な顔をして暴君を問いつめた

「町を暴君の手から救うのだ」

「はりつけになってから後悔するな」

『人質』より

一方の『走れメロス』の冒頭は、有名すぎる一節

メロスは激怒した。

から始まるが、そこから『人質』にはない、多くの情報が書き込まれていく

これは太宰が『走れメロス』に与えた、細かい設定だといえるだろう。

たとえば、メロスの人物像には、『人質』に見られない具体的な輪郭が与えられている。

  • 村の牧人で、のどかに暮らしていること
  • 政治のことは分からないこと
  • のんきであること

一方、「ディオニス」についても同様で、その人物像が細かく描かれている。

  • すぐに国民を殺すこと
  • 自分の妻も子どもも殺したこと
  • 孤独と人間不信を抱えていること

さて、『走れメロス』に書き込まれた、この2人の人物造形はとても興味深い。

おそらく太宰は、2人の人物像を、次のようにはっきりと書き分けていると思われる。

メロス = 単純でのんき

ディオニス = 複雑で繊細

そもそも、メロスの行動には、ツッコミどころが本当に多い

城に突入した経緯なんて、その典型だろう。

彼がシラクスの町にやってきたのは、妹の結婚式のための買い出しだと説明されている。

そこで、偶然、ある老人に会い、ディオニスの「暴挙」について聞かされる。

それを聞いたメロスは、

「あきれた王だ。生かしておけぬ」

と、ぷっつん。

なんと買い物を背負った状態で、そのままお城に突入する。

そして、むざむざと警吏に捕まってしまう。

いや、そりゃ、そうなりますって!

と、ツッコミたくならないだろうか。

政治もろくに分からないくせに、ことの経緯も想像せず、無計画の思いつきで行動をした挙げ句がコレである。

しかもその上で、「友人」を人質に差し出そうと一方的に決めてしまうのだ。

こんな短絡的で直情的で身勝手な男、現実にそうそういるものではない。

一方で、ティオニスには「人間的な深み」がある。

強度な人間不信と孤独から、自分の家族まで殺してしまう彼。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」

と、頭ごなしに糾弾してかかってくるメロスに対して、

「疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、お前たちだ」

と、ティオニスは応じる。

そして、ぼそっとこう呟くのだ。

「わしだって、平和を望んでいるのだが」

どうだろう。

もちろん、ティオニスは国民を殺し続ける暴君であるのは間違いない。

ただ、こうしてディオニスの言葉を注意深く読んでみると、

「彼の過去に、一体なにがあったんだろう?」

と、興味をそそられないだろうか。

間違いなく、ディオニスには、簡単に説明できなさそうな闇がある。

だからこそ彼はメロスに対しても、

「どうせ、お前だって、友人を裏切るんだろ?」

「どうせ、お前だって、身勝手な人間なんだろ?」

そういう疑いの目を向けるわけだ。

なんという、説得力。

この説得力は、原作『人質』にはない

太宰は間違いなく、意識的に「暴君ディオニス」を魅力的なキャラクターとして描いている。

ほら。

単純で、直情的で、身勝手なメロスとは大違い。

 

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考察②「妹の結婚」の場面

セリヌンティウスは、メロスのことを信じ、人質になってくれる。

けど、もし、メロスが捕まった経緯を知ったら、

おめえ、あほか、ふざけんじゃねえ!

と、セリヌンティウスだって断ったんじゃないかな、とぼくは思う。

さて、とにかく、故郷に帰ることができたメロス。

「結婚式」のくだりに関して、『人質』ではだいぶアッサリと片付けられている。

その場(城)から彼はすぐに出発した

そして三日目の朝、夜もまだ明けきらぬうちに

急いで妹と夫と一緒にした彼は

気もそぞろに岐路をいそいだ

『人質』より

城を出て、結婚式をおえて、帰路につくまで、たったの4行である。

ところが、太宰はここに、相当な情報を書き込んでいる

まず、メロスが故郷に帰ってきたシーンだ。

疲労困憊で、ふらふら歩く兄を見た妹は、しつこく兄に事情を問うた。

それに答えようともせず、彼はこう言い放つ。

「明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう」

えー、急に? ムリムリー! でしょう普通の反応は。

突然フラフラになって帰ってきたと思ったら、理由も言わずに「結婚式は明日だ」とは、なんと身勝手で、なんと傲慢な言動か。

しかし、当の妹はというと「頬を赤らめる」という驚愕の反応を見せる

メロスもメロスなら、妹も妹なのだ。

「うれしいか。きれいな衣装も買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は明日だと」

もう、完璧にネタでしょってレベルで、ここは笑える。

「村の人に知らせてこい。結婚式は明日だと」なんて、倒置法を使ってまでカッコつけてキメたセリフだって、その本質はただの「傲慢」以外の何物でもない。

村の人の意向も、なによりフィアンセの意向も、一切お構いなしの兄妹なのだ。

翌日メロスはフィアンセに会いに行くわけだが、彼に対する態度には、誠実さのかけらもない

まず、メロスは夜までガッツリ寝る

まぁ、疲れているんだろうけれど、寝坊は寝坊だ。

友人の命を背負っている自覚が果たしてあるのだろうか。

そして、夜更けにフィアンセ宅を訪れ、こう告げる。

少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ

事情ってなんだ、事情って!

って話なのだが、フィアンセはまともな人で、決して感情的にならない。

それはいけない、こちらにはまだなんの支度もできていない、ふどうの季節までまってくれ

と懇願するフィアンセ。

それに対するメロスは

待つことはできぬ、どうか明日にしてくれたまえ

と、こうくる。

どうして、こうも横柄な言い方なのか。

だけど、この言い回し、太宰はゼッタイ意識して書いている

繰り返すが、ここまでの場面は『人質』にはない場面だ。

この「まともなフィアンセ」と「まともじゃないメロス」との対照で、太宰が描きたかったことは何か。

それはメロスの独善性である。

この独善性は、ディオニスに向けても発揮されていたもので、メロスの本性の1つである。

そして、メロスにはもう1つの本性がある。

その本性とは 自己愛である。

それは結婚式において、存分に発揮される。

メロスは式の終わりに 妹にこう告げる。

「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとごめん被って眠りたい。目が覚めたら、すぐに町を出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。おまえの兄のいちばん嫌いなものは、人を疑うことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それを知っているね。亭主との間に(以下略)

事情を知っている読者にとっては、感動的に聞こえるかもしれない。

ただ、妹や亭主の身になってみてほしい。

え、これ、遺言かなにかですか?

と、どんなに鈍感な人でも、こんな言葉を一方的に聞かされれば間違いなく思うだろう。

もちろん、メロスだってそのことを分かっている。

むしろ、分かってて言っているのだ。

自分が処刑されるということは、あえて言わない。

言わないけど、本当は言いたくてたまらないのだろう。

それか、そういう「妹を気づかっている自分」に陶酔しているのかもしれない。

だからこそ、こうして、遺言同然の分かりやすい文句をとうとうと述べるわけだ。

しかも、メロスはそれだけで飽き足らず、亭主にもこう続ける。

「支度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては妹と羊だけだ。他には何もない。全部あげよう。もう1つ、メロスの弟になったことをほこってくれ

え、やっぱりあなた、死にますよね?

って、バレバレなこのセリフ。

しかも、「メロスの弟になったことをほこってくれ」だなんて、よくこんな歯が浮くセリフを臆面もなくいえたものだ。

と、あんまり書きすぎると さすがにメロスが可愛そうなので、この辺にしておくが、とにかくメロスの「自己愛」というのは、スゴいのである

この「自己愛」が真の意味で発揮されるのは、メロスが「走る」場面なので、そちらで改めて考察してみたい。

さて、散々「遺言」を述べたて満足しきったメロス。

宴席から立ち去り、明日に備えて羊小屋に潜り込むと、死んだように眠った。

そして、目が覚めたのは、明くる日の薄明のころ。

慌てて跳ね起きるメロスは、こう思う。

「南無三、寝過ごしたか」

おい! 通算2度目の寝坊か!

と、思いきや、まだギリで間に合う時間だったみたい、良かった良かった。

友を人質にしているのだから、もうちょっと緊張感はあってほしいものである。

以下、記事では、彼の「生涯」についてまとめつつ、その代表作について解説をしていこうと思う。

 

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考察③「メロスが倒れる」場面

メロスは頑張って走った。

頑張って走ったから、結構いい感じに距離も時間も稼げた。

ここまでくれば大丈夫

そう実感したメロスは、例によって、一気に脱力する

まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、と持ち前ののんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。

もちろん「王城に行き着けば、それでよい」わけがない。

セリヌンティウスは今だって、信頼と疑念のはざまで葛藤し、自らの死と隣り合わせで苦しんでいるのだ。

1秒でもはやくたどり着いて、セリヌンティウスを解放してやるべきではないのか。

少なくとも「いい声で」歌っている場合ではない。

もちろん、ここも太宰が書き足した部分である

さて、このあとでメロスに待っているのは「川の氾濫」「山賊の襲来」だ。

『人質』でも、ここはドラマチックに描かれている。

太宰の筆も絶好調に走っている。

やっぱりここが作品の盛り上がりポイントなのだ。

ただ、『人質』には疲労困憊したメロスの心理については書かれていない

それを太宰はお得意の「饒舌体」によって、しつこく、しかも粘っこく書き込んでいる

真の勇者、メロスよ

に始まる、メロスの心理描写は、目測でざっと1500字弱ほど書き加えられている。

この箇所もそうとう興味深い。

そもそも、「メロスよ」なんて、自分を2人称にした語りというのが、まず鼻につく。

メロスはギリシア人であり、ギリシア語にはそういう文法があるのかもしれない。(少なくとも、英語にはあるわけだし)

ただ、そのことを勘定にいれたとしても、このメロスの「ダダ漏れの自意識」の描写の中に、彼の強い「自己愛」というものを感じざるを得ない

そして、彼はこの1500字ほどの描写の中で、5回も「どうでもいい」発言をする。

しかも、「ふてくされた態度で」である。

「どうでもいい」発言の背後には、こんな心理的プロセスがあるようだ。

【 友を裏切ろうなどとは微塵も思わなかった 】

     ↓

【 自分は精一杯努力をしてきた 】

     ↓

【 川の氾濫とか山賊とか想定外の出来事だった 】 

     

【 自分はこうなる運命だったんだ 】

     

【 もうどうでもいい 】

うん、まぁ、メロスの気持ちも良く分かる。

いろいろと緊張感の緩みはあったにしても、それでも体にムチを打って頑張ったと思う。

川の氾濫も、山賊も、やっぱり運がなかったと、ぼくも思う。

とはいえ、この思考はどんどんとあらぬ方向へ向かっていく。

まず、

「私は、よくよく不幸な男だ」

と、彼はいう。

いや、そもそも、身から出たサビだろ!

と、思うのだがどうだろう。

それを言いたいのは、向こう見ずで単純な友のせいで、今も城で磔になっているセリヌンティウスの方ではないだろうか。

メロスが疲労困憊でぶっ倒れている今も、彼は不安と恐怖に苛まれているのだから。

それを理解しているのか、していないのか、メロスはおもむろにセリヌンティウスに謝罪を始める。

セリヌンティウスよ、許してくれ。私たちは、本当によい友と友であったのだ。

ん? ひょっとして、なんか、まとめに入ってます?

と、とっさに感じるのだが、その通り、メロスはまとめに入っているのだ。

そして、なんやかんや、あれこれと抗弁した挙げ句に、メロスはついにこう言う。

ありがとう、セリヌンティウス。

終わったー。勝手に終わらされたー。

まさに自己完結。

ぶっ倒れたメロスは、セリヌンティウスに対して一方的に謝罪をしたと思ったら、今度は一方的に感謝を伝えているわけだ。

そして、実に3度目となる「どうでもいい」を、心の内でつぶやくのだった。

加えて、

セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君といっしょに死なせてくれ。

である。

いや、お前だけ〇んでくれ。

って、セリヌンティウスは思うんじゃないかな。

メロスよ、勘違いしないでほしい。

君は被害者じゃないのだ。

とはいえ、この「ダダ漏れの自意識」の中には、メロスの謎の「被害者意識」がきちんと顔を出している

私はきっと笑われる。私の一家も笑われる。

私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も不名誉な人種だ。

と、いつの間にか、彼はセリヌンティウスではなく、自分の名誉や世間体について心配をし始める

そして、「いっそ、悪徳者として生き延びてやろうか」と恐るべき発言をしたあと、愛と信実の勇者メロスは、とうとうこう吐き捨てる。

正義だの、信実だの、愛だの考えてみればくだらない。

    (中略)

どうとも勝手にするがよい。

ほらね。

それは、君があれほど頭ごなしに糾弾した「ディオニス」の論理のままじゃないか。

結局、極限の状況下に陥って、メロスは初めて「ディオニス」の地平に並ぶことができたのであった。

皮肉なことに、ここに来て さらに説得力を増す「ディオニス」の言葉

もっとも、このときメロスは、信じられないほどの肉体的な疲労に襲われている。

「身体疲労すれば、精神もともにやられる」

そうメロスも言っているとおり、これはメロスの通常の思考ではない。

精神がやられてしまったメロスの思考なのである。

だから、身体が回復すれば、やられた精神もちゃんと元通りになる。

そこは、安心して欲しい。

やがて、ウトウトまどろんでしまうメロス。

そしてこの後、メロスに奇跡が起こる。

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考察④「再び走り出す」場面

せんせん

せんせんせん

これは水の流れる音。

メロスはおもむろに眼を覚まし、両手で救って水を飲む。

こうして疲労回復を達成したメロスは、「義務遂行の希望」を取り戻す

同時に、メロスらしい通常の思考も見事に取り戻す。

そして、ここからが太宰の創作だ。

死んでおわびなどと、気のいいことは言っておられぬ。私は信頼に報いなければならぬ。

メロス、完全復活。

やっぱり君は、そうでなくっちゃ。

そして、感動的なタイトルコールが、ここでキメられる。

走れ! メロス。

ところで、この「走れ! メロス」という呼び声は、果たして誰による言葉なのだろう

その解釈を考えるのも、とても面白い。

  • メロス自身によるもの = 自らを叱咤激励!
  • 最高神ゼウスによるもの = メロスは神に守られている!
  • 語り手によるもの = 読者も巻きこんで盛り上がろう!

ぼくは、個人的に「1」かな。

たとえば、自分を物語の主人公にすることで、実力を発揮しようという「自己愛」の強い人って、わりといると思うのだが、メロスもたぶんソレだ。

そう、メロスは「ヒーロー(気取り)」なのだ

だから、メロスの心の声は、こんな調子で続いていく。

やはり、おまえは真の勇者だ。

急げ。メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。

うん、やっぱりカッコイイ。

このセリフなんて、すごくヒーローみたいだと思わないだろうか。

ただここで、衝撃の発表をしなければならない。

このときメロスは、すでに全裸である。

ほら。

太宰の意図が、少しずつ見えてこないか。

ぼくは、この辺りから、太宰の薄ら笑いが透けて見えてならない。

途中で現れるフィロストラトス

彼は、メロスに「もう無駄だ。間に合わない。走るのはやめてくれ」と訴える。

しかし、(全裸の)メロスは強い口調でこう切り返す。

「間に合う、間に合わないは問題ではない。人の命も問題ではない」

ここに来て、読者の脳内はおびただしい「?」に満たされる。

――間に合わなくてもいいとでも?

――セリヌンティウスが死んでもいいとでも?

いったい、メロスは、何のために走っているのだろうか

もちろん、ここを解釈することこそ『走れメロス』の醍醐味であろう。

メロスいわく、

「もっと怖ろしく大きいもののために走っている」のだという。

彼が走る意味とはいったい・・・・・・

  • 友を救うため
  • 名誉を守るため
  • 信頼に報いるため
  • 愛と誠のため

「怖ろしく大きいもの」とは、それら全ての総合とでもいえるだろうか。

いずれにしても、メロスはここにきて間違いなく哲学的な境地に達している。

ただ、しつこいけど、念を押したい。

彼は、全裸なのである。

どんなに哲学的で、深遠な悟りの境地を説いたとしても

なるほど、でもお前、全裸じゃん。

で一蹴されてしまう、それこそ 悲しき人間の真理ではいだろうか。

全裸の男に、いかなる説得力もない。

それでも、あなたは、メロスの「愛と信実の言葉」を文字取り受け取れるだろうか。

「『走れメロス』には、人間愛が説かれているのである」

と、断定している人ってのは「メロスが全裸である」という重大な事実を、きっと見落としてしまっているのだ

ぼくは、そう確信している。

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考察⑤「友と再会する」場面

勘のいい人はもう気づいていると思うが、「メロスが全裸であること」によって、不思議な現象が起きてしまう。

それは、メロスが「信実や愛や勇気」を強く説けば説くほど、それに比例して「馬鹿馬鹿しさ」が強まっていくという現象である。

そうなってくると、ラストシーンもまた、感動的であればあるほど、馬鹿馬鹿しさ、白々しさ、滑稽感、阿呆感が強まってしまうのだといえる。

おそらく、これが太宰の仕掛けたマジックなのだろう。

それでは、まず、『人質』におけるラストシーンの確認である。

「私だ、警吏!」と彼は叫んだ

「殺されるのは! 彼を人質とした私はここだ!」

がやがやと群衆は動揺した

2人の者はかたく抱き合って

ひきこもごもの気持ちで泣いた

それを見て、ともに泣かぬ人はなかった

『人質』より

こんな感じで、そこそこの熱量でもって描かれてはいるものの、残念ながら『走れメロス』の比ではない。

では一方の『走れメロス』はどうなのかといえば、かなり長く濃密に描かれている

長くなってしまうので引用は控えるが、あまりに有名なシーンなので、そもそも引用なんて不要であろう。

太宰によって書き込まれたラストは実に感動的である。

「殴れ」といって互いに殴り合い、最後は強く抱擁しあってオイオイ泣くシーンなど、「どこの熱血純情青春物語ですか?」といった趣だ。

2人が抱き合ったあとの場面については、『人質』の場合、

「どうか、わしをお前らの仲間の1人にしてほしい」と、王が懇願して終幕となる。

一方の『走れメロス』の場合はというと、みなさんご存知の通りだ。

「お前らの仲間の人にしてほしい。」

どっと群衆の間に、歓声が起こった。

「万歳、王様万歳」

1人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。

メロス、君は、真っ裸じゃないか、早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」

勇者は、ひどく赤面した。

どうだろう。

太宰はまるで、読者に、

「あ、忘れてるかも知れないけど、さっきからこいつずっと、全裸だからね」

と、確認を迫っているようではないか。

実際 作中において、走るメロスが全裸であることは、サラッとしか描かれていない。

愛と誠の力を、今こそしらせてやるがよい。風体なんぞはどうでもいい。メロスは、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、2度、3度口から血が吹き出た。

こんな程度なのだ。

だから、きっと、多くの読者がメロスの「風体」なんぞ気にせず読んでいるはずだ。

このせいで、

「太宰治は、友情の美しさをみごとに描いたのである」

と、したり顔で説明をする読者が生まれてしまったのだろう。

だけど、太宰が本当に描きたいのは、まったくその逆だった。

「愛だの友情だの正義だの、ちゃんちゃらおかしいっての」

そんなふうに、誰しもが信じて疑わない「キラキラ」した価値規範に対して、太宰は「全部ウソだね」とシニカルに笑っているのだ

そして、

  • 「人間なんてみんな自分勝手な生きものだよ」
  • 「人間なんて、信頼しない方が身のためだよ」

といったニヒリズムを、太宰はこの作品で描いているのだ。

それは、ちょうど「ディオニス」という人間不信の王様の言葉に強く表れている。

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終わりに「問題提起とお詫び」

さて、「太宰が本当に伝えたかったこと」を明らかにしようという、この記事の目的はおおむね達成できたと思う。

最後に、1つの「問題提起」と「お詫び」をしておしまいにしたい。

問題提起というのは、ラストシーンで民衆が叫んだ次の「言葉」についてである。

「万歳、王様万歳」

よくよく考えてみれば、コレっておかしくないだろうか。

どちらかといえば、

「万歳、メロス万歳」

の方が、自然だと思わないだろうか。

なぜ、太宰は「王様万歳」としたのか。

それは、この記事を最後まで読んでくれた人なら、きっと分かってくれると思う。

きっと、この作品の主眼を、太宰はコソッとここに潜ませているのだろう。

そう ぼくは思っている。

そして、最後に1つお詫びさせてほしい。

「メロス」を散々バカにしてしまってごめんなさい。

『走れメロス』を読んで、「信実とか友情とか正義とか」そういうポジティブな価値観の大切さを知り、感動したという読者は間違いなく大勢いる。

作中において、メロスが熱く語っていることは、ぼくたち人間がよりよく生きていくために、とても大切なことだと ぼくも思っている。

その大切なことを、この作品で学んだのだとすれば、それはとっても尊いことだ。

この考察記事では、ぼくも悪ノリがすぎて、散々メロスをバカにしたような書き方をしてきたのだが、彼のような愚直な勇気というのは、今の時代、時にとても大切なものであるということも、ぼくは理解しているつもりだ。

ただ、やっぱり、ぼくは「人間にくよくよしている」太宰というのが好きなのだ。

というよりも、ぼく自身もまた「人を信じられない弱さ」のようなものを持っていて、そういう弱さを太宰文学に慰められたっていう、そういうクチなのだ。

だから、この記事で紹介した解釈というのは、嘘偽りないぼくの解釈だ。

だけど、それは、あくまでも1つの解釈にすぎない

太宰は、ほんとうに、「人間の素晴らしさ」を書いたのかもしれない。

というよりも、あなたがそう思ったのなら、それは誰にも否定できない真実になるのだ

文学ってそういうものでしょう。

だから、この作品のすごさというのは、たった30枚足らずの中で多くの解釈を可能にし、読者に共感や教訓を与える、そういう多面性や多義性にあるのだろう。

作品の最大の魅力といのもまた、そこにあるのだと思う。

この記事をよんで、少しでも「太宰治」という作家に興味を持った人は、ぜひこちらの記事を参考にしてみてほしい。

【 参考 天才「太宰治」のまとめ ―人物と「恥の多い生涯」と代表作の解説―

太宰治がどんな生涯を送ったのか。

そして、『走れメロス』が、どんな風にして生まれたのか。

手前味噌ではあるが、きっと、それらのことを知る1つのきっかけになってくれると思う。

「Audible」で近代文学が聴き放題

日本の近代文学が今なら無料‼

今、急激にユーザーを増やしている”耳読書”Audible(オーディブル)。Audible(オーディブル)HP

Audibleを利用すれば、夏目漱石や、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介、太宰治など 日本近代文学 の代表作品・人気作品が 月額1500円で“聴き放題”

対象のタイトルは非常に多く、日本近代文学の勘所は 問題なく押さえることができる。

その他にも 現代の純文学、エンタメ小説、海外文学、哲学書、宗教書、新書、ビジネス書などなど、あらゆるジャンルの書籍が聴き放題の対象となっていて、その数なんと12万冊以上

これはオーディオブック業界でもトップクラスの品揃えで、対象の書籍はどんどん増え続けている。

今なら30日間の無料体験ができるので「実際Audibleって便利なのかな?」と興味を持っている方は、気軽に試すことができる。(しかも、退会も超簡単)

興味のある方は以下のHPよりチェックできるので ぜひどうぞ。

登録・退会も超簡単!

コメント

  1. くまちゃん より:

    中学校で走れメロスの新聞を書いています。
    自分はメロスの考え方、信実が美しい!
    友情愛素晴らしい!とばかり考えていて、ディオニス側の事全く考えていませんでした。
    自分にとって筆者様の考えが新鮮で、そしてとても納得できました。
    もっと作品を読み込んで、自分なりの考察をしてみようと思います。素晴らしい記事をありがとうございます(?

    • ken より:

      こちらこそ、記事を読んでくださりありがとうございます!

      僕自身も中学校時代「友情はすばらしい」とか「信実は尊い」といった解釈で教えられて納得していたクチですが、太宰文学に触れる中で「やっぱり、その解釈は不自然だよな」と感じ始めました。

      ただ、記事でも書いたように、解釈は人それぞれ。多様な解釈ができることこそ、この作品の魅力だと思います。

      ぜひ、中学校で素敵な新聞を完成させてください。応援していますね!

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